第百三十八話「最後の波導」
ルカリオの拳がアーロンを貫いた。
波導が貫通し、背骨も、肉も、内臓も何もかもを圧迫し、押し潰したかに思われた。
だが、何も起こらない。
アーロンの波導は静かに脈動し、ルカリオの拳から伝わる波導を感知する。
ルカリオに、攻撃の意思はなかった。
「師父……、それにルカリオも、もう、俺を殺すつもりはない。それが波導で分かった。あなた達は、もう俺と戦うという事に意味を見出していない。俺が、この波導を感じ取れる域に達するかどうかだけを見ている」
「見事なり」
師父が歩み出た。ルカリオは拳を開き、アーロンの胸元に手をやる。
流れ込んでくるのは悲しみだ。深い悲しみだけがルカリオを満たしている。
「どうして、ここまで悲哀に満ちた波導が……。あなた達は、最初から、俺を殺す気はなかった」
「全てを失った。それはわたしも、ルカリオも同じ事。愛する者を殺し、ただただ旅の合間に訪れた希望を見出した。その希望が、いずれ自分達の悲哀を理解した時こそ、これを授けるべきだと」
ルカリオの波導の波長が変化する。攻撃に転じていた波導の嵐がやみ、嵐の後に訪れたのはうららかな春の陽射しのような優しい波導であった。
「愛する者を、失った波導……」
「喪失の悲しみと、真に人を愛した時のみ、訪れる感情だ。人はそれを愛ゆえに苦しむためにこう呼ぶ。涙、と」
今まで自分と切り離してきた泣き疲れた自分。それが目の前に存在している。そっと手を差し伸べている。
「泣く事が出来るのは、人間だけだ。生きている者の中で、泣くという行為を悲しみと愛で流せるのは、人間だけなのだ、アーロン。愛と悲しみの両面を知ったのならば、お前とて分かるだろう。頬を伝う、涙の感触が」
溢れ出た暖かさが胸を締め付けて、堰を切って流れた。
涙として。
死神の眼から流れ落ちる。
「泣かないのが強さではない。涙する事を知り、愛を知り、その上で戦う事を覚悟したのならば、これを与える」
ルカリオの波導の脈動がアーロンと同期し、その波導が体内を満たしていくのを感じた。
波導使いの寿命だ。
ルカリオの全身が結晶化していく。師父も同じであった。ルカリオを介してアーロンに波導を伝えている。
――脳裏を過ぎったのはいくつもの記憶のフラッシュバックだった。
愛した人を手にかけなければならなかった師父の悲痛。それが自分の感情のように伝わってくる。師父は今まで多くを失ってきた。多くを失い、ある時には絶望し、波導の終わりを渇望した時もあった。
だが、最後の最後に希望として残ったのは一輪の花だ。小さく、どのような名前なのかも分からない。その名も無き花が、師父の心の支えであった。
青い花。
風に揺れるその花へと、アーロンは手を伸ばす。花びらが散り、その命を終わらせたと感じた。
「花は移ろい、季節ごとに生と死を繰り返す。それが万物。それが波導の真の姿。波導は何もかもに宿り、何もかもが波導であるのだ。お前にも、見えるだろう? 名前のない花が。その花が安心して咲ける場所こそが」
アーロンは自身の内面に揺れる一輪の花に、そっと屈み込んだ。
名前も知らない花が、どこかで咲く。その場所の事をようやく知る事が出来た。
人を愛した時、この花は咲く時を迎えるのだ。しかし同時にそれは枯れ始める事でもある。
「枯れる時を、恐れるな。愛は無限ではない。波導と同じだ。有限なんだ。愛も悲しみも表裏一体。どこかで終わりが来る。だが、終わるからと言って、恐れていては何も出来ない。ルカリオ、これで全てを終わりにする。波導の真髄とは、生きとし生ける万物の中に唯一無二を見つける事だ。代わりなどない。わたしが見つけるのではなく、お前が見つけ出した青い花の咲くところを。その場所に名をつけるのならば、それは――」
ルカリオが完全に結晶化した。
その身体から波導が全て失われ、風が吹き荒んだだけで脆く崩れ去った。
師父も半身が波導の結晶に覆われていた。終わりの時期をとうに過ぎた花が最後に告げている。教えるべき事を、ようやく教えられたと。
「師父。俺は……」
唇が震える。うまく言葉にならない。何度もしゃくり上げた。
涙が止め処ない。
「見つけたな。ようやく、お前も。……馬鹿弟子が。人を愛せなかったあの子供が、ここまで成長出来た。わたしはそれだけで嬉しい」
師父の全身が結晶化しようとする。アーロンが駆け寄りかけて否、と足を止めた。
師父の終わりは師父だけのものだ。
自分が介入していいものではない。
――ただ、見届けろ。
自分の終わる時と等しい、師父の眼差しを。慈愛に満ちた、その瞳を。
「これを使えば、お前にはもう、波導使いとしての資格は残らない。波導を操る術も、戦う事も、何もかもをなくすだろう。さらばだ。アーロン。波導の果てにまた会おう。いつだって、わたしとお前は繋がっている。忘れるな。波導は……」
結晶化した師父の終わりは一瞬であった。
一陣の風が吹き抜けると師父であった結晶体を吹き飛ばしていった。
その風も、どこかで他人の希望となる。どこかで、誰かを助けるのだろう。
そうやって波導は巡り巡る。
それこそが万物の真実。
最後の波導の名前は――。