第三十六話「殺し屋未満」
「おい、歩きにくいぞ」
あまりにアンズが密接して歩くせいでアーロンは睨み上げた。それだけでアンズは涙目になってしまう。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、怒っているわけではないんだが」
やり辛い相手だった。敵意がまるでないのだ。警戒心もほとんど存在しない。まさしく赤子を相手取っているような感覚である。
「どうしてヤシロ組の集金所にいた?」
「分かりません……。スピアーを使って、あの場所に張っていろと言われただけで」
「無自覚のまま俺を襲ったと?」
「殺し屋が来るから守って欲しいって言う事でして……」
よくもまぁ、それでスピアーを出したものだ。ろくでもない事に首を突っ込んだアンズはどこか後悔しているようだった。
「あの、あたい、やっぱりあなたにお世話になるには……」
しどろもどろになるアンズにアーロンは返す。
「なに、行くところもないのだろう。一日二日だとホテルに言ってある。それ以降は場所をあてがってくれるだろう」
その言葉にアンズは、「ご迷惑を……」と頭を下げた。
「いい。迷惑はお互い様だ」
「ありがとうございます。その……お兄ちゃんって呼んでいいですか?」
「勝手にしろ」
アーロンはすっかり寝静まった喫茶店を抜けて二階に上がる。するとまだ明かりが点いていた。メイとシャクエンがテレビを眺めている。アーロンが帰ってきた事を悟ると自ずと二人はこちらに視線を向けた。
視線の先にアンズがいる事に二人して瞠目する。
「帰ってきたぞ。何もないのか」
「……アーロンさん。まさか遂に、遂に犯罪に手を染めてしまったんですね……!」
メイの言葉にアーロンは頭を叩いてやる。頭頂部を押さえたメイを放っておいてシャクエンに説明した。
「ヤシロ組の集金所で保護した。多分買われてきたんだろう」
「でも、どうして波導使いが保護する必要が? ホテルには頼めなかったという事?」
「俺にも説明が難しい。明日でいいか?」
「構わない。でも、寝る場所がない」
シャクエンの声にアーロンは、「仕方あるまい」と下で寝る事にした。
「毛布やブランケットがあるはずだ。それで一人は我慢しろ」
「えーっ! そんなのってないですよ!」
抗議の声を上げたメイを蹴飛ばしてアーロンは、「その馬鹿を床で寝かせろ」と言って扉を閉めた。
アンズがどこで買われて来たにせよ、あそこまで敵意のない存在は初めてだった。だがスピアーで襲ってきている。敵意がない、と判断するには条件が食い違う。
「……全くの敵意がないわけでもない。しかし、相対しても殺せない相手ではないな。もしもの時は、俺が始末すればいい」
「ああ。おはようございます、お兄ちゃん」
二階に上がってまず驚いたのはエプロンを引っ掛けたアンズだった。他の二人はテレビを見ている。アーロンはつかつかと歩み寄ってメイの耳をひねり上げた。メイが、「痛い! 痛いですって!」と悲鳴を上げる。
「何がどうなっている? キッチンに立つなと教えなかったのか?」
「言いましたよ! でも何かお礼がしたいって。……あの涙目で言われたら断れなくって……」
アーロンはアンズを見やる。波導の眼を使うが敵意らしきものは全く感じない。
「……軽々しくキッチンを使わせるな。俺も手伝おう」
アーロンが歩み寄ると、「もう大体出来てますから」とアンズが振る舞ったのは本格的な中華だった。ホイコーロが出来上がっている。
「召し上がれ」
四人分の皿が用意され、アーロンは仕方なしに食卓についた。波導の眼で毒を探るがそれも見つけられない。シャクエンも毒には警戒しているのかなかなか箸をつけようとしなかったがメイは別だった。
「いっただきまーす!」
メイが真っ先に食べ始める。アンズは、「どうですか?」と窺った。
「おいしいよー。アンズちゃん、料理出来るんだね」
もう自己紹介は済ませたらしい。アンズは照れて首を引っ込めた。
「ちょっとしか出来ないですけれど。父上に自分の事は自分でしなさい、って習ったから」
「それだけでも充分に馬鹿との差は開いているな」
アーロンも口に運ぶ。味は悪くなかった。
「またあたしの事馬鹿にしてー」
「本当なのだから仕方あるまい」
シャクエンが最後に食べ始める。まだ炎魔であった頃の習い性が残っているだけこの中ではマシだ。
「どうですか? お姉ちゃん。おいしい?」
「悪くない」
シャクエンの返答は素っ気ないがアンズは喜んだ。
「ホテルに身元を探ってもらっている。その間だけここで宿泊させる予定だ」
アンズの事を補足説明するとメイは質問を飛ばした。
「どういう経緯でアンズちゃんを拾ったんですか?」
「本人を前にして拾ったは失礼だろう」
アーロンの注意にメイはハッとする。アンズは、「気にしてないので」と大人な対応だ。
「あ、あたい、店主さんにも挨拶してきますね。一応、ここでお世話になるのに皆さんに知られていないとおかしいので」
アンズは空気を読んで下階に降りていく。アンズの足音が遠ざかったのを確認してからメイが声を発した。
「おかしいですよ。何でヤクザの集金所であんな子が?」
「俺にも分からない。だが、スピアーで攻撃してきたところを見るともしかすると暗殺者として仕込まれてきたのかもしれない」
「いや、そりゃないですって」
メイが箸を振って否定する。「行儀が悪いぞ」とアーロンがいさめた。
「だってあんな小さな子が」
「疑問で仕方がないが、今のところ敵意も何も感じない。波導の眼でこの料理も見たが、毒の一滴も盛られていない」
今さらにメイは毒の盛られている可能性を感じ取ったのか皿を遠ざけた。
「今さらだろう。馬鹿め」
「だ、だって! 誰も言わないから」
「毒を仕込もうと考えている奴の前で毒を仕込んでいるかもしれない、と言えるわけがないだろう」
「だから、シャクエンちゃんはなかなか食べなかったんだ?」
ようやく得心したメイの声にシャクエンは、「それもあるけれど」と濁す。
「どうかしたか?」
シャクエンは少し考えた後に、「偶然にしては出来過ぎている」と声にした。
「集金所にいた暗殺者もどき。波導使い、あなたに殺されてもなんらおかしくなかった。でもあなたはどうしてだか殺さなかった。これが計算ではない、と言える?」
シャクエンが言いたいのはこの場所に潜り込んだ事も含めて計算ではないか。という事だろう。メイは即座に否定した。
「ないよー。シャクエンちゃん考え過ぎ」
「そんな事ない。メイ、私だってあなたを通して波導使いを殺そうとした。一番定石なのは無害を装う事」
自分の事も例に挙げてシャクエンは説明する。メイはさすがに言い返せなかったらしい。
「だとしても、あんな少女とスピアーに出来る事はないだろう」
「スピアーって、どこでも見かける虫タイプですよね? あんまり強いイメージないなぁ。ポケモン図鑑にも載っていたはずですけれど」
アーロンはメイのポケモン図鑑を開いてスピアーの図鑑説明を読み上げる。
「高速で飛び回る。毒針で攻撃した後すぐに飛び去る戦法が得意技だ、とあるな。だがあのスピアーはあまり考え抜いて育てられた感じではない。初心者がただ単に趣味で、と考えたほうがいい育て方だ」
「暗殺向きの育て方じゃない」
シャクエンの結びにアーロンは首肯する。
「そういう事だ」
「じゃあ暗殺者じゃないんじゃないですか? やっぱり考え過ぎじゃ」
「最悪の事態を想定しておくのが、俺の役目だ。暗殺者でないにせよ疑似餌の可能性はある」
「疑似餌、って?」
メイがシャクエンに尋ねる。シャクエンは淡々と説明した。
「子供でも爆弾を持って突撃させればそれなりに致命的な一撃を与えられる。つまり人間爆弾じゃないかと、波導使いは言いたい」
「そんなの!」
メイが机を叩いて立ち上がる。信じ難いのだろうが考えられる唯一の可能性だった。
「非人道的だとか今さら言うなよ。まかり通るのがこの街だ」
アーロンは湯飲みに浮かんだ自分の顔を見やる。この街に毒された男の姿が反射していた。何が起こっても不思議ではない。だが、アンズはあまりに弱く、敵意もない。あれで殺し屋が務まるとは思えなかった。その結果として人間爆弾のほうが現実味のあるという事だ。
「そうなると、何で昨日のうちにやらなかったのかは不思議だけれど」
シャクエンの疑問にアーロンは考えを巡らせていた。本来ならば着いたのと同時に起爆させるのが正しい。だというのに自分達が無事だという事は人間爆弾の可能性は捨ててもいいだろう。しかし疑問がついて回るのは相変わらずだった。
「あれほど敵意のない人間を、俺は知らない」
シャクエンもその点で気になっていたらしい。
「あまりにも無垢で無知。ヤマブキで育ったとは思えない」
二人の人物評にメイが口を差し挟む。
「何言っているんですか。いい子くらいいるでしょう。別段おかしな事では」
「一般人ならば、の話だ。一応、裏に入った人間があのような人格だとは思えない。それこそ裏の裏を疑ってしまうが」
「それにしては、その波導の眼には何も映らない」
引き継いだシャクエンの言葉に全てが集約されていた。この波導の眼を欺いて一般人の振りをする暗殺者はいるはずがない。メイは疑問を発す。
「いや、いるでしょう。アーロンさんの評価が全てじゃないですし」
「暗殺者の端くれならば血の臭いくらいはついているはずなんだ。それもない」
これは同じ暗殺者にしか分からないだろう。シャクエンも同意のようで、「敵意も血の臭いも殺気もないのは不自然」と返す。
「それこそ操られている、と言ったほうが正しいレベルだな。スピアーなどという戦闘向きではないポケモンを手持ちにしている事からも」
「でも虫・毒タイプですよね? 結構暗殺向きに思えるんですけれど」
メイの言葉にアーロンは、「タイプ上で見ただけが、暗殺向きだとは限らない」と自分のホルスターに留めたピカチュウを意識させた。
本来ピカチュウは愛玩用のポケモン。暗殺に使っているのは自分くらいだ。
「確かにアーロンさんみたいな例はありますけれど、でも例外だってあるんじゃないですか? ただのいい子で、それで巻き込まれただけだとか」
「巻き込まれただけにしてはヤシロ組の集金所にいたという説明がつかない」
「それに、集金所という秘密裏の場所に小娘一人を置いておくのは逆にリスクの高い。それをやるメリットが一切ない」
アーロンとシャクエンの言葉に挟まれてメイはうろたえる。
「じゃ、じゃあ、やっぱりただのいい子なんですよ! そう思いましょう!」
楽観的だがアンズを暗殺者と断じるには証拠が足りない。このまま平行線の会話を続けるよりかは一度暗殺者の線は捨てるべきだ。
「お、遅れました。店主さんには挨拶しましたので」
アンズが扉を開けて入ってくる。今の会話を聞いていた風でもない。
「店主は?」
「一日二日ならば面倒を見てくれるみたいです。本当に、ご迷惑を」
「いや、いい」
アーロンの素っ気ない対応にアンズはきょとんとする。この少女が敵だと判断も出来なければ味方だと判断も出来なかった。