第五章 二十三節「天井」
ナツキとチアキはエレベーターホール付近で待ち構えていた。二階層、居住ブロックのエレベーターの前には大きなポケモンの像があり、それを中心として楕円を描くように広がっている。天井の端に埋め込まれたスポットライトが白いエレベーターを薄く照らす。エレベーターは上昇用と下降用に二つあった。
ナツキの傍らには金色の鬣を持つ青い獣、ライボルトが電子を散らしながら静かに待っている。チアキの隣にいるのはバシャーモではなかった。居住ブロックの天井は狭いため、バシャーモのような動きに起伏があり過ぎるポケモンは適さない。代わりにいるのは細身で人型のポケモンだった。人型といっても五指ではなく、指は三本であり、赤い頭巾のような頭部をしている。だぼだぼの修行僧のズボンを思わせる腰から下は赤く、爪先だけで立つ足は白い。顔は三白眼に細いたらこ唇である。
このポケモンの名はチャーレム。アサナンの進化した姿である。バシャーモほどのパワーアタッカーではないが、チャーレムは格闘とエスパーという奇異な属性を持っており、狭い空間での戦闘ならば、小回りが利き汎用性の高いチャーレムのほうがいい。ナツキがカメックスを選ばなかったのもほとんど同じ理由だったが、やはり心の奥底にはまだカメックスで戦えるだけの覚悟がなかった。ライボルトでも十分な戦力にはなり得たが、カメックスを使っている時に感じるほど周囲の感覚が鋭敏には感じられない。それでも、先ほどからこの本部施設を睨みつける敵の存在は感じ取れる。黒くてぬめりとした憎悪の塊、復讐の鬼、どう形容しても足りないような鋭い敵意が本部に近づいてきている。その敵意はさらに強い敵意と今、本部からそう遠くない場所でぶつかり合っている。お互い譲り合わない敵意同士の交錯。相手を許すつもりなど毛頭ない。殺し尽くすことだけ考えている点では、どちらも同じ穴の狢だった。
「ナツキ。あまり外の気配に気を配りすぎるな」
チアキがナツキの様子に気づいて声を掛ける。だが、その目はエレベーターを見据えたままだった。ナツキは浮遊していた視線をエレベーターに据えて頷いた。
「外の気配が分かるなら、中の気配を探れないか?」
チアキの言葉に、ナツキは中の気配を探ろうとするが駄目だった。中も外と同じ位に敵意に溢れている。一瞬前に、少しだけ敵意のぶつかり合いを下で感じたが、それもすぐに収まった。今、内部にあるのはどうしようもない恐怖だけだ。
ナツキは首を横に振った。チアキは「そうか」と言ってエレベーターに歩み寄ると、その扉に手をついた。
「こうすれば分かるものなのか?」
「いえ、何かに触れていて伝わるというより、もっと曖昧な感じに分かるんです。ガスの臭いが鼻を刺激する感じに似ているというか、言葉で言い表せるものじゃないんです」
「第六感か。私にもあればいいのだが」
ぼやいた言葉にナツキは俯いて暗く返した。
「……あっても、いいもんじゃないですよ」
現に自分はこの力のせいでカメックスを暴走させてしまった。普通のポケモントレーナーには過ぎた力だ。
「そんなことはない。その力があればより自分の思いを貫くことが出来る。私はロケット団に入ることを勧められた時に、この力を好きに使え、と言った。だが、私には大した力はない。他の幹部のように、後天的な薬物に頼らないようにやってきたが……。ナツキ、私には天井が見えるんだ」
「天井?」とナツキが聞き返すと、チアキは頷いてエレベーターの階層表示に目をやった。
「力の上限だよ。私は力を探求した。薬物に頼らない、ポケモンと人間の心の繋がりによる力を。だが、私は辿り着ける領域が限られていた。バシャーモと私はその力をフルに出し切っても、本当に心の奥底で繋がった瞬間の貴公等には敵わないだろう」
チアキがナツキへと目を向ける。思ってもいない言葉だった。心を繋がせるどころか、カメックスから逃げている身にとってはその言葉は痛く染み入った。
「そんなことないです」と小さく返すと、チアキは首を振った。
「まだ貴公等はお互いを信頼しきれていないだけだ。本当に信頼できた時、その力は私を軽く超えるだろう。本当の信頼関係というものがどういうものなのか、私にはまだ答えが出せないが」
その言葉にナツキが言葉を返そうとした、その時である。エレベーターの階層表示が動き始めた。地下二階から上昇してきている。チアキはナツキへと目配せした。ナツキのライボルトが体表に電気を蓄え、青い光を纏った臨戦態勢に入る。チアキも所定の位置に戻り、チャーレムへといつでも攻撃の指示を出せるようにした。
階層表示がこの二階層を示した瞬間、ナツキはごくりと唾を飲み下した。エレベーターの扉が開く。
その瞬間、チャーレムが動きエレベーターの扉が閉まるのを両足で防ぎつつ、内部にいる人間へと拳を突きつけた。ライボルトがその背中につき、いつでも攻撃が出せるように位置する。チアキとナツキがポケモン達に一拍遅れて出てきた。エレベーターを使って上がってきたのは、ロケット団員だった。黒い服に赤い「R」の文字。間違いなくロケット団員、それも下っ端だった。
ロケット団員は背中に少女を背負っていた。緑色の長い髪を二つに結ったその姿にナツキは見覚えがあった。
「……アヤノ」
チアキが「知り合いか」と目配せする。ナツキは頷いた。知り合いも何も、同じミサワタウンから旅に出た仲間だ。だが、どうしてアヤノがロケット団員に運ばれてくるのか分からなかった。チアキは刃のように鋭い視線をロケット団員に向けた。
「貴様、今は非常事態だぞ。なぜ持ち場についていない」
その声にロケット団員は気圧されたように口を開いた。
「そ、それが私はカリヤ様の部下だったのですが、カリヤ様が侵入したディルファンスに殺されてしまったんです。そのディルファンスの構成員はもう逃げてしまいました。私はその場で気絶していたこのディルファンスの構成員を牢屋に連れて行こうと思いまして……」
「カリヤが、やられた?」
本当だろうな、と念を押す声をチアキは重ねる。ロケット団員は何度も頷いた。チアキは鋭い目をそのままに、チャーレムに下がるように命じた。チャーレムは拳を仕舞い、ロケット団員に道を譲る。
ロケット団員はアヤノを背負ってエレベーターホールに歩み出た。ナツキは横からアヤノを見つめる。アヤノは確かに白地に青いラインの入ったディルファンスの制服に身を包んでいた。いつディルファンスに入ったのか。それを訊こうにも肝心のアヤノが気絶している。
「……私はこのディルファンス構成員を牢屋に連れて行きますので、失礼します」
困惑の視線と疑惑の視線に耐え切れなくなったのか、ロケット団員が頭を下げながらその場を後にしようとする。ナツキはその背に呼びかけた。
「待ってください!」
ロケット団員が振り返る。どこか卑屈な顔をした団員だった。
「アヤノは、多分無関係だと思うんです。戦いを嫌っていた子だったし。だから、牢屋には繋がないで欲しいんです」
ロケット団員が「そんなことを言われましても」と返す。チアキはロケット団員へと言葉を発した。
「なら、お前はその少女を連れてここから逃げろ。ディルファンスの侵入を許したとなれば、ここも安全ではない。廊下を真っ直ぐ行けば避難用の通路がある。そこから出て行け」
「ディルファンスを逃がしてもいいんですか」
「その少女は関係ないのだろう。敵陣で気絶するような人間にディルファンスが重要な情報を握らせていると思えん。恐らくは惰性で参加しているだけなのだろう。尋問にかける手間も人員もない。今の本部は戦闘状態、それも劣勢だ。恐らく近いうちに撤退命令が下る。私達は出来る限り持ち場について非戦闘員を守りつつ、避難に協力する。お前は先に行け」
矢継ぎ早に発せられた言葉に、ロケット団員は頷いた。そのままナツキ達が来た道を歩いてゆく。その背中を見えなくなるまで眺めてから、ナツキは「ありがとうございます」とチアキに頭を下げた。チアキは「なぜ、感謝する」と訝しげに応じる。
「チアキさん。アヤノが私の知り合いだって信じてくれたから、見逃してくれたんですよね」
ナツキの言葉にチアキは「甘い事を言うな」とあくまで憮然とした態度で顔を背けた。
「言った通り、戦場で気絶するような人間にディルファンスが重要な情報を握らせているとは思えんし、あの少女からは敵意が微塵にも感じられなかった。本当に気絶していたからだ。それ以外に何がある」
ナツキはチアキに分からぬように、そっと微笑んだ。チアキも人間だ、そんな当たり前のことを今更に実感した。
エイパムがバリヤードを失った自分に攻撃しなかったことが運ならば、カリヤがロケット団の制服に全く袖を通しておらず、その服が奥のロッカールームにあったことも運だった。
エイタは少女の腰につけたモンスターボールを探り、エイパムをボールに戻した。ロケット団臭い制服に袖を通し、眼鏡を外して持ち歩いているコンタクトを目にはめた。コンタクトを持ってきていたのも運だ。アスカほど有名ではないにしろ、自分の顔はディルファンスの副リーダーとして出回っている。知られている可能性がある顔のままでは本部基地内を歩けない。
エレベーターを見つけ出し、恐らく地上への直通ルートがあると思われる二階層まで上がった所で、幹部らしき女性と少女に見つかったのには肝を冷やしたが、どうにか上手く立ち回ることができた。聞いてもいないのに地上へのルートへ行けと命令されたのは僥倖と言うほかない。
エイタは背負ったアヤノとか呼ばれていた少女を担ぎなおし、地上へと続く非常通路を見つけた。黄色い光源が薄く道を照らしている。
ここを通れば外に出られる。
「……やってやる。僕は生き残るんだ。他の奴らとは違うんだよ」
ディルファンスの副リーダーはアヤノを背負って、薄暗い非常通路へと足を踏み入れた。