第百十八話「死の足音」
吹き荒ぶ風が裏通りを吹き抜けた。
着膨れをしたホームレス達が僅かな火を求め合ってマッチを擦り合わせる。
暖炉の代わりにあるドラム缶にありつけたのは一部の人々だけで、そのみすぼらしいホームレスの男は輪から外れ、路地裏を彷徨っていた。
黒服の路地番がすぐ傍を通り抜ける。
「お、お目こぼしを」
ホームレスの言葉を無視して路地番は歩いていく。その背中にすがりついた。
「た、頼んます……。今日だけの、今日だけの駄賃をくだせぇ」
「駄賃だぁ? てめぇ、働きもしてねぇで何が駄賃だ! 汚らしいオッサンが!」
路地番がホームレスを蹴りつける。路地番とて、この街では最下層に近い役割であったが、自分達ホームレスよりかはマシな待遇であった。
殺し屋や、見られては困る境遇の人間に路地を開け放ち、その分の報酬をねだる、卑しい職業であっても、ホームレスに身を落とした自分よりかはマシだろう。
唇の端を切ったホームレスは、それでも路地番を呼びかける。
「お、お目こぼしを……。何でもします、何でもしますから」
「何でもたって役に立たなきゃ同じだろうが」
「この間のプラズマ団の蜂起の時に死んじまえばまだマシだったんじゃないですかねぇ」
路地番の部下が嘲る。その通りだった。死ねばまだマシなのだが、死ねるだけの度胸もない。
「放っとけって。どうせこいつら、死んでも死んでも湧いてくる。この街の汚物だよ」
「た、頼んますから」
「しつけぇぞ! てめぇみたいなのには一銭だってやるのは惜しいって言ってんだよ!」
殴られてホームレスは裏通りに転がった。唾を吐きつけられ、路地番は離れていく。
「ったく、叩いても叩いても出る羽虫みたいな奴らだな。まぁどの街でも同じ事か」
「参っちまいますね。オレら路地番の職業を軽んじられているようで」
「眼≠フ奴らにも成り切れない、半端者ばかりさ。口を閉ざし、一切の主張を抑えた眼≠ナあるのなら、少しは有効活用のしようがあるんだが、こんなオッサンじゃ、何にも務まらねぇ」
路地番の足音が離れていくのに従ってホームレスは死を覚悟した。
今年の冬は特段に冷える。恐らく、何人かのホームレスは凍死するだろう。その中の一人になるかもしれない。
――怖い。
死ぬのが怖いのもあるが、このまま何も信じず、何にも信じられないまま、たった独りで消えていくのが。
せめてすがるべき神の一つでも持っておくのだった。
ホームレスはゴミ捨て場に落ちていた小さな十字架を取り出す。木製の十字架で、敬謙な信徒の落としたものにしては細工も何もない、簡素なものだった。
せめて神ぐらいは信じさせて欲しかった。
何でもいい。すがるものが欲しいのだ。
「い、嫌だ。このまま、何にも満たされず、何もかもに見捨てられて、死んでいくなんて」
唇が震える。白い吐息が漏れる。身体が内奥から震え出し、心臓の音が妙に反響して聞こえてくる。
死の足音が近づいてきているのが分かった。
今宵で最後か、と思うと月を仰ぎたくなる。
月は雲間に隠れており、誰も自分を見初めてくれる人間はいなかった。
神もいない。この世には、救済などありはしない。
「ああ、何か、何か、恵んでくれぇ……。何でもいい、何でもいいんだ」
「――恵みが欲しいのか?」
その唐突な声音にホームレスは振り返る。
奇妙な井出達の男であった。
黒い旅人帽に、闇に紛れるかのような漆黒のコートを纏っている。落ち窪んだ眼窩から覗く瞳は鋭い。死者、という言葉を真っ先に想起した。
「し、死人……」
「恵みが欲しいのか、と聞いている」
その声で死人ではなく生きている人間であるのが分かったが、どこか浮世離れしたその言動にホームレスは戸惑うばかりだ。
「お、お恵みをくださるんで?」
「そうだ。恵んでやる。何がいい?」
まさか、ホームレスに施しをする酔狂な人間がいるとは思えなかった。しかし、ホームレスも必死だ。何か、今必要なものを考えた。
金か。それとも一晩の宿か。暖かい火か。
考えあぐねる。どれも、一日を過ごすのならば必要だが、それは一時的な救済に過ぎない。明日になれば、また同じものを必要とする。永遠にこの男が自分を救ってくれるはずもない。
「あ、あっしは……何でも。ただ、救いが欲しい」
信じるものが欲しかった。手にした十字架を視界に入れた男は白い吐息と共に声を放つ。
「では、救済を与えよう。魂の救済だ」
男の手がすっとホームレスの頭部に触れる。
その瞬間、多幸感が訪れた。
今まで感じた事のないような感覚であった。脳髄が奥底から揺さぶられて、心臓と渾然一体となり、脈動が体内から溢れてくる。
自分でも驚くほどの、体内の力。それが満ち満ちてくる。
「あ、あっしの身体の中から……」
「そうだ。これが波導だ。我はお前の波導を操り、体内から循環構造を変容させている。感じるだろう? これは幸福≠セ」
唇の端から唾が垂れてくる。人格を保っていられなくなるほどの幸福。
ホームレスは十字架を強く握った。目の前のこの男こそが、信じるべき神に思えたのだ。
「あ、あなた様は、神なのですか……」
「神、か。そうだな、力のある存在をそう規定するのならば、我は神と言ってもいいかもしれない」
ホームレスは男の足元にすがりつく。男がもう片方の手ですっと印を切った。
「神の印を与えよう。我が御許に降り立ちたまえ」
影がホームレスを覆う。男の両肩から翼が生えていた。赤と黒に彩られた翼で、内側が爪のように尖っている。
「ああ、信じるべき神は、ここに……」
「我が糧となれ。デスウイング」
それがホームレスに聞こえた最後の言葉だった。
翌日、路地番が同じ路地を通る時に気がついた事があった。
「どうなさいました?」
「いや、何か、砂粒が多いな。何だ、これ? 工事でもしたみたいな」
靴が踏みつけるのは細かい砂利だ。都市の一画に砂利が降り積もっているのである。
「昨日のホームレスが何か仕出かしたんじゃないですか?」
「かもしれない。路地を汚くするとオレ達の沽券に関わるからな。ちょっと見てくるか」
路地番達はホームレスが何かをやっているのならば、それを咎めようとしたのである。
路地の奥へと踏み入っていくと砂利は余計に酷くなり、路地番は明らかな嫌悪を示した。
「……ホームレス連中、何かやりやがったな。路地番の仕事を増やしやがって」
毒づくとうず高く積み上がっている灰の山があった。ホームレスの火の不始末だろう。路地番は首を横に振る。
「こんなところで火を焚きやがったのか。燃え移ったらどうする」
早速処理しようとすると、灰の一部が欠けてごろりと転がる。
その瞬間、視界に飛び込んできたものに路地番は腰を抜かした。
悲鳴の出る一歩手前で彼は開いたり閉じたりする。
「どうしたんですか、先輩。こんな灰、すぐに退かせば……」
「違う! よく見ろ! これは……」
路地番の指差した方向に、部下も目線をやる。
目を慄かせ、部下が後ずさった。口元に手をやって吐き気を堪えている。
「……何なんですか、こりゃあ。悪趣味な石細工で?」
「そんなわけあるか。これは――全部、死体だ」
灰の山だと思っていた白色の砂場の一部が剥離し、その部分に驚愕の表情のまま塗り固められた顔があった。
死の淵の顔だ。絶叫の形で固定された口を開いたまま、ホームレス達の死骸が折り重なっていた。それらが一つ一つの形状を失くし、石のように固まっているのだ。
しかも経年劣化による侵食を混じらせて、それらが人であった頃の尊厳などまるで存在しなかった。
「嘘だろ……。昨日までこんなのなかったぞ」
「報告だ。ホテルに報告する。ぼさっとするな! すぐにだ!」
へい、と部下が応じてホロキャスターに声を吹き込む。路地番は首の裏を汗でぐっしょりと濡らしていた。
「誰がこんな殺し方を……。人間を、石にしやがった」
路地番の視線は断末魔を叫ぶ前に石化されたのであろうホームレスの顔へと向けられていた。
ホテルへと伝令されたその死に様はすぐさまハムエッグの下に届いていた。
警察が動き出す前に街の盟主に指示を仰ごうというのだろう。
ハムエッグはそれを聞くなりボタンを押して秘匿回線にする。
「やぁ、聞いているかね、ホテルのボス」
『聞いているわよ。あまり気持ちのいいニュースじゃないわね』
「この事は公表しないほうがいい」
ハムエッグの判断にホテルは疑問を呈した。
『何故? この街に入ってきた殺し屋の情報ならば、あらゆる人間に情報を仰いだほうが得策じゃなくって?』
「これが普通の殺し屋ならば、そうだろう。そのやり方でいい。だが、これは普通ではない。やって来たようだ。災厄の担い手が」
その言葉にホテルは質問をする。
『ハムエッグ。そちらに何か、当てがあるというわけ?』
「わたしも、風の噂程度にしか聞いていないのだがね。これは、非常にまずい事となった。最悪、一戦交えるとしても、我がスノウドロップが勝てるかどうか」
自分にしては弱気な発言にホテルは疑問視する。
『……天下のヤマブキの盟主が縮み上がるほどの何か。興味深いわね。秘匿回線でこれを言っているのも気になるし。何か、掴まれたくない尻尾でもあるの?』
「この情報だけは、青の死神に伝えてはいけない。この街始まって以来の、最悪の殺し屋の可能性がある。我々だけで対処する」
ハムエッグは自然と早口になっている事に気がついていた。それもこれも、弾き出される可能性が、とある存在と合致するからである。
『石化、していたそうじゃない。死体が』
「これは我が方とホテルミーシャとの協定にしたい。他の殺し屋には教えてくれないでくれ。直下の部下だけを使う。依頼すれば、それだけ危険度の高まる殺しだ」
『そこまで危険視する殺し屋なんて存在するの? スノウドロップ、それさえも及び腰になるなんてあなたらしくない』
「言っただろう? 風の噂だって。だが、噂とはどこまでも度し難く、恐れを抱かせるものだ。わたしはこの話を耳にした時、心底恐れたよ。そして、この街に奴が来た場合、どう対処すべきか、いくらでもシミュレーションした。だがね、そんなものは結局、対処の例に過ぎないんだ。スノウドロップはそのために鍛えて来たと言っても過言ではない。この時が訪れない事を祈っていたんだが、前回のプラズマ団の一件で、全てが収束したと思い込んでいた。わたしとて、まさかこの時期になって奴が来るとは思わなかったんだよ」
ハムエッグの口調がいつにも増して慎重な事に気がついたのだろう。通話口のラブリは怪訝そうにした。
『そこまでして、あなた達が脅威と判定していた相手って何? わたくし達ホテルも、それ相応の覚悟をしなければいけないという事になる。情報を』
ハムエッグは一呼吸ついた後、その名前を口にした。
「奴はこう呼ばれている。石化の波導使いであり、全ての破壊者。その名前は――」