第五章 九節「邪会」
ディルファンスが以前使っていた入り口は溶解していながらも使うことは出来た。だが、このロビーにはカトウの本部襲撃時に犠牲となった人々の棺おけが所狭しと並べられており、それを直視する気力の無い人々はここをもう使わないことを暗黙の了解としていた。
人、ポケモンのわけ隔てなく並ぶ棺おけ。そこに添えられた花束を見つめてディルファンスのリーダー、アスカは黙祷を捧げた。会議の後に着替えて今は黒いスーツを身に纏っている。左胸の青いバラの花飾りは派手な色彩でありながら、華美に見えないのはアスカ自身が醸し出す気品もあるのかもしれない。エメラルドブルーの瞳が周囲を見渡す。焼け焦げた床と壁。大理石の豪奢なロビーは見る影も無い。今は死者の弔い所だ。棺おけの並ぶ中に立っていると急に寒気が走った身体を腕で抱いた。棺おけから死者の目が、声が自分を責めたてているように思えて、アスカは顔を伏せた。自分は利用したのだ。彼らの死を戦うための理由として。それが今更ながら圧し掛かってきて、アスカはその場に屈んだ。
その時、
「なにしてるんだい? アスカ」
死者の声とは違う、生きている人間の声にアスカは顔を上げた。そこには自分と同じようにスーツを着込んだエイタがいた。エイタが心配そうに顔を覗き込む。アスカは震える身体を抱きながら胸の内をエイタに打ち明けた。
「……私達がしたことを、彼らが許していないような気がして」
アスカの目が周囲の棺おけに注がれる。エイタも同じように周囲を見渡した。だが、その眼は何も感じていないようだった。
「気にしすぎだよ。彼らは不幸だった。それだけのことさ。弱かったから死んだわけでも、強かったから生き残れたわけでもない。両者を分けたのは、結局運だったんだよ」
「でも、私達はそうじゃない」
アスカが呻くように言った。エイタはアスカを見下ろしながら、その声を聞いている。アスカはエイタへとエメラルドブルーの目を向けた。
「私達は運でもなく、狡猾に生き延びてしまった。それを彼らが許してはくれない。彼らの声が責めたててくるような気がして、怖いの」
「幻聴だよ。しっかり、するんだ」
アスカの腕に手をやってエイタは無理矢理立たせた。アスカは力なく項垂れている。エイタはその耳元に囁いた。
「迂闊なことは言わないほうがいい。僕らのバッジには盗聴機能は外されているけど、誰かが聞いているとまずい。君はこのディルファンスを束ねるリーダーだろう?」
アスカはエイタの顔を見ると、ゆっくりと頷いた。エイタは手を放し、アスカの目を真っ直ぐに見つめた。
「毅然としているんだ。弱いところを見せればお終いだよ。これから人に会うっていうのに、そんなんじゃ困る」
そう言い置いて、エイタは先に進んだ。溶けてぐずぐずになった入り口へと向かう。アスカは足元の棺おけに置かれた花束を見やり、ぼそりと呟いた。
「……私は、もう後戻りできない。ごめんなさい」
言葉を残し、アスカはエイタの後を歩いた。
人目につくことを避けるため、移動用に運用しているジープは使わず目張りのついた黒い高級車に二人は乗って首都、タリハシティへと向かった。車内では交わす言葉はなく、重い沈黙が降り立っている。草むらが生い茂る一般道は悪路だったが、高級車はエンジン音さえ押し殺して夜の草むらを走った。
「もうすぐタリハシティに着く」とエイタが後部座席に座るアスカへとフロントミラー越しの目をやった。アスカはそれに気づいて、身を硬くした。
「君の容姿は目立つから、地下駐車場に入ってから僕のエスパーポケモンのテレポートで目的の階層まで向かう。いいね」
その言葉に頷いて、アスカは窓越しに外の景色へと視線を投げた。暴動が起こっているとニュースが告げていたタリハジムの前では多くの人でごった返していた。報道陣がそれを囲むように鎮座しており、カメラがこちらに向きかけてアスカは思わず窓から身を隠した。
「大丈夫だよ。向こうからこっちは見えないから」
運転席のエイタが穏やかな声で言った。アスカはそれでもカメラが向いていることを意識せざるをえなかった。間も無くタリハシティの中心部にあるオフィスビルやホテルの並ぶ区画へと車が向かう。その中に、アスカは縦に裂かれたままのシルフカンパニーカイヘン支社のビルを見つけた。そこに立てておいたはずのディルファンスの旗が降ろされている。恐らく暴動で真っ先に壊されたのだろう、とアスカは思い顔を翳らせた。正しいと信じて行ったことだ。だが、そこには犠牲が介在しなければその正しさを示すことも出来なかった。やはり自分達は多くの犠牲の上にいるのだ、とアスカは再認識して警察の立ち入り禁止のテープで囲われたシルフカンパニービルを見上げた。まだ行方不明者も多いと聞く。本当に正しいことを成したのだろうか。今となっては曖昧になってしまった正義の概念に、アスカは思いを巡らせた。
車がビル街の中のひとつ、ホテルの地下駐車場へと進んでゆく。薄暗闇の中、空いた場所に車を停めた。エイタだけが外に出てから、周囲に人気が無いことを確認する。外から扉が開き、「大丈夫」とエイタが後部座席に顔を覗かせた。
アスカは慎重に外に出た。車は少なかった。だが明らかに報道関係だと分かる大型の車が見られた。他地域からの報道陣も押し寄せているのだろう。ここも決して安全ではないことをアスカは再認識して、エイタに視線を送った。エイタは腰からモンスターボールを取り出す。真ん中の緊急射出ボタンを押し、手の中で球体を開いた。そこから射出された光の人型がアスカ達の前で身にかかった光を振り払う。ポケモンには珍しく五指を持ち、饅頭のような頭部の両端に鶏冠のような黒い髪がある。球体と細い線で構成されたそれはエイタのポケモン、バリヤードだった。エイタはポケットから四つ折りにしたこのホテルの地図を取り出した。それを開いてバリヤードへと向ける。
「バリヤード。この地図のここの座標に、僕とアスカをテレポートで転送してくれ」
その声にバリヤードは従い、両手を開いてアスカとエイタに向けた。その両手から目には見えない力が迸り、アスカ達を包んでゆく。それが全身を包み込んだ、と思った次の瞬間には景色は薄暗い地下駐車場から穏やかな明かりの照らすホテルのレストランへと移動していた。豪奢なシャンデリアが頭上に位置している。そこから八方向へとドーム状に天井が形成されており、八方にある白亜の支柱に繋がっていた。ガラス張りの壁からはタリハシティの全景を見下ろすことが出来る。エイタがバリヤードをボールに戻すと、ボーイが近寄ってきて尋ねた。
「アスカ様と、エイタ様ですね」
エイタが首肯すると、ボーイが席へと二人を案内した。赤い絨毯にあわせたように朱色のテーブルがそこここに並んでいる。その席のどれにも人はいなかった。ここは今、ディルファンスによって貸し切られていた。その中の一席に腰を下ろす。その席はアスカとエイタの他にもう一席空いていた。
その時、先ほどバリヤードで空間移動した場所が歪み、その場から人影が立ち現れた。ダークスーツに身を包んだ長身痩躯の男だった。テレポートに使ったと思われるポケモンを脇に従えている。狐のような顔を持ち、その額に星型の紋様があり、猫背の人間のような姿をしていたが皮膚は黄金色だった。
「戻れ、ユンゲラー」
ユンゲラーと呼ばれたポケモンは男の差し出したボールの中に赤い粒子となって吸い込まれてゆく。その姿へとボーイが歩み寄り、「キシベ様ですか?」と問いかけた。男――キシベは頷き、ボーイに導かれてアスカ達の席に向かってくる。席を引いて座り様、キシベはボーイへとチップを渡した。それが単なるチップではなく口封じの金だということは、キシベのスーツの左胸に毒々しい赤でプリントされている「R」の文字で明らかだった。エイタがその「R」の文字に苦い顔をする。それに気づいたキシベが笑い声を交えながら口を開いた。
「すまない。これは我々の矜持のようなものでね。不愉快かな」
その言葉に「いえ」とエイタは返したが、快く思っていないのはアスカも分かった。今、顔を突き合わせているのは敵同士の相手だった。ロケット団とディルファンス、相容れない存在が同じ空間で食事を共にしようとしていた。ソムリエがグラスにワインを注ぐ。赤い液体がグラスの半分を埋め、芳しい香りが揺らめいた。ボーイが前菜を持ってくる。それを各々の前に置いてから「ごゆっくりどうぞ」と言い置いて遠ざかってゆく。その背中をアスカはしばらく見つめていた。ロケット団とディルファンスの密会。それを目撃したとなれば、あのボーイはこの後恐らく――。そこまで考えていたアスカの思考を、キシベの声が遮った。
「ここはカントーでも腕利きの料理人がキッチンに立っているレストランだ。味は折り紙つきだよ。食べてみるといい」
その言葉にエイタが料理を口に運んだ。アスカもそれに倣う。確かに美味かった。だが、それを言ったキシベは食べようとせずに、続けて言葉を発した。
「この会合の意味は分かっている。ロケット団復活宣言について、だね」
先に口火を切られてエイタは虚をつかれたような顔になったが、すぐにその言葉に返した。
「はい。なぜロケット団は今になって再復活を宣言したのか。それも我々ディルファンスという生贄を使って」
エイタの言葉には明らかな棘があったが、キシベはそれを風と受け流し応じた。
「君達を犠牲にしたつもりは無い。あれは現総帥の独断だ。私はこれまで通り、君達と共生関係を続けていきたいと考えている」
キシベはグラスを手に取った。「いいワインだ」と言ってから、血のように赤いワインを口にした。それを味わうように目を閉じる。エイタはグラスには手をつけずに、キシベの顔を見据えながら口を開く。
「共存関係を続けたいのなら、あの映像は何です? あれでは我々はロケット団に利用されたとしか思えない。現ロケット団を持ち上げるための体のいい理由になる」
エイタがあの映像と口走ったのは、シルフカンパニー襲撃時の社内の映像だ。ディルファンスが社内の罪も無い人間を虐殺したことを示す映像。キシベは動じることなく、答えが用意されているかのように灰色の目を向けた。
「あれも総帥の独断だよ。私は知らなかった。映像がサルベージされたことも含めてね。ディルファンスとの共生関係を知っているのはロケット団の中では上でも下でも、私ただ一人。だから、君達との関係維持に努めるあまりね、そちらの情報を仕入れるのを失念してしまった。私のミスだ。そこは謝るよ」
「ミスで許されることではありません。我々が築き上げた地位が一夜で瓦解した。ロケット団が物流に関与できていることも、まだ完全に摘発されていないことも我々のおかげだ。ディルファンスは本気になればロケット団を潰すことなんて簡単に出来た」
その会話は傍から聞いていればおかしなものだった。ディルファンスの副リーダーが、ロケット団との関わりを全て吐いている。ロケット団のキシベは、といえば個人レベルで関わっていたことは認めても組織として関わっていたことは認めていない。これではこちらの立場が悪くなるばかりだ、と考えたアスカは思わず口を挟んでいた。
「ロケット団はこれまで通り、私達との共生関係を続ける、ということでいいんですね?」
その言葉に一番驚いたのはエイタだった。まさかアスカが口を挟むとは思っていなかったのだろう。先ほど以上に面食らった様子で、アスカを見つめた。キシベは相変わらず動じることなく、灰色の瞳は感情を灯してすらいない。アスカは不動の目へともう一度言葉を継げた。
「答えてください。これは私達の関係存続に関わるんです」
真摯な言葉が伝わったのか、それともリーダーが飾りでないことに興味を覚えたのか。恐らく後者であろうキシベは口元を僅かに緩めた。
「ええ。我々ロケット団はあなた方ディルファンスとの共生関係をこれからも続けていきたいと考えている。いくらカイヘンで少しばかり小回りが利くようになったとはいえ、カントーでの全盛期に比べれば今のロケット団の組織規模は三分の一にも満たない。今のままディルファンスや警察機構と立ち向かっても勝てる見込みは薄い。ならば細く長く、というのが私の見解です。あなた方とのいたちごっこを我々はこれからも演じ続ける。もちろん、総帥や幹部達には気づかれないように、というのが中々難しいのですが」
キシベはそこで困惑したように笑ってみせた。だが、それはどこか芝居めいていて、笑顔という話の素材に過ぎないことは明白だった。
「正直な話、現幹部ではあなた方に勝つことは不可能だと考えています。こんな言い方をすればよくないですが、正常な者がいない。私以外の幹部では、あなた方とまともに話すことも出来ないでしょう」
前菜の皿が取り下げられメインディッシュが運ばれてくる。結局、キシベは一度も前菜に手をつけることは無かった。
「話すことも出来ない、というのは?」
エイタの質問に、キシベは「戦闘専門だからです」と簡潔に答えた。
「彼らは戦闘することが主な仕事。私はあなた方とこうして話すことも仕事のうちですが、彼らは違う。一種の戦闘狂とでも言いましょうか、それ以外に興味がないのです」
キシベは口元を歪めた。エイタとアスカにしてみれば笑える話ではなかった。少なくとも今のロケット団に戦闘集団がいるというのは脅威を感じさせる。だが、それ以上にその戦闘集団がいなければこのゼロサムゲームを維持できない。彼らが犠牲になってこその組織存続である。
「まぁ、ここでそれを事細かに話したとしても仕方がない。少しくらいは食事に手をつけましょうか。折角の料理が勿体無い」
そこで初めてキシベは料理を口にした。エイタとアスカもそれに倣い、料理を口に運ぶ。アスカは食べながらキシベの様子を盗み見た。キシベは料理を少し齧っただけで、食べたという印象とは程遠かった。
「協定に変わりは無い、ということでいいんですね?」
エイタが最終確認のように問いかける。キシベは口元に笑みを浮かべて応じた。
「ええ。ロケット団とディルファンスはこれからも共生を続ける。そのために近々、戦闘集団から人を選びましょう。あなた方はそれを理由としてもう一度活動を再開すればいい。日時は後ほど、本部へとデータをお送りします」
その言葉を潮にそれ以降ほとんど言葉は交わされなかった。アスカは出された料理をほとんど口につけることは無かった。エイタが食べれば気づいて食べるだけで、それ以外は食欲が進まなかった。エイタとアスカが席を立つ時、キシベは思い出したように声を掛けた。
「そうそう。エイタさん」
その声にエイタが振り返ると、キシベがテーブルへと青い液体の入った試験管と、それがちょうど入るくらいの直方体の容器を置いていた。エイタはアスカの視線を遮るように座っているキシベへと歩み寄り、それを手に取った。
「いくらです?」という潜めたエイタの声が聞こえる。キシベは首を振った。
「いいですよ、そんなものは。共生関係、ですからね」
その言葉にエイタは試験管と容器を懐に入れて、アスカへと向き直った。
「行こうか」
抑揚の無いエイタの声が掛けられ、アスカは気づいてその背中に続く。キシベは座ったまま、アスカ達を見送った。その視線を背に受け、アスカはどこかぞわぞわとしたものが背筋を走るのを覚えた。
エイタがボールからバリヤードを出し、再び地下駐車場へとテレポートする。景色が消える直前、アスカはキシベへと振り返った。
キシベは静かに嗤っていた、ように見えた。
次の瞬間には景色は薄暗い地下駐車場の中にあった。バリヤードをエイタがボールに戻し、早く後部座席に座るようにアスカへと促す。アスカは半ば放心していた身体を動かし、機械的に後部座席へと乗り込んだ。間も無くエイタが車を動かし、黒塗りの車は何事も無かったかのように地下駐車場からタリハシティの夜の街へと繰り出す。
だが、実際にはロケット団とディルファンスの密約が再度交わされ、そして次の犠牲が約束されてしまった。
アスカが外の景色を見ながら、その現実に慄然としていると運転席のエイタが口を開いた。
「大丈夫だよ、アスカ。ロケット団の思い通りになることはない」
穏やかなエイタの声。だが、そこには暗い響きがあるのをアスカは聞き逃さなかった。
「ちょうどいい犠牲が見つかった。またカトウの時のように何人も殺させる必要はない。今回は、二人だけで十分だ」
エイタの言葉に、アスカは先ほどの試験管が何かを聞くのも忘れてその身を静かに震わせた。
キシベはレストランに一人取り残され、時計を見ていた。その時計がちょうど予定していた時間ちょうどを指したとき、「さて、そろそろか」とキシベは立ち上がった。ウェイターが勘定を取りに来る。キシベは財布の代わりにモンスターボールを差し出した。それを不思議そうにウェイターが眺めていると、緊急射出ボタンをキシベが押した。手の中の球体が開き、光に包まれた人型が射出される。それは光を振り払い、金色の皮膚を露にした。ユンゲラーだ。狐のような頭が傾ぎ、腰を抜かしたウェイターを見つめる。
「ここの後始末をしなくてはな。ユンゲラー、頼む」
ユンゲラーは片手に握ったスプーンに手を翳す。そのスプーンが青い光を宿したかと思うと、それが徐々に反りながら曲がってゆく。それに併せて、ウェイターの首が後ろへと反ってゆく。それは限界を超え、九十度、百度と反れたところで枯れ枝を折るように容易く折れた。それと同時にスプーンもくびり落ちた。それに気づいたボーイが悲鳴を上げ、キッチンへと扉へと逃げてゆく。キシベは先ほどまで食事に使っていたスプーンをユンゲラーに手渡す。ユンゲラーがスプーンに力を込めると、青い光が蠢いてボーイが開けようとしていた扉に絡みついた。扉が押しても引いても開かなくなる。ユンゲラーとキシベはボーイへと歩み寄ってゆく。
「悪いね。これも仕事なんだ。それにどちらにせよ、君が証言したところで意味は無い。ディルファンスはロケット団を壊滅させに来るだろう。私の思い通りにね」
青い光がボーイの首に絡みつく。キシベが指を鳴らすと、それと同時にぼきりとボーイの首が折れて床に転がった。