第二話「アーロンという名前」
トラックが壁に突っ込んでいる看板。一見変わった広告塔に見えるが、その場所こそがアーロンの根城だった。
どこかの先鋭芸術家が仕上げた看板であったが結局のところ何がしたいのかが見えず、芸術家も売れないままこの世を去ったという。誰も買い取りたがらないのでアーロンが買った。
意外に居心地はよく、内観は普通のワンルームマンションとさして変わらない。奥まった場所にソファがあり、キッチンも電気も完備されている。無論、ガラスに光が反射してアジトがばれるなど下の下なのでガラスは特殊素材が使われていた。外からではまさか人が住み着いているなど誰も思わないだろう。
「ましてや電気が通っているなんて、夢にも思わないだろうな」
裸の白熱電球が天井で揺れて部屋を照らし出す。アーロンはモンスターボールからピカチュウを出して冷蔵庫を漁った。
「ほら、今日の分だ」
投げたのは魚介ポケモンの缶詰である。ピカチュウは電気を跳ねさせて器用に蓋を開ける。もう慣れたものだ。ほとんど電気メスのような扱いを覚えている。
アーロンはというとこれから食事を取ろうとしていた。フライパンに油を引き、玉子を溶かしてチャーハンを仕上げようとする。
ベーコンを焼いているとふと目撃者の少女の姿を思い返した。
まるでこの世の信じられない側面を見たような顔。誰しもああいう顔をするのだ。言葉も出ず、殺し殺される現場では絶叫とは無縁にある。存外に大きな声を出せる人間は居らず、皆が沈黙のうちに死んでいく。
アーロンはその世界を渡り歩いている自分を客観的に分析しようとした。現状、纏った収入は得られているが少しでも痕跡を残せばこの情報過多の街ではすぐさま捕らえられてしまう。慎重に継ぐ慎重でようやく、と言ったところだ。それでも目撃者を止める事は出来ないし、見るなと目張りをするわけにもいくまい。この街はそれだけ雑多で、複雑で、なおかつ人が殺されるのが当たり前の単調さもある。
「人殺し、とも言わなかったな」
呟いてもいいはずだったのだ。それとも全く声が出なかったか。声を出す、という行為は意外にも精神力を使う。目の前で殺人があれば叫ぶ事さえも儘ならないだろう。
「しかし目撃者は消した。今頃はテレビか」
リモコンを使ってテレビをつけるとちょうどニュースがやっていた。雑居ビルに車両が突っ込んで二名が死亡、とある。
違和感を覚えた。
「二名?」
あの少女を殺したはずだから三名のはずだ。だがキャスターは二名、と言った。
大方、運転手のほうと裏路地で死んでいたほうは別だと考えたのだろう。そう思えば二名という数字も納得する。
見入っていたせいだろう。ベーコンが焦げていた。仕方がない、と皿に上げてから白米を玉子と共に炒め始める。
チャーハンを仕上げてからアーロンはソファに座って帽子を取る。ふとチャーハンをすくっていたれんげを掴む指先が視界に入った。
その指先には青い血脈がある。
またか、とアーロンは目をきつく瞑ってからまた開いた。映っていた血脈が消え、通常の視界に戻る。
「たまに制御出来なくなるな。疲れでも溜まっているのか」
チャーハンを食べ終わり、青いコートだけ脱いでアーロンはソファに寝転がった。この眼が他人と違うのは分かり切っている。問題なのは自分でのメンテナンスと制御。アーロンは端末を取り出して声を吹き込む。
「俺だ。明日の午前中に問診を頼む。それと次の仕事の情報を。今回の報酬はその時に払う」
留守録に声を入れてからアーロンは目を閉じた。予想より早く眠りは訪れた。
「ハドウツカイ?」
男の放った言葉の意味が分からず彼は聞き返す。青い帽子の男は、「無理もない」と口にした。
「この世界でも、波導が使えるのは限られているからな」
「お兄さん、誰なの?」
ピチューが怖がって彼の足元に隠れる。男は鼻を鳴らした。
「今、お前の目に見えている青い線があるだろう?」
どうして、と彼は慄いた。誰にもこの眼の事は説明出来ていない。通常の視界と違うのは分かっていたがどう相談すればいいのか分からなかったのだ。
「それが波導だ。わたしは、それを自由自在に使える術を教えてやる、と言った」
「何で、そんな……」
理由が分からない。彼の戸惑いに男は肩を竦める。
「旅の合間の気紛れでね。それに、わたし自身、疲れているのもある。そろそろ才能のある人間に託そうと思っていたところだ」
男は手にしていた鞄を開き、中からモンスターボールを取り出す。
「行け、ルカリオ」
飛び出したのは青を基調とした二足歩行のポケモンだ。獣の顔立ちで後頭部に房があり、その立ち振る舞いからも戦闘用のポケモンである事が窺える。
「ルカリオは波導が分かる。わたしはお前に、才能を見出した。だから教える。波導使いになれ。そうすれば人生を後悔せずに済む」
「でも、ぼくは……」
困惑する彼に対して男は非情だった。
「もし、そのまま狂人としての道を歩むのならば止めはしない。だがそれは苦痛だぞ。わたしの教えを受けろ。そうすれば今よりかはマシなはずだ」
「どうして、お兄さんはぼくに優しくしてくれるの?」
「優しい、だと?」
男は口元に笑みを浮かべて帽子を深く被った。
「勘違いするな。これは優しさではない。言うなれば、そうだな、呪縛だ。わたしは波導使いの呪縛を背負って生きている。その事にもう疲れた、と言っているんだ。だからお前が継げ。そうすればどちらにしても幸福だ」
幸福。その言葉は自分とは無縁に思えていた。青い線が見える。血潮のような青いものがどんな物体にも見えてしまう。だから何もないこの草原を目指した。しかしこの世界に、青に染まらないものは存在しなかった。太陽も、木も草も、人間も、全て青に染まる。その苦痛が誰にも分かるまいと思っていた。だからこそ、男の言葉は天啓のように響いた。
「本当に、青い線を見えなくしてくれるの?」
「見えなく、というのは語弊がある。お前の眼は、先天か後天的かは分からないが波導が見える。その視野を消す事は、お前の命を消す事と同義。ゆえに消せない。だが見るべき時に見え、見なくていい時に見えなくする程度の制御は可能だ、と言っている」
男の言葉には不思議な求心力があった。何よりも見なくていい時に見えなくなるのならばそれにすがりたい。
「ぼくの眼は、いつからこうなっちゃったのか分からない……。手術を受けた時、お医者さんは何も問題ないよって言っていたのに」
拳を握り締める。大人の言う事だ。気休めだったのかもしれないが決定的だったのは手術後の視界のほうだった。それまで見えなかった青い線がくっきりと見えるようになっていた。
「その医者が何かした、とは言わんが波導に無知な人間ならばちょっとした粗野な行動でその人間の波導適性を左右する場合もある。波導なんて昨日まで知りもしなかった人間が、指先をちょっと切った際に波導が見えるようになった、という例もあるくらいだ」
波導を使えるようにするのにはどうすればいいのか。彼は尋ねていた。
「どうすれば、波導を使えるようになるの?」
「わたしに教わる前にまずこいつの波導を読んでみろ」
ルカリオへと顎がしゃくられる。ルカリオは拳を構えて彼の前に立つ。不思議な事に、ルカリオには波導が一切観測出来なかった。波導が分かる、と先に言われていただけにこれでは拍子抜けだった。
「見えない……」
「だろうな。波導密度の高いルカリオは波導を自在に操れる。お前の眼では、まだルカリオの波導は追えまい」
ルカリオは手を差し出す。目を凝らしてようやくルカリオの手に静脈のように波導が浮き上がった。
「今度は、見える……」
「ルカリオの指先はほとんど精密機械だ。ゆえに手先や足先には波導が集中している。だから粗野な視界でも波導が見える、というわけだ。別に特別な眼を持っていなくとも、ルカリオほどの波導密度ならば可視化出来る場合がある。ルカリオ、波導を練って塔を建ててみろ」
男の命令にルカリオは両手を合わせ、波導を組み上げた。瞬時に組み変わり、構築された波導の線が立体となって小さな塔が掌に顕現した。
「すごい」
「これが波導を使う≠ニいう事だ。見る、のと違うのは歴然としている。眼に見えるだけでは、波導を自由自在に使えるまでには至らない」
「でも、さっきぼくがピチューを触ろうとした時、やめたほうがいいって」
「波導使いと言っても使い方は大きく二種類だ。波導を増幅させるか、消滅させるか。ルカリオは増幅し放出する事で波導を使うが、恐らくお前は後者。波導を切断して相手にダメージを及ぼす使い方が合っている事だろう」
切断。その言葉の持つ凄まじさに言葉をなくす。
「そんな事出来るの?」
「波導使いとして身を立てるのならば自分がどちらにいるのかくらいは認識しておいたほうがいい。お前にはこれから、波導を切る事にかけての波導の使い方を覚えてもらう」
「放出、とか増幅は、ぼくには出来ないの?」
「向いていない。自分に不向きな技術を鍛えたところでそれは無為な時間だ。それに、言ったはずだ。わたしは波導の使い方を教える。だがその先は、自分で考えろ。いつか、波導を自在に見る瞳が必要になる日が来るまで。お前が人並みに生きれるくらいには制御法を教えてやる、と言っている」
彼は戸惑っていた。ルカリオの波導も読めないのに、自分に波導を扱う資格なんてあるのだろうか。男は、「やめるのならば早く言え」と声にする。
「その時には、わたしはお前の前から消えよう。ただし、波導の制御法を教えられるのはこの世界でもわたしだけだと思っているがね」
この人物に教えを請うしかなさそうだ。何よりもこの青い闇を払うのにはこの男の力が必要に違いない。
「……よろしくお願いします」
「世辞はいい。訓練に入るぞ。名前は?」
彼は名乗った。男は鼻を鳴らす。
「なるほど。だが波導使いには別の名前が必要となる。わたしは今日で名前を捨てよう。今日からお前の名はアーロンだ。わたしの事は師父とでも呼べ」
師父と名乗った男の言葉に彼は頷く。波導使いアーロンとして、生きていく事を決めた瞬間だった。