第百二十三話「炎熱の使者」
「熾天使、だと?」
石化の波導使いが僅かに動きを止めた。その隙にクイタランが炎を追加していく。既に常人ならば耐え切れないほどの温度に達しているはずだったが、波導使いは汗一つ掻かない。
「伝え聞いたところによると、この街の殺し屋の二番煎じだったな。炎魔、のカウンターとして作られた、という」
相手も既知のようだ。構成員達は自分達も突然に組まされた編成に戸惑っていた。
――以前、敵であった対象を味方にした。
にわかには信じ難い事であったが、ボスであるラブリがそうしたのならば納得も出来る。
ホテルミーシャはラブリを中心軸として回る強豪の集団だ。
一人一人が、独立しても稼動可能な歴戦の兵達。それを集団で従えているラブリ、という圧倒的な存在。
構成員達はラブリのためならば命を賭す。それは一度ホテルに忠誠を誓えば例外はない。
今も火炎の中に隠れているのであろう、熾天使と、その手持ちであるバクフーンの〈蜃気楼〉も同様であろう。
炎魔と同等の脅威。それが今は味方についている。安堵よりも、いつ牙を剥かれるのか分からない、恐怖が勝っていた。
構成員達も、熾天使の実力をはかりかねている。どこまでやれるのか。お手並み拝見と行こう。
「悪いが高みの見物はさせるつもりはないのだ。炎の中に潜んで、我の命を狙うのならば来い。食い破りに来るといい」
石化の波導使いはどこまでも威風堂々としている。青の死神とはまた違う脅威、と構成員達は見定めていた。
その時、波導使いの背後の火炎が盛り上がった。
瞬時に波導使いが手を薙ぎ払う。当然、その場所からバクフーンが現れるのだと思われた。
しかし、出現したのは波導使いの真正面だ。
バクフーンは炎の襟巻きを拡張させ、その部分の火炎を意識的に高めただけに過ぎない。
完全に罠にかかった波導使いの喉元へと、バクフーンが食らいかかる。
勝負あった、と誰もが唾を飲み下した瞬間、波導使いはピンと指を弾いた。
それだけで赤い光線が照射される。
バクフーンは本能か、あるいは術者の指示かは不明だが身を翻して光線を回避した。身体を丸め、まさしく獣のように、波導使いを付け狙っている。
「察しのいい使い手だ。我が、そちらに気を取られた、と誤認した事までもお見通しか」
波導使いにブラフは効かない、と証明された。
火炎による偽装は意味がないと判じたのだろう。
燃え盛る炎の中から一人の少女が忽然と現れた。今までどこにいたというのか。白い衣服を身に纏った少女は灰の中から今しがた復活したようにこの戦場に顕現する。
「〈蜃気楼〉。少しばかり、手強い相手みたいやね」
あれが、と構成員達は息を呑んだ。
灰のような白い髪に、青い瞳。言葉を失う、とはこの事だ。魔性の美しさに誰もが絶句していた。
この世のものとは思えない。一度惹かれれば戻れない妖艶さを兼ね備えている。
「分からせてやらんとね。〈蜃気楼〉。うちと、波導使いの、力の差を」
手を薙いだだけで、辺り一面が業火に沈んだ。バクフーンの放ったこれまでにない強力な噴煙が、灼熱地帯に戦場を落とし込む。
当然、石化の波導使いは回避も儘ならず呑まれた。
一撃の余韻も、ましてやその予備動作もほとんどない。
――これがモカ・アネモニー。これが熾天使か。
構成員達は這い登ってくる恐れを抑えるので必死であった。
モカは手繰るように炎を自在に操り、その威力を強めたり弱めたりしている。
あえて、だ。あえて炎の弱い点を作り出している。
その場所に石化の波導使いを誘い込み、確実に抹殺するために。
まさしく暗殺のために鍛え上げられた素養。相手を殺す事にかけてはホテルの軍人達でさえも及び腰になるほどの、迷いのなさ。
当然、炎の弱い場所に相手は現れるかに思われた。
その誘導が成功するものだと。
だが、炎を割ったのはただの一閃であった。赤い一条の光線が走っただけで、強い部分も弱い部分も関係がなく、炎が鎮火された。
あまりに一瞬の出来事に頭がついていかない。
燃え盛る業火を一つも浴びずに、石化の波導使いが佇んでいた。
周囲は灼熱で満たされている。間違えようのない、真の炎熱の只中にある。
弱い部分、と言ってもそれは相対的な話であって、他の部分に比べれば、だ。
弱くともそれだけで常人ならば内臓まで焼き尽くされる事だろう。
その炎を逃げ惑うでもなく、相殺するでもなく、一撃で、無力化せしめた。
熾天使モカの表情に僅かな翳りが生じる。当然だろう。彼女からしてみれば絶対の灼熱の牢獄を作り上げたつもりであるのに、相手は牢屋の錠前をいじったわけでも、ましてや抜け穴に転じたわけでもない。
真正面から、打ち破ってみせた。
その偉業にホテルの構成員達は我慢の閾値を越えていた。
目の前で展開されている戦闘があまりに現実離れしていたせいか、それとも這い登ってくる恐怖を抑える精神の麻痺か。
数人の構成員がクイタランを伴って特攻した。
雄叫びを上げる構成員に、戻れ、と指示を上げる間もなく――。
石化の波導使いの洗礼が浴びせられた。
赤い光が明滅しただけで、領域に踏み込んだクイタランも、構成員も、石化させられていた。
予備動作も、何もない。ただ、踏み入っただけだ。それだけで固められた構成員の顔面を、石化の波導使いは殴り飛ばす。
塵となり、頭部が粉砕された。
砂粒が舞うのを彼らは息を呑んで見つめる事しか出来ない。
踏み入ればやられる、という確信に全員が及び腰になった。
「ちょっとは、やるようやね」
モカの声に石化の波導使いは炎を背にして平然とする。
「クイタランを使い、炎の場を作る。それを媒介にして、火を浴びれば浴びるほど強くなる特性、貰い火か。最強の域まで高めたバクフーンによる噴煙攻撃。なるほど、有効ではある。通常のトレーナーならば死に至るだろう。だが、我は波導使い。既に人間の域は超えた」
「あの時の波導使いも、随分と人間離れしていたけれどあんたほどやないわ。本物の、化け物やね」
平時の声音だがモカも恐れているのか、バクフーンにすぐの指示は出さない。慎重に流れを読んでいる。その間にも、石化の波導使いは手を払った。それだけで、その部分の炎は消え行く。
何か特別な事をしているようには見えない。赤い光の明滅だけで、払った箇所が消えていくのは奇術か何かのようだ。
「波導のタネ、教えてはもらえんのかね」
「残念ながら、言ったところで理解は出来まい。熾天使、かなりの使い手と見たが、まだだな。この領域ならば我の敵ではない」
「言ってくれるやないの。〈蜃気楼〉! クイタランの残した炎、全部吸い上げっ!」
バクフーンが仰け反り、炎の襟巻きを拡張させ、あろう事か場の火炎を吸収していく。その度に、脈動が走り、構成員でも分かるほどにバクフーンが強大になっていく。
火炎を得たバクフーンは全身から橙色の呼気を滾らせていた。血脈が走り、四肢の末端に赤い銅鑼のようなものが構築されていく。
何だ、と訝しげに見つめた構成員は一歩、踏み入っただけでゴーグル型の端末に異常を来たした。突然に現れるアラートの文字列に慌てて端末を投げ捨てる。すると、端末は地面に落ちる前に炭化して消えた。
どれほどの温度に達しているのか。全身に火炎の血潮を滾らせたバクフーンがかぁっと口腔を開く。
その一動作だけで、石化の波導使いのコートを灼熱が嬲った。コートの端が延焼している。石化の波導使いは手を払ってそれを鎮めようとするが簡単には消えなかった。
「まるで、怨嗟そのものが炎の形を取っているようだな」
「行くで、〈蜃気楼〉。あの、炎魔との戦闘でも出さんかった、あんたの真髄――」
バクフーンの眼窩から炎が巻き起こったかと思うと、その姿が瞬時に掻き消えた。
「見せてやり!」