第五章 三十一節「交錯、思い滲んで」
研究所の一階部分は、ナツキの連れて来たロケット団非戦闘員達で押し合いへし合いの状態となった。
彼らの処遇はこれからどうなるのか、このままではいいはずも無く、かといってすぐに居場所が見つかるわけでもない。保留という一語で片付けてしまうには生々しい彼らの生き方をナツキから聞き、リョウは一階で今も不安に駆られているであろう彼らのことを思った。
研究所の二階、先ほどまでリョウが眠っていたベッドの周りに各々が座り込み、ナツキの話に聞き入っている。リョウはヒグチ博士によってまたベッドに寝かしつけられた。左腕から伸びた点滴が煩わしかったが、断ち切って行こうにも包帯の巻かれた右腕が枷のように痛んだ。この痛みが薄まらないうちは何も出来ない。だが、痛みがなくなった時、自分は本当に動けるのだろうかと自問する。もしかしたら、その時にはこの胸に湧いたルイを助けたいという思いも熱もなくなって、どうしたらいいのか分からないがらんどうの身体だけを持て余すのではないかと感じていた。
ナツキはヘキサには助けたい人がいること、その人物を操っているのが恐らくキシベと呼ばれるロケット団の幹部であることを明らかにした。キシベ、という名にリョウは少なからず因縁を感じて奥歯を噛み締めた。ルイを攫った人間がナツキにも関わっている。いや、ともすればこの事件の根幹にいるのがそのキシベなのかもしれない。
それを聞いていたフランが指を鳴らして口を挟んだ。
「恐らく、ディルファンスとの癒着関係を続けていたのは、そのキシベっていう幹部だ。総帥を殺したっていう話も、そいつの独断で回っていたのなら頷ける」
「だが、頭を失ったロケット団が持ち直す保証はない。幹部とはいえ、カイヘンでのロケット団組織の運営に関わっていた総帥を殺したと部下に勘繰られては信頼を地に落とすことになる。……まぁ、ロケット団の信頼関係など知らないが、そのリスクを背負ってもヘキサという組織は勝ち残れる算段があると考えるべきだろう」
サキが足を組んで椅子に座っている。博士の視線がそちらに向きそうになると急いで佇まいを直し、微笑を浮かべ上品に装ってみせる。サキは昔から義理の父親である博士の前だけはいい子でいようとしている。それは幼馴染のリョウやナツキにとって奇妙に映ったが、博士も気づいているのかいないのか、暢気に茶を入れている。
「何人だっけ?」
博士の声に栗毛のマコという少女が立ち上がって博士へと歩み寄った。
「あ、私も手伝います」
「え? いいのかい? でも、大事な話し合いなんじゃ」
「大丈夫です。私も出来ることやりたいですから」
そう応じてマコは博士の手伝いにキッチンへと向かう。サキが舌打ちをし、「寄り合いじゃないんだぞ」と呟いたが、博士にはそれが聞こえなかった。
「ヘキサが勝ち残れる算段。何か、決定的なものを手に入れた、とかかな?」
「だが、戦力的にはロケット団だった時より明らかに劣る。いくらアスカとジムリーダーのチアキが入ったところで埋められる戦力ではないだろう。カイヘンで活動し始めたロケット団はまだ年月が浅かったといっても、ディルファンスと互角に渡り合えるだけの地の利と戦力を持っていた。ヘキサには恐らくそれはない」
フランが提示した言葉を、サキがナンセンスだと否定する。
リョウは、決定的なものという言葉に頭の中で閃くものがあった。もし、ロケット団が決定的なものとしてルイを捕らえたのだとしたら、それはもはや敵の手の内ということになる。戦力の大半を切り捨てても惜しくない新たな戦力として、キシベがルイを奉ろうとしているのなら、自分はこんな場所にいる場合ではない。より強く身体の中で熱が燻るのを感じて、リョウは今にもここから飛び出したい衝動に駆られた。しかし、次の瞬間に響いたナツキの声がそれを冷やした。
「それは分からない。チアキさんのバシャーモが敵わないほどの戦術をキシベは持っていたし。あれは何だったのか、私も正直何も答えられない。ポケモンなのかトレーナーかどうかすら定かじゃない。でも、あれは確か女の子で、キシベはR01Bって呼んでいた。何なんだろう、R01Bって」
「――ルイだ」
「識別番号か何かでは」と言いかけていたフランの声を遮り、リョウが言った。全員の視線がリョウへと集まる。サキが首を傾けてリョウを見据え、
「さっきも言っていたな。ルイっていうのは誰だ?」
リョウはその言葉に応じるように、重く口を開いた。今まで知りえたルイの事。ルイを追っていたロケット団と、キシベの事を。自分の知りえる全てを話した。
それを聞いて難しい顔をしていた皆が、より険しい表情をして黙りこくった。博士とマコがお茶の入った湯飲みをそれぞれの前に置く。だが、誰も口をつけようとしなかった。リョウは湯飲みに注がれた黄緑色の液体に視線を落として言った。
「あいつは自分の事を化け物だって言っていた。だが、俺は化け物じゃないと思っている。ルイはルイだ。泣き虫で、とんでもなく厄介者だけど、何故だか憎めないルイなんだって。もう一度、旅をしたかったのに、俺は……」
どうして救えなかった。そう付け加えようとして身体の奥から湧いた痛みにリョウは右腕を押さえてベッドの上で腕を抱くように蹲る。もう、この手の届く先にはいてくれないのか。声にならない叫びが嗚咽となってあふれ出そうとしたその時、サキが出し抜けに口を開いた。
「これで、ハッキリしたな」
隣に座ったマコが目をぱちくりさせている。他の面々も同様にサキの言ったことが飲み込めてなかった。サキは博士が近くにいるにもかかわらず、足を組んでふんぞり返って続けた。
「私達の敵はそのキシベだ。そして、キシベに操られているのはルイとチアキ、そしてアスカか。分かりやすい構図になってくれた。要するに、助け出したいんだろう? 旅で手に入れた仲間を、そのキシベの手から」
予想だにしなかった言葉に、全員が唖然としていた。その言葉を早期に理解したのはフランだった。フランは口元にふっと爽やかな笑みを浮かべた。
「いいね。僕達はアスカさん。リョウ君はルイさん。そしてナツキさんはチアキさんを助けたいって訳か。全ての糸はキシベに通じている。全員がヘキサに因縁があるんじゃ、こういう時、どうするのか決まっているよね」
フランが立ち上がる。サキもそれに続いて立ち上がった。ナツキも頷いてフランとサキに歩み寄る。まだ事態を飲み込めていないマコが首を右往左往させている。サキはマコを小突き、無理矢理立ち上がらせた。四人の視線がリョウへと集まる。リョウは点滴を手繰り、左手を差し出した。その手に四人の手が乗せられる。マコの手を握っているサキがにやりと笑った。
「共同戦線というわけか。私らしくはないが、まぁ事態が事態だ。よしとしよう」
リョウが頷き、静かに言葉を発した。
「ヘキサを倒す。そして取り戻すんだ、俺達の大切なものを」
サキが鼻を鳴らし「別に大切でもないがな」と皮肉を言った。リョウの真正面に立つナツキは双眸に強い意思を宿して応じた。
「絶対、諦めない。私は、今度こそ逃げたりしない」
「わ、私も逃げない。今度はサキちゃんの役に立つから」
マコが隣のサキに向けて言葉を発する。サキはつんと顔を背けた。リョウはその顔が紅潮しているのを見て、少し可笑しくなった。
その時、ナツキの後ろにいたヒグチ博士が腕を組んで咳払いをした。それに気づいた一同は手を離し、博士へと向き直る。
「博士。どうか、あの人達をお願いします。私達はどうしても行かなきゃならないんです」
ナツキの声にフランが言葉を重ねる。
「止めても無駄ですよ。僕達は必ず、ヘキサ打倒に向かう。この意思は固い。そう簡単には折れませんから」
博士はフランからリョウへと視線を向けた。リョウも危険は承知の上だった。なんなら今すぐにでも点滴を引き千切って、ルイを助け出しに行きたいくらいだった。リョウの意思を感じ取った博士はサキとマコへと目を向ける。マコはサキの手を握っていた。サキがその手を強く握り返し、赤い眼が博士へと強い視線を返す。
博士はため息をついた。
「……分かってるよ。もとより止める気はない。だが、これは君達だけの戦いじゃない」
博士は全員の顔を見渡した。その眼に宿る意思が確かなものだと再確認し、重い口を開いた。
「私も、過去を清算しなければならないな。君達に見せたいものがある。ついて来るといい。リョウ君、それにサキ、あとマコ君だったか」
博士が声を掛け、リョウは訝しげにその目を見返した。その眼にはどこか今を見ていない暗い光があった。覚悟はあるのか、と問いかける眼差し。過去という重石のような言葉がその光をより陰鬱に見せている。
「最初に言っておこう。君達には辛いものかもしれない。それでも、構わないかな」
果たして、そこに触れるだけの勇気があるのか。そう問いただす眼に、リョウは覚悟の眼差しを返した。サキは迷い無く頷く。マコはサキを見ながら少し躊躇いがちに頷いた。
「いいだろう。いつかは明かさなければいけないことだ」
言って博士は身を翻した。その場にいた全員がその背中に何か冷たいものを感じていた。未来を見据えるための過去。それを直視する瞬間が訪れようとしている。
開いた窓から夜風が注いだ。それは今宵の満月の温度を引き移したように、取り付く島もない乾いた風だった。
第五章/交錯、思い滲んで 了