第五章 二十七節「空席の勝者」
『エイタさん! この放送は何です? どうしてアスカさんが敵と手を組んでいるんですか!』
無線から漏れる声を聞き流し、エイタはテレビの画面を見つめていた。エイタはロケット団の非戦闘員と共に逃げ延び、ヤマトタウンのホテルの一室にいた。アヤノはベッドに寝かせてある。エイタは無線を握り締め、画面の中のアスカを凝視した。赤い髪にエメラルドブルーの瞳、間違いなくディルファンスのリーダーであるアスカだった。本来ならば、報復の演説の後本部に戻っているはずのアスカがなぜキシベと共にテレビに映っているのか。
『エイタさん! 状況を説明してください。我々はどうすればいいんですか!』
無線からの声が激しさを増す。恐らくロケット団は撤退、大局的に見ればディルファンスの勝利だろう。だが、そのディルファンスのリーダーが敵側に寝返っている。これでは手離しで勝利を喜ぶことは出来なかった。いや、それよりもアスカは自分との段取りを無視している。リーダーが反旗を翻しているのだから、これでは切り捨てられたのは自分の方だ。
裏切られた、という一語が突き刺さり、エイタは震える手で無線を持ち上げた。
「……全構成員に告げる。ディルファンスは本部まで撤退。僕もすぐに向かう。アスカのことについても追って連絡する。今はロクベ樹海から本部へと撤退するんだ」
その声に『しかし、それでは』という声が返りかけて、エイタは大声で無線に吹き込んだ。
「いいから撤退しろよ! 僕の言う事がきけないって言うのか!」
肩を荒立たせてエイタは無線を切った。直後、無線を壁に投げつけ、「畜生!」と悪態をつく。裏切られた、自分のものだと思っていた女に。その事実にエイタは室内の照明器具や家具を滅茶苦茶に荒らした。奇声を上げながら暴れ狂うその姿は勝利した組織の副リーダーのそれではなかった。尊厳を傷つけられた男のプライドで捻じ曲がった姿。道化、という言葉が浮かびエイタはアスカの姿を映し出すテレビに備え付けの電話を投げた。
電話が液晶を割り、テレビが倒れる。
「どういうことだ、アスカっ!」
エイタは荒れた息を整えながら、自分はどうするべきか考えを巡らせようとした。ディルファンスは頭を失った。もうロケット団残党と何も変わらない。資金提供も望めなければ、組織の維持も難しい。エイタは頭を抱えて叫ぼうとした。
その時、ベッドに横たわるアヤノが視界の隅で僅かに動いた。エイタはベッドへと歩み寄り、アヤノの顔を見下ろした。睫が揺れ、瞳が開かれる。エイタは平静を努めて、それを見つめていた。自分を殺そうとした少女。それがどう動くのか。エイタは腰のモンスターボールを掴み、緊急射出ボタンに指をかけようとした。アヤノは額を押さえながら上体を起こした。その目がエイタの姿を認め、見開かれたと思うとベッドの上で後ずさった。
「……ろ、ロケット団」
呻くように放たれたその言葉に、エイタは自分がまだロケット団の制服を纏っていることに気づいた。エイタは安心させようと眼鏡を取り出してかけながら言った。
「いや、僕はロケット団じゃない。ディルファンスの副リーダー、エイタだよ。潜入するためにこの服に身を包んでいるだけさ。この顔に覚えは無いかい?」
エイタが眼鏡のブリッジを上げながら言うと、アヤノはその顔を見つめ首を振った。
覚えていない。この少女はエイタがカリヤを殺したことも、エイタを殺そうとしたことも覚えていない。これは好機だ、とエイタは考えモンスターボールを腰のホルスターに戻した。
「……覚えてない、か。僕はディルファンスの副リーダーなんだ。なぜか一緒に潜入していた君を助け出した。君しか助けられなかったんだ。君は、いや、君の名前は?」
名前を知っていれば怪しまれる。そう考え、エイタは初対面のように訊いた。
「……アヤノ、ですけど」
アヤノは周囲を見渡しながら不安げに声を発した。荒らされた部屋の様子が気になるのだろう。それは自分がやったのではない、と装うようにエイタは笑みを張り付かせた。
「アヤノさん。君はディルファンス構成員じゃないね」
アヤノがびくりと肩を震わせる。それでエイタは確信した。なぜ構成員ではない少女が制服を着ているのか、問いただしてみたいことはあったが、それよりも確認しておかなければならないことがある。
「それはいいんだ。ディルファンスに見覚えのない顔だということは分かる。潜入部隊に入れた覚えもないしね。それで、どこまで覚えている?」
答えの如何によってはアヤノを生かしておくわけにはいかない。いや、リーダーを失い本部に残っていた構成員がヘキサに渡ってしまった今、自分の面子などは二の次だったが、月の石とロケット団との癒着云々を他の構成員に喋られるわけにはいかなかった。今自分がすべきことは残ったディルファンスの地上部隊と連絡を取り、ヘキサへと侵攻することだが事を運ぶには自分の経歴は真っ白でなければならない。そこに泥を塗られる可能性があればディルファンスを率いてヘキサへの侵攻など夢に潰える。
アヤノは慎重に自分の中の記憶の糸を辿っているようだった。アヤノはしばらく考えるようにうなった後、首を横に振った。
「あの、ロケット団の本部に入ってからの記憶が曖昧で、よく覚えていないです」
申し訳無さそうにアヤノは言った。エイタはひとまず安堵の息をつく。だが、それならばあの時自分を殺そうとしたのは誰だったのかという疑問が首をもたげたが、バリヤードが最後に放った十万ボルトで記憶が消し飛んでくれたのだと結論付けることにした。
「そうか。覚えていないならいいんだ」
そう言ってアヤノから背を向ける。これからどうする、とエイタは顎に手を当てて思考した。地上部隊には本部へと帰還するように連絡をした。一人でも本部までなら問題ない距離だが、ロケット団の制服のままでは危険が伴う。服を調達する手はあるにしても、アヤノをどうするか。自分の身を守ることで精一杯の今、置いてゆくのが賢明かと判断しかけたその時だった。
「……あの、あたし会いたい人がいたんです」
アヤノが消え入りそうなほど小さな声で口を開いた。エイタがアヤノへと視線を向ける。
「カリヤさんっていう人で、その人実はロケット団にいて……。多分、何かの間違いだと思うんです。でも、復活宣言が流れた時に、その場所にいて。あたし、カリヤさんに酷いことをしてしまって。それでもう一度会って何とかしたいと思ってここまで来たんですけれど……」
その言葉にエイタはアヤノの目的をようやく悟った。この少女はカリヤに会いたいがために自分達に紛れ込んでロケット団本部に侵入しようとした。だが、肝心のカリヤに会った記憶が抜け落ちているのだろう。エイタがカリヤを殺したことも。
ならば、とエイタはアヤノへと問いかけた。
「会ってみたいのかい?」
アヤノが小鳥のように小さく頷く。この気持ちを利用しない手はなかった。エイタは演説する時の感覚を思い出しながらアヤノに語りかける。
「カリヤか。懐かしいな、僕の旧友だ」
エイタが放った言葉にアヤノは顔を上げた。思い通り。笑みを浮かべそうになるのを堪え、エイタは静かに言葉を継いだ。
「なるほど、ロケット団に今はいるのか。知らなかったな。……だが、そのロケット団はもうなくなってしまったんだ」
「え?」とアヤノは問い返す。エイタは苦い顔をしながら、拳を握り締めた。
「一部の幹部がどうやら反乱を起こしたらしい。ロケット団は壊滅し、ヘキサと名を変えた。……そこに、カリヤもいたよ」
嘘を上手く調合させるには八割の真実を滲ませればいい。エイタは慣れた理論で嘘を組み込んだ。カリヤが生きてヘキサにいるという嘘を。
「カリヤはそのままヘキサに移ったらしい。多分、本人の意思じゃない。脅されているんだ。旧友だった僕にはそれが分かる」
悔しそうな演技をすると、目論見どおりアヤノは聴く姿勢を示している。エイタはより目頭に滲んだ熱を隠すように顔を手で覆った。
「あいつのことは一番分かってやれているつもりだったのに……。僕はあいつを救いたい。ロケット団なんかに入ったことを、多分悔いているはずだ。助け出せるのは僕しかいないと思っている。でも、一人じゃ心許ない。だけど」
エイタはアヤノへと目を向けた。アヤノはふとエイタと目が合って、頬を紅潮させた。
「君がいれば、カリヤを救い出せるはず。お願いだ。僕と一緒にカリヤを救い出してくれないか? 正式にディルファンスの一員となって」
その言葉と共に手が差し出される。アヤノはその手を見つめた。自分が必要とされている、そう認識させてやればいい。エイタはアヤノの動きをじっと見つめた。アヤノは躊躇うようにしながらも、その手をエイタの掌に乗せた。
セルジとヤマキはロケット団第一防衛ラインで、足を止めていた。
配置についていた敵戦闘員が逃げ出し、呆然と突っ立っている中、突然に回線に割り込んできた通信があった。その通信の中にアスカの名を聞き、構成員達は騒然としていた。ロケット団の壊滅、そしてディルファンスがロケット団残党と手を組み、「ヘキサ」という名の組織に変わったこと。受け入れがたいその情報は、しかし次の瞬間副リーダーであるエイタとの通信に当たっていた人間が張り上げた声によって裏付けられた。
「先ほど、エイタさんとの連絡が取れた! 地上部隊は本部へと一時撤退! 繰り返す、本部へと一時撤退だ! 負傷者を連れて本部へと急ぐぞ!」
その声にセルジとヤマキは出していたサイドンとドリュウズにボールを向けた。突然のことに頭がついて来ずに二人で顔を見合わせ、ポケモン達をボールに戻す。
「何が起きているんだ?」
ヤマキがセルジに尋ねるが、セルジも首を振った。
「さぁな。何にせよ、ロケット団は壊滅したんじゃ俺達の勝ちじゃないのか」
「話はそう簡単なものか? アスカさんがヘキサに寝返ったって……」
「こっちの情報を潰すためのかく乱かもしれないだろ。本部で映像を傍受しているだろうから、そっちで……」
続けかけた言葉をセルジは区切って、一点に視線を投じた。「なんだよ」とヤマキもそちらに目をやる。それと同時に驚愕に目を見開いた。そこに木の陰で倒れたコノハの姿を見つけたからだ。二人はすぐにコノハへと歩み寄った。衰弱しきったコノハが片手に注射器を握って横向きに倒れている。傍目にも危険と分かる状況を見、ヤマキが慎重にコノハの首筋に指を当てた。
「……脈はあるが、呼吸が荒い。すぐに搬送しないと」
セルジが頷き、二人でコノハを抱えた。コノハの身体は驚くほどに軽かった。
これが空中から敵部隊を圧倒していた人間の重みか? と思えるほどの軽さにヤマキが震える声をセルジに向ける。
「……なぁ、もしかして死んでねぇよな」
「死なせちゃ駄目だ。コノハさんは一人で戦線を切り開いたんだ。俺達がせめて帰り道くらいは保障しないと」
「そうだな」とヤマキは前に向き直った。退却する白地に青いラインが入った制服の人々の群れは、勝利者とは程遠かった。敗走、といっても差し支えない光景に、ヤマキは、では勝利とは何だ? と自問した。
ロケット団を虐殺すれば勝利だったのか。そもそも、どうしてそれほどまでにロケット団を憎んでいたのか。仲間を殺したからか? と答えを出しかけて、違うと首を振った。それだけじゃない。自分達はいつの間にか冷静さを欠いて、本当に戦う意味を失念していたのではないか。戦いが終わって冷え始めた頭にそんな考えが浮かび、ヤマキはセルジにどう思うか尋ねようとして、止めた。もしかしたらこんな考え自体、異端かもしれない。口にすることが恐ろしく、ヤマキは口を噤んで本部へと続く長い道を歩んだ。三十二番特設道路は所々砕け、鼻をつく血の臭いが漂っていた。