第五章 二十五節「蠢く闇」
ナツキは天井を振り仰いだ。
先ほど避難勧告が出され、地下一階のサービスルートに避難する人間と、二階層の非常通路から避難する人間にチアキとナツキは分けていた。赤色光に染まった廊下を人々が行き交っている。その中にテクワ親子の姿を認めた瞬間の出来事だった。
先ほどまで本部を睨み据えていた重たいプレッシャーの波が消え、その代わりに積乱雲のような圧し掛かるプレッシャーが新たに現れた。そのプレッシャーにはほとんど波がない。まるで凪いだ海辺のように、何も感じられない。先ほどまでの激しい殺意のプレッシャーとはまるで正反対。だが、確かに攻撃の圧力を感じた。チアキが非戦闘員を逃がしている間に、ナツキはこの階層のエレベーターホールに向かった。ナツキが動いたことに気づいたチアキが声を張り上げる。
「どうした! ナツキ!」
「分かりません! だけど、何かが上にいます!」
「上だと……」
チアキが天井へと目を投じる。チアキは避難する人々を掻き分け、ナツキへと近づいた。
「どうするつもりだ」
「自分でもよく分かりません。でも、何だか頭の中がざわざわして」
言い表せる的確な言葉がない。そのもどかしさにナツキは叫び出したくなった。チアキが心得たように頷き、エレベーターに目をやった。
「行くぞ。今ならば、ほとんど避難は終わっている。私達の誘導がなくても大丈夫だ」
「……でも、チアキさんは」
「私は元々ロケット団の幹部だ。逃げるのは最後の最後でいい。それよりも上にあるのは戦闘ブリッジと総帥の部屋だけだ。どっちに気配があるか分かるか」
「一番上です。それは間違いありません」
「総帥の部屋か。よし、行こう」
チアキがエレベーターの上昇ボタンを押した。上昇用エレベーターの扉が間も無く開き、その中へと二人で押し入る。
ナツキは何故だか胸がざわつくのを止められなかった。
エレベーターの振動が、そのざわつく胸に揺さぶりをかける。本当に行っていいのか、という不安。もしかしたら無視した方がいいのではないか、戻れなくなるのではないかという恐怖。
上昇するほど、圧力が近づいてくる感覚がする。エレベーターが緩やかな振動と共に止まり、扉が開いた。そこは二階層の白い無機質な廊下とは全く異なった建築技術が施された宮殿の中のような廊下だった。アーチした天井、白亜の壁、柔らかな床。どれをとっても、一級の場所には違いない。チアキはエレベーターから歩み出した。ナツキもその背中に続く。
廊下の突き当たりに白い扉があった。両端にはポケモンの像があり、闖入者であるナツキとチアキを咎めているようだった。チアキはモンスターボールを取り出し、緊急射出ボタンを押した。手の中で球体が割れ、中から光に包まれた人型が躍り出る。人型がその光を振り払い、チャーレムの姿を取った。
「念のためだ」
チアキはそう口にして、真鍮製の取っ手に指をかけてゆっくりと開いた。
中は廊下との整合性の取れた造りになっていた。高い天井から豪奢なシャンデリアが吊り下がっており、入り口から奥まで敷かれている赤い絨毯共々シックな空気を漂わせている。だが、この部屋にはそれとは対照的な風が吹きぬけていた。冷たい山間の風だ。奥の窓が割れているせいで、暖色の色合いを持つこの部屋の空気が削がれている。
その部屋の中央に黒いスーツを纏った男と、少女がいた。男の灰色の眼がこちらに気づいて向けられる。その傍らには狐のような金色の表皮に頭部を持つ人型のポケモン、フーディンが侍っている。
男の横にいる少女は小柄で薄紫の長い髪だった。赤い眼がチアキとナツキを見据える。その眼からは何も感じられない。だが、二階層にいたときに感じたのは男ではなく、少女の気配の方が近い。恐らく少女自身ではなく、その周囲を取り囲んでいる何かがナツキにプレッシャーを浴びせかける。その根源を探ろうとナツキは視線を巡らせようとした。それを遮るように前に立ったチアキが言葉を発する。
「キシベか。総帥はどうした?」
キシベと呼ばれた男はチアキの言葉に口元を歪めた。
「あの人はロケット団の再興のことしか考えていなかった。愚かな人だったのですよ。この部屋にサカキ様を迎え入れるという世迷言を本気で仰られた。視界の狭い人間に上に立つ資格はない」
「殺したのか」
チアキが放った言葉にナツキは肩を震わせた。キシベは動じることなく、口角を吊り上げる。
「だが、あなたに問題はないはずだ。あなたをスカウトしたのは私の意思。それはロケット団のためではない。最初に言いましたよね。あなたは犯罪行為を行わない、ある任務を帯びた戦闘集団の部隊長になって欲しいと。あれはロケット団で戦闘をしろという意味ではない。これからなのですよ、あなたの力が必要なのは」
「お前の野望のために働けということか」
その言葉にキシベは指を鳴らして笑みをつくった。
「流石、察しが早くて助かります。もっとも、野望ではない。これは理由のある正当な報復です」
「ディルファンスか?」と問うたチアキの声に、キシベは指を振った。
「そんな組織のことなど、どうでもいい。あの組織はロケット団の傀儡だった。壮大ないたちごっこを演じるためのね。ロケット団が壊滅的な打撃を受け、総帥も死んだ今となっては用済みです。いや、少しは使えるかもしれませんが、恐らく残党は使えないでしょうね」
「お前の目的は、ロケット団の壊滅か」
「壊滅させては勿体無い。頭を挿げ替え進化させるだけですよ。サカキの帰還などという小さな目的にこだわらない組織へとね。あなたはそこで戦ってもらいます。いいですね?」
キシベの問いかけに、チアキは首を横に振った。
「お断りだな。貴様はロケット団を私物化しようとしているだけの輩に過ぎん。そんな人間の下で戦うつもりはない。私は、私が覚悟した場所でのみ戦う。戻れない身であっても、場所くらいは選ばせてもらおうか」
チアキの言葉にキシベは僅かに肩をすくめてみせ、口元の笑みをいやらしくした。
「残念。なら、不本意ですが無理矢理でも従ってもらいましょうか」
「そのフーディンでか。随分となめてくれる」
「フーディンではない」
キシベはモンスターボールを取り出し、フーディンにボールを向けた。フーディンが赤い粒子となってボールへと戻る。それを見たチアキが怪訝そうに眉を寄せた。
「どういうことだ。まさかこのチャーレムを封じるのに、ポケモンを使う必要がないと思っているのか?」
「まさか。こういうことですよ、チアキ殿」
キシベが顎をしゃくる。すると、少女がキシベの前に歩み出た。薄紫の髪が、後方から吹きつける風に煽られる。
「少女を盾にするか。腐ったな、キシベ」
「なんとでも。行け、R01B」
キシベの言葉に少女は頷いた。チアキはキシベを指差してチャーレムに指示を出す。
「行け、チャーレム。殺しても構わん。あの男を止めろ」
チャーレムが疾走する。恐らく、少女を跳び越えてその後ろにいるキシベへと攻撃するつもりなのだろう。チャーレムが太い脚をばねのように縮め、今まさに跳躍しようとした、その時である。
身体を引き剥がすようなプレッシャーの波がナツキを襲った。今まで感じたことのないようなどす黒いプレッシャーがナツキの感知野を騒がせる。
――来る。
その予感にナツキは叫んだ。
「駄目っ、チアキさん! チャーレムを戻して!」
ナツキのその叫びを聞き届ける前に、チャーレムは少女の真上を跳び越えようとしていた。少女の小さな唇が動く。
「ゲンガー、シャドークロー」
刹那、少女の背後にある影から黒い刃が突き上がり、チャーレムの身体を貫いた。チャーレムの身体が真っ二つに裂かれ、それぞれ生き別れになった半身がキシベの前に横たわった。その断面から血が迸った時、ようやく事態を理解したチアキが叫んだ。
「チャーレム!」
その声に被さるように、キシベの高笑いが高い天井に反射して響き渡る。
「無駄ですよ。もう死んでいます。だから不本意だと言ったでしょう。戦力はできれば温存しておきたいのに」
キシベの足がチャーレムの遺骸を踏みつけた。その光景にチアキは鋭い殺気を帯びた視線を向ける。
「貴様ッ!」
チアキの袖からモンスターボールが飛び出し、それを手で掴んだ。そのモンスターボールは鎖で雁字搦めにされたものだった。それを見たナツキが声を上げる。
「チアキさん。駄目です、バシャーモはここでは……!」
ナツキが天井に目をやる。いくら天井が他の部屋よりは高いとはいえ、バシャーモの大きさを考えれば上手く立ち回れるとは思えない。チアキは「分かっている」と怒気を帯びた声を返した。
「分かっているさ。だが、ナツキ。私は覚悟をしてここにいる。勝てないからといって散っていった仲間の屍を前にして、冷静でいられるものか!」
鎖が剥がれ、ボールから赤い光が放たれる。全てを焼き尽くす紅蓮の炎が放つ光。ボールの中からでも感じる殺気が暴風となって突き抜けてゆく。チアキは叫びと共にボールを投げた。
「行け、バシャーモ!」
ボールが一度床にバウンドし、そこから光に包まれた人型が射出された。それはまだ光の晴れないうちに、少女へと直進する。
「ゲンガー、シャドークロー」
少女の背後から影が突き上がり、鮫の背びれのような形で定着する。人型はそれに危険を感じたのか、真上へと跳躍した。瞬間、先ほどまで人型のいた空間を鮫の背びれの形をした影の刃が掻っ切った。空間に居残った光が断ち切られる。人型の光が晴れ、猛禽の特徴とヒトの男性の姿を融合させたバシャーモの姿は天井付近、シャンデリアにあった。
シャンデリアを吊るす紐に掴まっている。
少女の目が上に向けられる。影の刃が偏向し、直角に進行方向を折れさせて、バシャーモへと突っ込んでゆく。バシャーモはシャンデリアを足場にして、少女へと跳躍した。直後、影の刃がシャンデリアにめり込み、黄金に彩られたガラス片を周囲へとばら撒いた。天井が砕ける。シャンデリアの紐が切れ、中心部以外は粉々に砕けさせたその身が傾ぐ。
それと同時に、バシャーモは少女の眼前の床に降り立っていた。手首から炎が迸り、その拳を赤く染めてゆく。それが振り上げられた瞬間、少女は動じるでもなくバシャーモを見据えた。
直後、振り下ろされたバシャーモの拳を少女の足元の影が、壁のようにそそり立って封じた。黒い壁にめり込んだバシャーモの拳を包み込むように影が形状を変え、壁から手枷となった。手枷に引っ張り込まれ、バシャーモはその場に膝をつく。目前にチャーレムを殺した人間がいるというのに、その拳が影に縛り付けられる。バシャーモは凄まじい形相で少女を睥睨した。その目に慄くこともなく少女の赤い眼は涼しい色を湛えたまま、怒りを体現したバシャーモへと向けられている。
バシャーモの全身から炎が鮮血の如く迸った。炎が渦を巻き、バシャーモの身体を覆うように纏わりつく。「オーバーヒート」の炎が刃のように鋭くなり、拘束されたバシャーモの手首を覆うと、その影で出来た枷を焼き切った。枷を外し自由になったバシャーモがすっと立ち上がる。その身を覆う炎が色を変え、白熱化してゆく。それはすぐさま周囲の酸素を取り込んで高熱を誇る白亜の鎧となった。「フレアドライブ」だ。白い体表のバシャーモが少女を見下ろすように立っている。その背後にあるチャーレムの死体を見つめ、目を静かに閉じた。まるで亡き戦士の魂に黙祷を捧げるように。その背へとチアキが声を掛ける。
「その少女に罪はないが、キシベに協力するのなら消すも已む無しとする。いいな」
最後通告とも言えるチアキの言葉に少女は否定も肯定もしなかった。チアキの目が鋭く細められ、バシャーモへと低い声で命令が下る。
「バシャーモ、そいつを殺せ」
その言葉にバシャーモは目を剥いて全身の白い炎を剣山のように逆立たせて、少女へと拳を放った。白い軌跡を描きながら空間を断ち割る拳に、少女は微塵にも動く気配を見せなかった。
ただ、一言、
「ゲンガー」
小さな唇が呼ぶように口にした。
その声に応じるように、バシャーモの拳が一秒後には少女の小さな頭を潰すであろう距離で止まった。空気中の酸素を焼き尽くし、音速すら凌駕するその一撃が止まり、その場に水を打ったような静寂が訪れた。それを破ったのは小さな水音だった。何かが滴り落ちる、ポチャンという音。
バシャーモは自身の腹に目をやった。腹部から影が突き出している。その元を探ると、それは少女の影に繋がっていた。少女の影が伸びて腹を突き破っている、そう認識した瞬間、バシャーモは滴り落ちる音の正体に気づいた。それは腹から流れる自分の血が床に落ちる音だった。拳から白い炎が剥がれ落ちてゆく。まるでそれはバシャーモ自身の命の灯火が消えてゆくように、徐々に空気の中に霧散していった。
バシャーモの腹から影の巨木のような腕が抜き取られる。腹に開いた大穴から血が迸り、バシャーモは倒れ伏した。その身から流れた鮮血が床の絨毯を濡らしてゆく。
少女の影が這うようにバシャーモへと近づき、その身を大きく仰け反らせたかと思うとバシャーモの頭に喰らいついた。影にバシャーモの身体が呑まれてゆく。ずるずるとバシャーモは引きずりこまれてながら、床に爪を突き立てて抵抗しようとする。だが、抵抗も空しく、もう一度準備するように大きく仰け反った影の口に、バシャーモの全身はすっぽりと呑み込まれた。まるで初めからバシャーモなどいなかったように、その場には血の跡だけが残され、バシャーモの姿は消えていた。
チアキは呆気に取られた様子でそれを見つめていた。ナツキも同様だった。何かをするよりも、目の前の光景が信じられずにただ硬直していた。
「……バシャーモ」
チアキがようやく言葉を発する。キシベは笑みを浮かべながら問いかけた。
「大丈夫ですか? チアキ殿らしくない。まぁ、無理もないですか。バシャーモを殺されて大層、ご乱心のようだ」
困ったとでもいうように肩をすくめてみせる。チアキは放心した様子で、バシャーモがいた唯一の証明である血の跡を見つめた。つい先ほどまでいたというのに、その影も形もない。死体が残されていた方がまだマシだと思えるような最期。
「……そんな」
チアキは膝を落とした。もうチアキの手持ちはいない。ナツキはキシベと少女へと目を向けた。ここで自分が戦わなくてどうする。その気持ちとは裏腹に、今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。チアキのバシャーモでさえ、敵わなかった。だというのに自分のポケモンで敵うという道理はない。ナツキは腰のモンスターボールへと伸ばしかけた手を彷徨わせた。
カメックスを出すのか? 無理だ、使いこなせる自信がない。
戦慄に揺れる視界の中、キシベと少女が映る。勝てるのか、という問いではない。勝たなければならない。だが、ここで勝てなかったらどうなるという問いが鎌首をもたげる。死ぬのか? こんなところで。まだ何も為していないのに。
「――ナツキ」
呼びかけられた声にナツキは反射的に肩を震わせた。チアキが俯いたまま、片手に握った黒鞘の太刀を杖代わりにして立ち上がっていた。
「貴公は逃げろ。私が時間を稼ぐ」
その言葉にナツキは驚愕した。キシベも、ほうと声を漏らす。
「何でですか! 私だって――」
「今の貴公は戦える状態じゃない」
遮る言葉に声を飲み込んだ。チアキが肩越しに目を向ける。強い眼差しが、ナツキの覚悟の足りなさを見抜いていた。その眼に気圧されたように、ナツキが一歩退く。
「私にはまだ刀がある。これで奴を仕留めるくらいなら出来るさ。だが、今の貴公は足手まといだ。ここにいない方が戦いやすい」
「……でも。チアキさん、私は」
「はっきり口にしてやろうか? 邪魔だと、言っている」
その言葉に覚悟のないナツキの言葉は打ち消された。チアキはキシベと少女に視線を向けて、ナツキには見向きもせずに言った。
「ポケモンを持っていながら、戦うだけの覚悟のない貴公にはこの戦いを最後まで見物する資格もない。ここは覚悟ある者だけが立つことの許された戦場。半端な覚悟で戦場を乱すな。消えてくれ」
言葉が棘となってナツキの心を突き刺した。ナツキはカメックスのボールにもう一度、手を伸ばしかけて躊躇ったようにその手を止めた。どうしても、あと一歩が踏み出せない。変わる、と言えたあの時の覚悟にあった熱が今の身体の中にはない。冷たい手を握り締め、「ごめんなさい」と口にしたナツキは身を翻した。誰も止める者はいなかった。
ナツキは明け放たれた扉から廊下に出た瞬間、何かが終わった感覚に襲われた。それが何なのか、心が追求する前にナツキは駆け出した。直視すれば壊れてしまいそうな心から目を背け、廊下を走った。後悔、という言葉が確固たる形を持って突き立つ前に、涙が頬を伝いその言葉を溶かした。
「いいのですか? 折角の戦力だったんでしょう?」
キシベの笑みを宿した言葉に、チアキは吐き捨てるように返した。
「必要ない。あれが戦力外なのは事実だ。なぜなら――」
チアキは柄を握る手に力を込めた。片手で柄を握り、もう片方の手で黒鞘を握り締め、両腕を開いて刀を抜く。黒鞘と鍔の間から鋭角的な光が漏れ、チアキの眼に黎明の如く映った。僅かに差し込む太陽光を反射して、白銀の刀身が閃く。チアキは抜き放った刀身を振るった。空気に切れ目が入り、じわりと血が滲むようにその空間がびりびりと震える。見事な一振りだった。
「貴様は、今から私に殺されるのだから」
チアキが切っ先をキシベへと向ける。キシベは顎に手を触れ、感嘆したように息を漏らした。
「見事……ですが、それで私を殺せるとでも?」
「やってみなければ分からないさ」
黒鞘を捨て、チアキは両手で柄を握り締めた。半身になって斜めに構えた切っ先をピタリと止め、チアキは細く息を吐いた。
「――行くぞ」
黒い着物姿が疾風の如く舞い、キシベへと刀が薙ぐように振るわれる。その一閃を、少女から伸びた影が壁となって遮った。チアキは身を弾いて後退し、もう一度上段から刀を振るい落とした。その一撃も影の壁に防がれる。間髪いれずに返す刀で影を切り裂こうとするも、影はその軌道を読んだようにその身を鋭い針に変化させて刀身を受け止めた。ぎりと奥歯を噛み締め、チアキは声と一閃を呼応させる。
「これならっ!」
薙いだ刀を影がスポンジのように包み込む。チアキはそのまま影を斬りおとそうとした。すると、影がチアキの一閃にあわせて分割した。上体に当たるであろう部分に亀裂が走り、そこが割れ、乱杭歯の並ぶ口腔が露になった。裂けるまで口を開いた影がチアキへと襲い掛かる。チアキは咄嗟に左腕を盾にした。左腕へと影の牙が食い込む。チアキは痛みに顔をしかめながらも、今ならばと片手でキシベに切っ先を向け、そのまま突撃した。
キシベに刀の切っ先が突き刺さる、と思われたその時、少女から伸びた針のような影が刀を弾いた。キシベへと真っ直ぐに突き刺さるはずだった刀の軌道がぶれ、床へと刀が突き刺さる。それを抜こうとする前に、針のように変化した影がさらに形を変え、刀を握るチアキの手首を包み込んだ。手首を呑み込んだ影が輪郭を成し、黒い手枷となる。手枷が強く食い込み、チアキは思わず刀から手を放した。その一瞬の隙をついて、影の手枷に身体を引っ張りこまれる。凄まじい力に成すすべもなく、チアキは床に倒れた。その頭上へとキシベが立ち塞がる。
「チアキ殿。あなたはやはり素質がある。ここで殺すのは惜しい」
チアキは殺意の籠もった眼をキシベへと向けた。キシベはそれを意に介した様子もなく、口元に笑みをつくり、腰からモンスターボールを引き抜いた。ボールの緊急射出ボタンに指をかけ、フーディンを再び繰り出す。
「安心してください。バシャーモはゲンガーの中で生かしてありますよ。ほどなくゲンガーの一部を得て、より強力になってあなたの元に舞い戻る。素晴らしいと思いませんか?」
キシベの言葉にチアキは反抗的な目を向けるばかりで何かを言おうとはしなかった。キシベがそれでも笑みを崩さず、フーディンを呼びかける。
「それはあなたも同じです。より力を得て、もっと上の戦いの舞台に上がってもらいますよ。そのために、反抗的なその眼から変えさせてもらいましょうか」
フーディンの両手に握られたスプーンから青い光が浮き出る。その光が渦を巻き、チアキの視界の中にねじりこんでくる。見ては駄目だ、と瞬時に感じたがそれすら遅かった。既に視界から外せなくなった青い渦がチアキの視界から思考へと入り込み、その意識を奪うのには十秒とかからなかった。