第百三十三話「血濡れの道」
考えてはいた。
殺し、殺されの世界以外で生きる術を。
だが、思いつかなかった。
師父は何も教えてくれなかった。あの日、行ってしまった師父の背中を誰よりも追い求めていたのは自分自身だ。指針が欲しかったのに、師父は軽蔑だけを投げて消えてしまった。
――どうして、最後まで面倒を看てくれなかったのか。
いつもそうだ、と感じる。
自分の愛した人は、どうしていつも、勝手に消えてしまうのだ。
歪んだ愛でもよかった。それが歪で、暴力という形でしか発揮されなくともよかったのに。
消えられてしまえば、自分は何も言えないではないか。
文句を言おうとしてもその背中がないのでは、どうしようもない。泣き喚こうが、吼えようが、足掻こうが何もかも、意味がない。
波導使いは孤独だ、と師父は言っていた。
こういう事なのか。
波導使いは、こうして孤独を深め死んでいくというのか。結晶化の話が思い起こされる。
自分は誰にも見初められる事もなく、いつかは結晶化して死んでいく。
絶対の孤独。海の底のようにすがるものもない。
泣き出したくなっても泣く事さえも許されない。自分は強くあらなくはならないのだ。そのために、余計なものは全て捨ててきた。
本当の名前も、師父との思い出も、大切なものも、人間としての価値観も。
生きるためなら何でもする。泥でも被る。人を殺めるのも容易い。
血濡れになった掌を目にして叫び出したくなる夜があった。
事切れて、人形のように突っ伏す人間の後頭部をずっと目にしていると気が狂いそうになった。
人を殺す度、自分には何もないのが分かった。
彼らは遺すものがある。何かを、次に遺そうとする。だが、奪う側の自分には何もない。
虚無だ。
波導という力だけを誇示する虚無。
それが自分だ。何もない空洞の心が悲鳴を上げる。がらんどうの胸が、声にならない叫びを発する。
――ここから出して。
――こんな暗いところは嫌だ。
いつの間にか、涙する自分を切り離す術を心得ていた。泣かれて叱責されている自分。何もないと思っていた、波導使いになる前の自分自身。
馬鹿だな、とアーロンは口にする。
お前は満たされているだろうに。まだ両親がいるじゃないか。まだ、泣けるじゃないか。
旅人帽の鍔を目深に被ってアーロンは咽び泣く子供から踵を返した。
泣け。泣き喚け。
それが、お前に許された特権なのだ。
お前は、泣く事しか出来ないのだ。自分は違う。
泣く代わりに人を殺せる。人を殺して、涙の代わりに血を流す。
戦場で流れる血の分だけ泣け。殺し、殺される世界を知る前に存分に泣くといい。
どうせ、泣けもしない。そういう夜が訪れる。
――泣けよ、殺し屋未満。お前と俺とは違う。
アーロンが歩み出ようとしたところで声が投げられた。
「しかしそれは、自分を切り売りするのと何が違う?」
問われて、アーロンは目を覚ます。
記憶にない場所だった。木目調の天井で換気扇が回っている。
暖色のライトが点けられており、これも夢なのではないか。とアーロンは目をしばたたく。
「起きたか」
その声にアーロンは即座に攻撃に転じようとして、手近なところにピカチュウがいないのに気づく。
「悪いね。ピカチュウはここだ」
示されたのは回復システムだった。回復中の文字が点滅している。
「随分と無茶をさせてきたらしい。ピカチュウのPPも体力もレッドゾーンだった。回復に時間がかかる」
それよりも、アーロンは先ほどから同じ調子で語りかけてくるその対象に目が行っていた。
大振りな身体。ピンク色の肉体を押し込めているのは紳士服だ。ご丁寧に赤い蝶ネクタイをつけているそれは――人間ではなかった。
「ポケモン……」
アーロンのこぼした声にその巨躯のポケモンが恰幅を揺らす。
「知らないのかい? 世の果てではポケモンが人語を喋る」
長大な舌を出したポケモンが流暢に人の言葉を操る。真っ先に自分の正気を疑った。
「心配しなくっていい。ラピスに一時的に昏倒させただけだ。君も筋がいいから、致命傷を避けた。真に実力の拮抗する殺し屋同士ではその殺し合いに時間がかかってしまう。君をここまで連れてくるのに苦労したよ。関係各所の揉み消し、それに警察勢力への情報統制。死んだアベックの片割れにはきっちりと金を積んでおいた。まぁ、義憤の精神に駆られでもしない限り、君の身柄は割れまい」
どういうつもりなのだ? このポケモンは、どうしてそこまでする?
「……何者だ?」
「声で分からないか。無理もない。君は、いつだって緊迫しているから」
そう言われてようやく自分の記憶の中の声と合致した。この声の持ち主は――。
「盟主、ハムエッグ……」
何という事だ。この街の盟主と言われてきた人物は人ではなかった。人外の相手にアーロンは面食らう。こちらの驚愕を悟ったのか、ハムエッグは落ち着き払っていた。アーロンを目にして一杯のグラスを差し出す。
水が入っていた。
毒がないかを波導の眼で精査しようとして眩暈を覚える。目元を押さえたアーロンハムエッグは言いやった。
「言っただろう。無理をし過ぎだ、と。波導の眼も、そう何度も使えるものじゃない。波導は無限のものでもないはずだ」
「俺の事を、調べて……」
「そこまで詳しくは。ただ、ホテルのボスが注目している人物だ。噂は入ってくる。殺人鬼だと」
「俺は、殺人鬼じゃない」
「口で言うは容易いさ。だがね、君を保護したあの現場を見れば分かる。君は殺しに、逃げ場を求めていた」
逃げ場。そう言われてしまえばアーロンは二の句を継げなくなった。これは仕事だ、と言い返してもよかったのだが、胸を張れる仕事ではない。
「……殺しが逃避だとでも?」
「わたしの見た限りでは、ね。君のやっている事は殺しという災害のようなものだ。殺し屋のそれとは、全く違う」
それは暗に自分の存在を否定されているようで腹が立った。このポケモンの隙を突いて波導を切断出来ないか、と周囲に目線を配る。
その時、カウンターからちょこんと顔を出した少女と目が合った。
緑色の髪に星空を内包したような眼をしている。あの時、自分の前に立ち塞がった少女だ。
「自己紹介が遅れたね。彼女はラピス。ラピス・ラズリ。わたしの育て上げた、一級の殺し屋だ。まだ実績は少ないが、一部では二つ名をいただいている。スノウドロップ、と」
「花言葉はあなたの死を望みます≠ゥ、悪趣味な」
「そうでもないさ。殺し屋にはピッタリのネーミングだよ」
ラピスと呼ばれた少女はじっとこちらを窺っている。この状態でハムエッグを殺すのは難しいだろう。
「それで、俺をどうしたい? 保護、と言ったが俺は何にも頼んでいない」
「わたしも君に興味が出ていてね。出来れば二人っきりで話したいんだが、安全のためにラピスには同伴してもらう」
「殺し屋がいなくては話せないような内容なのか」
「殺し屋相手に何も仕込まないほど、慢心はしていないと言って欲しいな」
ラピスは抑止力というわけか。アーロンは息をつき、ハムエッグを睨んだ。
「どこまで、本気なんだ?」
「君に興味が出た、という事かい? それとも、わたしがこの街の盟主だという事でも?」
両方だが、アーロンにとって重要なのは前者だ。
「俺は強欲商人、サガラの子飼い。所詮、三下の殺し屋だ。どうして、お前のような奴が接触してくる」
「ふむ……ちょっとばかし、君は軽率が過ぎると言ったが、やはりね。君は自分がどれほどの価値なのか考えた事があるか?」
自分の価値。ラブリにも問い質された事だ。
「殺し屋の価値なんて決まっている」
「そうとも言えんさ。株式相場じゃないんだ。株価が下落すれば殺し屋の価値も下がるわけじゃない。殺し屋の価値とは、わたしは、矜持だと思っている」
「矜持……そんなもの、殺し屋になる時に真っ先に捨てるものだろう」
「逆だよ、アーロン。君は、その矜持を誰よりも一番に持って行きたいはずだ。だが、いまの境遇がそれを許してくれない」
「別に不満はない」
「満足な人間より、不満足な豚のほうが、わたしは価値があると思っている。今の自分に絶対を持っている人間ほど、それは成長の余地がない」
「……何が言いたいんだ」
ハムエッグは一呼吸ついてアーロンを見据えた。
「つまりだね、君がこれから先、ヤマブキでやって行くのに際して、応援したいと言っているんだ」
何を馬鹿げた事を言っているのだろう。盟主ハムエッグは戯れが過ぎるようだ。
「応援? 俺はただの殺し屋だ。それを応援など」
「いいや、君の技術と強さはそれほどの価値がある。ただ、そうだな。どれだけ先進的な技術でも、あまりに格の違う強さでも、振るう対象を間違えればただの暴力だ。意味のない連鎖だ。君の今、現状は暴力に過ぎない。だが、それを違うものに出来る。暴力以外の何かに転化出来ると言っている」
「暴力以外に殺し屋の何がある? 俺はこのままでもいい」
「本当に、そう思っているのか? アーロン。君は真に、そう思って、これから先、苛立ちながら人を殺し回っていくのが正しいとでも? わたしは、先にも言った通り盟主だ。盟主は、街の秩序を守る役割がある。無秩序に暴れ回る人間がいるとすれば、それを排除するのもまた、盟主の仕事なのだよ」
「……このまま暴走するのなら、俺を始末する、と?」
「悲しいが、そうなってしまう可能性が高い。だから、わたしは君に、個人的に接触した。盟主ハムエッグとして、公的な判断を下さざるを得ない状況に追い込まれる前に、わたしは個人的に、君に忠告したい。このままでは身の破滅だ。回避する手段は少ないが、残されてはいる」
このまま、目についた人間を殺していくのでは、それは殺人鬼。しかしハムエッグは殺し屋としての道を提示すると言っている。
アーロンからしてみればどちらでもよかった。殺し屋だろうが、殺人鬼だろうが。
ただ、今よりもマシな境遇があると言うのならば、聞いてみるのも悪くないと思えた。
「話してみろ」
「聞く気分になったかな?」
「サガラを通さずに俺を拉致した時点で、もう選択肢は少ないのだろう。俺が足掻けばそのラピスとやらが殺す。強欲商人は手薄になっている。それを突いて抹殺する事など造作もない。ホテルからしてみれば、格好のチャンスを与えている。それで一個貸しが作れる。つまり、俺がここでうんと言おうが首を横に振ろうが、どっちにしろ、益はあるという事だ」
ハムエッグは丸っこい手先で拍手する。それをラピスも真似ていた。
「さすがだよ、アーロン。頭が回る奴は嫌いじゃない。そうだよ、既に強欲商人サガラは射程範囲だ。いつでも殺せるが、わたしは、君に言った。機会を与えたいと。だから、ここからは君の戦いだ。君が、これから先を変えるために、行動出来るんだ」
「ホテルの尖兵として、サガラを抹殺しろ、か?」
「半分は正解だが、今、わたしがホテルを押さえている。察知しているのはわたし個人のデータベースだ。つまり、ホテルはわたしが情報を流さない限り、動き出さない。君の戦いなんだ」
「何をさせたい」
「サガラを殺せ。君の手で」
放たれた言葉は意外というほどでもなかった。この状況で、ハムエッグが提言するのは限られている。
自分の下について飼い主を殺せ、という事だ。
「俺はお前の下にはつかない」
「そういう問題じゃなく、わたしは、君に温情を与えているんだ。このまま飼い殺しにされる優秀な暗殺者を見たくなくってね。君が選べるのは、二つの道だ。一つは、このままサガラの右腕として、街に立ち向かう道。もう一つは、誰にも縛られず、真の殺し屋として再スタートする道。どちらでもいい、君が選べ」
どう考えても後者のほうが分のいい選択肢だ。しかし、ここで重要なのは自分で選んだという一事。
アーロンは今まで、選ぶ事など出来なかった。
波導使いになった事も、サガラに使われている事も、選んだ結果ではない。流され、そうするしかない道に追い込まれてきた。
人生で初めてかもしれない。
ここで選べば、自分は本当に、自分の選んだ納得の上で生きられる。
今までの道を帳消しには出来ないが、ここから先ならば変えられると。
ハムエッグは黙ってアーロンの返事を待っていた。ここでピカチュウを引っ手繰り、この盟主から逃れる事もまた選択の一部。
――自分はどうしたい?
胸中に問いかける。何のために殺し屋になった? 何のために、自らを研鑽の日々に置いた?
変わるためではなかったのか。
青い闇を払う時も、このヤマブキで生きていく時も、根底にあったのは変わりたいという精神だ。
アーロンは戸惑いつつも答えを模索した。
「俺は……本当に何が出来るのか、分からないんだ。この波導で、何が成せるのか。師父は、最後の最後に俺には教えてくれなかった。俺も、師父から逃げるように別の道を選んだ。波導で人を幸せに出来ると、本当に思っていたんだ」
最初の希望は消え去った。もうこの手は血に塗れている。
「だが、次の希望があるはずだ。次に繋げるのに、君の手はまだ、それほど手遅れじゃないと思うがね」
立ち上がり、ハムエッグと向き合う。睨み返すアーロンにもハムエッグは涼しげだ。
「俺は、人生がそう何度も、やり直せるとは思っていない。それほど都合がいいとも、もう思ってなどいない」
「ああ、そうだとも」
「だが、今が岐路であるのは分かる。ここで選んだ事に、一生後悔するか、それとも、何かを見つけ出すのか、俺にはまるで分からないが、やってやる」
アーロンの手にモンスターボールが握られる。青いコートを翻し、アーロンはその場を立ち去った。