第四十四話「存在の証明」
きょとんとハムエッグが丸い目を向ける。そういえばアンズを連れてくる事は言っていなかった、とメイは判断した。
「ああ、あの、ハムエッグさん。彼女は」
「存じているよ。今回の事件の主犯だね」
そう言われてしまうとメイも萎縮する。しかしアンズは縮こまる事もない。
「ハムエッグ……。このヤマブキの盟主」
その声には敵意が混じっている。暗殺対象に挙がっていたのかもしれない。だがその感情を抑制させたのはカウンターの奥から出てきたラピスの姿だった。カルピスを飲んでおり、メイを見つけるなり飛び込んでくる。メイはラピスを抱き留めた。
「お姉ちゃん、来てくれたの」
「うん。ラピスちゃん、いい子にしていた?」
「いい子にしていたよ。ねぇ、主様?」
「うん。ラピスはいつもいい子だ」
ハムエッグが笑い、グラスを磨いて声にする。
「何か飲むかい? お酒からソフトドリンクまで何でもあるよ」
「じゃああたし、サイコソーダで」
シャクエンは何も言わない。喉が渇いていないのか。アンズに尋ねると彼女も警戒しているのか何も言わなかった。
「二人とももっとほぐれてほぐれて。ハムエッグさんは悪い人じゃないんだから」
「……そもそも人じゃないし」
アンズのぼやきにハムエッグは照れたように後頭部に手をやる。
「こりゃ一本取られたかな?」
「もう、ハムエッグさんってば」
努めて明るい声を出そうとしたがアンズもシャクエンも何も頼もうとしなかった。メイが差し出されたサイコソーダを飲みつつ、「気になる事があるんだよね?」と口火を切る。
「そういえば電話口にそう言っていたね。気になる事って言うのは?」
ハムエッグの疑問にも二人は答えない。いい加減に素直になればいいのにとメイは感じる。
「その、ハムエッグさん。あたし、知らない言語の歌を歌っているらしいんです」
「ほう、歌」
自分から切り出すしかなかった。メイは自分でも馬鹿げていると思いつつアンズとシャクエンの意見を纏める。
「その歌でメロエッタがフォルムチェンジするらしくって……。でもあたしにはその時の意識はないんです。それにメロエッタがフォルムチェンジするポケモンだなんて初めて知りました」
「自分の意識がないうちに、ポケモンを操る事が可能かどうか、だね?」
ハムエッグは腕を組んで考え込む。その様子はポケモンというよりも人間臭い。
「極論、どうなんですかね?」
「不可能ではない。その時別の人格が出ている、とかね」
「別の人格……」
そのようなものを認めた覚えはない。二人に視線をやるとシャクエンは仕方がないとでも言うように口を開いた。
「……メイの人格が切り替わった、というよりも歌っているメイは別人みたいだった」
「つまり、あたしって多重人格者?」
「いえ、そういう事じゃないと思う」
今度はアンズだ。実際に戦ってみたのだから彼女の意見が強い。
「あれは、人格の切り替わりとかそういうんじゃない。パターン化されたスイッチを押しただけのような気がする。つまり、ある一定の状況下における行動の固定化」
「暗殺者の行動様式に似ているね」
ハムエッグの纏めにメイは不服そうな声を出した。
「あたし、暗殺者なんかじゃ……」
そう言おうとしてここには三人の暗殺者がいる事に気付いて口を噤む。アンズとシャクエンは気にする素振りもなく、「メイは違うと思う」と口にしていた。
「暗殺者とか、そういうんじゃない」
「あたいも同意。メイお姉ちゃんみたいなのは暗殺者って言わない」
二人の意見にハムエッグは呻って考え込む。
「暗殺者のスイッチングでもなく、かといって常人のそれでもない。メイちゃん、今は歌えるかい?」
「えっ、歌ですか?」
戸惑っていると四人の視線が飛んでくる。
「実際に歌ってもらうのが早い」
「確かに、メロエッタを出して歌ってくれれば証明にもなる」
「あの時の再現にしてはでも状況が伴っていないけれど」
めいめいの言葉に困惑してしまう。そんな中、ラピスが声にした。
「お姉ちゃんの歌、聴きたい」
こうまでなれば仕方あるまい。メイはメロエッタを繰り出して歌声を披露した。
その瞬間、全員が肩透かしを食らったようによろめく。
「あっ、もういい! もういいよ!」
「……メイ。こんなに酷いとは思わなかった」
「メイお姉ちゃん音痴なのね……」
全員散々な評価である。そんな中ラピスだけが味方だった。
「メイお姉ちゃんの歌、素敵だね」
「ラピスちゃん……。あたしもラピスちゃんが大好き!」
ラピスに抱きついて頬ずりするとアンズとシャクエンが硬直する。
「……よくそんな事出来るね、メイお姉ちゃん」
「メイ、少しは立場を弁えたほうがいいと思う」
「いいのっ! みんなして酷いんだから!」
言ってやると三人とも黙る。渋面をつき合わせた三人はそれぞれの意見を述べた。
「やっぱり暗殺者のスイッチングに似た要素が働いてるんじゃないのかな?」
「でもスイッチングにしてはその要素が歌って言うのが気になる」
「もっと強烈に人格が変わるとかだと分かりやすいのにね。これじゃどうしようも判断出来ない」
三人は難しい話をする中、メイはラピスに訊いていた。
「ねぇ、ラピスちゃん。どれくらい歌良かった?」
「うんとね、これくらいかな」
手を大きく広げてみせるラピスにメイは、「可愛いなぁ」と愛でる。その様子を信じられない様子でシャクエンとアンズは遠巻きに眺める。
「……ねぇ、炎魔のお姉ちゃん。あれはちょっと異常じゃない? 相手はラピス・ラズリよね? この街で最強の殺し屋」
「そうなっているけれど、メイは元々ああいう感じだから」
「わたしとしてはラピスを色眼鏡で見ない人間というのはとても貴重でありがたいと思うけれどね」
ハムエッグの評価にメイは、「そうですよ」とラピスを膝の上に乗せた。
「こんなに可愛いのに、みんなして最強の暗殺者だとか殺し屋だとかスノウドロップだとか言うんですもん」
「いや、だって事実……」
「事実でも、言っていい事と悪い事があるはずなんです」
メイの譲らない様子にシャクエンとアンズは半ば諦め気味に声にする。
「まぁ、メイがそう言うなら」
「あたい達にとやかく言えることじゃないけれど」
ハムエッグは恰幅を揺らして笑う。
「いい心意気だ。メイちゃん、サービスするよ」
差し出された二杯目のサイコソーダにメイは素直に喜ぶ。
「わっ、いいんですか? いただきますー!」
「……そうやってハムエッグから与えられるものに何の疑問も挟まないところとかさぁ。大丈夫なの?」
「メイは前からこういう人だけれど、私もちょっと心配」
アンズとシャクエンはハムエッグの出してきたものに一切口をつけない。暗殺者なのだからそれも当然なのだろうか。
「でも、メロエッタのフォルムチェンジを二人とも見ているわけだよね?」
ハムエッグの質問にアンズは、「ええまぁ」と応じる。シャクエンは答えもしない。
「どういう感じだった? このメロエッタからして見ると、どう考えてもフォルムチェンジするようには思えない」
緑色の髪を流したメロエッタをアンズは見やり、「まず見た目が違う」と口にする。
「オレンジ色の髪になって、髪の毛も巻き上がって、本当に戦闘姿勢になる。この状態じゃ中距離戦が得意そうだけれど、あれの得意とするのは接近戦。あたいのスピアーの最高速を軽く超えてきた。メガシンカしていなかったとはいえ、意表を突かれたし」
「確かに、速かった。あれほどの速度で格闘技を出せるポケモンを他に知らない」
「もう! 大げさだなぁ」
アンズとシャクエンが深刻そうにしているので場を和ませようとする。しかし二人とも難しい顔をして解せないとでも言うように首を振った。
「何で、メイはそのポケモンを所持しているの? 見たところ御三家ポケモンじゃないよね? 属性も確かノーマル・エスパーとかだし。初心者向けじゃない」
シャクエンの疑問にメイは、「交換したの」と応じる。
「交換? 誰と?」
尋ねられてメイは答えようとするが、はてと疑問符が浮かんだ。
「あれ? 誰だっけ?」
その返答にシャクエンが、「茶化している場合じゃ」と本気の眼で訴えかけるがメイは手を振った。
「違う、違うって! ふざけていなくって、本当に誰だったか思い出せないの。プラズマ団を壊滅させたのは確かこの子だったはず。だからそれ以前の冒険で、誰かと交換したはずなんだけれど、その記憶がその、曖昧っていうか……」
メイの言葉にアンズは、「それっておかしい」と口を差し挟む。
「交換した相手の事を覚えていないなんて」
「覚えていないはずはないんだけれど……。あれ? 本当に誰だっけ?」
シャクエンがメイの顔を窺い、「いい? 一つずつ聞く」と慎重に声を発する。
「メイはイッシュの出だよね?」
「うん、そう」
「フルネームは?」
それほど馬鹿ではないとメイは眉根を寄せたが喉の奥から言葉が出なかった。
「あれ? あたしって、フルネームなんだっけ?」
その言葉にはさすがにこの場にいた全員が慄然とする。アンズが、「ちょっと待ってよ」と振り返った。
「まさかフルネームが分からないって言うんじゃ」
「ううん、そのはずはないんだけれど……。何でだろう。全然思い出せない」
メイも額に手をやって必死に思い出そうとするが記憶の中に自分のフルネームは存在しなかった。それどころか家族の事もおぼろげだ。
自分はヒオウギシティを旅立って、イッシュを股にかけた冒険をしてきたはずだ。その過程でプラズマ団との軋轢があり、自分の意志を曲げないために戦ってきた。そのはずであった。だから、自分のフルネームが思い出せないなどあり得ないはずだ。生家もあり、自分の生まれ故郷も分かるのに。
「何で、あたしにはフルネームの記憶がないんだろう……」
メイの声音にシャクエンは一呼吸置いてから、「じゃあ質問を変える」と口にする。
「メイがプラズマ団と敵対したのは、何で?」
「えっ、だってプラズマ団は人のポケモンを奪ってしまう悪い人達で……。もちろん、それだけじゃなくって今は慈善事業をしている人達もいるんだけれど、あたしが相対したプラズマ団は過激というか、変な思想にかぶれていて」
「変な思想?」
「ポケモンを解放するべき、っていう根底思想は変わらないんだけれどイッシュを支配するみたいな思想だったかな。プラズマフリゲートとか言う戦艦を使ってイッシュの実権支配までやってのけた、危ない組織だよ」
プラズマ団の事はここまで覚えている。だというのにメロエッタの元の持ち主と自分のフルネームがどうしてだか言えない。
「そこまで仔細に言えるって事は、メイお姉ちゃんはそれを体験したって事だと思う。ただ、フルネームが言えないのと、メロエッタのおやが不明なのは……」
アンズも言葉を濁す。メイ自身も分からない事に戸惑っていた。どうして自分には記憶が一部薄れているのか。
「メロエッタのおや、か。ある程度特定は可能だけれど」
ハムエッグの声にメイは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。ポケモン図鑑を使えればいつでも確認出来るはずだよ」
その言葉を聞いてメイは憔悴したように俯く。
「ポケモン図鑑……アーロンさんが預かったままだ……」
だとすればアーロンは自分の知らない自分を知っているという事になる。一刻も早く取り返したかった。
「アーロンに電話でもかけてみるかい?」
ハムエッグの提案にメイは、「待ってください」と声にしていた。全員がメイを窺う。
「ちょっと、自分の中で整理がつかなくって……」
もしアーロンに調べてもらって自分の記憶と本当の名前が違ったら、メロエッタのおやが自分ではなく他の誰かでコントロールさせられているのだとすれば、自分はどうすればいいのだろう。突きつけられた現実にメイは押し黙るしかない。
「……分かった。アーロンに聞くのは最終手段だ。とりあえず今思い出せる範囲の事を思い出そう」
ハムエッグの厚意にメイは頭を下げる。
「すいません。……あたしのわがままですよね」
「いいや、自分の事が分からないのは恐怖さ。ちょっと時間が必要かもね」
謎の歌から遡ってまさか自分の記憶が曖昧だという結論に至るとは思わなかった。メイは、「どうしよう……」と声にする。
「もし、あたしの証明なんてなかったら」
その時には、どんな顔をすればいいのだろうか。メイの懸念にシャクエンが慰めの言葉を口にする。
「メイ、そんなに気負う事じゃ……。一時的な記憶障害かもしれないし」
「でも、メロエッタのおやが分からないのは痛いよ。ポケモン図鑑、お兄ちゃんから取り戻す術ってあるの?」
アンズの問いには頭を振るしかない。
「アーロンさんが、理由を分かっていて持っているんだとすれば、簡単に返してはくれないよね……」
アーロンはどこまで分かっているのだろう。メイは黙って出ていった事も含めてアーロンとは色んな事を話さなければならないような気がした。