第五章 十五節「戻れない者たち」
居住ブロックの隅に部屋があった。左右に扉があり、機械が部屋の中央に陣取っている。そこからパイプが伸びて天井に繋がっていた。その機械には二十四個の窪みがついており、その中のひとつの窪みにモンスターボールがはめ込まれていた。チアキは窪みからボールを取り出し、ナツキへと手渡す。ナツキはその中にいるのがカメックスだと分かった。
「傷は癒えている。だが、もうカメックスは使わない方がいい」
チアキの言うことは尤もだった。トレーナーへのダメージフィードバックがあるポケモンを使うリスクは分かる。カメックスは使わない。いや、もう使えない。カメックスに意識を呑まれて戦うことが恐ろしくて仕方がない。
チアキが踵を返そうとする。その背に向けてナツキは口を開いた。
「チアキさんは、この先どうするんですか」
「ロケット団の一員として戦う。それしか道はない」
「守るために、ですか」
先ほどの女性とテクワの顔が思い起こされる。ロケット団に身を置いている限り、何もしていないという言い訳は通用しない。ロケット団の中でしか、あの親子は生活できないのだ。それを守るためには、ロケット団として戦うしかない。たとえ、ディルファンスや警察を敵に回しても。
「私は戻る場所がない。だから、戦うことでしか生きられない。この力を戦う以外のことに使えるとも思えない。だから、力は正義だと言った」
それは不器用な生き方だと思った。戦うことでしか、何かを得ることは出来ない。失うものの方が多い戦いの中で、一筋の希望にすがりつく。強さでも弱さでもない。ただ選択肢が少ない。退路のない生き方には選択肢も分岐点もない。進み続けるしか、道はないのだ。
「それでも、分かり合うことは出来ないんですか。ロケット団だとか、ディルファンスだとかいうことを抜きにして、争わないようにすることは――」
「いくら言葉を重ねても過去が拭えるわけではない。人は未来を見つめ続けることは困難だ。未来ばかり追い求められる奴は幸福だよ。現実はそうじゃない。だから過去に目をやる。そして、過去が汚れている人間は蔑視の対象になる。分かり合うには、過去を受け入れるしかない。だが、過去を受け入れることは重いことだ」
過去を受け入れる。ロケット団が悪事を働いていた、という過去。ディルファンスがロケット団に関係のない人間まで殺したという過去。それらの過去が受け入れられないのならば、争いは絶えることはない。結局、どれだけ綺麗ごとを並べても、過去という重石を断ち切るだけの、現在の覚悟がなければならない。覚悟を抱いた人間だけが、過去も受け入れ、未来を変えることができる。
ナツキは自分には覚悟がないことを悟った。ロケット団だから悪人と決め付けている。向き合う覚悟がなければその固定観念は変えられない。現実を知った今でも、向き合えるかは分からない。あの親子の未来を守るために、誰かの未来を奪えるだけの覚悟がない。
だが、チアキはそれを覚悟している。力を振るうことが正義だと言ったのはそのためだろう。たとえ相手の未来を奪ってでも守りたいものがあるから、心の中に正義を抱ける。
チアキがナツキへと振り返らずに言葉を続けた。
「私は、力があるものには責任が付き纏うと考えている。未来を変えてしまうかもしれない責任。私はかつて、過去に縛られ未来を奪うことだけを考えていた。貴公によってそれが間違いだと気づけた。貴公は、未来を変えられるだけの力を持っているんだ。だが、責任を負う覚悟がなければ、それは可能性の範囲で止まる。あの時、ジム戦の最終局面、貴公は私に戦いとは失うものだけではないという覚悟を見せてくれた。その覚悟をもう一度、とは言わない。だが、現実を知ってこれからどうするのかは自分で考えろ。元のようにポケモンリーグを目指すのもいい。私はこれ以上、貴公の生き方に口を挟みはしない」
ナツキはその言葉に返そうとして、果たせなかった。現実を知った。ディルファンスとロケット団が対立していることも知っている。このままではあの親子も戦いに巻き込まれてしまうかもしれないということも。
だが、自分に何が出来る。チアキの生き方を変えたような覚悟をもう一度持てるのか。あの時のように心の奥底から変わることを願えるのか。
ナツキは手に掴んだモンスターボールに視線を落とした。カメックスを信じられるのか。トレーナーの意識を呑み込んで制御不能になったカメックスを、もう一度信頼して自分も変われる覚悟があるのか。
「……チアキさん。私は――」
口を開きかけた瞬間、突然プレッシャーの波が暴風のようにナツキの身体を駆け抜けた。肌が粟立ち、意識がピンと張り詰める。その意識の網が、何かを感じ取った。
「今のは……」
呟くと、チアキは「どうした?」と聞き返した。チアキは感じ取っていないのか、今の妙な感覚を。
その時、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。チアキは周囲を見渡す。廊下の照明が赤く変わり、何かが起きていることを示した。