第二十七話「人らしさ」
「失敗した。青の死神を殺せなかった」
シャクエンは〈蜃気楼〉に騎乗して宵闇を駆け抜ける。〈蜃気楼〉の熱効果によって自分は他人には見えないはずだったが先ほどから明らかに自分を狙った射線があった。回避して炎の遠隔攻撃を撃ち込む。焼いてから成人男性だ、と感じ取る。炎の燃焼具合やその効果範囲でもう誰を焼いたのかまで分かるようになっていた。
『そうか。さすがにあの波導使いさんは一発じゃ殺せねぇか』
通話口にいるのは自分の雇い主だ。同時に炎魔の血族を支配する人間でもある。
「あなたの権限でこの寄ってたかるハエを潰せないの」
射線は次々と正確になってくる。見えていないはずなのに、と一度だけ振り返ると相手は熱光学センサーのついたスナイパーライフルを装備していた。〈蜃気楼〉の軌道は熱を持つ事を知っている人間の仕業だ。考えつくのは数人。この街の盟主、ハムエッグ。あるいは先ほどの青の死神。または……今通話しているこの男。
「私を裏切る事はしてない?」
シャクエンの言葉に通話先の相手は笑い声を上げる。
『冗談きついな、シャクエン。てめぇを裏切っちゃオレも破滅だろうが。それは昨晩、証明済みだ。オレのやり方にゃ賛同してくれてるんだと思っていたが』
「賛同はしている。でも、信用はしていない」
歯に衣着せぬ物言いにオウミは苦笑したようだ。
『違いない。オレ達は最初から、お互いを信用し切っていない間柄だ。あるのは利害の一致だけ。オレはこの街を手に入れるために青の死神を殺したい。お前は何よりも炎魔の地位を確立させてオレから離れたい。だろ?』
ギブアンドテイクが成立しているのだ。オウミから離れる唯一の方法が、オウミの支配から脱する事、つまり強さを得る事である。だが強さの証明は、ただ単に歴史によるものだけでは事足りない。もうこの時代では炎魔の名とて古い。
「実力を示す事。青の死神を殺せば、あとはスノウドロップだけ。スノウドロップはハムエッグの息がかかっている以上、殺せない。つまり青の死神を殺せば実質的にこの街の二番手になれる」
『そういうこった。二番手でも随分と大出世だ。オレはその地位が欲しいんだよ。それに、お前が青の死神と殺し合うのがちっとばかし面白いってのもある』
この男は歪んでいる。しかし今さらだ。自分も歪みの上にこの人格が成り立っている。
「射線が正確になってきた」
スナイパーライフルの口径もシャクエンを的確に殺せるように一撃必殺の勢いを帯びてきている。手を払って視界の隅にいた狙撃手を焼き殺した。射程は五十メートル前後。炎の力量自体は先ほどアーロンと戦った時ほど研ぎ澄ましていないがただの狙撃手を殺す程度ならばそれほど絞った炎は必要ない。
『逃れるっつったって、どこに逃げるか、って話だが、オレはもう手配済みだ』
やはりこの男は最初から自分を捨てる心積もりなのだろう。だがシャクエンはそれすらも了承の内でこの男の命に従わざる得なかった。
「私には行くところなんてないのね」
こぼすと、『残念ながらな』とオウミは応ずる。
『シャクエン。てめぇは引き付けて死んでくれ。あるいは青の死神を殺せると面白いが、もうハムエッグに事の次第が行き渡っているからこそ、そいつらが狙ってきている。今さら青の死神を殺せとは言わんが、善戦してくれると助かる』
完全に自分の目的だけをこの男は話している。シャクエンは、「勝手ね」と呟いた。
二年前から、この男は身勝手だったが自分は逆らえなかった。
あの日、真っ赤に染まった光景の中で、シャクエンはただ恐ろしさに震えるしかなかった。先代の炎魔である母親が抵抗しても倒せず、父親は無残に殺され、母親は犯された後に殺された。もう母親に炎魔としての力はなく、その力の本質がシャクエンに渡っていたがためだった。十二歳の誕生日なんて迎えなければよかった、とシャクエンは歯噛みする。
どうして自分は成長してしまったのか。どうして、あの日、十二歳になって炎魔の力が母親より譲り渡されたのか。その全ての符号が不運に繋がり、自分の世界は一挙に狭まった。この街が元々全てではあった。赤人街での生活に不自由はなかったし、自分は家族と共に生きて死んでいくのだと思っていた。だというのに、この男が無茶苦茶にした。
『今でも、オレを殺したいと思っているか? シャクエン』
唐突な質問にシャクエンは戸惑う。オウミを殺したいか? 是と答えようとする自分と、否と答えようとする自分がいる。自分の家族を殺し、炎魔の力を利用してこの街で成り上がろうとする男だ。自分を女にし、手篭めにしてまで炎魔の力に執着した男でもある。
許せない、という自分と、この男がいなければ何も出来なかった無力なあの日の十二歳の少女が対面する。
十二歳の少女はこの男によってようやく炎魔になった。炎魔にならなければこの血筋に意味はない。たとえ暗殺が廃れ、誰も炎魔を必要としなくとも、炎魔の血を絶やしてはいけなかった。この血はもしもの時のために。この国が転覆し、独裁者が現れ、世が荒れた時のための救済策として存在する必要があった。だから、母親は人殺しをした事がなくとも炎魔であったし、祖母も数えるほどしか人を殺していなかったと言う。
いわば世界の抑止力。それが炎魔の必要性であった。だが、この街はどうだ。暗殺者がはびこり、悪にも善にもどちらにも等しく死が訪れるこの街には、混沌しかない。そこに人の意思が介入し、誰かのために人殺しを行う合理性は存在しない。
もう誰かのために活きなくっていい時代が来たのだ、と祖母は喜んでいた。この世が闇に染まっても、炎魔が要らないのならばそのほうがいいと。炎魔の存在なんて自分の生きているうちに消え去って欲しいと。そんな祖母の願いは叶わなかった。母親の願いもそうだ。伸び伸びと生きて欲しいという意味で名付けられた本来の名前はシャクエンの呪縛の名に塗り固められもう自分でも本当の名前を思い出す事が出来ない。
「……分からなくなってしまった。殺したいと思っていられた時期が、もう随分と懐かしく思える」
それが本心だった。もう分からない。殺しが正しいのか正しくないのか。この世界に自分が必要なのかそうでないのかも。
『オレはお前のお陰でいい目が見られた。感謝してるぜ』
どうせ上辺だけの感謝。シャクエンはしかし、ああ、この男も自分を捨てるのだな、と感じていた。だとすればもう自分が炎魔でいる意味なんてないのではないか。炎魔としてバクフーンの〈蜃気楼〉を操り、こうして逃げている事さえも無意味ではないのか。
その時、不意に〈蜃気楼〉の前足に銃弾が掠めた。〈蜃気楼〉がバランスを崩しつんのめった際にその身体に一発、二発と弾丸が食い込む。〈蜃気楼〉が苦悶に鳴いた。
「〈蜃気楼〉! 炎で……!」
即座に狙撃手を焼くが殺しても殺しても果てがない。この世界のように、いくら足掻いても果てがなかった。
投光機の光がシャクエンと〈蜃気楼〉を映し出す。〈蜃気楼〉の炎熱の光学迷彩を無効化する光だった。もうここまで追い詰められた。シャクエンは息も絶え絶えに投光機を睨み据える。自分に出来る精一杯の抵抗。その光の向こうから歩いてくる人影があった。
シャクエンは〈蜃気楼〉と共に吼える。向かってくる者は敵しかいない。
「青の死神……」
「まだ生きていたか。しぶとい奴だ」
冷徹な声にシャクエンは戦闘本能を研ぎ澄ます。このまま殺し合っても意味がない。もうオウミは高飛びの準備を始めているし、この結果がどうなろうとも誰の感知するところでもない。せいぜい、この二日間の息苦しさを感じていた人々が枕を高くして眠れる程度。
そんな罪悪に塗れたこの街に何の価値がある? この背徳都市に安息を与えたって仕方がない。
「殺しに来るなら来い。俺達の意味は、結局そこにしか集約されない」
アーロンは立ち止まり、シャクエンと対峙する。この男も自分と同じく暗殺者。どのような過去があろうと知らない。自分が生きるのに他の動物を殺して食う事に興味がないように、ここで行われるのは獣同士の喰い合いだ。
シャクエンは〈蜃気楼〉を操り、弾かれたように動き出した。炎熱地雷を設置し、アーロンが少しでも動けば起爆するようにしてある。アーロンは最早自分に向かって猪突する以外に回避する術はない。しかし真正面から愚直に来れば、〈蜃気楼〉の炎の腕の前に倒れ伏すしかない。
どう足掻こうが、真っ向勝負は避けるしかないはずだ。先ほどのような不意打ちももう通用しない。アーロンの詰みは見えた、とシャクエンは感じたがアーロンは何ともっとも愚直な手段に出た。ピカチュウを繰り出して真正面から〈蜃気楼〉と撃ち合おうと言うのだ。打ち負けるはずがない。シャクエンは〈蜃気楼〉に命じる。焼き尽くせ、と。
襟巻き状の炎が迸り、絶対包囲の陣を敷く。最早動きは変えられまい。勝った、とシャクエンは感じたが突如として〈蜃気楼〉の動きが鈍った。放とうとする炎の拳の勢いが削がれ、その体表に電気が走っている。麻痺状態だ。
しかし何故? 何故今なのか。シャクエンの疑問にアーロンが応ずる。
「時限式の攻撃が使えるのは、炎魔だけじゃない」
まさか先ほどまでの戦いの中で既に仕掛けていたというのか。〈蜃気楼〉の身体のどこかに、電気の時限爆弾を仕掛けた。いつ? と考えていると一つだけ考えられる時があった。
最初の電気ワイヤーが〈蜃気楼〉に絡みついた時だ。あの時は炎で焼かず〈蜃気楼〉の力任せに振り解いた。あの時、時限爆弾を〈蜃気楼〉の身体に仕掛けるチャンスがあった。
「第二ラウンドをするつもりはなかったが、こういう形で生きるとはな」
アーロンが〈蜃気楼〉の攻撃を掻い潜って自分へと肉迫する。最早止める術はない。アーロンの――死神の腕が自分の首筋へとかけられた。
抵抗する気力もなかった。二度目だ。もう敗北は決定した。
「死を恐れないのか」
静かな問いかけにもシャクエンは自嘲気味に応じる。
「私に、元々生きる価値なんてないもの」
「そうか。ならば、あいつが悲しむだけだが」
誰が悲しむというのだろう。自分の死に心を痛める人間なんてこの世にはいない。
その時、声が響き渡った。
自分の名を呼んでいる。
「シャクエンちゃん!」
目を向けるとメイがこちらへと駆け寄ってきていた。その足をアーロンの一声が制する。
「来るな! 止まれ!」
メイは厳しい声音に立ち止まった。
「それ以上踏み込むのならば、お前はこいつの人生を背負い込む事になる。もう、後戻りは出来んぞ」
一般人が暗殺者の人生を背負うはずがない。シャクエンは半ば諦めていたが、メイは返す。
「それは違いますよ」
何とメイはアーロンの制止を振り切ってこちらへと歩み寄ってくる。思わずシャクエンが声にした。
「来ないで……」
メイがぴくりと止まる。その姿が自分を切り崩しているように映った。どうして、何もない自分に優しく出来るのか。利害も全く見えない。こんな関係はあり得なかった。
「私に、あなたのような人間に返せるものなんて、何もない……」
来ないで欲しい、と切に願う。もし来るのならば、自分は……、この世界に絶望していたシャクエンは希望を持ってしまう。やり直せるのではないか、という希望。あの日、十二歳の何も知らない少女の頃のように未来を信じられるのかもしれないという無垢な心に。
メイはしかし迷いなく歩みを進めた。自分の人生を切り崩してでも、シャクエンのために尽くす、とでもいうようにその眼差しには光が宿っている。
「シャクエンちゃん、だって、もうあたし達、友達じゃない」
友達、という言葉が理解出来ない。本当のところ、それが何なのか分からない。しかし、溢れ出す感情が言葉にする。頬を伝う熱となって、シャクエンの気持ちを代弁する。
――生きたい、と。
アーロンの手が緩まった。シャクエンはその場に倒れ込む。それを支えたのはメイだった。
「シャクエンちゃん……。これ以上、傷つかないで」
優しい言葉は毒だ。それは自分に希望を持たせ、最後には裏切るのだ。
しかし、メイの声には打算も何もない。ただシャクエンの幸福を切に願っている響きだけがある。
「どうして……。私、本当に何も返せない。空っぽの人間なのに」
「空っぽだとか言わないで」
メイは何度も繰り返す。空っぽだと言わないで欲しい、と。
「これが、暗殺者同士の喰い合いの結末か」
アーロンが呟き、ホロキャスターに声を吹き込んだ。
「見ているんだろう? ハムエッグ。事態は収束した。射線を引っ込めろ」
ハムエッグは映像を観ながら信じられない心地で呟く。
「しかし、アーロン。まだ脅威は去っていない」
その抗弁をアーロンは当たり前のように言い返す。
『バクフーンは封じた。俺の射程に入っている以上、いつでも炎魔を殺せる。この状態で勝敗の有無を言い聞かせなければならないほど、お前は間抜けか?』
ナンセンスだった。ハムエッグは全部隊に通告する。
「ハムエッグより達す。総員、退却せよ。情況は終了した」
その一声でささくれ立ったこの街の夜は終わりを告げた。シャクエンをいつでも射殺せたスナイパー達が退いたのを確認してから画面の中のアーロンは後頭部を指差す。
『俺を狙っている奴も退かせろ』
さすがに抜け目がない。自分も暗殺対象に入っている事を理解した上での行動だったか。ハムエッグはしかし、だからこそ解せないと感じていた。今回、炎魔の収束は完全なイレギュラーに頼った行動だ。波導使いアーロンの作戦にしてはずさんである。
「アーロン。何を信じてこんな博打に出た? 君と炎魔、両方を殺してなかった事にも出来た」
『そうすると、二番手がいなくなって戦いは激化する。お前はそれほど馬鹿じゃない』
違いないがそれだけではないだろう。アーロンがただ単に炎魔を殺すだけならば可能だったのだ。どうしてメイを使ったのか。
「そのお嬢ちゃんに、随分と心酔しているのが分かるよ、波導使い」
その言葉にモニター越しでも分かるほどアーロンは嫌悪を浮かべる。
『勘違いをするな。俺は勝てる方法を取っただけだ』
どうだか、とハムエッグは笑う。カウンターにいたラピスが画面を指差した。
「お姉ちゃんだ!」
ラピスは随分とメイを気に入っているようだ。ハムエッグは恰幅のいい身体を揺らして、「こいつはいい」と失笑する。
「暗殺者に好かれるお嬢ちゃんか。面白いところではある。その彼女自身にも秘密があるとなれば、余計に」
ハムエッグは手にしたデータ端末に視線を落とす。ここ数日で拾い集めた「メイ」という少女に関するデータがあった。もしもの時の切り札にするつもりだったが、まだ使う機会はなさそうだ。
「まだ、ただのメイという女の子として使おう。彼女の真の意味が発揮されるのはこれからだ。それまで泳がせておこうじゃないか」
マイクの音声をオフにして放った言葉にラピスが応じる。
「お姉ちゃんは、ラピスのお気に入りのままでいいの?」
首を傾げるラピスの頬を撫でてやり、「そうだよ」と答える。
「まだ、あの子は自分自身にも気づいていない。まだ、ラピスのおもちゃだ」
アーロンが、『ときに、ハムエッグ』と声を吹き込む。ハムエッグは再度マイクの音声をオンにした。
「何かな?」
『とある人物の行動を全て制限しろ。この街から逃がすな』
「もうやっているよ」
ハムエッグは視界の片隅で受付カウンターと押し問答を繰り返すオウミの姿を捉えていた。本当ならばリニアでジョウトにでも渡っている頃合のオウミだがハムエッグの情報処理によってこの街から物理的に出られないようにしてある。
『追いつけるか?』
「死神の足ならば二十分もかかるまい」
アーロンはその場をメイに任せ、電気ワイヤーを使って画面から消えた。ハムエッグは鼻で笑う。
「まだ、捨て切れていないようだな、アーロン。人らしさ、という部分を」