第二十三話「クロスファイア」
「お姉ちゃんは来ないの?」
裏から入るなりラピスがそう尋ねる。カルピスを飲んでおり傍目には隙だらけだが、少しでも触れようとすれば瞬時に凍結攻撃で殺されかねないのはこの街に精通する人間ならば誰もが知っている。
「いらっしゃい。アーロン。お嬢ちゃんは一緒じゃないのか」
「どいつもこいつも、あの娘の事ばかり言う」
ハムエッグは恰幅のいい身体を揺らした。
「いい子だからねぇ。君と違って嫌われるような事は言わない」
「好かれようとも思っちゃいない」
「何か飲むかい?」
ハムエッグがボトルを手に取るがアーロンはその所作の嘘くささのほうが目についた。
「ハムエッグ。もてなしはいい。本題に移ろう」
ハムエッグはカウンターの中から書類を取り出してアーロンに手渡す。
「これ全部か?」
三十枚近くの殺し屋のファイルがある。ハムエッグは、「それでも減ったほうさ」と応じた。
「青の死神を殺せるとなれば、我先にと思っている奴らが多い。君は自分の思っているよりも過小評価されているようだね」
この命知らず全員を相手取れば消耗戦になって自分でも危険かもしれない。しかし、経験則で知っている。殺し屋は共謀しない。相当な利益がない限り、同じ目的のために組むなんて事はあり得ない。
「三十人を一日一人殺せば一ヶ月だな」
「一日に一人は殺せると思っている辺り、まだ青の死神は鈍っちゃいないんだと思うよ」
ハムエッグの軽口を聞き流しアーロンはファイルに目を通す。何人か知った顔があったが、この業界では知人であれ翌日には裏切れる。たとえ何かのきっかけで組む事はあっても殺し合う事に何の躊躇もない。
「だが、その三十人、ほぼ全員が今待機中、とでも言うのか。動き待ちだ」
「存じている。炎魔、だな」
アーロンが声にするとハムエッグは、「困ったもんだよ」と口にする。
「炎魔を子飼いにするなんて、なかなかに攻めた事をやってくれる。街のバランス役としては正直そこまで強力な殺し屋が投入されるのは想定外だ」
最強の名はスノウドロップだけで充分。それがハムエッグの考えなのだろう。それだけではなく、炎魔、つまり炎のポケモンがラピスにとって相性上都合が悪いのもある。
この状況でハムエッグの言いたい事は一つ――。
「俺に消せと。それがこのファイルとの交換条件か」
手元のファイルを指差すとハムエッグは、「苦労はしたんだ」と呟く。
「そこまでの情報を集めるのにね。青の死神を殺すレースにわたしは加担しない。スノウドロップはフェアじゃないからね」
どうだか、とアーロンは感じる。スノウドロップはここぞという時にしか使われない。このレースがまだ安全なのだとハムエッグは高を括っている。
「自分に噛みついてくる命知らずがいないとでも?」
「この街で、それなりに分かっている人間ならば、わたしが動く事もないだろう。逆に情報屋を斡旋してもいい。レースには参加しないが、応援はしてもいいと言っているんだ」
「蚊帳の外で見守るだけか。それはそれで、趣味が悪いな」
最強を手にしておきながらレースに参加しないなど。ラピスは声を振り向ける。
「アーロン。お姉ちゃんはいつ来るの?」
「あの娘の事なんて俺は知ったこっちゃない」
瞬間、空気が殺気めいた。ラピスの纏っている少女の大人しさが掻き消え、生まれたのは殺し屋としての冷酷さだ。
「いじわるしないで。お姉ちゃんは?」
「ラピス。わがままを言っちゃいけない」
ハムエッグが一言制すると殺気は凪いでいった。今の瞬間、殺されてもおかしくはなかった。
「すまないね。よほどお嬢ちゃんの事を気に入ったんだろう。次に来る時は連れて来るといい。お礼は弾む」
「あいつの保護者じゃないんだぞ」
「それでも、何かしら用事が出来るさ。君にはね」
ハムエッグはメイに関する事を知っているのか。歌とフォルムチェンジの関係まで。だが、勘繰れば余計な出費を増やす事になる。ハムエッグの情報は命と交換となってもおかしくはない。だから余程ではない限りハムエッグを頼る事はない。
「どうだかな。あの娘に関して、お前に聞けば分かる事なんてありそうにないが」
そうかな、とハムエッグは微笑む。アーロンはファイルを手に、「いつもの口座に振り込んでおく」と述べた。
「それでいいんだろう?」
「ああ。プラズマ団の残党も鳴りを潜めたし、こっちとしては青の死神が役に立ってくれているのは分かっているんだが理解者が少ないのは自分の努力不足だと思ってくれ」
「どうせ、理解してもらおうなんて思っちゃいないさ。俺の稼業は殺し屋だからな」
ファイルを手に裏から出ようとするとラピスが声を投げた。
「お姉ちゃんを連れてきてね。絶対だよ」
応じずにアーロンはその場を立ち去った。
ヤマブキを回っている間に日が傾き始めた。メイはシャクエンに尋ねる。
「シャクエンちゃん。よかったら、その、家に来ない?」
その提案をしたのはシャクエンはどこに帰るのかまるで分からなかったからだ。この少女はもしかすると帰る場所なんてないのかもしれない。だからこの街の終わりを目指していた。タワーで見た横顔のような寂しさを、彼女にはもう味わって欲しくなかった。
「いいの?」とシャクエンは聞き返す。メイは微笑んだ。
「いいに決まっているよ。あっ、でも同居人がうるさいかな」
というよりも自分が押しかけたのだが。メイはアーロンに連絡しておくべきか悩んだ。
「まぁでも、あの人だって間借りしているみたいなもんだし、店主さんにだけ言伝しておくかな」
ホロキャスターで店主に繋ぎ、友達を連れて来るとだけ言っておいた。店主は快諾したがやはり疑念が残るらしい。
『アーロンには言ったかい?』
「やっぱり、あの人に言わないと駄目でしょうか?」
『駄目って言うか、怒るんじゃないかな?』
メイは少し考えた後、「でも友達ですよ?」と口にする。
「友達を連れてくるだけです。上まで上がらなければいいんでしょう?」
『まぁ、屁理屈めいているけれど……』
渋る店主にメイは、「大丈夫ですって」と言って通話を切った。
「いいって」
シャクエンは、というと年代もののポケギアでメールメッセージを送ったらしい。メイはそれを見て、「古いの使っているんだ」と窺う。
「うん。家族でこれを使うのは義務だから」
ポケギア自体、あまり見かけなくなった今となってはその義務というのも分からなかったが、メイは納得する事にした。
「おいしいコーヒーと、それにおいしい料理があるよ」
メイは既に浮かれ調子である。アーロンの事は懸念事項ではあったが、何だかんだで許してくれるだろうと。
「コーヒーは、苦いの飲めない」
「ミルクをたっぷり入れれば大丈夫だって」
シャクエンの手を引いて店に帰ってくると店主が出迎えた。相変わらず店には人気がない。
「おや、綺麗なお嬢さんじゃないか」
店主の声にメイは、「そうなんですよ」と同調する。
「こんなに綺麗な子には会った事なくって。ヤマブキってあたし好みの子が揃っているんですかね」
シャクエンは所在なさげにしている。メイは椅子を持って来て座るように促した。
「ねぇ、メイちゃん。あの子、ちょっと変わっているみたいだけれど」
早速、店主が怪訝そうにする。メイは、「変わっていませんよ。ただの女の子です」と応じた。
「何だか、どこかで見たような気がするんだよなぁ」
店主の声にメイは首を傾げた。
「綺麗だから、モデルとか?」
「うぅん。そういうんじゃなくって、何か、このお店をやる前に出会ったような、そんな気が……」
「もう、店主さん、ナンパですか? 駄目ですよ、お客さんに手を出すなんて」
「いや、多分違うと思うけれど……」
からかってやりながらメイはコーヒーをシャクエンに出す。シャクエンはおっかなびっくりにカップを手に取った。そのまま飲み干そうとするのでメイはミルクを入れてやる。
「こうすると甘いよ」
シャクエンはコーヒーを見据えてから一気に飲んだ。コーヒーの飲み方としてはいささか下品だが、シャクエンがすると何故か上品に映る。飲み終えるとシャクエンが呟く。
「おいしい」
「でしょ? ほら、店主さん、おいしいって」
「コーヒー豆にはこだわっているからね。おいしいのは当然だよ。何でだかお客は来ないけれど」
自虐気味にこぼした店主と笑みを交わしているとシャクエンが階段へと目線を向けた。
「上があるの?」
「ああ、うん。上であたしは住んでいるんだけれど」
「行ってもいい?」
初めて、シャクエンが自分からそれらしい質問をしてきた。メイは無下にするのも悪いと感じて首肯する。
「うん。いいよ」
「おい、メイちゃん。君がよくってもアーロンが」
「いいんですよ。あたしの友達って言えばアーロンさんも何も言えないだろうし」
そういうものかねぇ、と店主が疑いの目を向けてくる。メイはシャクエンの手を引いた。
「階段を上がるとトラックが突っ込んでいる広告塔に辿り着くんだ。そこが家なの。変でしょ?」
シャクエンは言葉を発しない。どうしてだか張り詰めている。メイはアーロンの事を心配しているんだと感じた。
「大丈夫だって。アーロンさんはそりゃ、見かけも内面も怖い人だけれど、ほら、根はいい人、みたいな」
扉を開けるとアーロンがちょうどソファに座って書類を整理しているところだった。メイに視線も振り向けず、「ノックをしろ」と注意する。
「すいません。でも、今日は友達を連れて来たもんで……」
「友達? また厄介事を」
アーロンが顔を上げる。その瞬間、その目が見開かれた。驚愕に震えるアーロンはソファから咄嗟に飛び退り、モンスターボールに手をかける。
「……何故、ここが分かった?」
張り詰めた声にメイは、「もう、大げさだなぁ」と返す。
「女の子苦手なんですか? そんなリアクションなんて――」
「見つけた」
シャクエンが発した声にメイは顔を振り向ける。シャクエンは片手を掲げると内側に繰った。直後、アーロンの放ったモンスターボールからピカチュウが飛び出し、メイを蹴りつける。
メイはほとんど転がる形でシャクエンから吹き飛ばされた。
「何するの――」
そこから先の言葉を呑み込んだのは、シャクエンの傍にいつの間にか現れているポケモンを目にしたからだ。
黒い体表に首筋から襟巻き状の炎が噴き出している。かぁっと口腔を開いたそのポケモンはピカチュウの電撃を受けても怯みもしない。
アーロンが舌打ちし、ピカチュウを手元に戻す。
「まさかそちらから来るとはな。炎魔」
アーロンの言葉の意味が分からずメイは両者を交互に見る事しか出来ない。
「何言っているんですか! シャクエンちゃんは……」
「離れろ! 死にたくないのならな!」
いつになく本気の声音にメイは覚えずアーロンのほうへと歩み寄っていた。シャクエンは炎のポケモンを連れたまま片手を払う。すると炎が一直線にアーロンへと突き進んだ。アーロンは手を薙ぎ払って電撃を起こす。床を捲れ上がらせその衝撃波で炎を防いだかに思われたが、炎は意思を持ったかのようにのたうち、アーロンへと突き刺さろうとする。
アーロンは咄嗟にメイの肩を引っ掴み、ピカチュウへと命じる。ピカチュウが電気のネットを発生させて窓を割った。アーロンは電気のネットの一端を掴み、ワイヤーの要領で使用して窓の外にぶら下がる。
直後、トラックの家が内側から爆発した。膨れ上がった火球と高熱が肌をちりちりと焼く。メイはその光景を呆然と眺める事しか出来ない。
「何で……。どうなっているの?」
「無自覚か。それとも奴が洗脳でもしたか。どちらにせよ、居所を知られてこのままでは戦い辛いな」
アーロンはゆっくりと裏路地に降り立つ。メイはトラックの家屋を破砕した影にシャクエンとそのポケモンの姿が映えるのを目にした。
「何で……。シャクエンちゃん……」
「来い。奴から逃げる。密室では奴の独壇場だ」
アーロンが無理やり手を引く。メイはその手を振り解いた。
「いや! アーロンさん! あの子はあたしの友達で、だから、その……」
言葉が出ない。今起こった現実と、自分の思っていたシャクエンとの溝が明言化出来ない事態になっている。
「いいか、よく聞け。奴は暗殺者だ」
その言葉は信じられなかった。暗殺者? 何でシャクエンが?
「このままでは二人とも殺される。逃亡用のルートがある。何も考えずに走れ」
「……嫌です。あたし、そんな命令されるいわれなんて」
「殺されるぞ」
静かながらその言葉には確信があった。メイは巻き起こった現実と肌を焼いた炎の感触にアーロンを信じるべきかシャクエンを信じるべきか悩んだ。だがアーロンがすぐにメイの手を掴んで駆け出す。
「考えている暇なんてないぞ! 死にたくなければ走れ!」
メイは一度だけ振り返った。トラックの家屋が焼け落ちる中、シャクエンはメイを見据え何かを呟いたのが唇の動きで分かった。