第百三十七話「名も無き花」
垂れ込めた曇天の下で、明らかにその建物だけが異様な波導を放出していた。
廃ビルに過ぎなかったが、ゼロが分かりやすくマーキングしたのが理解出来る。音もなくワイヤーを巻き上げてゼロの待つ階層へと至った。
「――遅かったじゃないか。我が半身」
ゼロの傍には十字架に磔にされたメイの姿がある。
石化が完全に侵食しており、瞼は閉ざされていた。波導を読むまでもない。
メイは死んでいた。
「三日の刻限を守らなかったのは謝ろう。だがこの小娘は正鵠を射た。それがどれほどまでに自分の寿命を縮めるのかも知らずに。さぁ、波導使いアーロン。最後の波導とやらを習得したその波導、見せてもらおうか!」
ゼロが波導の眼を全開にする。しかし、直後に彼は愕然とした。
目をしばたたきアーロンを凝視する。
「……何故だ。何故、今のお前に――波導の一欠けらさえも感じられない?」
アーロンは歩み出ていた。ゼロが覚えず、と言った様子で後ずさる。しかしアーロンの歩みの先にはメイがいるだけだった。十字架に磔にされたメイの額に、アーロンはそっと自らの額を当てる。
――冷たい。
生命波導がまるで感じられない。石化によって完全に命を封殺されていた。
ゼロは及び腰になりながらも調子を取り戻すように声を張った。
「そうか! 波導を無に近い閾値に設定し、石化を遮ろうと言うのだな。なるほど、有効な手立てだ。それを前のアーロンが仕立て上げたというのならば、賞賛に値するだろう。だが我には!」
コートをはためかせると赤い光が明滅した。アーロンは僅かにたたらを踏む。その足元が石化していた。
「石化の波導は有効のようだな! その戦術は既に! 見切っている!」
言い放ったゼロにアーロンは言葉少なだった。メイを見やり、そっと手を伸ばす。触れた途端、アスファルトの十字架が砕けた。メイだけが滑り落ちる。それを受け止めてアーロンは言葉にしていた。
「……馬鹿な奴だ。最後の最後まで、どうしようもなく、大馬鹿だ、お前は」
「我の波導でさえも理解しようとした。だからこそ、死期を早めてしまった結果になったが。アーロン、その娘を心の拠り所にしたのは理解出来る。我も、立場が違えばそうなっていたかもしれない。だが諦めろ。拠り所は死んだ。お前にはもう、孤独な殺しの道しか残されていないのだ」
アーロンはそっと、メイの骸を降ろす。その唇が言葉を紡いだ。
「待っていろ。すぐに終わらせる」
「終わらせる、だと? 馬鹿を言うな。我がお前の波導を吸収し、最後の波導使いとなるのだ。それこそが波導使いの終焉、幸福≠ナある!」
ゼロが赤い光を放出しようとした瞬間、アーロンはまるで気配を感じさせず、足音もなくゼロへと肉迫していた。
ゼロが瞠目する。その頭部を引っ掴み、アーロンはビルから飛び降りた。
ゼロは両翼を展開して離脱する。アーロンは水鳥のように軽やかに降り立った。
黒と赤に彩られた翼を持つゼロが浮かび上がる。
「焦ったぞ……。波導のないお前はまさに、死者同然。死人が動いても関知出来ないのと同じく、気配が読めなかった。なるほど、それが波導の極地、最後の波導か。確かに近似値を無に設定すれば、気配のない殺しが可能となる。暗殺術としてはかなり高度だが、失策があるとすればそれは真正面では通用しないという事だ。そのためには我の背後を取る必要があった」
勝利を確信したゼロの口調にアーロンは静かに返すばかりだった。
「いいから来い。それとも、死に損ないも殺せないほど、そっちは弱いのか」
アーロンの挑発にゼロは両翼を展開させたまま、コートをはためかせる。赤い光条がアーロンへと突き刺さった。
「デスウイング! お前の波導を吸収する!」
肩口に突き刺さった「デスウイング」から波導が徐々に吸収される。アーロンは膝をついた。
「設定した弱い波導が仇となったな! これでお前はすぐに絶命する!」
「そうか。俺は死ぬのか。死ぬのは、もう怖くはないが……。お前は勘違いをしている。行け、ピカチュウ」
繰り出されたピカチュウが両頬から電流を跳ねさせる。しかしその勢いもどこか弱々しい。
「アーロンよ! 最後の波導とやら、所詮は付け焼刃だったな! ただ単に石化への牽制に弱い波導を使っただけの、浅知恵よ!」
「そうか、お前にはそう見えるのか。俺が、波導を纏っていないように」
直後、空間が震えた。降り出した雨の水分粒子が静止し、時が止まった。
何もかもを置き去りにして、ゼロとアーロンだけが止まった時の中で動いている。
「な、何が起こった……」
「言っておくが、時間を止めたわけではない。最後の波導の、準備段階だ」
「小賢しい!」
赤い光線が突き抜けてアーロンを捉えようとしたが、その瞬間アーロンの姿は掻き消えていた。どこへ、とゼロが首を巡らせた時には、アーロンの姿は空中にあった。
「いつの間に……」
「まずは、地に墜ちろ」
突き出した右腕から放たれたのは電撃と波導切断であった。ゼロは咄嗟に波導の皮膜で防御する。しかし皮膜は完全に消え去った。触れただけなのに、波導の防御は脆く崩れ去る。
ゼロが地面へと墜落した。揚力を失った翼が虚しく空を掻く。
「ち、違う……。これは、ただの波導切断じゃない。貴様、何をした? どのような術を使った?」
「言っただろう。最後の波導だと。俺は、師父に教わった。その真の姿を。波導の行き着く先にある、虚無の世界を」
「虚無、だと……。それはただ単に波導をカットしただけ! それが最後の波導だとすれば!」
ゼロが両翼を押し広げる。赤い光芒がアーロンへと突き刺さろうとした。
しかし、石化したはずのアーロンの肩口には何もない。石化の気配も、兆候も。
「だとすれば、何だ? 俺には、もう見えている」
「見えている、だと? 単純に生命波導を弱めただけの話! そんな小手先が通用すると思うな!」
次々とアーロンへと突き刺さる赤い光の帯。波導吸収が成されるかに思われたが、やはりそれを成す前にアーロンのあまりに弱々しい波導をすくい取れずに失敗する。
金魚すくいの網のように、今のアーロンの波導は弱い。
少しの衝撃で穴が開いてしまう。少しの衝撃で砕け散ってしまう。
その危うさを持っているのに、どうしてだか完全な破壊が出来ない事に、ゼロは疑問を抱いているようだった。
「何が、貴様をそうさせた……? 波導を、完全に捨て去ったというのか!」
「波導を捨てた。一面ではそうかもな。俺は、もう二度と波導使いを名乗る事はない」
ゼロが驚愕に表情を固めて声を張る。
「嘘だ! アーロンの一門がそれほどまでに、そこまで犠牲にしてでも成し遂げたいものなどあるはずがない。我は破壊の波導使いなり! 全てを破壊し、全てを虚無へと還す! その身体、貰い受けるぞ!」
赤い光の帯がアーロンの鳩尾へと突き刺さり、そのまま全ての波導を吸引しようとする。しかし、アーロンから得られる波導はなかった。本来、浮かび上がっているはずの青い波導が存在せず、もちろんながら、波導の色は赤くもない。
「何をどうやって……。禁忌に触れたか」
「絶対吸収能力を誇る技、デスウイング。それでも俺の波導が吸えない事に、恐怖を感じているのか。言ったはずだ。最後の、波導だと」
「それがまやかしだと! 言っている!」
広げられた両翼が力を帯びて羽ばたいた。砂礫を吹き飛ばし、ゼロが浮遊する。
「我の波導の根源は吸収! 吸い尽くせ、この場にある全ての波導を! デスウイング、掃射!」
赤い光が拡散し、周囲のビルや街灯、生きとし生ける全てのもの、活動しているものを沈黙させていく。
街灯が切れ、ビルが根こそぎ色をなくし崩落する。地平からも緑の一滴すら吸い込む光であった。
枯れている芝生でさえも、その僅かな波導を消していく。アーロンは足元に花を発見した。
名も無き花が小さく揺れている。
石化の赤い光が何もかもを奪い尽くそうとする。
収束し、ゼロを軸として全ての生命が静止した。この場にあるのはゼロの支配下のみ。
ゼロは確信に拳を握り締める。
「全ての波導は、我が身体に。吸収された。満たされている、満たされているぞ、アーロン! 我はこれほどまでに、満たされている! お前はどうだ? もう、生命波導の一点すらも窺えない、その朽ち果てた身体で!」
屈み込んだアーロンが既に力尽きたのだと判断したのだろう。ゼロの哄笑は止まない。
「攻撃手段も持たぬ、弱く、小さき存在よ。その波導の最後の一滴すら、我のためにあるのだ」
しかし、アーロンは立ち上がった。
ゼロは瞠目する。
アーロンのコートは擦り切れていた。帽子もボロボロである。それでも、その眼差しが死んでいなかった。屈み込んでいたのは力尽きたからではない。ゼロはその視線の先に小さき花を発見した。
「花……? 花を守るために、お前は屈んでいたというのか。そんな、些事のために」
「些事かどうかは俺が決める。名も無き花を守るのに、理由がいるのか」
すっと上空のゼロを仰いだ眼差しにもゼロは臆する様子を見せなかった。
「だが! ピカチュウはどうだ? ピカチュウは耐えられまい!」
「いいや、ピカチュウも、もう覚悟の上だ。俺の波導について来てくれている。今の俺では、こいつを守ってやるのも一苦労だが」
ピカチュウを薄い波導の皮膜が保護していた。それはピカチュウの内奥から発生しているのだ。アーロンが媒介し、強化しているとはいえ、それはピカチュウ本体の生命波導であった。
「……ピカチュウに、波導は使えない」
「そうだな。通常は。だが、俺はこいつと十年以上付き添っている。もう俺が言うまでもなく、どこの波導を切ればいいのか、俺以上に分かってくれている」
アーロンが跳躍する。その右腕がゼロへと突きつけられた。ゼロは口角を吊り上げる。
「だが! 我が波導の領域だ!」
石化の波導がアーロンの右腕を浸す。しかし、それを破ったのはアーロン自身ではない。
石化の波導が、自然と消え失せる。赤い死の光が、すうっとアーロンに触れた途端にその身体を抜けて行った。
「石化波導が……通用しない?」
「厳密に言えば、俺はもう波導使いではないからな」
右腕がゼロの胸部へと叩き込まれる。放たれた電撃がゼロを突き飛ばした。波導切断がゼロの体内波導を感知し、その回路を焼き切ろうとする。
ゼロはすぐに組み直した。波導回路の断線した部分を新たな波導で修復、回路の活性化、及び回路の命令系統の循環――。
それら全てに一秒とかからなかったが、波導回路が修復された直後、またしても内部でショートした。
ゼロは目を見開いて波導回路の修復に務めているが、どれだけやっても波導回路が焼き切れてしまう事に狼狽しているらしい。
「……何をした」
「何も。いつものように、波導の切断を」
「そのようなはずがあるか! 波導回路は、組み直せばお前の波導切断は通用しない。そのはずだ。だというのに、波導の切断が消えない。一度切られた部分が、まるで腐り落ちたかのように……」
繋ぎ直しても繋ぎ目から溶けていく。それを自覚したのだろう。ゼロはアーロンへと敵を見る眼を向けた。
「それが、最後の波導か……!」
「少し違うが、その一部。師父とルカリオが教えてくれたのは、そう難しい事じゃなかった。答えは、最初にあったんだ。波導のほんの初歩の初歩に。波導は万物に流れる全ての生命の根源。何もかもに波導が存在し、その何もかもが等しく、波導の前では平等だ」
「知った風な口を!」
赤い光条がアーロンを貫く。しかし、石化が巻き起こらない。
ゼロは忌々しげにアーロンを見据えた。
「どういうカラクリだ、それは!」
「行かなければいけないんだ。お前の相手は、あまり長い事は出来ない。さっさと石化を解いてやらないと、本当に命の波導が尽きてしまう」
アーロンの眼差しは目の前の敵であるゼロではなく、ビルに残したメイへと向けられていた。
「あの小娘か? 既に石化の虜だ! 何なら確かめてみるといい。触れるだけで、朽ち果て、砕け散るだろう!」
「なら、波導を与え直す。季節のごとに、花は散る。だが、決して死に絶える事はない。それと同じだ。波導が完全に消えたように見えたとしても、それは一面では死ではない。新たな命への準備なんだ。万物は循環し、生と死を繰り返して、円環の波導を描く。それが、生きるという事なんだ」
「見透かしたような達観も、いい加減にしろ!」
飛び込んできたゼロがアーロンの首を絞める。直接触れた箇所からゼロの波導が感じ取られた。同時に相手も感じた事だろう。
今のアーロンの波導を。
ハッとしてゼロがその手を緩める。
「お前、まさか……」
「ああ、循環の時が来た。今の俺の波導がないのはそのせいだ」
ゼロが眼を慄かせる。絞めていた手から力が失せた。
「馬鹿な……。既に、死んでいるだと?」
「外面上はそうかもしれない。これを死と呼ぶ。だがそうじゃない。お前だって知っているはずだ。波導使いの真の死とは、結晶化現象の事だと。だからこそ、分かっている。いいや、分かっていたはずだった。波導が消え去る事は、何も死ではない」
師父とルカリオが教えてくれた。
最後の波導の事を。そのために必要な――覚悟を。