第二十六話「火炎夜」
「エレキネット」を用いてアーロンは屋上に足をつけないように地表を伝う。
ピカチュウから発せられる電気のワイヤーはいざとなれば緩衝材になる優れものだ。だからこそ、この技をピカチュウに組み込んである。アーロンは考えを巡らせる。どうすれば炎魔を殺せるのか。あのバクフーンの攻撃網を掻い潜り、炎魔の首筋を捉えるのはほとんど不可能に近く思える。しかし、自分にはそれ以外の勝機は見出せそうになかった。バクフーンを相手取るには相性が悪い。やはり本体狙いしかあるまい。
「こちらの動きを予測されていれば終わりだな」
アーロンは地面に降り立つ。シャクエンから随分と離れたつもりだった。しかし、突如として炎熱が湧き起こる。アーロンが飛び退ると炎の渦が巻き起こってアーロンを絡め取ろうとする。
「張っていた、というわけでないな。自律的にバクフーンを動かしている」
師父のルカリオに近い戦い方だ。ならば対応策も見えてくる。
本体の近くにポケモンはいない。防御がまるで度外視されている戦い方だ。一秒でもバクフーンの戻ってくるのが遅れれば本体が危うい。かといって本体が動き回ればいいわけでもない。この場合、シャクエンはほぼ動かず、バクフーンだけを相手の送り狼に繰り出すのが正しいはずだ。
「近くにバクフーンはいるが、本体は動いていない、か」
不可視とはいえ存在はしている敵。ならば攻撃のしようはある。波導の眼を用いてアーロンは周囲を探った。バクフーンの移動痕には炎熱が残っている。炎のポケモンを操る功罪とも言えよう。強力な一撃と追尾を約束する代わりにその移動は筒抜けとなる。
「次は、そこか!」
ピカチュウが電流を放つ。予測地点に現れたバクフーンが青い電流を満身に受けた。今のでダメージになる、はずであったがバクフーンはほとんどその攻撃をいなす。全身から火の粉を滾らせ、回転しつつまたしても陽炎の中に隠れた。周囲の空間の熱を操り、一時的な不可視の状態を作り出す。その際に移動し、相手へと肉迫、炎の一撃を食らわせて殺す。炎魔のやり方は確かに暗殺術としては優れている。
だが、それは同時に対暗殺者用ではないという事だ。暗殺術として極めれば極めるほど、同じ土台の敵にとってしてみれば、その弱点が浮き彫りになる。
アーロンは電気ワイヤーを手繰って屋上へと躍り上がった。だが屋上は既に炎の乱舞する独壇場。勝てる見込みは薄い。しかしアーロンの戦法からしてみれば相手を視界の中に捉えなければ意味がないのだ。
屋上に足を着いた途端、熱量が膨れ上がる。アーロンは足に波導を込めた。
「ちょっとだけ無茶をするぞ」
そう告げるとアーロンはほとんど重力を無視して跳ね上がる。一時的に脚力を上げ、最大の移動を可能にする技だった。しかし自分には放出型の波導は合っていない。当然、負荷が酷かった。しかし今は、とアーロンは右腕に波導を纏いつかせる。その他の部分に使っている肉体強化の波導を全て切った。
直下にシャクエンの姿が映る。この跳躍による目的は一つ。シャクエンの射程へと入る事だ。だが当然の事ながら弊害がある。
「来て、〈蜃気楼〉」
シャクエンの一言でバクフーンが立ち現れる。ここまでは全て計算通りだ。
バクフーンが次にどのような技を選択するかでこの局面は変わってくる。バクフーンは降りてくる自分に対してはその一撃で充分だと判じたのか腕に炎を纏い付かせた。一撃でももらえば確実に消し炭になる。だがアーロンからしてみればそれでさえも計算の内だ。
降り立つ前に灼熱の腕がアーロンの頭部を捉えようとする。その時、声にした。
「ピカチュウ、エレキネットを俺の背後に張れ。派手になるぞ。ボルテッカー!」
瞬時にアーロンの背面に電気の網が張られる。直後、ピカチュウの身体が青い電流を纏いつかせ、爆発的に膨れ上がった。自身に膨大な電力を纏いつかせて相手へと捨て身の対当たりをする強力な電気技「ボルテッカー」。それをピカチュウはアーロンから離れる事なく放出した。アーロンの腕に電流が駆け巡る。通常ならば腕が焼け落ちているが、アーロンの腕は健在だった。
そのまま何とアーロンはバクフーンのパンチと打ち合ったのだ。衝撃波が身体をなぶるが事前に張っておいた「エレキネット」が減衰する。アーロンはバクフーンの炎の拳を相殺する、それだけでよかった。バクフーンが攻撃後に僅かに硬直する。それだけの技を放ったのだから当然だろう。ポケモンの技は相殺すればそれなりの硬直時間が発生する。ポケモンバトルならば一瞬の硬直でトレーナーには関係がないほどだがこれは殺し合いだ。その一瞬が明暗を分ける。
バクフーンの硬直の隙をつき、アーロンはシャクエンへと肉迫した。その一秒にも満たない僅かな、針の穴のような隙をアーロンは見逃さずシャクエンの射程へと潜り込んだのだ。シャクエンは当然、バクフーンを使っているために全くの想定外、という様子だった。アーロンは首根っこを押さえ込みそのまま押し倒す。
バクフーンがそれに気付いて振り返ったが、「動くな」と制した。
「動けば、即座に電流を流して殺す」
アーロンのコートはそこらかしこが焼けていたが肝心の右腕には傷一つない。波導を固めて右腕に纏いつかせる。それによってピカチュウの「ボルテッカー」から右腕を保護し、一時的にポケモンの技と打ち合えるレベルまで強化する。暗殺術ならではの波導の使い方だった。
「二つだけ聞こう。オウミの命令で殺すのは、俺だけ、のはずだな?」
シャクエンは自分の首筋に死神の鎌がかかっている事を分かっているのかいないのか、感情の読めない黒曜石の瞳でこくりと応じる。
「もう一つ。言い残す言葉はあるか?」
炎魔ほどの実力者だ。その健闘には暗殺者なりに称えるものがある。アーロンは改めて聞いたがシャクエンは素っ気なかった。
「何も」
波導を読む。嘘は言っていない。本当に、何一つ言い残す事はない、と思っているようだった。アーロンは一つ息をつき、右手に波導を集中させる。ピカチュウに電撃を命じようとした、その時だった。
ふわりとこの戦場に浮き上がってきた影があった。アーロンはそれを目にする。
メロエッタが青の死神と炎魔の戦場に舞い降りて口を開く。
「何だ――」
アーロンがそれに対応する前にメロエッタから放たれたのは音波攻撃だった。音波の衝撃波がアーロンを襲い身体がシャクエンから引き剥がされる。通常ならば攻撃を受けたところで吹き飛ぶ醜態を晒さなかったのだが直前に足に波導を込めたのが災いした。アーロンは容易く屋上の縁まで吹き飛ばされて背中を強く打つ。
一瞬だけ呼吸が出来なくなった。
「何だ……。何で、あの娘のポケモンが……」
息も絶え絶えに声にするとシャクエンは立ち上がり、バクフーンを呼びつける。そのまま屋上から降り立って逃げていった。
アーロンは追おうとしたがメロエッタの攻撃が想像以上に効いていた。波導を防御に充てていなかったためにほとんど生身に近い。何度か咳き込んでからようやく立ち上がる。
波導の眼を使いシャクエンの姿を探すがもう近くにはいなかった。ピカチュウも周囲を警戒するもののもう意味がないのは目に見えている。
アーロンは電気ワイヤーを使ってビルから飛び降り、着地する。メロエッタがいつの間にか自分に掴まって降りていた。その先にいた人影にアーロンは厳しい声を浴びせる。
「何故、邪魔をした」
メイは押し黙っていた。拳をぎゅっと握り締めてアーロンを見据えている。何も答えないメイにアーロンは業を煮やしてその首根っこを押さえた。メイが苦悶に顔を歪ませる。
「答えろ! 何故、邪魔をした!」
あと少しで殺せたのに、台無しであった。メイは苦しげに声を発する。
「だって……、だって、シャクエンちゃんとアーロンさんが争うなんて、見たくないから……」
「そんな理由でか? そんな理由で、あいつを解き放ったのか?」
問い詰めるアーロンに対してメイは、「いけませんか!」と喚く。
「そんな理由で邪魔しちゃ、いけなかったんですか!」
ほとんど涙声のメイにアーロンは舌打ちをして手を離す。メイが咳き込んで蹲った。
「……殺し損ねれば、それだけ被害が増える。暗殺者が相手の前に顔を晒す時は殺す時だけだ。だというのに逃がした。その意味が分かっているのか?」
「わ、分かりませんよ! あたし、暗殺者じゃないですし!」
「俺とお前だけならばまだよかった。最悪の事態を考えろ。店主や、お前の気に入っているラピスが次に狙われる可能性だってあるんだぞ」
そう口にするとようやく自分のした事の大きさが分かったようだった。メイは声を震わせて頭を振る。
「でも! あたし……、あたしは……」
「目の前の争い事を収める事だけを考えていては、結局何も救えない。お前のやった事は、炎魔のやり方を容認したのと同じだ」
責め立てる口調にメイは顔を伏せた。アーロンは考えを巡らせる。
今夜のうちに決着をつけなければ炎魔は次にどのような手に移るか分からない。その場合、アーロンはこのヤマブキに居られなくなる可能性がある。それだけは避けなければならなかった。
恥も外聞も関係がない。今さら恥の上塗りを恐れて被害を増やすわけにはいかなかった。
メイの手からホロキャスターを引っ手繰り通話する。通話先の相手はすぐに出た。
『おや、アーロン。かけてくるという事は、事態は最悪の方向に転がったのかな?』
ハムエッグの挑発にいちいち乗っているのも面倒だった。
「手短に言う。炎魔を逃がした」
『青の死神がそう易々と殺そうとしてきた相手を逃がすはずがない。お嬢ちゃんだね?』
全部お見通しというわけか。気に食わなかったがアーロンはハムエッグを利用するしかない。
「情報を行き渡らせろ。炎魔を今夜中に葬り去らなければ被害が増えるだけだ」
『こういう時に困るだろう、アーロン。カタギの人間を装っているのは。いい加減、もう完全に裏に回るつもりは』
「今は! お前の言葉繰りに返答しているのも惜しいと言っているんだ! いいか? 炎魔を逃がしたという意味、お前にならば理解出来るはずだ」
いつになく切迫した声を出したせいだろう。ハムエッグは通話越しにため息をつく。
『らしくないな、アーロン。平静を装っていないお前の声なんて久しく聞いていなかったが。それだけ事態は深刻か』
「俺の不始末だ。俺がケリをつける。炎魔の情報を行き渡らせてお歴々に警戒させろ。炎魔を誘い込んで殺す」
『誘導しろというのか。高くつくぞ』
「今回ばかりはどれだけ足元を見ても構わない。スノウドロップを出せるか?」
『ラピスを出すのは反対だ。街の人間に余計な心配を撒く事になる』
「もう随分とまずい方向に転がっている。最終的な利害を計算している間にも、炎魔は次の手を打つ」
アーロンからしてみれば一刻を争う。ハムエッグはようやく承認した。
『……分かったよ、アーロン。死んでもいい駒を使って炎魔を誘導しよう。お歴々も自分に火の粉が振るかかるよりかは、青の死神一人に最終的な被害が行くほうが効率的と考えるに違いない』
「何分で出来る?」
『十分はかかるな。お歴々が重い腰を上げるのに時間をかければ、もっとだが』
「ラピス・ラズリのカードを切れ。それで相手は重い腰を上げる」
『おいおい、それではわたしだって立場がないぞ。今言ったばかりだろう。ラピスは使えない』
「ブラフでいい。実際に使わなくっても脅しのカードに使え、と言っている。どうせお歴々からも巻き上げるんだろう? 今回、お前の損はなしだ」
アーロンの声にハムエッグは鼻を鳴らした。
『自分の責任だからって焦る気持ちは分かる。だが、らしくないな、アーロン。もっと冷静になれるものだと思っていたよ』
「俺もそうだが、実際はこうだ」
恥を認めて事態が好転するのならばいくらでも頭を下げよう。それが伝わったのかハムエッグは端末のキーボードを叩いた。
『いいだろう。今、お歴々に連絡を回している。きちんとラピスのカードもちらつかせた。炎魔の現在地は?』
「俺の家から半径二百メートル以内のビルだな。そこから北に逃亡した。炎魔の移動速度は知らないが、あのバクフーンを使っているなら車と同じくらいだと考える」
『速いな……。だが用意出来ないレベルではない。駒は配置完了した』
どうせハムエッグの事だ。最初からこうなる事を予想して駒の配置を終わらせていたに違いない。
「銃弾でも何でもいい。奴の足を削げ」
『もう始まってるよ。こりゃ、一番忙しい夜になりそうだ』
「これが何日も続く事を考えればまだ安い出費だ。車を回してくれ」
『もう手配してある』
ホロキャスターの現在地から逆探知したのだろう。路地を出ると黒塗りの車が待機していた。
「よし、俺が出るから、急発進をかけて欲しい。北側の――」
そこでコートを掴んでくる力を感じてよろめいた。振り返るとメイが自分のコートを掴んで離さなかった。
「……離せ」
「離しません……」
「離せと言っている」
「アーロンさん、シャクエンちゃんを殺す気なんですよね」
「そうだ」
全く迷いもせずにアーロンは答える。メイは余計に力を込めた。
「だったら、あたしも行きます」
「邪魔になる。ここにいろ」
「でも! あたしはシャクエンちゃんが何の考えもなく、アーロンさんを殺せるなんて考えられないんです!」
アーロンは舌打ちをしてメイを引き剥がした。
「おめでたいのも大概にしろ! もう殺し合いは始まっているんだ! 俺がやれば、事態はここまで飛び火しなかった! それを広げたのはお前の責任でもあるんだぞ!」
ここまで言えばもう何も言い返せないと感じていた。しかしメイは声を張り上げる。
「でも! シャクエンちゃんは果てがあるってようやく知ったんですよ! 終わりがあるって知ったんなら、まだやり直せるはずです!」
「何を知った風な口を……。俺達暗殺者に終わりなんてない」
「終わらせます! 無理やりでも、あなた達のやり方を! じゃなきゃ、悲し過ぎる……!」
メイの頬を涙が伝う。どうしてこの娘は他人のために泣けるのだ。アーロンの胸に突き立った疑問はそれだった。どうして誰かのためになれる? 殺し屋稼業なんてものを目にして、どうして誰かを信用出来るのだ。
「……今度邪魔をすればお前も殺すぞ」
だからか、自分でも口からついて出た言葉は意外だった。何を言っている? こんな小娘など無視して自分の仕事を遂行すればいいのに。
「それでもついて来るか?」
アーロンの声にメイは強く頷いた。
「絶対に、シャクエンちゃんを救いたいから」
彼女は無理だと分かっているのかもしれない。心のどこかで分かっていながら、こうして自分について来ようとしている。一体何を見ている? 何が、この娘にこれほど希望を抱かせているのだ?
アーロンはメイを車に押し込み、運転手に命じた。
「急発進をかけてくれ」
「で、ですが、その子は」
「こいつは見届けたいと言った。だからついて来させる」
二言はないと語気を強めると運転手は黙ってアクセルを踏んだ。ヤマブキの喧騒を引き裂くように黒い車が走り出した。