ACT19「殉黒の歌」
「一番黒い歌ってご存知ですか?」
突然にそう尋ねられてディズィーはスタイリストを見やった。彼女はシンオウに入ってからの自分の専属スタイリストで、何度も顔を合わせている間柄だ。
ニコニコしながら、彼女はディズィーの赤い髪の毛を処理する。
「何だって?」
「一番黒い歌ですよぉ。ディズィーさんなら知ってるかなって思って」
「黒い……? 歌に白とか黒とか……もしかして絶対音感がどうとか言う話?」
「いえ、そうではなく。この世で最も黒い歌の話です」
「……デスメタル?」
「そういうジャンルの話でもありません。黒い歌なんです」
ディズィーは話の継ぎ穂になる何かのネタなのだと思い、語るに任せた。
「……存じてないなぁ。じゃあ、君は知ってるの? 黒い歌」
「ええ。この間、シンオウにも来ていたんですよ。黒い歌を歌う人々が」
「へぇ、それってさ。すごいデスボイスとかそういう話でも」
「ありませんね。黒い歌なんです」
「……神様を冒涜した」
「いいえ。黒い歌です」
「……ものっすごい下ネタ満載の……」
「そういうわけでも。黒い歌なんです」
どう切り込んでもそれらしい感触はない。ここから先はどうやら話してもらうしかないようだ。
「……じゃあ話してよ。黒い歌って何なのさ」
「じゃあヘアスタイルの途中ですが。黒い歌の歌い手は私が八歳の頃、初めてシンオウに来たのを見ました」
子供の世界では話のネタにだけは事欠かない。
それに全く根も葉もない噂も。
ジョウトのウバメの森に金の葉っぱと銀の葉っぱを持っていくとセレビィに会える、タマムシデパートでコイキングを釣ったらそれがミュウになる、四天王の間で波乗りを使うと、最後のチャンピオンの場所まで行ける――。
どれも根も葉もない噂話。どれも確証のない言葉ばかり。
だが子供というのは極色彩の世界を持っている。
大人では決して窺い知れない場所。誰にも触れられないもの。
だからこそ子供は万能であり、子供は完璧であった。
――黒い歌を歌う連中が来る、というのもその中の一つ。
彼女はその噂話に夢中になった。
黒い歌を歌う者達がもうすぐやってくる。奇しくも、それはクリスマス間際。子供達がそうでなくとも浮き足立つ時期。
冬の寒さはシンオウでは特に厳しい。
一部地域では夏でも積雪がある。
「黒いサンタクロースなのかな」
「黒い歌ってどんなのなんだろう」
子供達はワクワクしていた。彼女もそうである。
黒い歌を歌う者達。大人に話せば、きっと彼らは顔をしかめる。だから、子供だけの世界の話。子供だけの隠し事。
放課後の教室で、彼女は親友のミッちゃんと一緒にその噂ばかりであった。
「何なのかな、黒い歌って」
「分かんないよ。ミッちゃんは分かる?」
「わかんないから面白いんじゃん! 楽しみだなぁ……」
ミッちゃんは彼女以上に夢見がちで、なおかつその黒い歌の噂の虜であった。
しかし季節はクリスマス。子供達はサンタのプレゼントのほうに感心が取られる。
その間でもミッちゃんと彼女だけは黒い歌の話を毎日欠かさない。
「黒い歌っていう事は、まっくろな人達なんじゃないかな」
「わかんないけれど、もしかしたらそういうのかもしれないね」
話のネタだけには事欠かない。毎日話していればそのうち飽きるものだろ思われるだろうが、自分とミッちゃんだけは別だった。
黒い歌の話を仕入れれば、次の日には暗くなるまでその噂で持ち切りだ。
その日もそうであった。
雪がちらつき始めてようやく帰ろうと思ったほどだ。
「あーあ! 雪が降ってきちゃったよ」
「帰り道、大丈夫?」
「うん。ぜんぜんへいきー」
シンオウの子供は寒さにだけは慣れている。だから一人きりの寒空でも全く気に留めていなかったし大人達はもっとである。
だから――、通学路にあるそのテントを見つけたのは完全に偶然の産物だった。
「雪、つよくなってきたなぁ……」
どこかでしのげる場所は、と探し当てたのがそのテントであった。
テントの中では紫色の香料が焚かれていた。鼻の裏をくすぐるような甘ったるい香り。
くしゃみが出そうで出ない時のような、あのじれったさ。
彼女は無数に並んでいるパイプ椅子に座っていた。
少しでも雪がやめば、と思っていた彼女の前に、舞台袖から現れた人々が各々の楽器を掲げる。
いつの間にか、喪服を身に纏った影のような観客が自分の両隣を埋めていた。
帰るに帰れない中、舞台の上に立った者達が、そっと楽器に指をさする。
アッ、と声が出なかったのが自分でも不思議なほどであった。
その楽器はポケモンを使ったものであった。
別段、ポケモンの素材を使った楽器そのものは珍しくはない。虫ポケモンの糸を用いたヴァイオリンが海の向こうでは三千万円もするのをテレビで観た事もある。
そうではない。
手にされているのは生態ポケモン……つまり、ほとんど生きたままのポケモンを使った楽器であった。
タブンネを解体したヴァイオリン。ゴローニャの頭部を使ったドラム。ジャローダの背筋を割ったハープ。
どれもこれも、楽器に使われたポケモン達は生きていた。
生きながらにして楽器に用いられている。
恐れ震えるべき場所であったはずだ。しかし、彼女は悲鳴も、ましてや逃げ出す事もなかった。
ローブを身に纏い、紡ぎ出された歌声は今まで聴いたどの歌手の歌よりも心に響いた。
胸の中が熱くなり、呼吸も忘れ、ただ魅入っていた。まばたきをこんなにも忘れて物を見る事が出来たのか、呼吸せずとも人間はこんなに長い間集中出来るのか、と不思議であったほどだ。
喪服の観客がぱんぱんと拍手する。自分もそれを真似て拍手していた。
ローブの者達がすっと手を掲げ、第二楽章が始まった。
第二楽章では湿っぽいバラードが歌われていた。それをバラードと判別するのであるのならば、であったが。
歌声に使われている言語はまるで不明だ。
聴いた事もなければ頭の中にその断片も残らない。
だがそれが逆に心地いい。脳内を溶かしていく麻薬とはこのようなものなのかもしれない。刹那的に脳髄を痺れさせる歌声に完全に聴き入った彼女はそのまま第三楽章に入る前に、そのテントを去っていた。
雪が舞う中、走り出していたのは一刻も速く親友のミッちゃんに知らせなければ、という判断である。
だから、ここまで夢中なのにテントを出られた。そうでなければずっとテントの中にいただろう。
家に帰るなり、母親に抱き締められた。
自分が帰ったのはなんと深夜を回っていたらしい。
そのような自覚はなかったのだが、母親には大層叱られ、しばらく学校にも出してもらえなかった。
ミッちゃんはどうしたのだろう、とよく考えるようになった。大人達はこういう時、強かだ。
大人しか分からないネットワークで子供を雁字搦めにする。
クリスマスも終わり、年末が差し迫った頃。
彼女は両親が寝静まったのを確認してから、そっと家を出た。
ミッちゃんに知らせたい。ただそれだけだ。黒い歌を歌う者達は実在したのだ、と。
彼らの歌った歌こそが、きっとこの世で最も黒い歌なのだ。
しかし、ミッちゃんは現れなかった。雪の舞う中、部屋に何度か小石を投げて起こそうとしたが、反応がないのである。
自分達の約束手形であった、三回小石を投げて、二回拍手する、という手でも出てこない。
この手を使えばミッちゃんは何時であっても飛び起きてきたのに。
仕方がないので、彼女は街灯の途切れた夜の街を彷徨った。
真っ暗がりの中に思い出したように電気が二つ三つ。
誰しも寝静まっている。だから、それに遭遇したのは意外でしかなかった。
――テントがあった。
前回とはまるで場所が違うが、同じものだ。
彼女は飛び込むように入る。やはりというべきか、パイプ椅子に座ると間もなく喪服の観客が訪れ、彼らのぱんぱんという拍手で舞台が執り行われた。
今回は指揮者がいる。
彼が振るう指揮棒はポケモンの骨であった。
黒い歌が再演される。
胸の内は熱狂しているのに妙に醒めているのはミッちゃんが反応しなかったからだろう。
第三楽章までしめやかに執り行われ、第四楽章に入った。
黒いローブの者達が楽器を持ち替える。
その時、彼女は目にしていた。
ミッちゃんの姿を取ったヴァイオリンを。内臓が抉り取られ、首筋から膀胱に至るまでを弦で張られている。
裸体のミッちゃんのヴァイオリンから始まった。
その音色は彼女の脳髄をじわじわと溶かしていく。何かを考えなくてはいけないはずなのに、何も考えられないのだ。
指先までピンと張ってしまい、筋肉は緊張状態にあるのに、何故か身体は虚脱し切っていた。
頭蓋から電撃的な刺激が与えられ、眼球を震えさせてその音色は舌先をぴりりと麻痺させる。
その心地よさ、恍惚感に彼女は虜になっていた。
どれほどその音楽を聴いていたのだろう。
ヴォーカルが歌い始めた。湿っぽいバラード。だが前回とはまるで違う。
この世で最も黒い歌だ。
冒涜でも、背信でも、悪逆でも、堕落でも、狂気でも、ましてや下劣でもない。
その歌はこの世で最も素晴らしい。
黒い歌。魂を染める殉黒。
喪服の人々が一人、また一人と去っていく。
音楽は終わったのだろうか。ミッちゃんのヴァイオリンを持った者が舞台袖に引っ込もうとする。
自分はどうしてだかその背中に追いすがった。
「あの!」
声をかけたのはそのヴァイオリンがミッちゃんだったからだろうか。あるいは、その音楽に魅せられたからだろうか。
ローブの者はこちらへと歩み寄り、濁った声音で唱えた。
「らあん、てごす、らあん、てごす、ぶほうーいい」
そっと冷たい指先が額をなぞる。
刃のように鋭く尖っている爪なのに、額を撫でるのは今まで感じた母親の慈愛よりもなお深い。
ぴしり、と爪が額を割った。
流れる血潮よりも、彼女はローブの中に潜んでいる者の正体に気を取られていた。
その姿は、まるで――。
音楽隊は去っていた。
この世で最も黒い歌を歌える音楽隊は。
ただ彼らにまた会えるような気がしていた。
この額の傷さえ、消えなければ……。
ふぅん、とディズィーは胡乱そうにその話を聞いていた。
いつもは快活なスタイリストが、どうしてそのような暗黒の話をしてくるのかはまるで不明だったが、時には必要な話のスパイスなのだろう。
「あっ、ディズィーさん、出番ですよ」
ぽんと背中を叩いて送り出してくれる。
信頼出来るスタイリストだった。
その額に、引っ掻いたような傷跡があったが、それも偶然であろう。
「さぁ、やろうか。この世で……ってのは大げさだけれど、そこそこ満足行く歌を」
ライヴ会場のライトが照り輝く。自分のステージの幕が上がった。