第十七話「炎魔襲来」
過度な言葉は毒となる。
その観点から言えば、その場所には余計な言葉はなかった。
液晶テレビが映し出しているのはどこか気だるげな女優の横顔だった。その女優のPVで、まだ売れ始めて時間も経っていない。青い果実だ。その果実を摘み取る権利を持つ人間達が、その場には集まっていた。
政財界の大御所、ベンチャー企業の立役者、老舗企業の好々爺など、名だたる人々が暗い目線を交し合う事もなく、付き人とひそひそと言葉を交わして他の客達と間接的なコミュニケーションを取っていた。店主はポリシーを持って店の切り盛りに精を出していたが、いつしかその気概はなくなってしまった。ここに集まってくる面子が、揃いも揃ってくせ者揃いなのである。表では先駆者、成功者と持て囃される人々も裏では人格者であるとは限らない。この場所では裏のやり取りが頻繁に行われる一種の交換所であった。そのショバ代だけでも二三年は経営出来る。店主はその境遇に甘んじていた。ここで見聞きした事を外に漏らす馬鹿ではない事はここにいる全員の肩書きが証明だ。
店内には穏やかなジャズの調べが流れており、暖色が押し包んでいた。
「で、それは本当なのかね」
口にしたのは大企業の社長である。つい最近、競合相手から殺し屋を仕向けられた、といういわく付きだ。もちろん、殺し屋には殺し屋であった。表立って訴訟だったり、あるいは直訴だったりを申し立てるよりも裏で片付けたほうが速い問題というものはある。殊に殺しとなれば一番に手っ取り早くなおかつ効果的なのが殺しだというのは歴史が証明している。
「はい、確かな情報筋から手に入れました。波導使い……青の死神がそこを根城にしていると」
「無論、草は放ったろうな?」
「ええ。既に」
そのような会話がそこらかしこで起こっている。店主は呆れと共にカクテルを作り上げた。もうほとんど半自動的になっているこの所作に飛びついたのは見ない客だった。
「マスター。あんた作るの早いね」
髪を肩まで伸ばした中年の男だ。この場には似つかわしくないくたびれたコートを纏っている。
「ええ、まぁ。もう開業して十年です。慣れてしまいました」
この喧騒にも、と言外に付け加えると、「そいつはいい心がけだ」と客は微笑んだ。
「ハムエッグからこの場所の切り盛りを任せられて大変だろう? よくやっていると思うぜ」
何とこの客は自分の境遇を知って話しかけてきているのだ。物好きな、と店主は瞑目する。
「……長生きしたければその名前をここでは口にしない事です。あのお方の耳に入れば、それこそ命がありませんよ、あなた」
作ったカクテルを差し出す。客は嘲笑のようなものを浮かべた。
「なんてぇ酒だい?」
「アディントンです。意味は、沈黙」
客は鼻を鳴らす。
「忠告のつもりかい?」
アディントンを呷り、客は全く酔った様子もなく続ける。
「この場で交わされている馬鹿共の密談を聞かなかった事にするだけで、ほとんど一生の安泰を得る。あんた、そういうのもありだって思ってるんだろ?」
「ないと思っていればあなたにお酒を提供もしていませんね」
店主の言葉に客は引きつったような笑みで応じる。
「ご覧、あそこにいるのはデボンの下請けで成功した企業の社長だ。その斜向かいにはホロキャスターの広告代理店の社長、その斜向かいには、さらに奥には、エトセトラ。そいつらこぞって今宵は浮かれてやがんのさ。ある一つの目的を果たしたいがためにな」
「お客様、あまり干渉なさらないほうがよろしいかと」
顔色一つ変えずに忠言する店主に客は、「なるほど」と口にする。
「そういうあんたみたいな鉄面皮だから、ここを任せられてるんだろうよ。絶対の信頼とまではいかないが、あんたに任せれば悪いようにはならない。少なくとも、聞き耳を立てたりするタイプじゃねぇな」
「お客様の会話にいちいち反応するなど三流のする事です。わたしは違う」
「だろうよ。あんたと、あんたの下にいたであろう好奇心を抑え切れなかった連中とはな。王様の耳はロバの耳、って言っても、あんただけは絶対王様を裏切らないタイプだ」
店主は落ち着いた声音で、「勘繰りなら、もう今日は帰られるとよろしいかと」と返した。過ぎた言葉かもしれないが、この客にとってはいい薬となろう。しかし客は心底おかしいとでも言うように笑い始めた。
「いいねぇ。帰れば、か。だが、そういうわけにもいかんのよ。だって今日のステージの主役はオレだからな」
「……言葉の意味が」
そう返そうとした途端であった。液晶テレビに映し出されていた女優のPVが途切れ、ノイズが走ったかと思うと画面が切り替わった。そこに映っていたのはうろたえ気味に周囲を見渡す男達である。
『何だ? ここが青の死神の住処じゃないのか?』
店主も思わず身を乗り出してその光景を眺める。男達はお互いに初見のようだ。相手の顔を見やり、『お前は、あの会社の子飼いの……!』と声を発する。客達もざわめき始めた。その中に見知った陰を見つけたのだろう。一人の客が立ち上がって声を発する。
「ワシの雇った殺し屋が……!」
殺し屋。その名が口火を切られた直後にざわめきは喧騒となった。立ち上がりはしないものの明らかに自分の駒がそこにいる事に焦りを禁じえない人々がいる。長年ここで客商売を続けてきた店主には分かる。誰が、どの殺し屋を雇って、何の目的で放ったのかまで。今宵、青の死神とやらを殺す手はずを整えていた連中が一しきり落ち着きのない目線を交し合っている。
胸中にあるのは一つであろう。
何故?
「いけませんなぁ、ご老体。安い情報屋から買った安い情報と殺し屋じゃ。だからこうしてかく乱されるんです」
振り返って全員に声を発したのは先ほどまで自分と話していた男だった。まさか、と誰もがいきり立つ。
「お前か……! オウミ!」
叫ばれた名前に、「心外です」とオウミと呼ばれた男は手を振る。
「オレは所詮、現職の刑事。さすがに情報網を掻き乱す、というのはいただけない」
「では誰が! 誰が殺し屋共をあの場所に集めた! あれでは潰し合いが始まるぞ!」
杖をついた老人が青筋を立てて喚き散らす。オウミはこの状況下で煙草に火をつけた。店主には匂いで安っぽさが分かる。だがこんな安い煙草を買う男が何故? という感覚であった。
「潰し合い、ねぇ。そりゃ勘違いですよ。潰し合い、なんて起こりません」
「どうして言い切れる! さてはお前、ハムエッグとでも通じて内偵を放ったか!」
老人の客の声にオウミはいやに冷静な声を返す。
「ご老体。あんたでもハムエッグの名を、容易く口にしてはいけない立場のはずですが?」
うっと声を詰まらせる老人に、オウミはにやりと口角を吊り上げた。
「これから始まるのは、皆さんほどの財力を持つ人間でも、二度もお目にかかれないであろう、殺人ショーですよ」
「殺人? 誰が殺されるというのだ。殺し屋共とて馬鹿ではない。お前が仕向けたとなれば、今度狙われるのはお前だぞ」
「だから、馬鹿だって言っているんですよ。殺されにわざわざ声を張り上げたって? 自殺志願にはこの酒場はいささか高いでしょうが」
オウミの飄々とした言葉繰りに苛立ちを募らせた老人が叫んだ。
「もう我慢ならん! そのビルから、ここに来るように命じて――」
「逃げられませんよ、奴らはもう」
その瞬間、ビルの屋上を映し出しているカメラのレンズが歪んだ。叫び声が迸る。一人の男が炎に包まれて焼け死んだ。突然の焼死に誰もが言葉をなくす。その隣にいた殺し屋が悲鳴を発する前に頭部を叩き折られた。何かがいるようであったが全く画面に映らない。その間にも殺し屋が一人、また一人と殺されていく。
その光景に殺し屋の雇い主も、その場に偶然居合わせただけの人間も、全員が放心していた。殺し屋が殺し返されている。しかし何に、というのがまるで分からない。
三分もなかった。三分も経たずに殺し屋達は焼き殺されていた。何かが殺したのは間違いないのに、何がいたのか、誰も明言出来ない。
「何だ……」
「誰もご存知ないんですか? 裏には精通している御仁ばかりだというのに」
オウミの嘲笑に老人が遂に怒り心頭とでも言うように杖を放り投げた。
「オウミぃ! 貴様! 何をした!」
「簡単な事です。今回の青の死神を殺すって一件、オレも噛ませてもらうんでね。デモンストレーションがてらにあなた方の子飼いを潰させてもらいました。オレの持っている駒は一味違うって分かってもらうために」
オウミの言葉の意味するところに全員が震撼する。それはここにいる全員を敵に回してでも、青の死神を殺す、と言っているのだ。
「オウミ、貴様、ただの警官だろう! 何が欲しくなった? 権力か? 金か?」
「どっちも要りませんやぁ。オレは刺激が欲しいんでね。青の死神にも通告しておきましたよ。あんたらみたいな下衆には気をつけろって」
オウミの発言は安易にここから出られる状況を掻き消した。何も言わなければそれこそ沈黙を守っていれば、ただの客として帰れただろうに。店主は視線を背ける。このオウミという男の命はもう半刻もないだろう、と。
「刺激だと……。たわけめ! 貴様のような子飼いの子飼いが、何をすると言うのだ」
「その通り。オウミ、どうしてここで所信表明した? 何も言わずにここにいる連中を殺したほうが賢そうだが」
口を開いたもう一人を嚆矢として恐らく雇い主であった者達の野次が飛ぶ。
「そうだぞ。オウミ、お前が所詮は生かされてるのだと忘れているようだな。金でも権力でもない、刺激などというふざけた言葉でこの場にいる全員を敵に回した。明日までその命がないと思え」
オウミはしかし、余裕を崩す事はない。
「明日まで持たない、ですか。そいつは滑稽な事で」
その余裕が気に食わないのか立ち上がる客もいた。
「貴様、分かっているのか! それとも本当にイカれてこんな事を仕出かしたのか!」
「イカレちゃいませんぜ。イカレたらこの稼業終わりです。いやね、ちょっと可笑しくって」
オウミはくっくっと喉の奥で嗤う。その笑みは全員の神経を逆撫でした。
「嘗めているのか、オウミ!」
「嘗めちゃいませんよ。何で有数の頭脳をつき合わせて結論が出ないんですかね。殺し屋を殺せるだけの実力があるって事は、ここにいる皆さんをリムジンでのお迎えの前にお迎えする事だって可能なんですよ?」
その言葉に全員が凍り付く。まさかの逆転であった。オウミは完全に狙われる立場だったのにも関わらず今の一言で全員を標的に据えた。
「ば、馬鹿な事を……」
「馬鹿な事ですかね? 青の死神は瞬時にルールを破った相手を殺しに行くのは皆さんご承知でしょう? その青の死神とやり合おうって言うんだ。それなりの殺し屋を準備しているのが当然でしょうが」
水を打ったように静まり返る。そんな中、一人の付き人が液晶テレビを指差して悲鳴を上げた。
「ほ、炎の、炎が今一瞬……」
前後不覚を起こしているのか、と感じたが違う。液晶には確かに炎に包まれた何かが映し出されていた。しかし全員が目を凝らす前にそれは景色の中に消え行く。オウミが口角を吊り上げる。
「この街に最強は二人も要らねぇ。最強の殺し屋を放ちました。炎魔、と言えば物分りの言い方は察しがつくでしょう」
炎魔、の名に全員がざわめく。まさか、という声やあり得ない、という声が上がったがオウミは動じない。
「青の死神、波導使いと戦うのは最強の殺し屋、炎魔です。そのギャラリーになら、あなた方を呼んでも構わない。ただし、今夜みたいに邪魔立てすると殺します。炎魔の実力は、皆さんご存知でしょう」
オウミは踵を返す。まさか全員を敵に回してなお宣戦布告をして立ち去る男がいるとは思わなかった。店主でさえも息を呑んだ。そんな中でオウミは、「美味かったよ、酒」と店主の肩を叩いてから歩いていくものだから心臓が止まるかと思ったほどだ。
全員が、分かっていてもその男一人を止める事が出来ずにいた。