MEMORIA - 雪化粧の白、死に飾りの街
第四十八話「爆心地」

「おい、新入り。危ないから今日は客引きなしだ」

 そう言われてリオは戸惑う。どうしてなのかと問い返した。

「馬鹿、聞いてないのか?」

 肩に手を回され囁き声で告げられる。

「青の死神が動いている。それだけなら、まだいいさ。今回、どうやらやべぇ賭け事がお偉いさんの間で巻き起こっているらしいんだわ」

「やばい賭け事?」

「ああ。オレも小耳に挟んだ程度だけれどな。青の死神とこの街最強の暗殺者、スノウドロップが一騎打ちを始めるらしい」

 その言葉にリオは震撼する。何がどうなってそのような事態に進展するのか。全く理解が出来なかった。

「何で……。ハムエッグとアーロンさんは不可侵条約を結んでいるんじゃ」

「そんな条約なんざ、端から役に立たなかったのかもな。あるいはどちらかが反故にしたか。どちらにせよ、今夜の街は危ないから客引きなんて呑気な真似している場合じゃねぇのよ。路地番として、裏路地のほとんどを封鎖しなけりゃならん。お前も手伝え」

 どうして封鎖しなければならないのか。リオが不思議そうにしていると、「あのなぁ」と路地番の男は声にする。

「スノウドロップと青の死神がマジに殺し合ったとする。その場合、一番に被害に遭うのは裏路地なんだ。そんな時によ、一般人が裏路地に入ってみろ。何人死ぬのか分からない」

 そのための路地番か。リオは得心すると同時に解せない部分があった。

「何で、最強の殺し屋とそんな状態に? おれなら絶対回避したいですけれど」

「てめぇの意見は聞いてないっての。とにかく、お歴々も集って今宵は危ない賭け事に夢中ってわけだ。誰が持ち込んだ企画なのかも分からないがな。命知らずだぜ、こりゃあよ。青の死神の本気が見られるかもしれないな」

「本気って、アーロンさんはいつも本気じゃ」

 路地番の男は胡乱そうに振り返り、「何をもって本気だと思ったのか知らないが」と言葉を次ぐ。

「あの波導使いが一度だって本気を出したところを、オレは見た事がねぇ。そりゃ、何度も路地番としてはお世話になっているし懇意なお客さんだけれどな。そいつの本気なんて見た事がないんだ。そりゃヤマブキの人々は集って面白がるぜ。今日は祭りだってな。青の死神の本気を見るのに、スノウドロップほど適した相手はいないだろう」

 リオにはスノウドロップと呼ばれている暗殺者がどれほど強いのかも分かっていない。

「あの、スノウドロップってハムエッグの擁する暗殺者ですよね? まだ歳も十歳前後って聞きましたけれど」

 経験の差でアーロンに敵うはずがないのではないか。その疑問に男は震え上がって応じる。

「馬鹿野郎。暗殺者ってのは経験じゃないのさ。素質だ。スノウドロップは生まれながらに殺し屋だ。ナチュラルボーンキラーさ。それを見透かしたハムエッグの慧眼には参るぜ。当時六歳かそこいらだった薄汚れたガキを一流の殺し屋に育て上げた。あのスノウドロップは見た目も精神もまだガキだが、中身は下手に経験積んだ殺し屋よりもなお恐ろしい。言っている事、分かるか? つまるところ、真に恐れるべきは無垢だ。狂気だとか、殺人鬼だとかそういうんじゃ断じてねぇ。殺しに関して言えば、何も感じないという事こそが最も恐れるべきなんだ。……まぁ、これも受け売りだがな。新入り、悪い事は言わない。客引きやめて、今日は路地番に専念だ。あと一つだけ。絶対に路地の中で展開される事に深入りするな。今日は特に、だ。路地の裏でたとえビルが崩落しようが人間の叫び声がしようが、全く、聞こえない振りを貫け。そうじゃなきゃお前の首がこれだ」

 男は掻っ切る真似をして複数の路地を管理する端末を取り出した。自分の部下達に報告しているのだろう。リオはどうしてアーロンほどの人物が向こう見ずな行動に走るのかがどうしても気になった。それほどまでに分かっているのならば絶対に愚を冒すはずがないのだ。

「すいません。おれ、ちょっと」

 駆け出すと背中に男の制止の声がかかったが構わない。もしかしたらとてつもない間違いの上にこの戦いが繰り広げられようとしているのではないか。リオは感覚的に古巣の通信機を取り出していた。プラズマ団内部での暗号通信を可能にする機器だ。

 声と認証IDを吹き込むと何と作戦概要が表示された。

「青の死神、波導使いアーロンによるMi3の捕獲作戦。及び、このヤマブキシティの真価を試すためにスノウドロップと呼ばれる暗殺者を引きずり出す……。これって、つまり、プラズマ団が糸を引いているって事なのか?」

 問いかけても表示内容は変わらない。リオは馴染みのあったプラズマ団員に片っ端からかけてみた。ほとんどが前回アーロンに殺されていたのだが何人かは別働隊として生き残っているはずだ。そのうちの一人が捕まった。

「もしもし!」

『リオ、なのか……。てっきり前回の作戦で死んだものかと』

 仲間も幽霊からかかってきたのだと思っているのだろう。リオは声を張り上げた。

「そんな事はどうでもいい! 今回の作戦、何なんだ! アーロンさんとスノウドロップをぶつけるって」

『作戦概要を読んだのか。言葉通りだよ。Mi3の捕獲をアーロンに依頼し、その途中で障害になるであろうスノウドロップの実力を見る。前回、プラズマ団が率先して動いたせいでこの街に弾かれてしまった。今回は街の内部同士で潰し合いを行わせてから無事にMi3を取る、という寸法さ』

 メイの身柄を中心に回っているというのか。リオは、「おかしいだろ!」と叫ぶ。

「メイ……Mi3はプラズマ団の中核って言っても、今はそれほど重要じゃない。監視レベルだったはずだ。何で今!」

『……状況が変わったんだ。本国ではプラズマ団は既に解散し、もう跡形も残っていない。カロスやシンオウに高飛びした仲間からの定期通信を待っているがそれも微妙だな。だからカントーにおけるプラズマ団が動く事にした。それだけだよ』

「指揮官は誰だ? おれが直訴する」

 知っている人物ならば説得は可能なはずだ。しかしその淡い希望を通話口で打ち砕かれた。

『ヴィー様だ。Viシリーズの最新型。お前も知らなかっただろう。こっちだって最近分かったんだ。ヴィオ様がバックアップの肉体を保持していたなんて』

 意味が分からずリオは聞き返す。

「バックアップ? どういう事だ?」

『もう関わらないほうがいい。カタギになったんだろ? プラズマ団は蛇の道を行くんだ。ここから先はもう戻れない』

 通話が切られる。リオは慌ててかけ直したが繋がらなかった。

「おい待てよ! どういう事なんだ! バックアップとかヴィーとか……」

 力なく足を止め、リオは呼吸を整える。どこへ行けば、この状況を止められる? 転がり出した石とはいえ、どこかで歯止めが利くはずだ。考え得る限りの場所を模索し、リオはある結論に辿り着いた。

 これが正解だとは限らない。もしかしたらいたずらに被害を増やすだけかもしれない。だが、問わねば。そうでなければ状況に振り回されるだけだ。

 リオは顔を上げる。その視界の先にはハムエッグの経営するビルの外観が目に入っていた。この街の盟主、スノウドロップの飼い主へと自ら乗り込む。無謀に他ならなかったが、それ以外に状況を止められる術を知らない。

 リオはエレベーターに乗り込み、ハムエッグの待つ階層へと行き着いた。この場所にメイがいればまだ、と思ったがメイはおらずハムエッグだけがグラスを磨いている。

「おや、珍客だな」

「ハムエッグ……」

 初めて目にするわけではない。二度目だ。一度目は路地番の仕事を割り振られる際に面接を行った。だがまさか喋るポケモンがいるとは思わなかった。それにあまりにも人間臭い。その異常さがずっとついて回った。

「何かな? 言っておくが今日はもう閉店のつもりでね。下のダンスフロアも閉めているんだ」

「メイはどこですか」

 緊張に詰めた声にどうやら目的を悟ったらしい。

「……白馬に乗った王子様、というわけかい?」

 せせら笑うハムエッグへとリオは詰め寄る。

「どこへ行ったんです!」

 その叫びに入れ込んでいると読み取られたのだろう。「いけないなぁ」と声が返された。

「君は生き延びた側だ。もうこっちに来る必要性はあるまいに」

「路地番として一生を終えろ、という事ですか」

「それならば幾分か幸せだ、と言っている。君を路地番に推薦したのは、一番こういう有事に関わる事が少ない、と判断したからだ。わたしはね、割と合理的に君をそのポジションに据えた、と思っている」

 それは関わるな、という意味だろうか。リオは、「納得出来ない」と歩み寄る。

「ハムエッグ……さん。あなたはどこまで、彼らの運命を弄ぶんです?」

 辛うじて理性が働き敬称をつけられたがもしハムエッグがメイをプラズマ団に差し出すとでもいえばすぐにでも飛びかかる心積もりだった。ハムエッグは一瞥を投げて、「変わった男だな」と呟く。

「波導使いアーロンもそうだが、君もだ。どうして他人の人生まで引き受ける? 自分の人生だけでこの世は手一杯の人々ばかりだというのに」

 そう問われてすぐに返答出来ない自分がもどかしい。単純な答えを、単純なままに言ってはいけないのだとどこかで感じている。

「アーロンさんは、あの人は今どこに?」

「恐らくプラズマ団にはめられた事を知ってメイちゃんの身柄をすぐに確保する気だろう。だがもうスノウドロップのラピスを付けてある。戦闘は免れないだろうね」

「その戦いを! あなた方は祭りに仕立て上げようとしている! それがおれには理解出来ない!」

 本来ならば手を取って結束し、プラズマ団排斥に乗り上げるはずだ。だというのに、こんな時でさえもこの街の住民は頭のネジが飛んでいる。

 ハムエッグはフッと口元に笑みを浮かべ、「余人に口を挟める事じゃないさ」と告げる。

「ここから先に行きたければ、君こそ覚悟を決めるんだな。この街の住人になるか、あるいは傍観者のポジションを貫くか。路地番の仕事はそれが出来ると言っている。自ら射線に飛び込むような真似をせずとも生きていける場所だ。だというのに、君は射線に飛び込んで弾丸を一身に受ける心積もりをしている。わたしにとってはそっちのほうが理解に苦しむよ」

「アーロンさんだって同じです」

 リオの返した声に、「一理ある」とハムエッグは笑った。

「アーロンも、彼も同じだ。メイちゃんを放っておけばいい。炎魔シャクエンを殺せばいい。瞬撃のアンズも、殺せた。だというのに、君と彼はどうしてだか似ている。意味のない選択肢を取って自分の居場所を雁字搦めにしたいのか? 彼は一介の殺し屋にしては心があり過ぎているよ」

「それが、本当の悪魔であるこの街の住民と、アーロンさんを分けるものです」

 ハムエッグはその言葉を聞いて肩を震わせる。まさしく滑稽だと言わんばかりに笑い声が木霊した。

「悪魔。この街を悪魔と形容するか。だが悪魔の腹に棲む我々は何だ? 寄生虫のように悪魔から養分を吸い上げて生きている我々は」

「言って欲しいんですか。卑しい、と」

 リオの容赦ない声にハムエッグはグラスを置いて前の席を顎でしゃくった。

「かけたまえ。君とは一度、じっくり話をしたいと思っていたんだ」

 リオは望むところだと席につく。カウンターでハムエッグが酒を選別した。

「何を飲む? ウオッカでも飲むかい?」

「ミックスジュースで。しらふじゃないとこの後、何が起こっても対応出来ない」

 あくまで譲らないリオの声音にハムエッグは、「強がるねぇ」と声にする。自分のグラスにウオッカを注ぎ、リオのグラスにはミックスジュースを注いだ。

「乾杯しよう」

「このクソッタレな街に、ですか」

 乗り気ではないリオにハムエッグは丸い目の中に喜色を浮かべ、ウオッカを舐めた。

「わたしの事をどう見ている? この街の盟主、スノウドロップの飼い主、どうとでもいい。君の忌憚のない意見が聞きたい」

「この街が生んだ悪性腫瘍」

 リオの迷いのない罵詈雑言にもハムエッグは微笑む。

「悪性腫瘍か。そりゃ手術の必要があるな」

「どうして、あなたは達観を決め込める? アーロンさんがスノウドロップを殺してしまうだとか、盟主の座を引き摺り下ろされるだとか思わないのか」

「思わないね」

 即答にリオが面食らう。その様子をハムエッグが面白がった。

「ちょっとした昔話をしようか。とあるポケモンの話だ。そのポケモンは、あるトレーナーからあらゆる学問を教わった。元々ポケモンの脳が人間より劣っているという論拠はない。だからあらゆる言語、学術、戦略など、そのトレーナーの持てる全てのものをつぎ込んだ。その結果、そのポケモンはとても賢くなった。ポケモンの単位での賢さではない。もう、それは一人の人間だと言っても過言ではなかった。……しかし、その賢明なポケモンを育て上げたトレーナーは恐れた。何をだと思う?」

 リオは押し黙っていた。ハムエッグは結論を口にする。

「論理の逆転、つまり支配構造が変わる事だ。このポケモンがもし、今の自分達の境遇に疑問を持ったらどうなる? ポケモンを指揮して人間に反旗を翻しでもしたら? 空恐ろしくなってトレーナーはとある場所にポケモンを捨てた。逃がしたではなく捨てた、と形容したのは、その場所が正真正銘ゴミ溜めだったからだ。ポケモンは理性を得て、獲得した知能を生かす機会を一切得られない、場末に放り投げられた。そこからそのポケモンは旅をした。あらゆる場所を巡り、時に同じポケモンと出会って共に生きようとも告げたが聞き入れられなかった。何故ならば、そのポケモンはあまりにも人間じみていた。人間臭かった。もうポケモン同士でさえも同朋だと思えないほどに、人間の文化に染められていたんだ。同じ種族でも隔絶があった。違うポケモンならなおさらだ。住処を追われ、どこにも永住出来ず、そのポケモンはポケモンが住まう場所とはまるで正反対の、都会を目指した。雑多な都会ならば、自分のような異端は気にされない事だろう。それよりも、ポケモンの中には野心が芽生えていた。いつか、必ず、支配されるではない、支配する側に回るのだと。その時には一切の慈悲を捨て、全ての事象をコントロールするつもりで臨むのだと。ポケモンはとある都会で自分の知識を生かして顔を隠し、ある実業家として再スタートした。するとどうだろう。ポケモンでなく、人間として生活するほうが肌に合っていた。声と指示だけで億単位の金が動くマネートレードの舞台で、ポケモンは輝いた。それと同時に決して相容れないであろう事は理解出来てしまった。これは自分がポケモンである事を隠しているから成功しているだけだ。この顔と経歴を晒して、同じように接してくれる人間がいるか? 同じように操れる人間がいるか? ポケモンは新たなる名前を得て都会の盟主とまで呼ばれるほどになった。そこまでになるともう顔を隠す必要もなかった。ポケモンだと明らかなっても、相手側の態度は変わらなかった。その時にようやく理解した。この世は金と知略、弱いものは這い蹲り、強いものが勝つ。その真理に。ポケモンはある日、街を出歩いているととても弱々しい存在を見つけた。今にも消え入りそうなポケモンと幼い人間の少女。本能的な部分で、彼女らは人殺しをしてきたのだと判じた。だがもう、そのポケモンに人殺し程度の恐れはなかった。マネーゲームでは時に人が死ぬ。それを数値の向こう側で、あるいは翌朝の新聞で知る。この世に人の安住もなければポケモンの安住もない。皮肉な事に元のトレーナーが恐れた支配構造の逆転よりも、そのポケモンが行き着いたのは支配に甘んじる事こそが最も支配構造を理解している、という事だった。弱々しいポケモンと少女を引き取り、そのポケモンは誓った」

「何を?」

 リオの質問にハムエッグはウオッカを舐めて答える。

「新世界を見せると。支配構造の逆転のつもりはない。むしろ、その真逆だ。この世の支配構造は既に出来上がっており、その出来上がった基盤を崩す事はたとえ当人がポケモンでも人間でも不可能なのだと。現に、ポケモンだから、という理由で引き摺り下ろそうとしてきた人間は数多いが、一度として成功しなかった。それはこちらの持つ圧倒的な金の力と、その少女が潜在的に秘めていた殺人の力によるものだった。自らの手は一切汚さず、全て数値と文字の上で計略を図り、事象を支配する。それこそが最も恐ろしいのだと。……話し過ぎたかな」

 ハムエッグはウオッカを呷った。言いたい事は分かる。それに伝えたい事も。

「あなたが今回、スノウドロップを回したのも全て、世の摂理がそう告げただけだと言い逃れするつもりか」

「言い逃れ? 違うな。わたしは一度として勝負を逃げた事はない。今回、スノウドロップ、ラピスをやったのはわたしとしては最大限の干渉だ。本来ならばメイちゃんの護衛なんてつけないほうが正しい」

 それはその通りだ。ハムエッグが動かなければこの街の馬鹿騒ぎは始まらなかった。

「でも、だとしたら余計に性質が悪い。分かっていて、スノウドロップというカードを切ったのか」

 鋭く睨んでやるがハムエッグは意に介さず、「切り札を切るタイミング如何で、未来は大きく変わる」とどこからともなくトランプを取り出す。

「わたしは今回、最低限の干渉で最大限の利益を得るつもりだ。それに何の間違いがある?」

 間違いはないかもしれない。ハムエッグの目指す未来も正しいのかもしれない。

 だが、とリオはグラスを握り締める。そうであるとするならばアーロンが救われない。メイもそうだ。

「……あなたの計略の上だけで、人間が動くと思わない事だ」

「忠告かね?」

「いいや、警告だ。人間はあなたが思うほど金と欲望にまみれていない」

「そうかな。しかしこれを見るといい」

 ハムエッグが端末を差し出す。そこには注がれている金が表示されていた。既に賭け事は始まっているのだ。この街を牛耳っているお歴々か、あるいは他の実業家か、スノウドロップ対青の死神の行く末がもう賭けに入っている。

「やめさせろ!」

 立ち上がってカウンターを叩いたがハムエッグは頭を振った。

「もう遅い。これを止めたければわたしと長話するよりも資本家達を殺したほうがよかったな。賽は投げられた、という奴だよ。青の死神とラピスの殺し合いが始まる」

 リオは掴みかかろうとしたがその体躯に似合わない速度でハムエッグがするりとかわし、反射的に飛び出した拳で突き飛ばされる。カウンターを転がり落ち、リオは後頭部を打った。網膜の裏で星が弾ける。止めたければこんなところでハムエッグを相手取っている場合でもない。しかし、リオは決着をつけたかった。ハムエッグという因縁から自分ははみ出すのか、あるいはこのまま支配を甘んじるのか。

「おれは! まだその他Aになるつもりはない!」

 張り上げた声と共に拳を振り上げるが虚しく空を穿つ。そればかりか返された弾丸のような拳が鳩尾にめり込んだ。肺から根こそぎ空気を抜き取られる。リオはまたしても不格好に転がり、激痛に呻いた。ポケモンの攻撃だ。人間の耐えられるように出来ていない。

「もっと賢しいのだと思っていたよ、リオ君。メイちゃんの身柄一つでこの街を敵に回すか。盟主であるわたしに逆らってまで、この戦いを止めたいのか」

 圧倒的な現実を突きつけられた。盟主、この街の実権支配者。だからこそ出来る。まだ戦いを止められる。

「……やめさせてくれ。賭け事を! 馬鹿共の狂乱を止められるのは、あなたしか!」

「言っただろう? 賽は投げられた、と。同じ事を言わせないでくれ。もうわたしでも止められないところにある。街の実権支配がわたしの役目だが、それを上回る速度で街は成長する。今まさに、世紀の大決戦を待ち望んでいる人々に冷水を浴びせろと? それは無粋というよりも不可能の領域だ。誰か一人でも賭け事を止めない人間がいる限り、この戦いに価値は宿る。金銭という分かりやすい観念にまで落とし込んで、殺し屋対殺し屋を見たがっている人々がね。そういう輩がいるって事を、君は理解しなくては」

「理解なんて、端からしたくもない」

 全てを否定してでもこの戦いを止める。リオの瞳に宿った決意にハムエッグは嘆息を漏らす。

「……どこまで馬鹿になれる? いや、お人好しか? そうまでして君がこの戦いに賭けるものは何だ? 言っておくが殺し合うのはラピスとアーロンだぞ。メイちゃんに被害は及ぶまいし、この街も明日からはいつも通り、何事もなかったかのように動き出す。血肉を啜っている殺し屋が、ただ単に殺し屋の――まぁ力量の差はあるが、喰い合いに参加するだけだ。喰い合いに君は関わる必要性はないし、どうしたって不都合不合理だ。何をもって、君はこんな一時の享楽を止めようとする? そこまで正義にこだわりたいのならばもっと別の仕事をあげようか?」

 ハムエッグの挑発にリオは乗らなかった。ここでハムエッグ相手に揉み合いをしていたところで仕方がない。

「……おれは、行きます」

「どこへ行く? アーロンとラピスが交差するその起爆点にか? 死人が出るから路地番があり、路地番はその間何が起ころうと秘密を守る。君の仕事だって意義がある事じゃないのかな?」

「一時の感情で動いているように見えるでしょう?」

 ハムエッグは口角を吊り上げる。

「ああ、ちょっと意外だね。もっと冷血漢かと思っていたが」

「案外、おれも馬鹿だった、って事ですよ」

 自嘲し、リオはハムエッグの下を立ち去ろうとする。ラピスとアーロンのぶつかり合いに真正面から行けば死ぬだけだ。だが分かっていても歩みは止められなかった。

「リオ君」

 呼ばれて振り返ると紙袋に入った何かを投げつけられた。「護身用だ」と言い添えられたそれは拳銃が入っていた。

「撃ってもいいと?」

「勘違いしちゃいけないな。最後の手段に自分の死に様くらいは選ばせてやろうという心だよ」

 つまり自殺用か。リオは、「借りていく」と紙袋を手にエレベーターを降りた。

 行く先は一つ。

 この街で巻き起ころうとしている馬鹿騒ぎの爆心地であった。
















「何が悲しくって、死のうとするのかね」

 ハムエッグは一人取り残されて呟く。

 路地番の仕事はただ秘密を秘密のままにしておけばいい。路地の裏で起こった事には一切干渉せず、何にも心を揺さぶられないただの置物になればいい。一番考えなくていい仕事を与えたはずだったが。

「リオ君、君は昔のアーロンに似ているね。アーロンも昔はそうだったんだよ」

 もうここにはいないアーロンとリオに語りかける。いや、今もアーロンは不合理と戦い続けているのかもしれない。その証拠がメイやシャクエンだろう。

 炎魔の存在を容認し、メイという足枷を無視し、瞬撃を抹殺すれば、何一つ変わらない日常でいられたのに、アーロンもどうしたのか。一人でいるのが寂しくなったわけでもあるまい。

「こういう不合理を抱え込まなくっちゃ生きていけないのがヒトなのか? だとすれば、ヒトというのはとても不便だな。ポケモンの身体が、今ほど愛おしい事はないよ。銃弾も通らず、価値観にも感傷にも流されない、この無感動な身体がね」

 いや、ほとんどの人間は不合理を合理的と解釈して通り越すだろう。彼らは特別だ。特別に馬鹿なのだ。

「馬鹿が馬鹿の作り上げた馬鹿騒ぎを止めにかかるか。だが、間に合うまい。リオ君。君は何よりも自分の至らなさを思い知る。アーロン。仕事相手は選ぶべきだな」

 ハムエッグは端末に表示されるレートと参加している出資者達の名簿を確認する。

 どれも大企業に名を連ねる幹部連だ。お歴々の名前もある。それだけこの一戦に注目する度合いが強いのだろう。

「さて、人間は人間同士、痛みを食い合ってどこまでいけるのか、この哀れなポケモンに見せてくれよ」

 そう呟いたハムエッグは自分でも驚くほどに人間じみた声音だった。



オンドゥル大使 ( 2016/05/15(日) 20:54 )