第五章 六節「涙と傷痕」
サイクリングロードの下を南方へと下った先にある洞窟にディルファンス本部はある。
先のロケット団幹部カトウの襲撃によってエントランス部分は全壊したが、実質的には地下深くに蟻の巣のような構造を持つ本部施設の半分もダメージはなく、本部として運用することに何の問題も無かった。ただロビーに面した入り口はもう使えないため、入り口を新設しなければならなくなったという点ではカトウの襲撃は功を奏したといえた。今までと反対側に入り口を作るため、二人のディルファンス構成員のポケモンが固い地面を掘り進めている。主に作業に従事しているのは鎧のような灰色の身体を持ち、頭部にドリルを有するポケモンだ。往年の特撮怪獣を思わせるシルエットの名は、サイドン。頭部のドリルで岩を削るその技は「つのドリル」であった。戦闘では一撃必殺の威力を誇る技である。
それともう一体いた。黒い身体に赤いまだら模様の皮膚、硬質化した鋼の角が帽子のようにせり出している。全体像はモグラが直立したような姿をしておりその両腕には鋼の腕がついているポケモン、ドリュウズ。ドリュウズは両腕を組み合わせて高周波を巻き起こして岩盤を砕き、新たな道を切り拓く。ドリュウズの技は「ドリルライナー」と呼ばれる地面タイプの技だった。急所に当たりやすく戦闘では重宝される技も、土木作業ではただの穴掘り道具である。サイドンとドリュウズに作業を任せ、つなぎを着た構成員のトレーナー二人は胡坐を掻いて雑談していた。
「地上まで掘り進める計画を発動してからもう一週間か。あと二日ほどで本当に地上に出られるんだろうな?」
うんざりしたと言わんばかりのその問いかけをしたのはセルジという名の構成員だった。土の汚れが頬についており、タオルを首から提げている。缶コーヒーを飲んでいたもう一人、ヤマキという名の構成員が応じる。
「多分な。計測したし間違いないだろう。それに俺たちはまだマシさ。他の奴らはずっと部屋で待機だぜ。何かすることがあるだけ幸福ってもんだよ」
飲むか? とヤマキが腰のポシェットからウイスキーのビンを取り出す。セルジはそれを受け取り、口の中に流し込んだ。喉が焼けるような刺激に、セルジは酒臭い吐息をもらす。
「いつこんなもんを持ってきたんだよ」
セルジの質問に、にやりと笑みを浮かべたヤマキが半分ほど減ったビンを掴む。
「昨日本部の部屋に戻ったときに隠していたとっておきを持ってきたんだよ。何か飲まないと落ち着かないだろ。なにせ昨日はあのロケット団が復活宣言をしたらしいじゃないか」
「ああ」と応じて、セルジは昨日のことを思い返した。作業が終わり、本部に帰ると他の構成員たちが何やら忙しく動き回っていた。何かあったのか、と問うとロケット団が電波をジャックして復活宣言をしたと言う。俄かには信じられない話だったが、その後のニュースで放送された犯行声明を観て、セルジも実感した。
「シルフカンパニーを襲撃したっていうのに、ありゃ意味が無かったってわけか」
「あいつらは多分シルフカンパニーが襲撃されることを予期していたんだよ。そうじゃなきゃ、あんな映像を用意できるわけが無い」
あんな映像、とヤマキがもらしたのはシルフカンパニーの内部で起こった惨劇を記録した防犯カメラの映像である。シルフカンパニー襲撃に参加していなかった二人はその場で何が起こったのか知る由も無く、もしディルファンスにも所属していなかったならばあの映像を鵜呑みにしてもおかしくはないと思っていた。現に大衆のほとんどはあの映像を信じ込んだだろう。その証拠に首都タリハシティでは暴動が起こっているとのニュースも飛び込んできている。
「メディアを使って大衆を味方につける、か。随分狡猾になったな、ロケット団も。ジョウトであったラジオ塔の占拠の時はもっと間抜けだったって聞くじゃないか? 下っ端の団員に呼びかけをやらせてさ。『サカキさーん。聞こえてますかー、やりましたよー』とか言わせてな。そんで変装して潜り込んだ一人のトレーナーにしてやられたって。でも今回は少しやばそうだよな。あれじゃ、今まで味方についていた大衆がディルファンスから離れちまう」
ヤマキは新しい缶コーヒーを開けた。ヤマキの背後には缶コーヒーと栄養補助食品が詰め込まれたダンボールがあり、作業中の飲食はそこから行っていた。
「アスカさんやエイタさんも対応を急がないと、スポンサーまで離れちまったらディルファンスを維持できなくなるよな」
「そしたら俺らは路頭に迷うことになっちまう。所属しているだけで毎月こんだけ貰えるって言うのによ」
セルジが三つ指を立てる。三十万を意味していた。ディルファンスは構成員全員に安定した月給を約束していた。もちろん、ディルファンスに入るためには現在、厳正な審査としてトレーナーとしての実績、バッジの数、人格、略歴などが調べ上げられそれらのデータを総合したものが必要になるが初期段階で入団した二人は審査も無く、ポケモンを持っているだけで構成員を示す青い五角形のバッジが配られた。作業に従事している今も青いバッジは胸にある。
「ディルファンスが栄華を誇った時代も終わりって言い始める評論家なんかも出そうだよな。あいつら他人事だからいくらでも貶めやがるぜ」
「俺らからしてみれば死活問題だよな。もし解散したらよ、多分ディルファンスにいたっていうだけで差別されるんだぜ。あの虐殺をした団体の人間か、って」
「何もしてない、なんて言い訳は通用しないんだろうなぁ。世の中厳しいもんだ」
ヤマキがため息をもらし、缶コーヒーへと口をつけた。セルジは岩盤を砕いて進むサイドンとドリュウズへと目をやった。もしディルファンスが解散したら土建屋にでもなろうか、などという考えが頭を過ぎりふっと苦笑した。
「まぁ、俺ら下っ端は言われたことをやるだけだな。アスカさんやエイタさんに意見できるわけもないし」
「だな」と応じてヤマキが立ち上がり、ポケモンたちの背に向けて声を掛けた。
「おーい、ドリュウズ、サイドン。あと十分やったら休憩だ。それまでもうひとふんばり頼むぜ」
それに答えるようにサイドンとドリュウズが鳴き声を上げた。ドリルが高周波を上げて岩盤を砕く音がトンネルの中に木霊した。
天井からこぼれる蛍光灯の光が部屋を鈍く照らしている。
マコはベッドに寝転びながら、じっと天井を眺めていた。似たような生活がもう二週間以上続いていた。カトウの襲撃により、エントランスが破壊された。そのためシルフカンパニー襲撃後にはこれまで使っていた入り口は封鎖され、このディルファンス本部地下施設に構成員たちは半ば閉じ込められていた。食料の備蓄はあるために飲食で困ることは無く、水道、電気の問題もない。だが二週間以上も太陽の光を浴びていないと身体が内側から腐ってゆくようでマコは不快だった。きっと他の構成員たちも同じ気持ちだろう。最初のほうはロケット団を排斥した自分たちの英雄的行動に酔いしれ、その余韻に浸ったまま過ごすことが出来たが、一週間が過ぎると手持ち無沙汰になり。二週間目になるとなぜ自分たちがこうも息を潜めなくてはならないのか疑問に思い始めた。自分たちは英雄のはずだ。なのに、どうして表に出られないのか。
その理由が昨夜、明確なものとなった。ロケット団による復活宣言。それによって波紋のように広がったディルファンスを排斥すべきだという民衆の動き。今はまだタリハシティで止まっているが、その動きがカイヘン地方全域に広まるのはそう遠い話ではない。マコは部屋に備え付けられているテレビでロケット団の演説とタリハシティの混乱を目にした。
寝返りを打ちながらリモコンを手に取りテレビをつける。すると、まだロケット団復活宣言のニュースで持ちきりだった。スタジオに頭の禿げ上がった専門家が招かれ、今回のロケット団の行動を分析している。その専門家がディルファンスについても触れた。
『……そもそも、民間組織に自警行為を全面的に任せたことが今回の混乱の発端といえましょう。ロケット団は残党とはいえ、かつてカントー全域をその傘下に入れていた組織なのです。それをいくらポケモン専門家が選出したエリートとはいえ、民間で立ち向かえることは限度があります。今回のロケット団復活宣言の裏には、民間団体が出すぎた真似をしたことへの報復という面も強いでしょう。だから、ロケット団が狡猾な手に訴えかけたのも、当然の帰結とも言えなくはありません。ディルファンスという団体のあり方が、ロケット団残党を刺激したと……』
専門家の話の間中、昨夜ロケット団が流した映像が再び流れる。ディルファンスのポケモンによって殺される罪も無い人々。彼らはただシルフカンパニーに勤めていただけだ。その日常を奪い去ったのは自分たちディルファンスであり、その現実を民衆は直視し排斥されるべきだとするベクトルは一気にこちらへと向いた。
マコは起き上がり、部屋から出た。隣の部屋の前で立ち竦み、そっとドアを叩いた。
「サキちゃん。いる?」
部屋の中から返事は来ない。マコは取っ手へと手をかけた。鍵は開いていた。扉を開けると、ベッドの上に座り込んで俯いている少女の姿が見えた。肩まである青色の髪。特徴的な赤い眼は俯いているせいで髪に隠れて見えない。白地に青いラインの入ったディルファンスの制服に身を包んだ小柄なその姿は何かに怯えているように震えていた。マコに気づいたのか少女が僅かに顔を上げる。赤い眼がマコを捉えた。マコはその目に何を話せばいいのか分からなかった。ただ直視することも出来ずに視線を部屋の奥のテレビへと向けた。そこには先ほど自分が観ていたのと同じ番組が映っていた。専門家がディルファンスを非難し、その行動の軽薄さを語っている。
「バカみたいだよな」
少女が口を開いていた。小さな唇から自嘲の笑みが漏れる。
「あの戦いが無益な争いだったと、今更気づくなんて」
少女はテレビへと目を向けて呟いた。マコは後ろ手に扉を閉め、少女の名を呼んだ。
「サキちゃん」
その声に少女――サキはマコへと向き直る。会ったばかりの頃なら「ちゃんとかつけるな!」と喚いていたはずのサキは何も言わなかった。マコはサキの赤い眼に二の句を続けることが出来なかった。ただ俯いて時が過ぎるのを待った。自分でサキの部屋に来たくせに何も言えなかった。慰めの言葉も、労りの言葉も。
サキはマコの代わりにシルフカンパニー襲撃作戦に関わった。自分のポケモンに人を殺せと命じたのだ。その罪は言葉で贖えるものではなかった。マコはサキに責任を被せた負い目を、サキは自分のポケモンに人を殺させた罪の十字架を心に背負っている。だが、サキはそれを感じさせないように明るく応じた。
「なんだよ、マコ。私に何か用でもあるのか?」
その声にある張りが、逆に辛い。本当ならばマコは責められるべきだった。何もせずサキに戦いをさせてしまったことを。だというのにサキは責めない。それに後悔の言葉も口にしなかった。サキは強すぎた。その強さが痛々しかった。
「サキちゃんは、私のことを軽蔑しないの?」
マコの問いに、サキは首を傾げた。
「軽蔑? どうしてお前を軽蔑しなくちゃならないんだよ」
「私は、サキちゃんに戦いを押し付けたんだよ。私が状況に巻き込まれて戦いそうになるのを、サキちゃんは自分を犠牲にして助けてくれた。それなのに、どうして私のことを嫌いにならないの?」
サキはその言葉に黙りこくった。マコも言うべきではなかったと思いながら俯いた。その時、サキがテレビの電源を切って立ち上がり、マコへと歩み寄った。サキの手がマコに伸びる。マコは奥歯に力を込めた。サキにならば何をされても文句は言えなかった。
しかし、サキは背中へと手を回しそのまま抱き寄せた。
平手のひとつやふたつくらいを覚悟していたマコは何が起こったのか分からずに目を瞬いた。手のやりどころが分からずに視線と手とを宙を彷徨わせていると、サキが口を開いた。
「いいんだ。それは私が選んだ道だから。お前が責任を感じる必要はない。私が私の意志で命じたんだ。カブトプスに、誰かを傷つけろって」
サキは心中を吐露しているのだと分かった。マコは静かにサキの背中に手を当てた。その身体は細かく震えていた。
「お前は優しいな。だが、これは私の罪の十字架なんだ。お前までそれを背負おうとするのは間違っている」
サキの言葉にマコは首を振った。
「でも、私はサキちゃんの罪を背負いたい。友達だって、言ってくれたのはサキちゃんだよ」
マコはサキの肩へと手を置いて、サキの顔を窺った。サキはマコより背が低い。それを今更に自覚してサキはマコの顔を見上げた。その赤い眼の端に涙が溜まっていた。
「一緒に背負おうよ。一人なら押し潰されちゃうかもしれないけど、二人なら背負えるかもしれない。友達なら、罪は半分こに出来るよ」
マコの言葉にサキの目から頬へと涙が流れた。それを無理矢理手の甲で荒々しく拭って、サキはマコの頭へと手を伸ばし、ポンと叩いた。
「馬鹿マコの癖に、生意気だぞ。私を、泣かせるなんて」
サキがしゃくりあげながら言った言葉にマコは笑顔を向けた。マコはサキの身体を強く抱き締める。サキはマコの胸で泣いた。それは初めてサキが自分の弱さを見せた瞬間だった。