第四十三話「真世界」
あの日、初めて人を殺した。
仕方がなかったの。
そうしなければラピスは死んでいた。
育てようと思って育てたわけではないユキカブリが手をちょっと払っただけで、ラピスの敵はくるりと反転して首がへし折られてしまった。
敵はラピスを殺そうとしていたわけではなく、別の道を聞こうとしていたようだった。
身体を売って生きるか、それともこのまま死に絶えるか。
二者択一の世界はとても厳しいけれど、ラピスはその人達の言わなかった「もう一つの選択肢」を取る事にした。
殺して、奪って、そして変えてゆく。
死んでいた、というのはそういう意味で、あの時抵抗せずに敵の言う通りにしていたら「心」が死んでいた。
命ではなく心の問題。
ユキカブリと一緒に凍え始めた街を彷徨った。どこにも行く当てなんてなかったけれど、ラピスは生きるために必死だった。
生き残る、自分であるという事の証明は存外に難しく、とても苦労したものだけれど、ラピスはラピスであるために、人を殺して回った。
抵抗する人間、言う事を聞かない人間、怖い人間、それらを徹底的に凍てつく死の向こう側へと置いてゆく。
ラピスだけがこちら側にいる。死はとても怖いもの。
心が死ぬにせよ、命が消えるにせよ、とても怖い。怖くって仕方がない。
髪の毛がぼさぼさになって、食べるものもなくって、だからって奪ったお金を使うつもりにもなれなくって、緩やかに死の足音が近づいてくるのが分かった。
がなり立てるでもなく、小さな声で、朝起きる度に囁くのだ。
もうすぐラピスの命が終わるよ、と。
食べなければ飢え死にするだろうな、というのを他人事のように感じて、ラピスはその日もユキカブリと一緒に廃墟を巡っていた。
この街は不思議だ。
死んでいる街並みと生きている街並みが同居している。死と生が同じ場所にいるなんてなんて不思議。
それもギリギリのバランスで。今にも崩れ落ちそうな均衡の最中。分かり合えないと分かっていても同じ場所に居座り続ける。
ラピスは行く当てもなく歩いたけれど、結局それもまた死の向こう側を探すための旅路だったのだと思う。
ふらり、ふらりと歩いて。遂に歩く事も出来なくなってラピスは倒れた。
ユキカブリが不思議そうに眺めてくる。そっか。ユキカブリは寒いほど元気だものね。
でも人間は寒いと駄目なの。死の足音が近づいてくる。視界が闇に閉ざされかけた時、声がかけられた。
「お嬢さん、死ぬにはちょっとこの道は不釣合いだよ」
変な声、とラピスは感じた。どこから出しているのか分からない声。人間の声にしては何だか生々しくって、かといって他の生物にしてはあまりにも人間めいていて。
顔を上げる。
ピンク色の身体をしたそれが手を差し出してきた。
「君はラピス・ラズリだね?」
尋ねられてラピスは頷く。
「宝石のような眼をしている。君の力が必要なんだ」
差し出された手にはパンが握られていた。
「今はこれしかないけれど」
ラピスは夢中でパンにがっついた。生にまだ執着したかった。空腹感はまだ全然満たされなかったけれど、その不思議な存在といると自分は死なないのだとその時認識した。
「あなたはだぁれ?」
その声にピンク色の怪物は答える。
「わたしの名はハムエッグ。種族をベロベルト、という」
ハムエッグと名乗った相手はポケモンだった。どうしてポケモンが喋るのだろう、という疑問は湧いてこなかった。ユキカブリだって時々意思らしいものは見せるからそのうちポケモンも喋り出すんだろうな、と思っていたから。
「ラピスみたいな子を助けてどうするの? からだを売るかどうか聞いてくるの?」
「わたしは君にそんな事は要求しないよ」
ハムエッグは恰幅のいい身体を揺らして声にする。
「君のような人間を探していたんだ。純粋に、生きるために今を生きている人間を。君とわたしならば出来るはずさ」
「出来る、何を?」
ハムエッグは両腕を広げて声にする。その背後でタワーが光を帯びて摩天楼を映し出した。
「この街を覆う闇を払う、新世界を」