第百三十五話「波導の嵐」
「青の死神と呼ばれるようになったのはその後だ」
語り終えてアーロンは目を伏せる。シャクエンも、この話を聞く全員が黙りこくっていた。
人を救いたくて波導使いになったのに、結局人殺ししか道がなかった、愚かな人間の話だ。
「……でも、波導使い。あなたは、私達を救ってくれた」
「そうだよ。お兄ちゃんは、あたい達に、人殺し以外の道があるって教えてくれたんじゃない。それも、波導で救ってくれた事にならないの?」
「さぁな。俺に判ずる術はない。ただ、俺の思っていた波導で救うというのとは、違ったというだけの話だ」
立ち上がったアーロンにハムエッグが声を振り向ける。
「どこへ行くんだい?」
「師父は、三日だといった。ゼロも、三日間だと。俺は最後の波導を学ばなければならない。逃れ、逃れ続けた俺は、過去と向き合わなければ、もう進めないんだ」
「……一つ、言っておくよ、アーロン」
ハムエッグの声にアーロンは目をやる。いつになく真剣な口調で、ハムエッグはこぼしていた。
「あの日、君に選択肢を与えた事は、間違いだと思っていない。それと、君は自分が思っているほど、冷酷な人間でもない。だから、メイちゃん達が集まった。彼女らは君に光を見たんだ。それは、波導で救ったのと、同じじゃないのか?」
自分に光、と胸中に繰り返す。
シャクエン達の寄る辺になったつもりはない。師父の言う通り、ただ弱くなっただけかもしれない。
――ただ、もう後悔はしたくない。
アーロンは歩み出していた。その背中を呼び止めようとしたシャクエンをラブリが制する。
「やめておきなさい。波導使いは本気よ。クズなりに、身の振り方を決めたってわけ。わたくし達がどうこう言える身分じゃない」
「でも……、波導使いはこのまま生きる事だって出来る。メイのために、そこまでするのなら、あなたはもう……」
言われずとも分かっている。
もう――救われている。
だからこれから先に行うのはわがままだ。ただの自己満足のエゴで、自分は動くだけ。誰かを救うだとか、何かのためになるだとか言うお題目ではない。
アーロンという個人に過ぎない存在が、必死に足掻くだけだ。
何かを成すわけでもない。何かを変えるわけでもない。
ただ、自分に決着をつけるのには、今一度師父と合間見えるほかなかった。
「思っていたよりも決断が早かったな」
師父はビルとビルの谷間にある空き地で文庫本を読んでいた。
佇むビルの陰になっており、陽も差さない。あの修行の日々と変わらず、師父は衰えてもない。
十年前と何も変わらないのが、逆に空々しいほどであった。
「師父。最後の波導を、俺に教えてください」
文庫本をパタンと閉じ、師父は立ち上がる。
「馬鹿弟子が、勝手気ままに生きてきて今さら教えを乞う、という事がどれほど愚かしいのかは」
「理解しています。ですが、もう俺にはそれしかない。ゼロに、勝たなくてはならない」
「そうまでして、あの娘が大事か、アーロン。ゼロに勝つのには、並大抵の努力では追いつけないぞ」
「承知しています。だからこそ」
モンスターボールを手にする。そのまま中天に放り投げた。
「――俺は選ばなくてはいけないんだ。ピカチュウ」
肩に留まったピカチュウが頬袋から電流を奔らせる。師父は鞄からモンスターボールを取り出しそっと地面に転がした。
「選ぶ、か。だが、一つ間違っているぞ、アーロン。選ぶという行為は強者の権利だ。弱者に、選ぶ事は出来ない。ルカリオ」
ボールを割いて現れたルカリオが戦闘形態を取る。
「――分からせてやれ。波導の真髄を」
ルカリオの姿が掻き消える。アーロンは波導の眼を全開にしてその姿を追った。右腕を突き出し、拳と交錯させる。
波導を帯びたルカリオの拳と、波導切断の電撃が弾け飛んだ瞬間、お互いに距離を取っていた。
「波導使い同士ではぶつかり合えば斥力のように、お互いに弾かれ合う。しかし、その次だ。次の手を先に打ったほうが勝利する」
ルカリオの状況判断は素早い。すぐさま跳躍し、アーロンへと肉迫する。振り下ろされた拳をいなして電流を撃ち込もうとするが、それを予期したようにもう一方の掌で受け止められる。
「甘いぞ、アーロン」
「いいえ、そちらもです」
ルカリオが攻撃を感知して飛び退った。先ほどまで首筋があった空間を裂いたのはピカチュウの尻尾だ。「アイアンテール」の刃を思わせる一撃が引き裂いていた。
「電撃一辺倒ではない、それは評価しよう」
今度はアーロンが攻める番であった。突き出した右腕をルカリオが弾き、反撃しようとしたその拳を電流が射抜く。
――これで、左腕の波導は切断した。
その確信に次の攻撃へと転じる前に、切られたはずの左腕でルカリオはアーロンを薙ぎ払う。
目を凝らすと切断した部位を波導の糸で縫合しており、瞬時の再生が窺えた。
「放出型の波導はこういう使い方が出来る」
「そう、でしたね……。ルカリオの強さも、昔と変わらない」
「向かって来い。一つ一つ、ルカリオとわたしが教育し直してやる」
雄叫びを上げてアーロンが跳躍する。電気ワイヤーを駆使してルカリオを縛り上げようとしたが、その網をルカリオは華麗なステップで退ける。
「まだだ!」
地面に手をつきアーロンはルカリオの直下の地面の波導を切って陥没させた。一瞬だけ生まれる隙。
それを突いてアーロンが接近する。突き出した右腕には必殺の電撃が纏いついている。
ルカリオは姿勢を崩したがなんと地面に波導の塊を撃ち込んだ。反動で無理やり姿勢を建て直し、空いた手でアーロンの右腕を掴む。
「ルカリオはその程度でやられるほど、やわくはない。弾き返して距離を取れ」
師父の命じる声にルカリオはアーロンの胸元へと拳を叩き込み、撃ち込んだ波導を触媒にして飛び退った。
地面に撃ち込まれた波導が膨張し、次の瞬間、青く明滅する。
波導の塊を爆弾として使用する戦法。咄嗟に薄い皮膜の波導で防御するが、ほぼ直撃であった。
荒い呼吸のアーロンへとルカリオは余裕のある眼を向ける。
「この程度で音を上げるなよ、アーロン。ここからだ。ルカリオ、波導の力を見せてやれ。青く輝く、その波導の、真の姿を」
ルカリオが印を切り、波導を体内で練り上げた。その直後、関節を軸にして波導が燃え盛る。
全身を覆うように放出された波導の勢いはまさしく嵐。身に纏っているルカリオを波導の眼で見ると、直視出来ないほどの波導が脈打ち青い焔のように揺らめく。
「これは……」
「波導の真髄が一。その名は波導の嵐だ。ルカリオの最終到達点の一つでもある」
「これが、最後の波導ですか」
「最後の波導? 違う、間違えるな、馬鹿弟子が。到達点の一つだ、と言った。最後の波導はこんなものではない。行くぞ、ルカリオ。刻め」
青い残像を居残してルカリオの姿が瞬間的に迫った。呼吸を整える前に鳩尾へと鋭い一撃が叩き込まれた。
呼吸の止まるほどの衝撃。背骨へと突き抜けた拳の威力がそのままアーロンを吹き飛ばすかに思われた。
だが、それを阻んだのはルカリオから流れ出す波導であった。まるで触手のようにのたうち、アーロンの両肩を絡め取る。後退さえも許さない波導の極地にアーロンは反撃するしかなかった。
「十万ボルト!」
ピカチュウが両頬の電気袋から電撃をルカリオへと叩き込む。しかしルカリオの纏っている波導が鎧を思わせる堅牢さで防御した。
「……攻防一体、これが」
「そう、これが波導だ」
ルカリオが拳に波導を充填する。来る、と身構えた身体にアーロンは自ら電流を通した。
肩を拘束していた波導が消え、直前に跳躍してその一撃を回避する。空間さえも震え、微粒子が弾け飛んだのが分かった。それほどの波導密度による一射。まともに食らえばひとたまりもない。
「本気、と見ました」
「本気? 何を今さら言っている。わたしは、最初から馬鹿弟子に、温情を与えるつもりなどないぞ。最後の波導を習得したければ、死ぬ気で来い」
半端な覚悟では最後の波導など見せてはもらえない。アーロンは息を詰めて戦闘姿勢を取った。
身体を沈ませ、右腕を掲げる。波導切断、その一事だけだ。自分にはそれ以外の放出系の波導は使えない。
ルカリオを倒すのには相手の波導回路の奥の奥、生命波導を司る部分を焼き切るしかない。
だが、焼き切った時、ルカリオは確実に死んでしまうだろう。
師父のルカリオを殺すかもしれない。
その恐れがアーロンに殺しの逡巡をさせた。ルカリオの姿が掻き消え、眼前に立ち現れる。
それを予期する事も出来ずにアーロンは叩き飛ばされた。ルカリオの眼差しが侮蔑の色を伴って注がれる。
――手加減無用、と。
自分が手加減して、勝てる相手ではない。まさしく波導の全てを集約しなければ太刀打ちも出来ないだろう。
呼吸を整える。体内の波導を正常値に持ってきてから、右腕に集中した。
右肩に留まるピカチュウにも波導が伝わる。ピカチュウの電撃を通し、波導回路を焼く。それが思惟として伝わり、いつになく双眸に戦意を宿らせたピカチュウがルカリオを睨んだ。
ルカリオも負けじと睨み返す。
「ようやく、いつもの調子になったか?」
「ええ、俺は、勝たなきゃいけない。勝てなければ、最後の波導を教えてもらえないのならば、俺は……」
駆け抜ける。波導の嵐を身に纏ったルカリオの姿はまさに悪鬼。だが、こちらも悪に染まったのならば負けてはいない。
ピカチュウの電撃が右腕の表層を跳ねてルカリオへと叩き込まれようとする。
しかしルカリオは拳を払うだけでそれをいなした。
次いで訪れるのはルカリオの拳の打ち上げになる――かに思われた。
だが、ルカリオはそこで異常に気がつく。振り上げようとした拳の波導密度が異様に低いのだ。
そのせいで、アーロンは両腕を使ってのものではあったが、ルカリオの拳を真正面から、受け止めた。
「ルカリオの拳を、受けた……」
師父も驚愕の声音を発している。アーロンは即座に右腕をルカリオの鳩尾に添えた。
「焼き切る!」
波導回路断線が成される前にルカリオが蹴って距離を取る。しかし効果はあったようだ。
ルカリオが膝を落とすと背面に宿っていた波導が一部霧散していた。
「俺も、伊達に十年間、殺し屋なんてやっていなかった。相手の拳を受け、刃をしのぎ、矢を折る方法は、既に講じている」
波導切断の応用であった。相手の波導の一部に相手でさえも関知できないほどの小さな風穴を作る。実際、波導を使わない相手にはほぼ無意味だ。だが、波導の精密さが売りのルカリオにとってそれはとてつもない違和感となる。
違和感は拳に、力の加減を迷わせる。その迷いの一点を突いて、波導切断を行い、放出される波導を十分の一までカットする。
いつか、ルカリオと戦う事になった場合を想定して組んでいた戦略であった。
その想定通り、ルカリオは手を開いたり閉じたりして感触を確かめる。
波導を組み直し、ルカリオは波導弾を地面に撃った。自分の波導が切られたわけではない事を確認したらしい。
「ちょっとした手品か。しかしアーロン。手品が二度も三度も通用するわけではない事は」
承知している。ルカリオと師父は確実に、この手を読み切って対策を練ってくる。
だからこそ、焦らない事だ。焦らずしっかりとルカリオの攻撃を読み、見切る。
そうすれば――、と判じていたアーロンにルカリオの攻撃が差し挟まれた。
ルカリオがあり得ない速度で肉迫していた。波導の嵐を使っての移動方法だ。足先に波導を集中させ、急加速を得た。
自分がピカチュウの電撃を使い、一時的に筋肉に刺激を通すのと同じように。
アーロンは受け止めるが、次の攻撃までは読めなかった。
身体をひねったルカリオが蹴りをアーロンの頭部へと見舞う。ただの人間ならば首が折れている。
それでも大した一撃ではない、と高を括っていた。そのつけのように、急に視界が暗くなった。
これは、眼の波導をやられたのだ。
ルカリオが瞬時に波導の位相を変えて眼を一時的に眩惑させた。
「これでは……」
「受け切れまい」
ルカリオの拳が空気を切って接近する。アーロンは即座に切り替えた。双眸から青い光が流れ出す。
「フェイズ2……」
波導の眼をフェイズ2に移行し、ルカリオを波導だけで目にする。高密度の波導体で覆われたルカリオの姿はほとんど光の瀑布だ。
拳をいなして後退し、アーロンは息をつく。
「アーロン。聞くが、お前は何を求めている」
「……何がですか」
「あの小娘を取り返す事か? しかし、波導使いには邪魔な感情だ。しかもお前は既に、殺し屋として地位を確立している。どこの街に行っても、お前は殺し屋としてしか生きられないし、ゼロと無理やり事を構える必要もない」
「今さら、逃げろって……」
「戦う必要性のない相手と戦ってどうすると言うのだ。ゼロは災厄だ。だがそれを無視する事も出来る。ただ静観していればいい。あの殺し屋の少女の言うように、別の街に行って静かに暮らす事も出来ないわけではあるまい。何故、立ち向かう? 何がお前を、そうさせる?」
この問いに答えられなければ自分にはメイを助け出す資格などない。アーロンは胸中に問いかける。
――何のために、誰のために戦うのか。
「……師父。俺は駄目だった。あの日、あなたの下を去ってから、ずっと。ずっと、逃げて人を殺めてきた。自分にはこれしかないと言い聞かせて。でも、そうじゃないんだ。俺には確かに、もう殺しが馴染んでいる。人殺しに、何の躊躇もないかもしれない。でも、気づかせてくれた。俺に、別の選択肢があった事を。あの時、ハムエッグの言っていた意味が、ようやく分かった。俺は変われたんだ。時間はかかった。とてつもない時間が。取り返しようもない時間だけが。それでも、これからを変える事は出来る。過去は無理でも、未来なら……そうだ、俺は」
ようやく、アーロンは顔を上げる。それが最後に行きついた答えであった。
「俺は、あいつと未来に生きたい。あいつとならば、生きていられる。そんな気がするんだ」
紡ぎ出した答えに師父はフッと笑みを浮かべた。手を払い、ルカリオを挙動させる。
拳を繰り出そうとするルカリオに対してアーロンは反撃しようとした。
反撃に転じようとした精神の中、一部分だけがそれをすくい取った。
もしかしたら読み間違えかもしれない。それでも、アーロンはそれに賭けた。
攻撃姿勢を解き、薄い波導の皮膜も解除する。
ルカリオの拳に宿った波導がアーロンの身体を――貫いた。