第三十三話「ホテルミーシャ」
「……絶対ついてくるなよ、絶対だぞ、なんてフリ以外の何でもないじゃないですか」
メイは店主に気取られずに外に出る方法を知っていた。トラック小屋の中に再建時に新たに取り付けたメイしか知らない移動通路があるのだ。その通用口を使えば簡単に出入り出来る。無論、普段のアーロンが見逃すはずもないので今回限りのつもりだった。
「メイ。さすがにまずいと思う」
シャクエンの声にメイは、「構うもんですか」と応ずる。
「だって絶対ついてくるな、はついて来いの意味でしょ」
「そうなの?」
シャクエンは世相に疎いためお約束を分かっていないのだ。メイは、「静かに」と声にする。
「アーロンさんの事だし、あたし達の波導なんて分かっちゃってると思う。だからこの距離はキープで」
十メートルほど間隔がある。暗殺者としての集中力ならば気取られかねないがアーロンは傍目にも落ち着きがないように思えた。いつものアーロンらしくない。
「何だかアーロンさん、本当に周囲を気にしている感じだなぁ。まさか恋人と会うとか?」
メイの浮かべた疑問にシャクエンは、「波導使いには恋人がいるの?」と大真面目に尋ねる。
「まさか。あの朴念仁が恋人なんて」
「でも結構気にしているよ。あそこまで落ち着きのない波導使いも見ないと思う」
アーロンは曲がり角を曲がる度に三十秒ほど立ち止まって尾行を警戒している。逆に言えばそれだけ落ち着きがない。
「誰と会うんだろ……」
「ハムエッグとか?」
「それならあたし達について来るなって言わないでしょ。多分、今まで会ってない人達だと思う」
ならば余計について来るなの意味が分からない。何も言われなければ仕事について行きはしないのに。
「あれだけ念を押すって事は、アーロンさんの弱みに違いない。ここでアーロンさんの弱みを握っておくのは絶対必要だって」
メイは確信していた。何かしらアーロンは不都合な事実があってそれを隠そうと躍起になっている。だから不必要な警告までした。
「でも、この先はヤマブキの東側……。宿泊施設が密集している側だけれど」
シャクエンの声に高層ビルの中にホテルなどが視界に入ってくるのが分かった。まさか本当に密会か、とメイはうろたえる。
「まさか……本当に女性関係?」
「だとしたらついて行くのは悪いよね」
シャクエンの落ち着きに比してメイは笑みを浮かべていた。
「だとすれば大スクープ! これであたしはアーロンさんに主導権を握れるわ!」
メイは完全にそちらの方面だと確信した。アーロンは緑色に塗られた建築物へと入っていく。どうやら宿泊施設とは違い、企業が入っているようだ。
「やっぱり仕事なんじゃ」
「いいえっ! ここまで来ればオフィスラブでも見る価値がある!」
アーロンがエレベーターを昇っていく。到着した階層を目にしてからメイとシャクエンは階段を使って上ろうとした。そこで、「お客様」と呼び止められる。
振り返ると黒服が訝しげな視線を向けていた。
「何か御用ですか?」
「いや、あの……さっき入っていった人が、ほら忘れ物をしていて」
咄嗟に手にしていた茶封筒を取り出す。こういう事もあろうかと何も入っていない茶封筒を用意しておいた。
「お忘れ物……。ならば当方で受け取りますので、それを」
黒服が手を伸ばそうとする。メイは咄嗟に身を引いた。シャクエンが前に出て、「直接渡したいんです」と答える。
「極秘文書らしいので」
シャクエンの唐突な嘘に黒服は信じ込んだようだ。
「分かりました。ではご案内致します。何階ですか?」
先ほどアーロンが向かったのは十二階だ。メイはそれを口にする。
「十二階ですね」
黒服が先導し、エレベーターの中に入る。どこか狭苦しい空間にメイは萎縮する。
「ときに、お客様。ここがどこだかご存知で?」
訊かれてメイは困惑する。シャクエンは淀みなく答えた。
「企業の建物ですよね」
ぼかした答えに黒服は、「ええまぁ」と応じる。シャクエンにナイスを心の中で送った。
「どんな企業だか分かって、来たんですか?」
これはまずい、とメイは感じていた。答えられなければ怪しい。かといって答えてもこれは逃がす感じではない。黒服がすっと懐に手を入れる。
その瞬間、飛び出した黒い影が黒服の手をひねり上げていた。シャクエンが手を繰ってバクフーンに命じる。いつ出したのかメイには分からなかった。
「〈蜃気楼〉。この男を拘束」
その言葉が放たれた直後に、黒服の手から拳銃が滑り落ちる。メイは心臓が口から飛び出すかと思うほど驚愕した。
「えっ、どういう事……」
「私にも分からないけれど、殺気を向けてきたから対処した。どういう事なの? ここは何?」
シャクエンが問い詰めるが黒服は嘲笑うだけだ。
「知らずに来たのか、小娘共め」
バクフーンの〈蜃気楼〉が炎を上げて黒服に体重をかける。炎熱だけでも死を感じるほどに〈蜃気楼〉の殺気は鋭い。
「答えなさい。ここは何なのか?」
「炎のポケモンを操る女……。貴様、炎魔か。何故、波導使いと組んでいる?」
炎魔の事を知っている。この男はカタギではない。
「い、一体何なの? ここは何?」
うろたえ始めたメイの思考を遮るようにエレベーターの扉が開く。その瞬間、無数の銃口が二人を捉えた。シャクエンでさえも逃れられないと判断したのだろう。到着した階層にいる黒服達に降伏を示す。メイも当然の事ながらそれに倣った。
階層はオフィスになっており、奥の執務机まで黒服達に誘導される。いつ銃口が火を噴いてもおかしくはない。
「アーロンさん、何でこんな物騒な場所に……」
「メイ。あまり声を出さないほうがいい。手慣れている」
この黒服達も裏稼業の人間というわけか。シャクエンが降伏した以上、自分のような凡人が太刀打ち出来るとは思っていない。
「ねぇ、ヤマブキって裏の人間が何人いるの? こうも立て続けに裏稼業の人達と会うなんて」
イッシュから渡ってきた当初は思いもしなかった。メイの後悔を他所にシャクエンは淡々と告げる。
「彼らは秩序の守り手。言ってしまえばハムエッグと同じ人種」
「ハムエッグさん達と?」
アーロンが関わるのを極力避けているハムエッグと同種となれば余計にきな臭い。メイとシャクエンはパーティションで分けられたオフィスを抜けてようやく辿り着いた執務机の先にある応接室でアーロンと出会った。
当然、彼は驚愕している。どうして二人がいるのか分かっていないのだろう。
「……ついてくるなと言っただろう」
「いや、その、フリかな、って」
メイは愛想笑いを浮かべるがその場の空気がそれを許さなかった。重苦しく沈殿した空気に渋い顔の人々。軍人のように付き従っている大男に両脇を固められたソファの上手に、一人の少女が腰掛けていた。
長い黒髪を流し、紫色のリボンとワンピースを身に纏っている。渡り合うその眼差しはアーロンと対等か、あるいはそれ以上の権限の持ち主だと一瞬で分かった。
「あら、来客? 珍しいわね」
だからか、その姿と同様の澄んだ幼い声音に驚愕したほどだ。年齢を誤魔化している風でもない。相手はメイとさほど年かさも変わらないようだった。
「波導使い。いつの間に女の子と同棲なんて始めたのかしら?」
少女の声にメイとシャクエンは口ごもるしかない。アーロンも苦々しい顔で、「不注意だ」と返した。
「ここに来させる気はなかった。俺のせいだ」
「いいわ。彼女達にもお茶を振る舞って差し上げて」
少女が指を鳴らすと大男は弾かれたように動き出し紅茶のカップを二つ用意して注いだ。それぞれ香りのいい紅茶でハーブティの一種だと分かる。
「どうぞ。座る場所がないから狭苦しいかしら?」
差し出されたお茶をそのまま不用意に飲む気にはなれない。少女が視線に鋭いものを滲ませる。
「それとも、わたくしのお茶は飲めない?」
「ラブリ。いじめてやるのはその程度にしてやってくれ」
アーロンの助け舟にメイは安堵する。同時に少女の名がラブリ、というのだと分かった。
「あら、ごめんなさい。あまりにもいじめ甲斐のある目をしていたものだから」
ラブリは悪びれもせずに頬杖をついて笑う。メイは息苦しさの中、アーロンに尋ねていた。
「その、あたし達……」
「もう帰れと言っても仕方がないだろう。やり取りが終わるまで同席しろ」
帰り際に襲撃されては堪らんからな、と付け加えられる。アーロンの警戒にラブリは微笑みを浮かべた。
「それほど卑怯ではないわよ?」
「どうだか。ホテルミーシャからしてみれば相手の弱みが握れて好都合だろう」
ホテルミーシャ。その単語にシャクエンが反応した。
「ヤマブキの東側を統括する、大組織……」
その声音にラブリが、「あら?」と声にする。
「知っているのね。あなたもこちら側の人間なのかしら。黒い制服に、矢じりの形状の家紋。見目麗しいかんばせ……。ひょっとして最近出たって言う炎魔シャクエンかしら?」
何とラブリはシャクエンの血筋でさえも旧知のようだ。それだけ目の前にしている少女が只者ではないのだと分かった。
「分かったろう。ここに来るべきではなかったと」
アーロンの声に今さら恐れが這い登ってくる。ここは何なのだ。どうしてこんな場所にアーロンがいるのか。
「話を戻しましょうか、波導使い。今回、ヤシロ組の集金を押さえるというあなたの提案、ハムエッグを介さないで介入するのにはわたくし達レベルの組織が必要になる。だから頼ってきたのよね?」
「これ以上奴に借りを作らないためだ」
「それにしたって軽率だわ。ハムエッグはいい顔をしないでしょう?」
アーロンは舌打ちをして、「かもな」と返す。
「だがハムエッグに頼ったところで同じ事だ。最悪に転がるのが早いか遅いかの違い。炎魔の件で借りを作り過ぎた。出来ればしばらくは仕事上で会いたくはない」
「お得意先なのだとばかり思っていたわ」
「そんな事はない。俺はフリーランスだ。誰かに与する事はない」
ラブリとアーロンの会話には一切口を挟める気配はない。切迫した交渉が繰り広げられているのがメイでも分かる。
「ヤシロ組は簡単にぼろを出すとでも?」
「周りをお前らが固めれば、相手の殺し屋くらいは掴めそうだ。そいつとの直接対決は俺の役目だ。あんたらは交渉場所を囲い込むだけでいい」
殺し屋、という言葉にメイは息が詰まりそうになる。またしても命のやり取りがこのヤマブキで行われようとしているのか。
「ホテルミーシャを顎で使うには、あなた達のカードは足りないわよね。報酬は先ほどの金額に上乗せしてもらわないと。彼女達の秘密は守れる保障はないわ」
「……さっきの金額の倍でいい。秘密は守って欲しい」
アーロンは自分達の不手際を背負って自腹を切っているのだ。ラブリはふふんと鼻を鳴らした。
「殊勝じゃない、波導使い。まさかここまで下手に出るあなたが見られるとは思っていなかったわ」
ラブリは目線をメイとシャクエンに向けて値踏みするように告げる。
「どことも知れぬ小娘に、炎魔の身柄、となればそれも当然か。波導使い、あなたって本当に、最低のクズね。本当ならば彼女達を巻き込むべきじゃなかった」
その言葉にはメイも黙っていられなかった。アーロンが自分達のせいでいわれのない暴言を受けている。それだけは許せない。
「お言葉ですけれど、あなた達ってそんなに偉いんですか? さっきからアーロンさんの事見下して。あたし達の身柄にアーロンさんがそこまで頓着すると?」
声を出したメイが意外だったのだろう。ラブリは面白そうに笑みを浮かべる。
「これは驚きね。交渉のカードが喋り始めたわ」
馬鹿にした響きにメイは怒りを滲ませた声で言い返す。
「あなた達がどれだけ偉いって言うの。アーロンさんはたった一人で戦っている。それをあなた達は金儲けの道具にして……」
「そのくらいにしろ。それ以上は」
「いいえ。あたし我慢出来ません。アーロンさんがどれだけ痛みを背負っているのか、あなた達には――」
「口を慎め、と言っているんだ!」
アーロンの怒声にメイは思わず声を詰まらせる。同時に自分がどれだけ出過ぎた事を言ったのか反省した。
「ここでの交渉権を理解せずに口を挟むな。お前らはいつでも殺せる状態なんだぞ。無論、俺も含めてな」
「波導使いは相変わらず冷静ね。わたくしの言葉に掻き乱される事もない。そっちのお嬢さんは別だったみたいだけれど」
ラブリがせせら笑う。どこまでも人を見下している少女だった。
「ちょっと面白いから、金額はさっき提示した通りでいいわ。倍額は要らない。我々ホテルミーシャがヤシロ組を包囲する。その約束はしましょう。指示した口座に明日までに入金してくれれば結構。作戦は今夜九時より行います。場所も暗号化して送付するように。軍曹、送って差し上げて」
ラブリの片方を固めていた大男が歩み出す。顔に傷があり、それが凄味を引き立たせていた。
「部下が失礼をしました。どうぞ、こちらへ」
軍曹と呼ばれた大男に続いてメイとシャクエンが送り出される。アーロンは、と目線を向けるとラブリがフッと笑んだ。
「波導使い。いい女友達を持ったわね。あなた、これまで誰にも相手にされなかったのに。あなたが死んだって誰一人として悲しまない街だったのに、様変わりね。いいわ、とてもクズっぽくって」
再三のアーロンへの侮辱だったがアーロンは怒りもしない。それどころか、「協力感謝する」と言い置いて立ち上がった。
「少しばかり話を聞きたくなったわ。彼女達に、また会えるかしら?」
「お前が会う事はない。あるとすれば、それはこの街が最悪に転がり始めた証拠だ」
ラブリは鼻を鳴らして、「軍曹」と手を叩いた。
「波導使いご一行を下まで送って差し上げなさい。失礼のないように、ね」
自分に向けたような挑発にメイは噛み付きそうになったがアーロンが静かに囁く。
「下手な事を言うな。殺されるぞ」
誇張でも何でもない、本気の声音にメイは押し黙った。軍曹と呼ばれた大男に促され、メイとシャクエンは来たエレベーターを降りてエントランスを出る。それまで生きた心地がしなかった。
ようやく大通りに出てメイは愚痴をこぼす。
「何なの、あれ……。あれじゃマフィアのやり方じゃない」
「メイ。ホテルミーシャは本物のマフィアよ」
シャクエンの声にメイは瞠目する。後ろに続いているアーロンは、「この街で生きていたければ」と言葉を発する。
「ホテルとハムエッグの悪口だけは慎むんだな」
メイにはわけの分からない事が多過ぎた。だがアーロンの言うように下手な事を言えば命がない事だけはハッキリしていた。