ACT16「ポケモンカードをはじめよう」
「ポケモンカード、やっているんですね」
スタイリストがそう声をかけると、ディズィーはむっと顔を上げた。
「子供の遊びだと思っていたけれど案外、奥が深くってね。オイラも始めようかと思っちゃって」
カードスリーブも買い揃え、ディズィーは万全であった。しかし、当のデッキが見当たらない。
「そういえば、ディズィーさん、デッキはないんですか?」
「ああ、その一枚だけ。一枚だけしか持っていないんだ」
スタイリストがケースからカードを取り出す。紫色の輝きに彩られたカードであった。
肝心の技や弱点などの部分が読めない。現行の文字ではないのである。スタイリストは首を傾げた。
「これ、限定品ですか? 読めないですけれど……」
そう言いやるとディズィーは、やっぱりかぁ、と後頭部を掻いた。
「やっぱりって?」
「これは世界に何枚もあるカードじゃないんだ。分かりづらいかもしれないけれど、図柄はミュウだよ」
ミュウ、と言われて初めて分かるような抽象化されたイラストであった。カードの表面を保護するスリーブで守られているそれは他のカードに比べて特別に映る。
「ディズィーさん、でもカード一枚で何を? これがとてつもなく珍しい、ミュウのカードだとしても何の意味もないんじゃ?」
デッキもない。ミュウのカードを特別に集めているわけでもない。コレクター、というガラでもないディズィーが入れ込んでいるというのは考えづらかった。
ディズィーはミュウのカードを翻し、ぽつりと話し始める。
「そうだね。話そうかな。この古代のミュウのカードにまつわる、ちょっとおぞましい話を」
少年Tはポケモンカードが大好きであった。
Tは天性の引き運があったのか、新しいカードが出ればすぐに買いレアカードを誰よりも早く集める。
そんなものだからTの周りにはたくさんの友人達が集まった。皆、ポケモンカードが大好きなのである。
しかし、Tは用心深かった。
まだ年かさもない少年少女達はTの持つレアカードに目が眩み、金による売買、あるいはTのカードを盗もうとした。
当然、Tは対策を練ろうとしたが、彼らは親からくすねた金でTのカードを高値で買い取り、あるいは集団でTのデッキからカードを抜き取った。
Tも耐え切れなくなったのだろう。カードが盗まれる、云々よりも彼らとの繋がりは所詮、カードで結び付けられた擬似的なもの。
本当の友情ではないのだ。
Tは何度かポケモンカードをやめようとしたが、ポケモンカードをやめれば他の友人達は幻滅し二度とTと遊んではくれないだろう。
子供達なりのコミュニティがある。その在り方が歪であっても、子供の世界に大人が介入出来ないのだ。
畢竟、ポケモンカードを続けるしか、友情を持続させる手段はなく、かといって彼らがTを妬む気持ちは変わらず欺瞞に満ちた友達関係が続いていた。
そんな折、Tは買い揃えたポケモンカードの袋の中に他のカードとは違うものを発見した。
裏地のモンスターボールロゴにも特別な色彩があり、表は見た事もない言語であった。
一目でそのカードがミュウのカードだと分かったのはTが無数のポケモンカードを持っていたからであろう。
ポケモンカードにはそれぞれの別の絵師が関わっているため、特色が高い絵が採用されており抽象化された絵も珍しくなかった。
だが、このミュウのカードは他とは違う。
抽象化、というよりもまるでこの世にあらざるかのような幻想的な色彩を放っている。
Tはいつもならばレアカードが当たれば友人らを招くのであるが、今回ばかりは秘密にし調べを尽くした。
その中で古代ミュウ、と呼ばれるカードである事を、彼はネットの情報で拾い上げた。
――古代ミュウのカードを持つ人間は一財を築き上げる事が出来る。
都市伝説板に書かれていたその一文をさすがに鵜呑みには出来なかったが、このカードが他とは違うのだけは明白であった。
古代ミュウのカードだけは隠し通さなければならない。
Tは古代ミュウのカードを金庫に仕舞い、他のカードが盗まれても特に気にする事はなくなっていった。
古代ミュウさえあれば、自分は成功出来る。
そう信じ込んだTの両親は間もなく事業で成功し、莫大な富が訪れた。
集合団地で住んでいたTはすぐに都会へと引越しする事になり、高層ビルから彼はこの世の支配者の目線を手に入れる事が出来た。
だが、全ては古代ミュウのカードがもたらした栄光なのだ。
もし、古代ミュウのカードを嗅ぎつけられた場合、自分は恐らく一瞬にして貧困に逆戻り、否、それよりも低い泥水をすする生活になる。その確信があった。
彼は古代ミュウのカードを隠し通し、少年時代を乗り越え、やがて家庭を持った。
しかし、古代ミュウのカードだけはずっと金庫に仕舞われたままであった。
月日が経ち、数年後、彼の子供が金庫に興味を示すその日までは……。
「ねぇ、パパ。あの金庫、ずっと大切そうに仕舞っているけれど何が入っているの?」
Tは貿易会社の重役になっていた。娘の言葉にTは微笑みながら応じる。
「とても大切なものだよ」
その一言だけで娘の興味はそがれるであろう。そう認識していたTはその日、毎日の日課にしている金庫の暗証番号を更新した。
少年時代に古代ミュウを手にしてから、一度として欠かした事のない習慣だ。
毎日のように暗証番号を変えれば誰もこの金庫を開ける事は出来ないだろう。
Tが会社に出払った後、娘は金庫へと歩み寄った。
「パパったら、おかしいわ。どうして他の事は適当なのに、この金庫だけ毎日のように点検しているのかしら」
娘は金庫の暗証番号が変えられている事は知っている。その暗証番号を忘れないように書架の二番目の棚に毎日メモを残している事も。
子供の勘繰りだ。誰しも、親の秘密の一端を握ってしまいたい年頃というものはある。
メモを手に、娘は金庫を開け放った。暗証番号は四桁。覚えるのは難しくない。
金庫の中に入っていたのは一枚のカードであった。黒いスリーブに入ったそれを、娘は手に取る。
紫色の光を放つ箔押しのカードだ。古代の意匠が施されており、中央の図柄共に解明出来ないはずであったのだが、娘にはどうしてだか、そのカードが一目でミュウのカードだと理解出来た。
「こんな綺麗なカード、見た事がないわ」
娘は親友に自慢したくて堪らなくなった。すぐに友人達四人を呼びつけ、古代ミュウのカードを自慢する。
「これ、ミュウなのよ。綺麗でしょう」
少女達の中でもポケモンカードは人気であった。全員が手に取った後、金庫に戻せばいいだろう。その程度の考えだったのだが、一人の少女に魔が差した。
カードを抜き取るのは簡単だ。
帰り際にすっとカードを抜き取ったのはその四人の誰であったのか、娘は結局知る由もなかった。
金庫に戻そうとして古代ミュウのカードがない事に気づいた娘は慌てふためいた。しかし、よくよく考えてみれば対策など有り余っている。父親とてこのカードを毎日確認しているわけではあるまい。
自分の持っている適当なカードをスリーブに入れ、何事もなかったかのように娘は金庫に仕舞い直した。
Tは帰ってくるなり違和感を覚える。
この場所が自分の家だという感覚が失せているのだ。まるで、見ず知らずの他人の家にいつの間にか居座っているような不和。
不安に駆られたTは何年振りにか、金庫からカードを取り出す。
スリーブに入っているのはピカチュウのカードであった。
当然の事ながら、レア度も低いただの低級カードだ。
古代ミュウは、と彼は恐慌に駆られたように部屋の中を引っくり返した。それを目にした妻が目を見開く。
「何をしているの? あなたが慌てるなんて珍しい」
古代ミュウが、と言おうとしたが、その事実は妻にも秘密であった。
ここまでのし上がってきた運の神に一瞬にして見離された感覚。Tは何日もふさぎ込み、遂には重役の任を解かれた。
仕事を失ったTに残されたのは妻と娘のみ。しかし、彼にとっては古代ミュウの不在は妻と娘を足しても全く足りなかった。
古代ミュウがこの手にないのならば、彼は生きていく意味すら見出せなかった。
火を放ったのは何もかもが手遅れだと感じたからだ。
妻と娘を巻き添えにTは心中した。一方、同じビルに住んでいた別の家庭はその後、成功を収め、Tの席に座ったのだという。
しかし、それも一時だけのもの。
子供達の手を練り歩いていく古代ミュウのカードはかつてTが感じたような焦燥感も特別さも感じさせず、ただただ子供の気紛れで人から人へと移っていく。
その度に一つの家庭が崩壊し、幾つもの命が失われてきた。
今、特別に運がある、ツイているのだと感じている人は、もしかしたら近親者の誰かが古代ミュウのカードを持っているからなのかもしれない。
ならばゆめゆめ忘れないほうがいいだろう。
古代ミュウが失われればその者は権威を失墜する。
これこそが古代ミュウのカードに刻まれた呪いそのものなのだ。
話し終えたディズィーの声音にスタイリストは作り笑いを浮かべた。
「まっさかー」
「嘘っぽいかもしれないけれど、古代ミュウの、その文字を読める人間の手を渡っているのはマジっぽいよ。オイラは読めないからあんまり頓着していないけれど、読める人間は古代ミュウの呪いを受ける資格があるらしい」
スタイリストはディズィーのメイクを終えて、面白い都市伝説ですねと結んだ。
「暇潰しにはもってこいじゃないですか」
「まぁ、オイラは信じちゃいないけれどね。ミュウのカード一枚でその者の人生が変わるなんて」
出番です、とスタッフが呼び込む。ディズィーが部屋を出て行ってから、スタイリストは無防備な古代ミュウのカードを、すっと財布に入れた。
「これが読めれば呪いを受ける資格があるって? じゃあ読める私は……」
急ぎ足でスタッフルームを抜け、タクシーを呼ぼうと手を振った。
その時、財布から古代ミュウのカードが滑り落ちる。
あっ、と拾いかけて、急発進のエンジン音が木霊した。
その視野に大写しになったのは駐車場から走り抜けてきた一台の車のバンパーである。
それが最後の記憶となって焼き付いた瞬間、甲高いブレーキ音が闇を劈いた。
財布が落ちていたので思わず拾ってしまった。
どうやら事故が起こったらしい。救急車が次々と飛び込んでくる中、彼は財布から滑り落ちたのだと思われる一枚のカードを拾い上げる。
古代ミュウのカードが、こちらを静かに見据えていた。