第百二十八話「最後の業」
「一瞬だった」
シャクエンは懺悔するように語る。アンズも顔を伏せていた。自分達がいながら、と後悔の声を漏らす。
「ホテルのエアームドだと思ったから、伝令か何かだと思ったの。まさか、操られていたなんて」
二人に非はない。問題なのは自分だった。
アーロンは無理やり叩き起こした右腕を休ませつつ、次の策を練っていた。
どうすれば、あのゼロという波導使いに勝てる? 何を犠牲にすればいい?
「一度、ホテルとハムエッグに会うべきか」
「本当に、お兄ちゃん、スノウドロップがやられたのは……」
「ああ、事実だ」
自分が情報を得て発った時には、もう勝負は決していた。波導使いゼロ。あの人物の持つ波導は今までの敵の比ではない。
波導吸収能力もまるで理解出来なかった。こちらの波導切断と同様か、それ以上の波導の応用だ。
「石化の波導使い……。父上の、仇」
アンズは冷静になれない可能性がある。アーロンはすぐさま声にしていた。
「お前は、今回の戦いから外れろ」
「でも……! 父上の仇ならあたい」
「だから、だ。キョウの仇、という一事に惑わされて大局を見失う。お前達はメイの所在を追ってくれ。あの石化の波導使いは、俺が倒す」
「でも、波導使い。あなただって、苦戦した」
シャクエンの言葉は事実だ。石化の波導使いの手持ちでさえも分からないこの状況は不利である。
「どうにかして、ホテルとハムエッグに渡りをつける。その間に、敵の弱点を突く」
「もし、弱点なんてなかったら?」
最悪の想定だったがアーロンは備えを口にしていた。
「物量戦でも、恐らくは勝利は望めまい。その時はヤマブキという街を出ろ。それしかない」
屈服を是としろ、という言葉にシャクエンは歯噛みした。
「何で……。私達の街なのに……」
「あの波導使いは、何が目的なの……」
それも問い質さなければ。アーロンがホロキャスターに手を伸ばしたのと、店主がノックしたのは同時だった。
「お客だよ」
通されたのはなんと、ハムエッグとホテルのラブリ本人であった。取り巻きはいるものの、この二人が一同に会するのは初めてである。それだけ事の重大さを物語っていた。
「クズの波導使い……、やられたのね」
「アーロン。わたしのほうから訪れるのは初めてかな?」
「ああ。最悪の事態を思わせる」
返すとハムエッグは僅かに笑ったが、いつものような余裕はなさそうだった。
「いいかな? 部屋に入っても」
「ああ。俺も、話をしなければ、と思っていたところだ」
「話、ね。アーロン。単刀直入に言う。スノウドロップが敗北した」
やはり、と言うべきかハムエッグは焦っている。ホテルも同じのようでその情報に嘆息をついた。
「……言いたくないけれど、ホテル側も戦力はほぼ開放し切った。それでも、勝利出来なかった」
「ホテルとハムエッグでも勝てない相手となれば、これを期に街を引っくり返そうという輩が集まってくる。そいつらの投資で石化の波導使い――ゼロは名実共にこの街の支配者となる」
実業家達の資産を集めれば、一つ一つは小さくともこの街を引っくり返すのには充分だ。支配構図が変わる。ハムエッグとホテルによる盟約は解かれ、新たな秩序が始まってしまう。
「そうなれば、わたしが統治する前の無法地帯に逆戻り……。いや、それでも希望的観測だな。無法地帯以下の、ただのゴミ溜めになる」
「悔しいけれど同意ね。今までの協定関係や力関係が無視されるとなれば、それこそ意味を成さない。わたくし達はどうしても、手を組まざるを得なくなる」
「だが歴然たる事実として、スノウドロップの敗北は耳聡い連中には入っているだろう。俺が引き分けに持ち込んだ時だけでも酷かった。だというのに、新参者が最強の暗殺者を下したとなれば、速い連中は動き出す」
今も、こちらの裏を掻こうという人間は数多いだろう。ハムエッグは首肯する。
「スノウドロップはすぐには出せない。三日後、だったか。間に合いそうにもない」
言っていないのに知っているという事は、既にゼロが言い触らしたか。三日後にこの街の支配構図が入れ替わると。
「本当に、嫌になる事だけれど、あなたしかいない。あなただけが、この街で唯一、あの波導使いに届く」
ラブリが弱音を吐くのはよっぽどだ。それほどに、ホテルも被害を被ったという事だろう。
「だが、俺でも怪しい。あいつの手持ちでさえも明らかにならないのだから」
「せめて相手の情報がもっとあれば、ね。エアームドから得た情報は?」
「全くもって。これがその映像だけれど」
ラブリの取り出したホロキャスターに映し出されていた俯瞰映像には、スノウドロップの使った吹雪に風穴を開けるゼロの姿があった。黒と赤の両翼が展開している。
それが手持ちか、と判じたがそれ以上は一切不明であった。明らかなのは僅かな事だけだ。
「一つ、相手のポケモンは波導を使える」
ハムエッグの挙げる事柄にラブリが言葉を継いだ。
「二つ目は、石化を使えるポケモンである事」
「三つ、その石化を自在に操れる上に、波導使いとしての格も上」
最後に付け加えたアーロンの声にこの会合の人々は沈黙した。
石化の波導使いを倒せなくてはこの街は蹂躙される。だが、その目星もつかない。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
アーロンの申し出に誰も断らなかった。切羽詰ったこの状況で誰もが打開策を欲していながらも、その方法が一切思い浮かばない。
アーロンでさえも勝利のビジョンはなかった。
メイが殺される。
石化させられ、自分の目の前で崩れ落ちる。
その映像ばかりが網膜にちらつき、アーロンは壁を殴りつける。
「俺に出来る事はないのか……」
「波導使い」
振りかけられた声にアーロンは目線を向ける。
シャクエンが不安げな眼差しを向けて佇んでいた。
「何だ?」
「波導使いが、その、困っているみたいだったから」
「困ってなどいない。勝つ手段を探すだけだ」
「本当に、あなたは一人で勝てると思っているの? そんな相手じゃないんでしょう?」
一度戦えば勝てるか勝てないかは分かる。ゼロとの勝負に、全く勝てるビジョンがない。
だが、シャクエンの前でそのような弱気な部分を晒すわけにもいかない。
「俺は、波導の殺し屋だ。だから、どこまでも独りでやってやる。奴を殺せば、全てが丸く収まるのだろう? 奴の喉笛を掻っ切って、一欠けらすらも残さない」
口ではいくらでも言えた。しかし、実際に戦えば勝てる見込みが薄いのは明らかだ。スノウドロップやホテルの戦力でも全く敵わなかった相手。それを自分一人で倒せるのか。
「私は、勝てないのならば、逃げてもいいと思っている」
意外な言葉だった。シャクエンだけは、たとえ支配が変わってもこの街に居続けると思ったからだ。
「何故だ? 敵前逃亡になる」
「もう、敵だとか、味方だとか、そういうのに縛られない生き方が出来るんだと思っていた。波導使いと、アンズと、……メイと。四人で、本当の家族みたいに過ごせるんだって思っていた。……私も、甘い夢を見ていたのかもしれない」
自分と同じだ。家族ごっこがまかり通るのだとシャクエンも夢見ていたのだ。だが、現実はそれを許してくれない。自分達は否応なしに決断を迫られている。
残酷な決断であった。
もう、家族のように生きる事は出来ない。
「……他の街で、静かに過ごそうと言うのか」
「メイを取り戻せないのなら、私は、心に傷を負ったままこの街で生きる事なんて出来ない」
「だが、それはどこに行っても同じ事だ。どこに逃げても、メイを死なせた事が重石となって、きっと崩壊する。どんなに取り繕っても、あいつなしでは……、俺達は家族になんてなれないんだ」
そうだ、今さらに気がついてしまった。
――メイが全ての始まりだったのだ。
メイがいたからシャクエンも、アンズも、安息の暮らしが出来ていた。彼女が、自分達にもう一つの道を示してくれていたのだ。
そんな中心軸を失ってしまえば、もう二度と元には戻れないだろう。
きっと、誰が笑顔でも、嘘くさいだけになってしまう。
「俺は、どうすればいい……。教えてくれ。シャクエン。こういう時、どうすればいいんだ。俺は、何も知らずに生きてきた。ようやく、この世界を感じ取る事が出来たというのに、そんな時に、何もかもが滑り落ちていくなんて……」
「波導使い……。私も、分からない。何をすればいいのか。メイを助け出したいけれど、自分の力が及ぶのか」
何を寄る辺にすればいいのか分からなかった。圧倒的な力を前に、こうも自分達は無力なのか。
「――らしくない感傷に浸っているじゃないか。アーロン」
その言葉に二人して振り返った。
その姿に言葉を失う。
青い旅人帽に、青いコートを身に纏っていた。鞄を提げており、いつからそこにいたのか、まるで読めなかった。
「波導使いと……同じ姿」
それの意味するところは一つだ。
「――師父」
どうして、と声にする前に師父は歩み寄ってきて口元に笑みを浮かべる。
「アーロン。その名をくれてやったが、残念だよ」
何を言っているのだ。アーロンが立ち尽くしていると、その胸元へとすっと手が触れられた。
「――こうも、弱くなっているとは」
一撃であった。
触れられただけなのに、アーロンは吹き飛ばされていた。壁に激突し、肺の中の空気を吐き出す。
咳き込むアーロンへと師父は超越者の眼差しを向けてきた。
シャクエンが駆け寄って来ようとするがアーロンは声で制する。
「来るな! これは、俺と師父の問題だ」
「一端の口を利くようになったな。あの時の子供が」
「師父、何で今さら、俺の前に現れた?」
「理由がいるのか? ヤマブキに訪れただけだ」
「違う! あんたは言ったはずだ! 自分を次に見つける時は、殺し合いになると。波導使いは、二人と要らない」
臨戦態勢に入るアーロンに師父は冷徹だった。
「そうだな。そのような事も言った。だが、そんな場合か、アーロン。ゼロが、動き出したようじゃないか」
アーロンはハッとする。師父は全てを知っていてこの街に訪れたのか。
「ゼロの事を……」
「よぉく、知っているさ。石化の波導使い。我らアーロンの一門とはまた違う、別種の波導使いの一族だ」
「そんな事、俺は教えてももらえなかった」
「合間見える事を想定していなかったからな。まさか、我が馬鹿弟子が殺し屋なんて稼業をやっている事も、その殺しの最中に奴と戦う事も、全て想定外だ」
師父の言葉にアーロンは黙りこくるしか出来ない。いつか、師父と出会う時には自分の今を告げなければならないと思っていた。しかしこんな状況になるとは思ってもみない。
「師父、俺は……」
「別段、その稼業を責めているわけではない。波導切断、お前のやり方を鑑みれば、その結論に行き着いたのは何らおかしくもない。ただ、馬鹿弟子はあの時、わたしの下を去った時から何も成長していない事だけは確かだと言う事だ」
耳に痛かった。あの時――師父の下を去り、教えを全て放棄してこの街に来た時から、何一つ自分は変わっていない。
「アーロン。どうした? 一つも返してこないという事は、全て諦めたのか?」
「俺は、諦めてなどいない……。行け、ピカチュウ!」
繰り出したピカチュウが肩に留まる。師父は以前と同じように鼻を鳴らした。
「ピカチュウ、か。随分と成長した。お前に比べればポケモンのほうがよっぽどだ」
「師父、俺は、あんたを……!」
「余計な言葉が要るか? わたしと、お前の間に」
師父は鞄からモンスターボールを取り出し、それを地面に落とした。
「ルカリオ。十年振りか?」
師父のルカリオは何も変わっていなかった。その雄々しさも、波導の強さも、自分に教える者として立ち塞がる姿勢も。
「十年前とは違う」
「何が違う? アーロン、ちょっとばかし自活出来るようになったからと言ってお前は何一つ成長していない」
「減らず口を!」
飛び込んだアーロンが電撃を師父に見舞おうとする。それを阻んだのはルカリオだ。
波導を帯びた拳をアーロンの頭部に叩き込もうとする。
すぐさま張っておいた電気ワイヤーで足を取ろうとした。しかし、ルカリオはそれを読んでいたかのように動き、アーロンの背後を取る。
「それも、読めている」
二本目のワイヤーがルカリオの両腕を縛り付けた。これでルカリオに手は出せない。
「師父、俺はここで超える!」
「超える? 馬鹿を言うな。次に会った時は殺す、だったはずだ。そんな事も忘れたのか? 我が馬鹿弟子は」
ルカリオが瞬時に空間を飛び越えて自分の眼前に降り立った。
馬鹿な。そんなに早く解けるはずがない。
「嘗めていたのはお互い様だな、アーロン。わたしのルカリオが十年前、お前に本気を出していたとでも?」
ルカリオの拳がアーロンの胸元を捉えた。波導を瞬時に固めて防御しなければ肋骨を持っていかれていたほどの威力である。
仰け反ったアーロンの視界に入ったのは跳躍したルカリオだった。足先に波導を溜めている。それの意味するところを理解し、即座に右腕で庇った。
「飛び膝蹴り」
放たれた一撃を電流と波導でいなす。それでも減殺し切れない重さがアーロンの右腕を襲った。
左手で電気ワイヤーを繰ってルカリオの首筋を絞めようとする。しかし、ルカリオは放った波導だけでそれを霧散させた。
「さっきも、解いたわけじゃないのか……」
「波導を放出し、それを力として操る。わたしの波導の使い方だ。まさか、それさえも忘却したか?」
ルカリオの間断のない拳に、アーロンは防戦一方であった。電流を見舞おうにも隙がない。十年前よりもなお、ルカリオは強くなっている。
舌打ちをして自分の周りへと電撃を拡散させた。これで距離が稼げるか、と思ったが、ルカリオは地面に波導で場を形成し、両腕を広げた。
雄々しく吼えたその攻撃だけで、小賢しく張った電撃の網が掻き消される。
まるで勝負にならなかった。
ルカリオが踊り上がり、その蹴りを打ち下ろす。アーロンは飛び退って体勢を整えようとするが、地を這って波導が追撃をしてきた。
「龍の波導」
ドラゴンの牙を形成した波導が下段から襲い来る。アーロンは咄嗟に「エレキネット」を展開した。
しかし電気の網は容易く突破され波導が腕に噛みつく。
侵食した波導が自身の波導回路を狂わせた。
「こいつ……! ピカチュウ! ボルテッカー!」
全開にした電流を放出し、辛うじて波導攻撃を無効化する。しかしルカリオは止まっている相手ではない。眼前から掻き消えたルカリオの姿は背後にあった。
トン、と拳が背筋に当てられる。わざと波導を消しての拳。つまり、王手であった。
アーロンの身体から戦闘意欲が凪いでいく。これほどの力の差だとは思いもしなかった。
「俺、は……」
「身体だけ立派に育って、中身はまだ子供の時のほうがマシだったぞ。アーロン。もう一度言う。弱くなったのだ、お前は」
「俺が、弱く……」
信じられない事に目を戦慄かせる。数多の殺し屋と戦った。時に命を削ってまで極めた波導の極地があったはずだ。だというのに、師父にはまるで敵わない。
「これでは波導継承者の名は返上だな。アーロン。わたしは、二三日、この街に滞在する。その間にわたしを破れなければ、石化の波導使いに敵うはずもない。お前は名を失い、石化の波導使いがこの街を支配する事だろう」
師父の他人事めいた言葉に耐えかねたのか、シャクエンが口を挟んだ。
「それでも! 波導使いは戦った! 戦って、挑んだだけ、あなたよりかはマシなはず!」
「誰だ、この女は?」
「……殺し屋です」
発した声の弱々しさに師父は鼻を鳴らす。
「殺し屋同士で家族ごっこでもしていたのか? 女など、いるだけ邪魔だ」
「あなたがそれだけ強いのならば、ゼロに挑めばいい! それもしないあなたは、卑怯者に過ぎない!」
「わたしが卑怯者、か。言ってくれるな、女」
「シャクエン。やめろ。師父に、口ごたえをするな」
止めに入ったアーロンに、シャクエンは堪え切れないものがあったらしい。師父へと食いかかるように罵声を飛ばす。
「立ち向かわないのならば、波導使いを名乗るのも恥だと! あなたなんて、師でも何でもない!」
「やめろと言っているんだ! 炎魔!」
遮って放った怒声に、シャクエンはようやく我に帰った。師父は口元を緩めていた。
「面白い。わたしが卑怯者で、恥晒しだと。そう思うか? アーロン」
「……いえ。俺は勝てなかった。結局、それに集約される」
「波導使い? でも」
「そうだ。勝利者の前では敗北者は地べたを這いずり回るだけ。間違えるな、アーロン。わたしは三日の猶予を与えた。本来ならば今すぐにでも破門してやりたいほどだが、最後の、師としての温情だ。三日の間に、わたしに勝ってみせろ。そうすれば、最後の波導を教える」
師父は踵を返して行った。ルカリオがそれに続く。
「波導使い。大丈夫なの」
シャクエンに肩を貸してもらいようやく立ち上がる。ダメージは深刻だったが、身体よりも心だった。
――師父に、勝てると思い込んでいた。
それが実際にやればこうも容易い。力の差は歴然である。
「師父……、あの人が最後の波導を教える、と言ったのには理由がある」
アーロンは呼吸を整えて師父の行ってしまった場所を眺めた。
「どういう事?」
「俺は、あの人に波導の全てを教えてもらったわけじゃない。最後の最後に、逃げ出したんだ」
シャクエンが目を瞠る。それも当然だろう。自分が波導使いだとこれまで名乗ってきたのが全て嘘だと言っているようなものだからだ。
「どうして……。でもアーロンの名前を」
「継承した。だが、俺は我慢出来ない事があった。あの時、あの草原で俺の青い闇を払ってくれた人に、報いる事の出来ないまま、この街にやってきたんだ」
アジトの前まで来たアーロンは迎えに出向いているハムエッグやラブリ達を目にした。
彼らにも話さなければならないだろう。自分の最後の業を。
「アーロン。師父とやらが、来たんだね」
ハムエッグは全てを悟っているようだった。一階の喫茶店に入り、椅子に腰かける。
「少し、長い昔話になりそうだ」