第五章 十四節「混沌」
リツ山は山脈からひとつ抜きん出た高さを持つ標高三千メートル程度の、カイヘン地方を代表する山である。
西方を樹海が覆い、東方にはヤマトタウンがある。カントーのシロガネ山に匹敵する高さを持つが、シロガネ山が人の手がほとんど入っていないのに対して、こちらは観光名所としての側面と人工物の側面が強い。
かつて活火山であったそれは、今は内部にマグマではなくロケット団本部を孕んでいる。それを知るのもロケット団以外にはなく、ロープウェイで山頂付近まで登り、テレポートで内部へと姿を消したキシベ以外の観光客は山の中に人工物があるなど思いもしないだろう。キシベはタリハシティから帰り着くや否や、自身しか知らない部屋に向かった。カードキーと網膜認証による厳重なロックがかけられている。キシベはポケットからカードキーを取り出し、認証パネルへと通した。パネルの表面につけられた青いランプが点灯し、続いて網膜認証が開く。黒い四角形へとキシベは目を近づけた。赤い光の帯が網膜をキシベだと認証し、ロック解除の音が鳴って扉が開いた。部屋の中には黒いコンピュータの筐体が並び、中央にはポリゴンが配線に繋がれてデータを絶え間なく共有している。キシベはポリゴンへと近づき、近くに置かれたノートパソコンから伸びた配線をポリゴンの身体に突き刺した。ポリゴンが僅かに身じろぎし、データをノートパソコンに転送してゆく。スクロールしていたデータの転送が突如、止まった。回線が切断されたらしいと分かったキシベは僅かに笑みを浮かべた。
「なるほど。もう事を起こしたというわけか。中々手早いな、ディルファンスのエイタ」
ノートパソコンの配線を抜き取り、キシベは部屋を見渡す。ディルファンスがポリゴンによるデータ共有を断ったということはここももう必要ないだろう。どのみち、これから始まることにデータの共有云々は意味がない。キシベは部屋から出て、扉のロックをかけた。必要はないが見つかれば面倒だ。
ロケット団本部はディルファンス本部と同じく蟻の巣のような構造になっており、キシベは一階の実験ブロックへと向かった。カードキーを通して部屋の中に入る。一面の壁が白く、殺菌の行き届いた部屋の中央、白いベッドの上に仰向けで横たわるのは少女だった。その傍らへとキシベは静かに歩み寄った。頭に拘束具のようなヘッドレストがつけられており、そこから絶えず催眠電波が送り込まれている。少女の薄紫色の髪が僅かに揺れ、苦悶に顔を歪める。催眠電波の種類は分からないが、少女に残っている人格を破壊するためのものであることは知っていた。目の前に横たわるあどけない少女は生まれ変わらなければならない。個人の意思ではなく組織の意思によって、ロケット団の忠実なる兵器として。これの捕獲に成功したからこそ、総帥は復活宣言に踏み切ったのだ。いわば、この少女こそが今次のロケット団における切り札だった。だがそれは表向きだ。キシベは少女の額に浮いた汗を優しく拭った。色素を排したような陶器のごとき白い肌が紅潮している。
「R01B。君は私のものだ。誰にも渡しはしない」
呟いて部屋を出た。恐らく監視カメラが自分の姿を捉えている。長居すれば怪しまれる可能性がある。だがその可能性すら、これから起こることに比すれば意味のないことだ。
キシベは廊下に出て時計を確かめた。朝の八時を回ったところだ。ディルファンスの作戦開始はいつになるかは分からないが、一両日中には実行されるだろう。その前にやるべきことがあった。
エレベーターに乗り込み、最上階へと向かう。緩やかな振動が体を持ち上げてゆく。本部最上階、そこはロケット団内では総帥の部屋としてあてがわれている場所だった。エレベーターから降りると下階層とは打って変わって豪奢な建築技術を施された通路があり、その先にロケット団総帥の部屋がある。その廊下で前から歩いてくる人物とすれ違った。神経質そうに右腕を押さえている。その腕の肘から先がなかった。切断箇所から長袖の黒服がだらんと垂れている。それを隠すように押さえているのだ。だが、神経質なその行動のせいで逆に目立つ。その眼がキシベを捉えた。血走った獣の眼だった。
「……キシベ。総帥に用でもあるのか?」
敵意を露にした口調に辟易した様子もなく、キシベは淡々と答えた。
「ええ、少し。シリュウ殿、大丈夫ですか?」
シリュウはその言葉に目を剥いて、「何がだ!」と叫び片手でキシベの胸倉を掴んで壁に叩きつけた。キシベは呻き声ひとつ上げずに、シリュウに観察するような目を注いでいる。シリュウは今にも食いかからんというような空気でキシベに言い放った。
「この姿が、醜いか? 憐れだと思っているのだろう? 貴様に助けられなければ、今頃死んでいたこの身が、そんなに……!」
獣そのもののような眼がキシベを高圧的に睨みつける。その目と交差するキシベの瞳は対照的に冷たい光を湛えていた。キシベはこんなことならばロクベ樹海でこの男を助けるのではなかったと思い返した。
R01Bを回収しに行った夜、シリュウは自分のポケモンに腕を食われていた。どうやら相手にかけるはずの主を攻撃する神経毒を何かの手違いで自分のポケモンが浴びてしまったらしい。シリュウの涙と鼻水で汚れた顔で「助けてくれ!」と叫ばれた時には、察したキシベのポケモンがシリュウのポケモンを殺していた。シリュウは毒・虫タイプの蜘蛛のようなポケモン、アリアドスを使っていたため、相性のいいエスパータイプであるユンゲラーで殺すことは容易だった。だが、それでシリュウは手持ちのポケモンと片腕の肘から先を失った。戦線復帰は誰の目から見ても絶望的だった。現にシリュウの部下達は離れていった。賢明な判断だとキシベは思っていたが、当の本人はそれを否定するように狂気にまみれた声でキシベへと言葉を放った。
「私は必ず、あのガキを殺す。ディルファンスが阻むのならば、それも同様だ。この腕を見た総帥は大変嘆いていらしたが、まだ私に力をくれたさ」
胸倉を掴んでいた手を放し、シリュウは腰につけたモンスターボールを手にとってそれをキシベの前に掲げて見せた。その中にあるポケモンの鼓動がボール越しでも空気を震わせる。並大抵のポケモンではなかった。それをキシベが感じ取ったことに満足するように、シリュウは口角を吊り上げた。
「最後のチャンスを与えてくださった。あのサカキ様が育てていらしたこともあるというポケモンをな。疾風のシリュウは死なない。貴様の望みどおりの隠居などしてたまるか!」
ボールを腰のホルスターに付け直し、威圧する目をキシベに寄越してシリュウはエレベーターへと向かっていった。その姿が完全にエレベーターの扉に消えたことを確認してから、キシベは鼻を鳴らした。
乱れた服装を整え、廊下を歩く。冷たい足音が残響し、ポケモンの像が両側に並ぶ白い扉へとキシベは近寄った。腰のベルトにつけたモンスターボールへと一瞬手を添え、キシベは真鍮の取っ手に指をかけた。
扉を開けると、そこは豪奢に彩られた天井の高い部屋だった。赤い絨毯が入り口から部屋の奥まで敷かれている。白亜の天井からシャンデリアが吊り下がっており、それがここを山の中に建造された場所だとは思えないほどに明るく照らしている。奥の執務机の背後にはロケット団初代総帥、サカキの胸像がある。その後ろはガラス張りとなっており、ロクベ樹海が見渡せた。シルフビル最上階とほとんど同じ、いやそれ以上の意匠を施された内装に下々の者ならば圧倒されて、言葉も出ないだろう。だが、キシベは特にそういった感情も見せずに、粛々と進み出た。
執務机から「キシベか」と声が掛けられる。キシベは「は、総帥殿」と短く応じた。身に染み付いた挙手敬礼をすると、椅子が回転してそこに座ったロケット団現総帥が顔の前で手を振った。
「堅苦しい真似をするな、キシベ。前にも言ったはずだ。我らはもとより同志。下らん上下関係のしがらみに縛られる必要はないとな」
髪を撫で付けた総帥が立ち上がり、ロクベ樹海を見下ろす。その背中にキシベは言葉を発した。
「シリュウ殿に渡されたポケモン。サカキ様が育てられたポケモンだと仰られたので?」
自分で言ってからキシベは、その口元に笑みを滲ませた。それを感じ取ったように窓の外を見下ろす総帥の顔にも心得ているといった笑みが宿る。
「お戯れもほどほどになさってください。サカキ様は地面タイプの使い手。あのポケモンはサカキ様の育てられたポケモンではない。総帥が自らの手で育てたポケモンでしょう?」
その言葉に、総帥はキシベへと振り返った。顔にある余裕の表情をそのままに、僅かにその身を揺らして笑った。
「ああでも言わなければ奴は自分の育てたポケモン以外は使おうとしないからな。隠居は嫌だと新生ロケット団の露払いに参加したいと泣きついたが、自分のポケモンで報復がしたいと言って聞かん。まるで融通の利かない子供だ。疾風のシリュウの名も落ちたものよ」
「だが、あのポケモンはシリュウ殿では使いこなせないでしょう。どうなさるので?」
「これを使えと数本渡しておいた」
執務机に総帥は歩み寄り、机の上にある注射器を手に取った。その注射器の中は青い液体で満たされていた。
「一時的なシンクロならば可能だろう。限界時間とリスクも言っておいたが、奴が聞く耳を持っていたかは分からんな」
「なるほど。それならばあのポケモンでも使いこなせる。しかし、いいのですか? 総帥はポケモンを手放して」
「構わんさ。キシベよ。上に立つ人間に必要なものは何だと思う」
低く問いただす声だった。その言葉にキシベは飽きるほど返してきた答えを送った。
「崇高なる信念と、大義。それが上に立つ者には常に試され続ける」
キシベの言葉に総帥は満足そうに頷いた。
「その通りだ。上が心乱れれば全てが水泡に帰す。上に立つ者は、揺るがず常に崇高なる信念のもとに事を起こさなければならん。そして大義。我々は怨恨ではなく、義で立ち上がるのだ。それこそが新生ロケット団の証。サカキ様が望まれているであろう、組織の形だ。いずれこの部屋にサカキ様をお迎えする。そのために準備が必要なのだ、キシベ。今は一糸たりとも乱れてはならん。特に幹部の乱れは部下に波紋を呼ぶ。あのような者でもロケット団の幹部。気が狂ってからでは遅いのだ」
キシベはその言葉に冷笑を返した。
「もう、狂っているかもしれませんよ。いいのですか」
その言葉に総帥は笑みをこぼす。
「そうかもしれんな。だとしても、私は捨てられんのだ。これを弱さだと罵る連中もいるだろうが、どうにも忠義を誓った部下には甘くなる。同じ大義のもとに集った同志、こうしてロケット団が新生の宣言を出来たのも、全ては幹部の力添えがあってこそだからな」
「私はいつでもあなたのために、閣下」
キシベが膝をついてかしずく。それを見た総帥が首を横に振った。
「違うぞ、キシベ。そうではない。お前は常に近くから私と共にあった。そのようなしがらみは必要ないと言っただろう」
「必要ない。そうですね、確かに」
キシベは立ち上がり様、腰のモンスターボールを抜き放った。それを怪訝そうに総帥が見つめていると、キシベはボールを総帥へと突き出した。
「もう、必要はない」
キシベの指が緊急射出ボタンを押し込む。その瞬間、キシベの手の中で球体が割れ、中から光に包まれたポケモンが姿を現す。そのポケモンは光を振り払うと同時に、指先から青い光を放ち総帥を絡めとった。光を払ったポケモン――ユンゲラーがキシベと総帥の間の絨毯に屹立する。その手に握られたスプーンから光が放たれ、総帥の身体を包み込んでいた。
「……キシベ、何を、している」
キシベは答えない。代わりにユンゲラーがスプーンに翳した手をばっと開き、その指先を僅かにひねった。総帥の身体から骨の砕ける音が幾重にも響き、その身体が宙に浮く。総帥は口から血を吐き出しながら、キシベを眼下に睨み据えた。視界の中のキシベは、口角を吊り上げて嗤っていた。
「何を、していると聞いているんだ! このたわけが!」
「ご自分の身体を見れば分かるでしょう?」
キシベが口元の笑みをそのままに返す。
「あなたは、もう必要ないんですよ。R01Bを手にした今となってはね」
「何だと?」
「あなたはサカキ様を呼び戻すためにR01Bを使おうとしている。私としては、それは大変不愉快なのですよ、閣下。サカキ様など、私は待っていない。待っていたのは全てこの時、この一瞬」
ユンゲラーの手に握られたスプーンの先端が捩れ始める。それにあわせるように、総帥の首筋が徐々に捩れてゆく。総帥は千切れそうな喉から、焼けたような声を上げた。
「キ、シベ……!」
「あなたをくびり殺し、R01Bを私の物とする。それが目的だったんですよ。最初からね」
ミシミシと首の肉が捩れ、骨が鳴る。首だけではない、身体さえも捩れ始めた総帥は声にならない叫び声を上げ始めた。
「安心してください。ロケット団はもうすぐ滅びます。ディルファンスの手によってね。後のことは、まぁ知りませんけど」
断末魔の叫びを総帥が上げようとした瞬間、雑巾のように総帥の身体は捻じ切れた。血と臓物がサカキの白い胸像へとぶちまけられる。キシベは狂気じみた笑みを浮かべ、指を鳴らした。直後、ガラス張りだった窓が割れ、高地特有の冷たい空気が流れ込んでくる。キシベは何かを捨てるように、手を無造作に放った。それに連動したように、青い光に包まれて総帥だった遺体が窓の外へと投げ捨てられる。
キシベは肩を揺らして嗤った。これで全てのお膳立ては整った。
「さぁ、行こうか」
キシベはユンゲラーへと手を伸ばした。ユンゲラーが振り返った瞬間、その口へと手を突っ込んだ。ユンゲラーが苦しそうに呻く。キシベはユンゲラーの身体の中を探り、目的のものを引き出した。それは丸い石だった。その石をキシベは床へと叩きつける。石が音を立てて割れた瞬間、ユンゲラーの身体に変化が訪れた。額の星の紋様が消え、狐のような尻尾が身体に収められてゆく。その身が膨れ上がったかと思うと、鼻先から金色の髭が生えた。その髭を揺らし、鬼の角のように尖った両耳の突起がさらに伸びる。青い光がスプーンの握っていない方に現れたかと思うと、それは凝縮しスプーンを空間に形作った。それを握りしめた瞬間、ユンゲラーだったポケモンは目を開けた。
「――フーディン」
キシベの声に、ユンゲラーの進化した姿――フーディンは進化前より大きくなった頭部で静かに頷いた。キシベが割れた外の景色に目をやる。すると、遥か遠くの空に黒々とした何かが見えた。米粒ほどにも満たないそれは、確かな敵意を孕んでこちらに向かってくる。
「来たか」
キシベは部屋で一人嗤った。それを受け止めるように、血に染まったサカキの胸像が対峙していた。