第十六話「標的」
喫茶店の前で雨に打たれてリオがメイを抱えていた。メイが風邪を引かないように脱ぎ捨てた上着で包んでいる。
「おれは、どうすれば……」
「自分でこちら側に来ると判断したのならば、やれる事は自分でやれ。紹介ぐらいはしてやる」
アーロンはハムエッグの名刺を取り出して手渡す。この街で生きていこうとすればハムエッグの助力は必須になってくる。
「あんたに頼みたい。この子の事を」
「お前ではなく、何故俺だ?」
リオは弱々しく笑った。
「おれは、弱いから。あんたなら、いざという時、この子を助けられる。おれが出来るのは遠くで見守る事だけだ」
リオの言葉を受けアーロンは口にする。
「買い被り過ぎだ。俺とてこの娘の全責任を負えるわけではない」
「でも、あんたはおれを殺さなかった」
アーロンは嘆息をつく。
「……さっさとハムエッグに仕事をもらって来い。この街では、はぐれ者が生きられるほど甘くはないんだ」
そうさせてもらうよ、とリオが雨の中駆けていく。その背中を眺めてから、アーロンはメイを見やった。
あの時、フォルムチェンジが行われた。メロエッタは圧倒的な力を有している。もしかするとプラズマ団が狙っていたのはあれだったのか。確かめる手段もなくアーロンはメイを連れて喫茶店に入った。
ハッと目を覚ますと視界が眩んだ。
どこか重い頭を持ち上げてから頬に張り付く痛みを自覚する。
「唇の端、切れちゃってる……」
そう呟いていると、「気がついたか」と声が発せられた。
視線を向けるとアーロンが調理をしていた。どうやら野菜炒めを作っているようだ。メイは首を巡らせる。アーロンの根城であった。
「あたし、プラズマ団のアジトに乗り込んで……」
その後、幹部に拘束された。迂闊であった自分を呪う前に、「何故、無茶をした」と声が飛ぶ。
「……あたしにも、出来る事はないのかな、って」
「お前の安全こそが、俺に出来る事だったんだがな」
ぐうの音も出ない。メイは項垂れた。
「深く反省しています」
「一つ、聞く。あれは自覚してやったのか?」
あれ、と言われてメイは困惑した。アーロンは背中を向けたまま振り返りもしない。
「あれ、って何です?」
「フォルムチェンジだ」
何を言っているのか分からない。メイは問い質した。
「その、何がフォルムチェンジしたんですか?」
その段になってアーロンは手を止めて振り返る。
「覚えていないのか?」
「いや、だから何がですか。あたしのメロエッタにフォルムチェンジなんて」
凝視していたアーロンだがやがて視線を中華鍋に戻す。
「いや、さほど重要でないのならばいい。もう出来る」
皿に盛り付けてアーロンはテーブルまで運んできた。またしても自分がソファを占領していて少し気後れする。
「あの、アーロンさんもこっちに座れば」
「俺は床でいい」
アーロンは正座して食べ始める。メイも仕方がないので野菜炒めを口に含んだ。
「その、何かあったんですか?」
「何でもない」
「でも、アーロンさんの様子だと、何かあったんじゃ」
「何でもないと言っている」
どこまでも強情な声音だ。メイは食事時でも青装束のアーロンに問うた。
「その、脱がないんですか? 部屋着とかには」
「部屋着はない。いつもこれだ」
アーロンの妙な美的センスにメイは辟易する。
「……目立つのに」
「だからいいんだ」
予想していなかった答えにメイは目を瞠った。
「どういう事です?」
「多くの人間がこの姿を覚えているといい。そのほうが、俺の最終目的に近くなる」
「あの、意味が……」
箸を止めてアーロンが言葉を発する。
「この姿と全く同じ姿をした人間が、恐らく近いうちに現れる」
アーロンの眼は暗い光を湛えていた。狂気でも、怒りでもない。これは淡々とした殺意だ。
「そいつを殺すのに、この姿でいたほうが誘い込みやすい」
殺す、という言葉にメイは、「冗談ですよね?」と尋ねていた。しかしアーロンは訂正しない。
「その、アーロンさん。殺し屋だって言うの、本当なんですか?」
目にしたはずだ。アーロンの攻撃の前に死んでいった人々を。プラズマ団とはいえ、アーロン一人でやったのだ。
「そうだ。何か問題でも?」
「何で。法治国家でしょう?」
「法治国家に殺し屋はいない、と誰が言った? むしろ法治国家のほうが殺し屋は出てくる。メリットとデメリットを理解した上での殺し屋だ」
メイは二の句を継ごうとして何も言えなかった。アーロンのような後ろ暗い人間に、自分は何も言えない。
「これからどうする? 祖国に帰るか?」
だからそのような提案がアーロンの口から出たのは意外だった。自分は重要な参考人で手放さないと思っていたのだ。
「あたし、このまま帰っても、多分一生監視、ですよね……」
「どこまでプラズマ団が本気か分からないが、そうだな」
否定はしないのか。メイは箸を握り締める。
「だったら、あたしも戦います。戦えるようにしてください」
一度でも祖国を救ったのならば、ここでも何かをしたい。せめて、真っ当に生きていきたい。メイの提言をアーロンは簡素に応ずる。
「俺の戦い方を真似させる事は出来ない」
「でも、自分の身くらい自分で守ります」
アーロンはその段になってメイを見据える。その覚悟があるのか、と問いかけているようだった。
「この街で自分の身は自分で守る、というのがどれだけの事か、分かって言っているのか?」
「でも、自分くらいは守りたいんです。……出来れば巻き込まれる人達も」
「傲慢だな」
感想を述べてアーロンは箸を進める。メイは本気だった。本気で、この街をどうにかしたい。こんな混沌とした場所は間違っている。
「あたしは! 本気なんですよ!」
張り上げた声に、「飯時だ」とアーロンは声にする。
「静かにしろ」
淡白なアーロンにメイはしゅんとする。
「そりゃ、あたしは弱いかもしれませんけれど、ちょっとくらいは当てにしてくれたって」
「この街で生きるのには、色々都合がいる」
アーロンの声にメイは顔を上げた。彼は野菜炒めを頬張って下を指差す。
「店主に掛け合ってきた。その気があるのならば、ウェイトレスでも雇ってくれるそうだ」
アーロンはメイがそう言う事を見越してもう行動してくれていたのだ。その厚意にメイは思わず呆気に取られる。
「分かっていたんですか?」
「カントーに暫く留まるのならば居場所が必要だろう。監禁だとか叫ばなければ寝る場所も提供してくれるそうだ。店主は人格者だよ」
メイは涙がこぼれそうになったがぐっと堪えた。まだ、ここにいられる。どうしようもない自分でも、まだ戦えるかもしれない。
「その、よろしくお願いします」
「それは店主に言え。俺は自分の仕事をするだけだ」
野菜炒めを食べ終えたアーロンがキッチンに向かう。メイは静かに微笑んでいた。
「で、お嬢ちゃんは下で働かせたわけか」
カヤノの声にアーロンはため息をつく。
「また面倒が増えた」
「よく言ってるな、アーロン。お前、何だかんだで面倒見がいいからな」
カヤノは煙草を吹かしている。既に波導の眼の検査を終えて、ピカチュウの回復を行っている最中だった。
「あんた、フォルムチェンジは知っているか?」
「そりゃ、誰でも知ってるんじゃねぇか。もう学説としても定まっているし」
「メロエッタ、というポケモンは」
アーロンの言葉にカヤノが怪訝そうにする。
「メロエッタ? また聞いた事のねぇポケモンだな」
「そいつがフォルムチェンジした。あの娘の歌声に呼応して」
カヤノは顎に手を添えて考える仕草をした後、「偶然でなく?」と尋ねた。
「素人集団――プラズマ団はあれを狙っていたのだとすれば全てがしっくり来る。何か、あの娘には秘密がある」
「ワシに売ってくれるならば安全は完全に保障するが」
「馬鹿を言うな。お前に売ればヤクザものに売って使い物にならなくするだけだろう」
カヤノは頬を引きつらせて笑う。
「そいつぁ、とんだ言い草だな。だがま、そこまで気になっているんなら自分で守りな。波導使いさんよ」
「守るわけじゃない。ただ、視界に入った虫は払わせてもらう」
「素直じゃないねぇ」
モンスターボールを持ってきた看護婦は、「元気になりましたよ」と声にする。この少女もそういう裏社会を知った人間の一人だ。
「派手に動き過ぎたみたいだな、今回。あまりに殺しをやり過ぎると、足がつくぜ」
「そうならないためのお前とオウミのはずだが」
「そういや、オウミから言伝だ。三十七番の通路で待っているとよ」
「感謝する」と言い置いてアーロンは診療所を出た。
「単刀直入に言うぜ、波導使い」
オウミは看板で姿を隠している。アーロンは壁に背中を預けて聞いていた。
「動き過ぎたのもあるが、お前、敵に回しちゃいけない類の連中を敵に回したっぽいな」
「どういう意味だ」
オウミは紫煙をくゆらせて、「言葉通りだよ」と口にする。
「素人集団を消せって言ったのは、オレは確かにそのつもりだったし、殺しにはいつだってリスクが伴っているのは分かっているさ」
「だから、何が言いたい」
オウミは一呼吸置いてから、「覇権争いって奴かな」と呟く。
「素人集団の中に混じっていたらしいホトケの一人が政治屋だった。そのせいで、お前、狙われてるぜ」
狙われている、という言葉にアーロンは驚きもしない。「数は?」とだけ尋ねる。
「オレの知っている限りじゃ六つ。だがもっとヤバイのはお前の経歴を知らず、ただ単に報酬目的に動く殺し屋にも情報が行っているって事さ。お前、四方八方から来る殺し屋に気を遣う必要が出てくるぜ」
政治屋、と聞いて思い浮かぶのはヴィオと名乗った男だ。あいつを殺したのはまずかったか、とアーロンは歯噛みする。
「面倒事が増えるな」
「その程度の認識でいいのかねぇ。名のある殺し屋もお前を殺しにやってくるぜ」
「誰が来ようと関係がない。殺し返せばいい」
用件はそれだけか、とアーロンが立ち上がろうとすると、「オレも乗ろうと思うわ」とオウミが口にした。アーロンは硬直する。
「波導使いさんの暗殺、っていう一大ブームに」
「何故?」
「何故ってお前、これは大チャンスだぜ? 名のある殺し屋を差し置いてオレの子飼いが勝てば、この街の利権を一気に手に入れられる。スノウドロップ持ちのハムエッグくらいしか怖いものはねぇよ」
つまり殺し屋が大挙として攻めてくるという事か。オウミは長年の付き合いのお陰か裏切る時には裏切るとはっきり言う。今回、敵に回ると予め言ってもらったほうが仁義は通っている。
「ここでお前を殺せば」
「そこまで間抜けな波導使いじゃあるまい? まぁ殺し合うのは殺し屋同士さ。高みの見物とさせてもらうぜ」
よく言う。だがそれはこちらにとってしても好機ではあった。いつか殺さなければならないと思っていた相手の耳に入るかもしれない。ヤマブキの波導使いの噂が。
「なるほどな。ならばもう敵同士か」
「開催日時くらいは言ってやるし、資料も回してやるよ。ただ、オレの子飼いだけは別だがな」
オウミの飼っている殺し屋がどのような存在であれ、そいつだけがイレギュラーというわけではないだろう。あらゆる事態を想定せねばならない。
「殺し屋に殺し屋とは、混沌としてきたものだ」
「今さらかよ。もうこの街は混沌のるつぼだ」
オウミの声にアーロンは言い置く。
「次に顔を合わせれば」
「ああ。殺されても仕方がねぇな」
路地を出て行ってアーロンは路地番に金を握らせた。
自分目当ての殺し屋が現れる。それは単純に脅威としては凄まじいものだろう。だがここで死ぬくらいならば最初から持つべきではないのだ。あの男を殺そうと考えるなど。
自分の青の闇を払い、自分に力を与えた男――師父。
「何者が来ようと関係がない。俺は、師父。あんたを殺すためだけに生きている」
第一章了