第百二十四話「散り行く命」
次の瞬間、バクフーンが残像を引いて波導使いの背後に立ち現れる。手を払って石化させようとする波導使いであるが、その姿も残像であった。次に現れたのは直上だ。食い千切らんと開かれた牙を波導使いが手で払う。
照射された赤色に掻き消されたそれさえも、残像。
本体は、と探したのは波導使いだけではない。この場にいる全員であった。
だが、陽炎の中バクフーン本体は全く姿を現さない。時折、その速度が閾値を越えて現世に顕現しているように生じるが、それが残像である事は誰もが理解していた。
橙色に染まったバクフーンの姿を引き裂く赤い閃光も弾切れを警戒してか波導使いは撃たなくなる。
「こちらのエネルギー切れを狙った戦法。小賢しく、立ち回るつもりか」
「小賢しかろうが勝ったもんが正義やろ。うちは勝つために、全てを捨ててまでここにいる。炎魔に勝てへんかったのも、この街での残飯処理に回っているのも、全て、いつか来る勝利のため。……そして、分かった。それは今やとな!」
残像を引いた爪が波導使いの背中に迫る。身を翻し、それを回避し様に放たれた閃光がバクフーンの腹腔を穿った。
しかし、それも残像。
本体の行方が全く分からないのだろう。ホテルの構成員達がざわめく。
「熾天使のポケモンはどこへ……」
「最初から、居らんと思ったほうがまだマシちゃうか? 波導使い。この状況に、うちの〈蜃気楼〉のどこから来るかも分からない波状攻撃。点やない、面での攻撃をどう避けるのか、あるいはどういなすのか、そればっかり考えとるやろ?」
「……バクフーンは存在する。それくらいは分かる」
「そんなまま事やないって言うとるんやけれど、通じんか。分からんからしゃあないやろうな」
波導使いはまだ読めていないのだ。
〈蜃気楼〉の真髄。熾天使の真の強さを。
バクフーンの姿が四方八方に拡散する。全方位からのバクフーンの脅威に波導使いは手を払って応戦する。
赤い光の瞬き。
その根源を、モカは読み取る。
「そこやな。〈蜃気楼〉! そいつのコートの下を焼いて!」
どこから発生したのか分からない炎熱が波導使いのコートへと延焼する。鎮火させようとした波導使いへとバクフーンの牙と爪が襲いかかる。それは炎の広がったコートの裾からであり、あるいは死角にある位置からの攻撃でもあった。
守りに徹していた波導使いがここに来て異常を感じたかのように立ち止まる。
全方位、もっと言えば何体も存在するバクフーンの幻影に違和感を覚えたのだろう。
これ以上は種を明かす結果になる。モカはすぐさま最後の指揮を振るった。
「〈蜃気楼〉、もうこれでラストダンス! 波導使いを、骨の髄まで焼き尽くす!」
瞬間、波導使いの足元から着火した炎が全身を覆っていく。赤い光を放出する前の攻撃に判断さえも下せなかったのか、波導使いは全身を焼かれていた。
炎に包まれ、踊り狂う人形のように波導使いがのた打ち回り、その場に蹲る。
その頭部へと最後の一撃が放たれた。
バクフーンの拳が波導使いの首を落とす。
ごとりと転がった波導使いの燃え盛る頭部にモカは勝利を確信した。
「勝った……」
炎のフィールド全域から波導使いを見下ろすバクフーンの幻影がめいめいに姿を現す。
ホテルの構成員には決して分からない戦術だろう。
これ以上やるのは熾天使としても旨味がないと判じる。バクフーンに攻撃の指示を止めさせようとした瞬間だった。
「――なるほど、この位置からならば、熾天使の炎の扱いも分かってくる」
ハッとして振り返る。
佇んでいた黒衣の波導使いは健在であった。
首も、もちろんある。では先ほど焼いた相手は?
「焼かせたのは……囮……」
――否。断じて否だ。
自分とて一流の暗殺者。対象を間違えて殺すなどあり得ない。波導使いはこめかみを突き声にする。
「熾天使。炎の幻術の理由が分かった。バクフーンの幻影だと思っていたものは、実のところ幻影でも何でもない。直撃の瞬間まで、全てが実体であった。身代わり、という技がある。それによって体力を引き換えにバクフーンをその分だけ身代わりを作り、攻撃の直前まで実体化させる。お前の位置からならば、どのバクフーンにどれだけ体力を割いて実体化させているのか、よぉく分かる。しかし、好位置を見つけ出すまでが不可能だな。なにせ、その位置は熾天使、お前の背後でなければならない。戦闘においてこれを出されれば、まずもって勝利は不可能となるだろう」
だというのに、何故自分の後ろにいる?
解き明かせない謎に波導使いは短く答える。
「眼だ。それを波導で操り、視覚を奪う。触れなければ難しい技ではあったが、お前があまりにも集中しているせいで我の入れ替わりには気づけなかったようだな。入れ替わった瞬間を狙い、視覚の位相を変えさせてもらった。お前の眼は、もう我を映す事はない」
「まやかしを!」
払った手に連動し、バクフーンが駆け抜ける。振るわれた爪による一閃はしかし、何もない空を掻っ切っただけだ。
「だから、度し難いと言っているだろう。もう眼は使い物にならない」
今度は別の位置から声が聞こえてくる。
モカは振り返ると同時にバクフーンを奔らせる。牙と爪、あるいはバクフーンそのものを使っての特攻。
持てる全てを尽くして焼こうとしても、今度は正反対の位置から声が飛んだ。
「どうした? 先ほどから当てずっぽうか?」
あり得ない。自分の眼には、焼かれている波導使いが確かに映っているというのに、声の主は死んでいない。
何かの冗談に思えたが肩に触れたその体温に冗談ではないのだと悟った。
「この距離まで近づけば、最早、至近。さて、ここからどうしようと我の思いのままだが、どうする? このまま益のない戦いを続けるか?」
モカは身体ごと振り払い、自身の周囲をバクフーンに焼かせた。円形に広がった燃焼範囲に敵はいるはずだった。
しかし、今度はやけに離れて波導使いの声が聞こえてくる。
「そんなに遠くに攻撃してどうする?」
周囲を焼いた、だというのに。
――黒衣の波導使いの姿は、その攻撃領域の中にあった。
息がかかるほどの距離にあるのは、無感情の能面だ。殺すと決めた眼差しには一切の慈悲がない。
奈落を見通しているような眼が自分を反射している。
「嘘!」
自分自身を囮にしてバクフーンを集め直す。「かげぶんしん」と「みがわり」、それに貰い火特性を利用した炎熱戦法が通じない道理はない。
最早、その存在を炎の中に落とし込んだバクフーンはどこにでもいて、どこにもいない。それだけの存在へと昇華したのだ。
それなのに、一切命中していないなど、あり得ない。
自分の操る炎そのものがバクフーンと言ってもいい。手を振り払えば、炎が波立った。その中にもバクフーンはいる。
三体ほどに分裂したバクフーンが波導使いを串刺しにしようとする。しかし、それらを全て、難なく逃れた波導使いはまたしてもモカの肩へと触れた。
「もう、遠近感さえも消え去っている。我と戦うのは、無駄だ。時間がいくらあっても足りないぞ」
「黙れ!」
燃え上がらせた炎の中にバクフーンが亡霊のように出現する。炎の端から端に至るまで、全てがバクフーンの攻撃領域だ。これを逃れる術はない。
赤い光が明滅する。
その光が射抜いたのはバクフーンではなく、モカの大腿部であった。
膝を落としたモカの肩口へと今度は同じように赤い光が突き刺さる。
瞬時に、動かなくなった。
石化されたのだと分かった時には波導使いの姿が眼に映らなくなっていた。万華鏡のように視界が分裂する。波導使いの像が幾つも重なり合い、どれが実像なのだか分からなくなった。
「うちの眼が……、何でこんな……」
「これが波導の力だ。影分身、身代わり、それに炎熱作用による陽炎、極限まで攻撃性能を高めたバクフーンと、このフィールドならば無限回復の特性、貰い火。それら全てを集めて作り上げた舞台だったが、我には及ばない。波導で分かる。幻影一つ一つの攻撃性能はたかだか相手の首を掻っ切る、その瞬間に発生するだけの限定的なもの。こうしてやれば、全て潰える」
波導使いが地面に手をついた瞬間、同心円状に広がった赤い光に炎が掻き消されていく。
当然、バクフーンもあおりを受けた。幻影が次々と消えて行き、最後に残ったのは残りの体力も僅かなバクフーン一体のみ。
炎もちらつくだけでもう回復の余力もない。
「弱点と言えば、このフィールドを脱すれば全て意味を失くす、という点であったが、一対一においてこれ以上の能力はあるまい。一度でもこの場に入れば、幻影の攻撃から逃れる手段はゼロだろう。だが、我は波導を極めた。敬意を表してあえて言おう、熾天使よ。――波導は、我に在り」
バクフーンへと赤い光が照射された直後、その身体が固められていた。石化したバクフーンを、歩み寄った波導使いが手を当てる。それだけで内側から発生した亀裂がバクフーンを粉砕した。
「そんな……。うちの、〈蜃気楼〉が……」
「トレーナーも、後を追うといい。どうせ、手持ちを失えば、暗殺者など死んだも同然だ」
モカの頭部を引っ掴み、波導使いが声にする。モカはもう全て諦めていた。バクフーンが死んだとなれば抵抗の手段もない。
「……でも、残された死に方はある」
発した意味が分からないのか、波導使いが眉をひそめる。
奥歯に仕込んでおいた仕掛けを噛み締める。
その瞬間、モカの体内から着火した。瞬く間に膨れ上がった灼熱の領域に波導使いが驚愕に塗り固めた表情で声にする。
「見事なり……」
その声を聞いたのがモカ・アネモニーの最期であった。
自爆。
しかも自分を巻き込んだ広範囲を灼熱の域に落とし込む。まさしく炎の暗殺者らしい最期であった。構成員達は黙ってその戦いを眺めていたが、やがて堪え切れなくなったかのように敬礼を始める。
利用し、利用される側だったとは言え、熾天使はホテルの利益として働いた。その行動には敬意を表するべきだと感じたのだ。
だが、その美しき賛美も直後に悲鳴に変わる。
赤い光が炎の中で明滅し、一人の構成員を貫いた。
その構成員は腹部から徐々に石化して行き、断末魔を上げて身体が粉砕された。
「ゴミだ。人間は、死ねばゴミになる」
炎を引き裂いて黒衣の波導使いが現れる。まさしく災厄の招き手のように、超越の眼差しを携えて。
構成員達はどうするべきか、決めあぐねていた。熾天使が散った。
それはもう、クイタラン程度ではどうしようもないという事だった。
「退くのならば退くといい。だが、来るのならば容赦はしない。一つずつ、潰してやろう」
――敵前逃亡など、あり得ない。
ガンマ小隊の人々の意思は一つだった。だからこそ、この瞬間、彼らはこの戦いを俯瞰している小隊長へと散り際の声を送った。
「小隊長、先に行きます!」
雄叫びを発してクイタランと共に特攻する構成員。彼の腕が石化し、次いでクイタランの発生させた炎の中に自らを投げ込んだ。直後、備え持っていた近接爆雷が起爆し、石化の波導使いの耳を潰す。
暫時、立ち止まった姿勢の波導使いへと雪崩のように構成員達が突撃した。
「ジェーン小隊長、ご武運を」
「ホテルミーシャに、栄光あれ!」
それぞれの持っている価値観。己の命を賭すに足る存在。家族への最後の言葉。敬愛する者へと捧げる命の華。
石化の照射が続き、構成員達は物言わぬ石となっていく。石となってまでも生き永らえる必要はない、とその後ろを務めた構成員が炸裂弾のピンを引き、自分ごと波導使いへと攻撃を投げ込む。
しかし無傷だ。
波導使いには傷一つない。先ほど、熾天使との戦いで発生したはずの炎も消し去り、波導使いは無慈悲に手を払う。指揮者のタクトのように鮮やかに払われる手で、命が摘み取られる。
一つ、また一つ――。
屍の山の代わりに爆発が重複し、間断のない攻撃と化すがそれでも相手は怯まない。
牡丹のように咲いた爆発の光さえも石となり、砂粒となって消えていく。命の証明も。その覚悟も、全て砂粒のようだ。
時間という永劫の存在があるのならば、その前に立ち竦むしかない、些事であった。命そのものが、羽虫の出来事のように潰えていく。
やがて、爆発の音が止んだ。
クイタランも、ドリュウズも、構成員もいなかった。
周囲には骸の代わりに無数の砂の山。その中央で波導使いは煤けた風に佇む。
「終わったか。だが、この程度だったのだろう。命も、何もかも。虚しさしか残らない。それも分からずして、何故、生きられる? どうして、無駄な事が出来るのだ?」
『それも分かっていないクソ野郎だからだよ』
発せられた声と共に風を引き裂く音が耳朶を打った。
波導使いが振り仰いだ視界には銀翼を月光に翻すエアームド数体がいた。
「無意味だ。空から攻めようが、陸から来ようが」
『だから、今は撤退する。雪辱は、お前の死でもっても償えない。その肉片の塵と化すまで、我らが恨み、晴らせぬと思え』
銀翼の影が後ろ足に掴んでいた何かを手離す。
次々と落下してくるそれを目にした瞬間、波導使いが手を薙ぎ払う。
赤い閃光が瞬くのと、エアームドの有していたナパーム弾の火が点火するのは同時だった。
『こちらアルファ小隊! ジェーン小隊長、部隊は』
相手が声を詰まらせる。戦局をモニターする車両の中でジェーンは咽び泣いていた。散っていった仲間達は勇敢であった。自分はそれを伝えなければならない。だというのに、安全圏で見守っているのが酷く卑怯なように思われた。
『……ジェーン小隊長。帰還するのが、小隊長の務めである』
諭されるまでもない。ジェーンは涙を拭い、了解の復誦を上げた。
「ガンマ小隊は全滅。ボスに通達されたし」
この無様な戦況を、ホテルの上層部がどう受け止めるのか。
きっと、よく戦ってくれた、と言うに違いない。自分を労ってもくれるだろう。
――それほど賢しくない私を、お許しください。
最後に祈ってから、ジェーンは車両のハンドルを切った。
四十地区の路地に無理やり捩じ込み、いななき声を上げるエンジンが目標へと向かって猪突する。
フロントガラスの先には、部下を屠った怨敵の姿が。
ジェーンは車両ごと特攻し叫ぶ。
「ホテルミーシャに、栄光あれ!」
直後、爆風と破壊の連鎖が彼女の精神を闇の向こうへと誘った。