第五章 二十九節「始まりの町へ」
ディルファンス本部へと帰り着いた構成員達は閉口した。
構成員の配置されているはずの場所がすべてもぬけの殻なのである。コノハを医務室に運び込むが、その医務室すら誰もいなかった。仕方なくベッドに寝かせ、セルジとヤマキの二人はモニタールームを目指した。ディルファンスの脳であるモニタールームにもまさか人がいないという冗談はない、とそう思ったのだ。
モニタールームに入るなり、「……誰か」と声を掛けかけたセルジは、あまりに閑散とした様子に二の句を継げなかった。常時六人体制で人が入っているはずのモニタールームを見渡してみるが誰もいない。初めからこの部屋には誰一人としていなかったのではないかと思えるほどの静寂が包んでいる。遅れてやってきたヤマキが「どうだ」と言葉を掛ける。セルジは首を横に振った。
「モニタールームにも人がいないのか」
「ああ。どうやら、さっきの放送は間違いじゃないらしい」
セルジはモニターのひとつへと取り付き、コンソールを操作して地上の電波を拾い上げた。程なく黒色だったモニターに色が滲み、表示された映像に二人は絶句した。
ヘキサという組織の設立、ロケット団の解体と共にディルファンスのリーダーが寝返って成立した組織。その映像が克明に記録され流されていた。まるで初めから誰かがこのモニタールームに来て、事態を把握しようするのを予め分かっていたように、自動的に録画されていた映像は樹海の中で聞いた通信内容と全く同じだった。
「……本当に、アスカさんはヘキサに寝返ってしまったのか」
「じゃあ、俺達はどうなるんだ? ディルファンスはこのまま解散なのか?」
慌てたヤマキの声にセルジは首を振った。
「とりあえず、エイタさんが合流してくるまで待つしかない。通信によると本部へと撤退するように指示をしたのはエイタさんらしいし、流石にリーダーと副リーダーが両方裏切ったっていうことはないだろ」
ないと願いたい、というのが本音だったが、セルジはその可能性について言及するのをやめた。もし、リーダーと副リーダーが両方寝返ったなら、残った自分達はどうなる? 頭を失った組織が存続できる訳がない。先のロケット団本部襲撃で少なからず犠牲を払ったというのに、残存戦力でロケット団員とディルファンス構成員が寄り集まったヘキサに対抗できる道理はなかった。
セルジとヤマキはモニタールームを後にして、廊下を歩いた。
「とりあえずレクリエーションルームに集まるのが正解だろうな。残りの戦力を確認するのもあるし、一点に集まっておかないと有事の時に動けないだろう」
有事の時、と自分で口してから、もしそうなったらどうする、と自問した。また戦うのか。今度は仲間だった人々と。果たしてそれが出来る器が自分にあるのか、と顔を拭って問いただしたその時、通路の中間にあるエレベーターから人影が出てきた。ディルファンスが戦闘時に使用している黒いフード付きの耐火用マント纏っている。背丈はまちまちで、エレベーターからちょこちょこと歩み出てきたのは三人だった。その背中に、ヤマキは声を掛けた。
「おーい。何だ地下にいたのか。誰もいないと思ったじゃないか」
ヤマキの言葉に、フードを目深に被った三つの人影がびくりと身体を震わせて反応する。その内の一人が顔を見せようとせずに、ヤマキに応じた。
「いや、ついさっき我々も戦線から帰って来たんだ。地下に誰かいないかと思って、降りてみたら誰もいなくて。何かあってはいけないと、耐火用のマントを被って来たんだ。そうだ、君達にも」
一番背の高いマントの人物がヤマキに耐火用のマントを手渡す。セルジは怪訝そうな目をマントの三人組に注いでいた。自分達がほとんど寄り道せずにモニタールームを目指している間に、地下まで迷わず行って耐火用のマントを取ってきた? いくらなんでも混乱している今の状況の動きとは思えない。ほとんどの構成員はまだ事態を把握しかねているというのに。ヤマキは疑うことなくそれを受け取って、セルジに向き直った。
「セルジ。お前のもあるってよ」
「あ、ああ」と応じながらマントの三人組に近づく。ヘキサの尖兵、という思考が脳裏を過ぎったが、いくらなんでも組織結成を宣言してすぐに攻撃というのは考えられない。それに残存戦力が限られており、なおかつ混乱の只中にあるディルファンスといえどもたった三人で潰しにかかるとは考えづらい。いや、もしかしたら他にも増員が――。そこまで考えた時、セルジへとマントが手渡された。
「どうしたんだよ。受け取れって。もしもの備えだろ」
マントを受け取りながら、セルジは三人組に目を向けた。一人は背が高く、あとの二人は背が低いが同じくらいだ。一人は男と考えても、残り二人は女子供。さすがに考えすぎかと思い、セルジは無為な思考に蓋をした。
「ありがとう。助かるよ」
言って背を向けてレクリエーションルームに向けて歩き出そうとした。その時である。背後から「ふぎゃっ!」という蛙が潰れたような奇声が聞こえた。
その声に振り返ると、三人組の一人がうつ伏せに倒れていた。後頭部が見えている。外見は短く髪を切った少女に見えた。その少女が振り返り、セルジとヤマキの視線と交錯させると急いでフードを被り直した途端、弾かれたように走り出した。その一人を追うように二人が駆け出す。
セルジとヤマキは数秒ほど唖然としていたが、やがて我に返りセルジは叫んでいた。
「追うぞっ!」
声と同時に反射的に走り出す。ヤマキもその後に続いた。なぜ、追っているのかは自分達にも分からなかったが、理由を問われれば相手が逃げたからに他ならない。逃げるにはそれなりの引け目があるはず。先ほどまで考えていた思考がそれに拍車をかけたのかもしれない。
つい数時間前まで戦闘の渦中にあった身体が重い。もつれてろくに言うこともきいてくれない足が、まるで鉛でもつけているかのようだった。そのため、セルジとヤマキはまともに走れていないのだが、先ほど転んだ一人は輪をかけて鈍感らしく、その一人をあとの二人が引っ張っているありさまだった。
少々曲がった廊下は円環構造を思わせるが、途中で途切れており、「C」の字になっている。確実に追い込める、とセルジは脚に力をこめた。追いついてどうするのだろう、という思考はこの時には働かず、とりあえず目の前にいる三人組は怪しかったので追いかけている、という事態だった。
三人組の姿が遠のき、曲がった通路の奥に隠れた。セルジはそこで立ち止まり、息を整えた。そこから先に逃げ道はないことをセルジは知っている。俯いて肩で息をしつつ、首筋をぱたぱたと仰いで制服の内に溜まった熱を追い出した。ヤマキがその後ろで、「何だよ、急に走り出して」とぼやく。セルジは「多分、侵入者」と短く答えて、ゆっくりと通路の奥に歩を進めた。
そこには、道がないことを知って混乱している三人組がいるはず――だった。だが、その姿は忽然と消えていた。しばらく歩くとあるのは無機質な壁だけである。後ろから歩み寄ってきたヤマキが、「なぁ。どこに侵入者?」と荒い息を整えながらセルジの肩をポンポンと叩いた。
「疲れているんだよ、俺達は。一回レクリエーションルーム行くまでに頭冷やそうぜ」
ヤマキは三人組から受け取ったマントを肩に担いだ。セルジはそのマントを指差して言った。
「じゃあ、そのマントはどうなるんだよ」
「だーかーら、侵入者なんていなかったんだって。ありもしない幻影見たんだよ。よく言うだろ? 極限状態のストレスに人間は置かれると幻見るって。マントは、俺達が自分で持ってきていたんじゃないか?」
肩透かしもいい所の答えに、セルジは手で顔を拭った。確かに指揮系統もどうかしてしまった組織に身を置いていれば幻影のひとつや二つは見るかもしれない。だが、マントを持ってきたことを忘れるだろうか。セルジは手元のマントに目をやり、無機質な壁に視線を向けた。歩み寄り、壁に手をつける。冷たい鋼鉄の壁がそこにあるだけだった。いくら撫でても、何か出てくるわけでもない。
「……疲れてたのかな」
「きっとそうだって。どっかトイレでもいいから冷たい水で一旦顔でも洗おうぜ。今日は疲れた」
ヤマキはマントを担いで歩き出す。セルジは歩き出す直前、もう一度壁に目を向けた。鼠一匹とおる隙間すらない突き当りの壁だ。気のせいか、と断じセルジはヤマキの後に続いた。
「うまくいったか?」
サキの声に、フランが応じる。
「ああ。どうやらもう行ったらしい。大丈夫だ」
「メタモン、戻れ」
その声に鋼鉄の壁が紫色に転じ、ゴマのような一対の目と簡素な口が浮かび上がりゲル状になった壁が崩れ落ちた。その奥にいたサキ達は、息をつき目深に被ったフードを取った。額に浮かんだ汗を拭い、サキはメタモンをボールに戻した。咄嗟にメタモンを出せてよかった。そうでなければ追いつかれて、死人が動いていると騒ぎになっていただろう。
「危ないところだったー」
マコが言いながら歩みかけると、サキがその頭にぺちんと張り手を食らわせた。
「痛いよ! 何すんの、サキちゃん」
「この馬鹿マコが! あそこで転ぶ奴があるか、現実世界でドジキャラを演じるなと言っているだろう!」
喚くサキに「演じてないもん!」と泣きっ面で叫ぶマコ。それを見ながら、フランは額を押さえてため息をつき、「はいはい。もうやめなって」と二人を引き剥がした。
「ここから先は階段で行く。出口は新しく出来た方を皆は使っているだろうから、古い方で行くよ」
「死体置き場を通るって訳か。死人には似合いの通路だな」とサキが皮肉を言ったが、誰も笑わなかった。
「とりあえず急ごう。人が集まり始めている」
フランが先頭を歩き始めた。サキは不貞腐れた顔でその後ろに続き、マコがその背中を追った。
二週間以上前に通った道を、そのまま時間を巻き戻されて通っている感覚だった。違うのは自分達の気持ちと、知ってしまった真実、そしてロビーにある棺の群れだった。その棺達が責めたてるような圧迫感をサキ達に与える。この場を離れる一団を快く見守るという空気は明らかに無く、明確な裏切り行為として責め立てているようだった。
サキとフランは無言でその中を歩いた。マコだけが骸の道を通れずに立ち往生する。その時、サキが振り返らずにマコに言葉を掛けた。
「マコ。お前はここを通らなきゃいけない。これ以上犠牲を出さないと誓っただろう」
「……でも、サキちゃん。足が動かなくて」
「それでも、死者の声に囚われるな。そこから先を踏み出せるのは、私達だけだ」
そこで初めてサキが振り返った。赤い眼がマコを捉える。この眼に何度も助けられてきた。今度は自分が助ける番、そう断じた胸の中に迷いは消えていた。
マコは歩き出した。戦士達の棺が横たわるロビーを抜け、洞窟へと歩を進める。
洞窟を抜けた頃には、日が傾いていた。西日の朱色が差し込んで、洞窟の入り口を仄明るく照らし出す。半分暮れかけた光と闇は、これから先に待ち受けている道の過酷さを物語っているとも、先にある光の象徴とも取れた。
「これから、どうする?」
フランが尋ねる。サキはフードに絡まった髪をとかして応じる。
「ミサワタウンに行く。お父さんなら、この状況をどうにかする手立てを見つけてくれるかもしれない」
その言葉にフランが確認の顔をマコに向ける。マコも異論は無かった。
マコは腰のホルスターにあるモンスターボールを引き抜いた。その中央の緊急射出ボタンに指をかけ叫ぶ。
「行け、ウォーグル!」
手の中でボールが割れ、そこから光に包まれた巨体が現れる。
それは巨大な猛禽だった。表面は赤く、裏は青い巨大な翼を持っている。鉤爪になっている自動車をも持ち上げる四本の指を持つ足に、先端の青い赤色の尾羽が五枚。鋭く黄色い嘴に勇猛果敢な眼差しが光っている。首筋は白い羽毛があり、それが正面から見ればライオンの鬣のように見える。
そのポケモンこそ、マコの唯一の手持ちであるウォーグルだった。巨大な翼を羽ばたかせてマコ達の前に降り立つ。
「しかし、マコに似合わないポケモンだな。立派な奴じゃないか」
「この子、怖がりで。あまり戦いが好きじゃないの」
マコの声にサキは「ふぅん。意外だな」と感想を漏らした。マコはウォーグルへと歩み寄り、その首筋を撫でた。ウォーグルは主人への忠義を示すように目を閉じて頭を垂れる。
「ウォーグル。私達を連れて行って。ミサワタウンまで」
マコの言葉にウォーグルが姿勢を低くした。乗れ、ということらしいと理解したサキは、「やっぱりマコには似合わないポケモンだな。度量が違う」と言ってその背に乗った。フランも座り、マコもその首に跨る。
「行こう、ウォーグル」
その声にカッと目を開き、ウォーグルは一声上げてその場から飛び立った。勇猛なポケモンと三人は巨大な羽音と共に、迫りくる夜を駆けた。
ロケット団の復活宣言で持ちきりだったニュースは、一気にヘキサ結成のニュース一色に染められた。先ほど流れたVTRを背に、キャスターと専門家がスタジオで話し合う構図の緊急報道番組がどのチャンネルでもかかっている。どの番組も事態を飲み込めていない空気が出ており、民衆へと「とりあえずは冷静になるように」ということを呼びかけるものばかりだった。
そんな番組を垂れ流す液晶テレビに視線を注ぐ一団――ロケット団非戦闘員の人々は、ホテル一階のサロンに集まっていた。どうするべきなのか、一番分からないのは彼らだ。戦闘に関わっていないとはいえ、ロケット団に在籍していた彼らには後退の道がない。かといって前進しようにも、ヘキサという組織の発足などは聞いていなかった彼らにとって、今回の出来事はまさしく青天の霹靂であり、今度はヘキサに身を置くということは容易には出来ない。
結局、自分達はどこにも戻れない人間、そう再認識してしまう。唯一の居場所さえ奪われた彼らは、迷子と同様だった。先導するような人間がいるはずも無く、重い沈黙が降り立っている。それはその場にいるナツキも同様だった。チアキがヘキサにいるという事が分かったが、だからといってヘキサに単身乗り込む気にもなれない。覚悟が出来ないでいるのだ。結局、半端者。ナツキは膝の上に置いた手を握り締め、俯いた。
「気にしているの?」
そんな声が前から発せられ、ナツキは顔を上げた。テクワの母親が心配そうにナツキを見つめている。当のテクワはテレビに何度もチアキが映るのを見つけては「またチアキ姉ちゃんだ」と言って画面を指差している。母親はテクワに少し目をやってから、ナツキに言葉を掛けた。
「チアキが本当にヘキサに行っちゃったのかは私にはまだ分からないけど、チアキは私達を守ってくれていたことだけは分かる。チアキとはつい一ヶ月前に知り合ったばかりだけど、芯の通った強い奴だってことは知っているし」
母親はテーブルの上に置いたコーヒーの入った紙コップを手に取り、それに口をつけた。ナツキはどこか状況を達観しているような母親から顔を背け、テレビに視線をやりながら言葉を返した。
「落ち着いて、いるんですね。あなたは、えっと……」
「ヨシノよ」
名前を言い淀んだナツキへと母親が声を挟み込む。その言葉に虚をつかれた様子でナツキは紙コップをテーブルに再び置いた母親へと視線を移した。
「ヨシノっていうのが私の名前。テクワのお母さん、とか呼ばれるガラじゃないのよ。実際はそうなんだけどさ、やっぱり若く見られたいし」
母親――ヨシノはそう言ってナツキへと微笑みかけた。ナツキはどこかばつが悪そうに笑みを返せずに俯いた。
「ヨシノ、さんはどうしてこんな状況でもチアキさんを信じられるんですか?」
「何でかな。馬が合ったからかもしれないけど、正直、信じる信じないの問題でもないのよ。ただ、あいつを疑ったりするのも何か違うかな、と思っているだけ。この状況を招いたのがチアキだとは私は思っていないし、私はチアキと友達やっていたことが悪かったとも思ってないから」
「後悔、しないんですか」
ナツキは膝の上の拳を震わせた。
自分は少し後悔している。チアキと知り合っていなければ、こんな思いをしなくても済んだのに。純粋にポケモンリーグを目指す一トレーナーでいられただろうに。
ヨシノは少し考えるように、テーブルの表面を指で叩きながら「うーん」とうなった。
「後悔してるって言えば、もうちょっと話している時に笑ったりして欲しかったっていうことぐらいかな。チアキって男前過ぎてさ。優しかったり頼もしい空気を出してはくれるんだけど、柔らかい空気は出してくれないから。女なんだから、もうちょっと柔らかくっても良かったと思うんだけど、あいつはいっつも仏頂面だったし」
ヨシノが頬杖をついて不貞腐れたように唇を尖らせた。いつものナツキならここで笑えるのだが、今は笑えなかった。その頼もしさに甘えて、逃げてしまった自分。きっと柔らかい空気を出してあげられるのは自分だったはずなのに、最後まで頼りにしてはもらえなかった。守られてばかりで、何も出来なかった。
「師弟って似るのね。あなたも仏頂面」
そんな後悔に苛まれているナツキを見透かしているように、ヨシノは口を開いていた。
「後悔しているんでしょ。そして、そうやって後悔したりうじうじしたりする自分が嫌い、っていう顔してる」
ヨシノは顔を上げたナツキの目を真っ直ぐに見つめた。意思の通った透き通った瞳をしていることにナツキは初めて気が付いた。
「いいじゃない。後悔しても。後悔して、しまくってさ。あの時、ああするべきだったこうするべきだったって、悩みに悩みまくって。多分、そうしなくちゃ答えなんて簡単に出ない。ううん、出しちゃいけないと思う。悩みに悩みまくって、自分の奥底からひねり出した答えだから、その答えに覚悟が持てる。チアキも覚悟って言葉が好きだったけど、あいつもすごく悩んでいた。戦う意味を。自分が力を振るう理由をどんな風に自分の中で明言化するか、みたいなところでずっと悩んでいた気がする。あんなチアキだって、過去の自分に幻滅したり、後悔したりしながら答えを出していったんだもん。あなただってそうじゃなきゃおかしい」
ヨシノの言葉に、ナツキはチアキの知らない面を見た気がした。チアキとて人間だ。自分と同じように後悔して、幻滅しながら進んでいった。そうして、自分の力の天井が迫ることに恐怖しながらも、着実に前へと進んだ。昨日の弱さを受け入れ、明日の力に転じてゆく強さ。心の奥底にある弱さを受け入れる覚悟。それをチアキは持っていた。
では、今の自分に求められている覚悟は何なのか。逃げてしまった自分を受け入れ、強さに変えること、それが頭では分かっていても心の中で整理がつかない。ナツキはテーブルへと俯き加減で視線を落とした。
「でも、私はチアキさんみたいに強くなれないんです。自分が弱いことも知っている。変わらなきゃいけないことも、変わるための覚悟を持たなければならないことも分かっているつもりなんです。でも、あと一歩がどうしても踏み出せない。きっと、私が未熟だから――」
「それは、違うわよ」
遮るようにヨシノが言った。ナツキは顔を上げる。ヨシノは紙コップの淵を指でなぞりながら言葉を継いだ。
「誰だって一人じゃ変われない。きっとチアキだって誰かの助けがあって変われたんだと思う。助けなしで変われる範囲なんてたかが知れているわ。誰かの助力があって、その上に自分の力が乗って、初めて何かを変えることが出来る。変化は自分ひとりじゃ絶対果たせない。誰かが変われる瞬間に、自分も変われるっていうのが普通よ」
紙コップの淵をなぞっている指に落としていた視線をヨシノはナツキへと向けた。その眼と言葉に、ナツキはハッとした。未来を変える力を持っているのは覚悟を抱いた時、そして誰かの未来を背負う時。誰かと一緒に変わる、変われる。ナツキとカメックスがチアキとの戦いの最中、変わったように。チアキがナツキと戦って変わることが出来たように。
「……誰かと一緒だから、変われる」
呟くように放たれたナツキの声にヨシノは頷いた。
「そう。今を越えて、未来を変えられる力はそうやって手に入れてゆくことが出来る。って、ガラじゃないけどネ」
照れ笑いのようなものをヨシノは浮かべた。その笑みにナツキも思わず表情が緩む。その瞬間、「ようやくね」とヨシノが言った。
「ここに来てからようやく笑ってくれた。大変な時に立ち止まって悲壮感に沈むのは簡単だけど、未来を見つめて笑うことは中々出来ない。本当はみんなが笑って歩み出せるのが理想じゃない? だったら、その理想に一歩でも近づきましょう。誰でもすごい力を持っているわけじゃないから、状況を一変、っていうのは難しいけど、でも少しずつならやれる。その手が出来る範囲のことならね」
ヨシノが言葉と共に手を差し出す。ナツキは膝に乗せていた手を、返して見つめ二、三度握った。出来ることは限られている。だが、その中でも自分が最善と思えることをやればいい。ナツキは頷いて、その手をヨシノの手に乗せた。ヨシノの柔らかい手から体温が伝わり、その温もりが全身を満たしてゆくのを感じる。
「それに、したいことから目を逸らしちゃだめ。あなたのやりたいと思っていることは?」
ヨシノの言葉にナツキは瞼を閉じ、自身の内側へと目を向けた。やりたいと思っていること。自分の手で出来ること。この手が望む方向を、自分で示す。
「私は、チアキさんを助けたい。もう、逃げたくないんです」
ナツキはその思いと共に瞳を開いた。ヨシノが頷き、微笑を向ける。
この手が出来る範囲のことは全てやりきる。ナツキはゆっくりとヨシノから手を放し、自身のバッグの中にその手を入れた。このバッグの中にだって、何かがあるはずだ。今を越える何か、現状から未来に繋がる自分の手で広げられるもの。その時、指先がバッグの底にある固い物に触れた。中から目的のものを探り当て、取り出す。
赤い本のような形をしたポケモン図鑑が、そこにはあった。
自分に出来ること。未来を変えるための最後の一筋をポケモン図鑑に感じる。ナツキは椅子から立ち上がり、周囲へと目をやった。ポケモン図鑑を握り締め、鼻から息を吸い込むと覚悟を決めた目を据え、全身を声にして言った。
「みなさん! これで終わりじゃありません!」
その声にサロンにいた非戦闘員達がナツキに目を向ける。ナツキはその視線を受け止めながら声を継いだ。
「終わらせやしない。まだ未来は決まっていないんですから。私が証明してみせます。だから誰か、長距離のテレポートが出来るポケモンを持っていませんか?」
ナツキの言葉に、非戦闘員達はお互いの顔を見合わせた。何を言っているのだろう、とでも言う顔。当然か、とナツキは思いながらそれでも視線を逸らすことはしなかった。本気だということを分からせるためには、絶対に目を逸らしてはならない。場の空気がナツキへと向けられる。まだ少女の身に何を期待すればいいとでも言うのか。疑心に似た思いが充満する中、ナツキは背後でがたっと椅子が動いたのを感じた。ヨシノが立ち上がり、ナツキの横に並ぶ。
「私はこの子を信じる。信じなければ何も始まらないわ。私達はこんなところでいつまでも燻っている場合じゃない。どこかに進まなければならない。望もうと望まないと関わらずね」
ヨシノの言葉に背中を押された気がして、ナツキはもう一度言葉を発した。
「私を信じてください。必ず、みなさんの未来をこんなところで終わらせやしません。長距離のテレポートが出来るポケモンが必要なんです。お願いします」
ナツキは頭を下げる。今出来る精一杯のことをしたつもりだった。
未来、という言葉に彼らも戸惑いを隠せないようだった。確証のないもの、だがそれと同時に必ず目の前に現れるものでもある。一度カントーで敗れて落ち延びた彼らにとっては、未来というのはもう輝きを失っているものなのかもしれない。だが、それでももう一度だけその未来を託して欲しい。その思いに強く目を瞑った時、
「おれ、信じる」
幼い声が耳朶を打った。顔を上げて見るとテクワが立ち上がって強く頷いていた。
「なんだかよくわからないけど、姉ちゃんなら信じられる」
その声に続くように、奥の方にいた非戦闘員の一人が立ち上がった。
「お、俺も。俺も信じる」
座り込んでいた人々が次々に立ち上がり、「信じる」という声が確かな意思となってナツキへと向けられた。その中の一人が懐からモンスターボールを取り出して言った。
「私は長距離テレポートが可能なポケモンを持っている。どうか私のを使ってくれ」
その言葉にナツキは熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それが溢れる寸前でどうにか堪え、強く頷く。信じてくれている人がいる。それだけで救われるものがあるのだとこの瞬間に実感する。ナツキは「ありがとう」と言い、そのボールを受け取る。緊急射出ボタンに指をかけ、ナツキは叫んだ。
「行け、スターミー」
ボールが手の中で二つに開き、そこから光に包まれた物体が射出される。それはナツキの腰辺りまでの大きさを持つ物体だった。ヒトデのような形状をふたつ、裏表で重ね合わせたような身体をしている。紫色の表皮の中心には八角形の赤いコアがあり、他の表皮よりも固くなった金色の外皮がそれを中心に固定している。そのポケモンは水・エスパーの属性を持つポケモン、スターミーだった。
「スターミー。テレポートをここにいる全ての人に適応。行き先は全ての始まりの町――ミサワタウン」
その声に応じて、スターミーの身体から青い光が迸り、それがオーロラのように揺らめいて人々を包み込んでゆく。青いオーロラが囲い込み、人々をこの空間から切り取る。端の人々から徐々に消えてゆく。
「じゃあ、一足先に行ってるわ」
テクワと手を繋いだヨシノがナツキへと微笑みかける。ナツキはそれに頷きを返した。最後の一人となり、スターミーと同時に自身の姿も消え行く。
「諦めない。まだ、やれることがあるはずだから」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、ナツキは瞳を閉じた。