第五章 五節「彼女の理由」
タリハシティは混乱と喧騒の中にあった。
ロケット団による電波ジャック、組織復活の声明が流れた後湧いた動乱はやがて暴動じみたデモへと変化していった。タリハシティのオーロラビジョンには臨時ニュースが映しこまれ、女性キャスターが手に持った書類へと視線を落として読んでいる。画面右上の「緊急速報」の文字が回転し、タリハシティの現状を生放送で伝えている。
『……一時間前、ロケット団と名乗る組織が一時的に電波をジャックし、復活宣言を全チャンネルに向けて放送しました。現在、カイヘン地方の首都、タリハシティでは暴動が発生しており、警官隊とデモ隊が激しくぶつかり合っている模様です。なお、放送はカイヘン地方に限定されており、そのことからカイヘン地方を統治するポケモンリーグへの牽制とする見方も出ています。カントーのセキエイ高原に本部を置くポケモンリーグ議事会がまもなく開かれ、ロケット団復活に対する対応協議を開く予定となっていますが、地方の自治はディルファンスに任せるべきだとの見解もあり、そのことについてもカイヘン地方ではカントー政府の会見を待って正式な意見を出すというコメントをしています。また、犯行声明に使われたシルフカンパニーカイヘン支社襲撃時の映像の真偽についても、そこで言及していく考えとなっており……』
女性キャスターの言葉など、タリハシティの市民は聞く耳を持っていなかった。それよりも信じていたディルファンスに裏切られた気持ちが強いのか、タリハシティの中心部にあるポケモンジムに三百人近い人間が押しかけてきている。ポケモンジムは、政府にポケモンリーグを置く地域において自治権を持つ役所のような場所だった。そこに住むジムリーダーは華やかなポケモン勝負の裏に市営を維持する雑務を抱えている。タリハジムは現在、完全に正門が閉め切られ、人々が押し合いへし合いの状況となり、警官隊は人々が暴徒と化すのを防ぐためにメガホンから絶え間なく大声を枯らす。
『現在、ジムは状況を確認中です! 市民の方々は落ち着いて対処してください! 有識者会議が間も無く開かれ、そこで決議が下されます!』
雑踏と怒声が絶え間なく響き、タリハシティはまさしく一触即発の様相を呈していた。
その街中をアヤノは歩いていた。二つに結んだ長い緑色の髪を揺らし、不安げに辺りを見渡しながら震える手を腰のモンスターボールに添えている。ボール越しのエイパムの温もりだけがアヤノに大丈夫≠ニ語りかけてくれるものだった。アヤノはカリヤのいたハリマシティを出てから当ても無く旅を続けていた。ここまでの道中にもポケモンジムはあったが、見るたびにカリヤとの思い出が溢れそうになってアヤノはジムを遠ざけた。そのため、アヤノはまだ三つしかバッジを手に入れてなかった。戦うこともせず、後退もできない。停滞しようにも、心がそれを望んでいないかのように足は前へ前へと進んだ。
アヤノはオーロラビジョンを見上げた。つい一時間前の映像が流れる。ロケット団総帥を名乗る者の演説。そして現れた五十は超えるであろうロケット団員と、その前に立つ幹部たちの姿。アヤノはその中に、ふと知った姿を見つけて立ち止まった。
「……カリヤ、さん?」
総帥と肩を並べる幹部の中に白髪の青年を見た気がしたのだ。映像が荒れていたために断言は出来ないが、アヤノはその姿を一瞬視界に捉えていた。そんなことあるはずが無い、と思う反面、カリヤはロケット団と関係していたためにそれがあっても不思議ではないと冷静に考える自分がいる。アヤノは俯いて首を振った。
「いや。そんなこと。だって、あの人は」
(私が傷つけたもんね)
自分の内奥から響いた声に、アヤノは目を見開いて返した。
「アヤメ。どうして」
(どうしてあたしに語りかけるのって? あなたと私は二人で一人じゃない。一方的にあなたが拒絶したって、私はあなたの中にいるのよ。心の裏面を覗き込んで見なさい。私はそこにいるから)
その声にアヤノは目を瞑った。自分の内側、心へと目を向ける。
――心の奥の風景はいつも殺風景な白い部屋だった。テーブルしかない立方体の部屋。部屋の端にピカチュウのぬいぐるみが捨てられたように横たわっている。アヤノはその部屋に扉がついていることに気づいた。木製の黒い簡素な扉だった。ノブへと手をかけ、ゆっくりと押し入る。そこは心の裏側だった。先ほどの部屋の壁も床も全てモノトーンにした部屋だった。心の裏側の部屋に、黒い衣装を纏った自分がいた。毒々しい色の赤いリボンで髪を留めている。黒い衣装の自分は、何も無い空間にポンと手を触れた。すると、そこにソファが現れた。そのソファに座り、足を組んでもう一人の自分であるアヤメが口を開く。
「ようこそ、アヤノ」
アヤメが指を鳴らす。すると、アヤノの背後にデッキチェアが現れた。アヤノはそこに座り、アヤメと対峙する。
アヤノは心の奥でアヤメと話すのは初めてだった。いつでもどちらかが主人格として出ている間は一方的な会話しか成立しなかった。半ば緊張しながらアヤノは膝の上に置いた両手を握り締め、アヤメに尋ねる。
「どうしてあたしに語りかけるの?」
アヤメはその言葉を無視して指をもう一度鳴らした。宙から顔と同じ大きさくらいの袋が現れる。口はアヤメの髪飾りと同じリボンで結んであった。アヤメは口を縛っているリボンを外し、袋の中へと手を突っ込んだ。そこから赤い飴玉を取り出し、舌の上に乗せる。アヤノは呼んだくせにまるで自分を無視しているアヤメへと、再度同じ言葉を掛けた。
「どうしてあたしに語りかけるの?」
「同じ質問は二度も繰り返すものじゃないわ、アヤノ。さっき言った通りよ。あなたは私、私はあなた。その答えじゃ不満かしら?」
アヤメが頬袋に飴を含んでアヤノへと笑いかける。アヤノは笑い返せずに、その目を見つめた。
「だったら、どうしてカリヤさんを殺そうとしたの?」
「それも前に言ったわ。あなたがこんな男に心奪われるのは許せない、ってね。私はあなただけど、趣味まで一緒じゃないのよ。あんなゲスをよくまだ好きでいられるわね」
アヤメが苦々しい顔で吐き捨てるように言った。アヤノはその言葉に顔を俯ける。
「だって、カリヤさんは優しかったんだもの。こんなあたしに、優しくしてくれたから」
「だからなびいたって? 冗談じゃない。アヤノはちょっと優しい男なら誰でもいいの? 唇を重ねたい、抱かれたいって? 頭わいているとしか思えないわね」
アヤメは引きつった笑みを浮かべて飴玉が大量に入った袋へと手を差し込んだ。そこから一個、飴玉を摘んでアヤノへと差し出す。
「食べる?」
「……いらない」
アヤノは顔を背けた。アヤメは「あっそ」と言ってアヤノと同じ方向へと首を向けた。そこには捨てられたように転がるピカチュウのぬいぐるみがあった。アヤメが口角を吊り上げ、「でもね」と口にする。
その瞬間、アヤメはアヤノの目前にいた。いつの間に近づかれたのか分からなかった。アヤメの指が飴玉をアヤノの唇へと押し込む。
「あなたは望んでいたのよ? あの男を愛するほどに、壊してしまいたくなることを。だから私が壊してあげた。愛するのはあなた。壊すのは私。昔からそうだったでしょう?」
口の中に鉄の臭いが広がる。アヤノの口の中に入れられた飴玉の味は血の味だった。アヤノはむせて唾液にまみれた飴玉を口からこぼした。それを見て、アヤメが眉をひそめる。
「あーあ。勿体無い。おいしいのに」
床に落ちた飴玉を拾い、それを舌の上に乗せて味わった。アヤノはむせた時に出た涙で潤んだ瞳をアヤメへと鋭く向けた。
それを見たアヤメが唇をすぼめて、首を傾げる。
「なに? その目。アヤノも大好きでしょう? 誰かの血の味」
アヤメの手が顎に触れる。アヤノは思わずその手を振り払った。立ち上がり、首を横に振って叫ぶ。
「あたしは、そんなもの好きじゃない!」
「うそ。あなたはいつも嘘つきね、アヤノ」
振り払われたことに動じる様子も無く、アヤメは人差し指をアヤノの唇に当てた。冷たい感触が唇に伝わる。
「ここもとっても嘘つきだし、ここも」
指が滑るように胸元を指す。アヤメは口元に笑みを形作った。
「すっごく嘘つき。嘘つきのアヤノ、嘘ばっかりのアヤノ」
アヤメが歌うように言葉を続ける。胸元を指していた指が背中にかかり、次の瞬間アヤメの体重がアヤノへと圧し掛かった。アヤノは後ろへと倒れる。いつの間にかデッキチェアは消えており、アヤメの出したソファが背後にあった。ソファが柔らかく二人の体重を受け止めて軋みを上げる。アヤメはアヤノ背へと手を回し抱き締めていた。
「でも、大好き。私はあなたが大好きよ、アヤノ。ずっと傍にいてね。私はずっと傍にいるから」
アヤメの顔が視界いっぱいに広がる。普段意識しない自分の匂いが近づき、唇が重なった。アヤノは目を見開き、アヤメを突き飛ばした。
「やめて!」
アヤメの身体が床に落ちる。その身体が床に転がった瞬間、数百の飴玉へと変わった。色とりどりの飴玉がモノトーンの床に広がる。
アヤノは叫びだしそうな自分を抑えながら、頭を抱えた。その背に冷たい言葉が振りかけられる。
「カリヤだったら、抵抗なんてしないんでしょ」
アヤノは振り返り、アヤメを睨みつけた。アヤメは肩をすくめて、「おお怖い」とおどけるようにソファの周りを踊った。
「アヤノはカリヤになら何をされてもいいの? カリヤなら許せるの?」
アヤメはソファの背もたれに両肘をついて問いかける。アヤノは自分と同じ色をした眼から視線を外した。この眼は答えを知っていながら自分の心の奥底に切り込んでくる眼だと分かったときには遅かった。アヤメは訳知り顔で背もたれについていた両肘を放した。
「なるほどね。あんたはそれほど好きなんだ。あの男が」
あなた≠ェあんた≠ヨと変わっていた。アヤメの眼に狂気の色が浮かび、アヤノはばつが悪そうに顔を俯けさせた。まるで謝るように。
「なら、行ってみればいいじゃない」
その言葉にアヤノは顔を上げた。アヤメは冷たい視線を向けたまま続ける。
「当てがあるんでしょ? もう一度、会いに行けばいい。そして自分の気持ちに向き合ってみなさい。私の言っていることが間違いじゃないって分かるわ」
アヤノがソファから半身を上げかけたとき、外の声が耳に入った。その声に引き戻されるように、アヤノの意識は身体へと戻った。オーロラビジョンを見上げると、女性キャスターが険しい顔で『今、入った情報です』と告げた。
『ロケット団の電波発信場所の確定に成功。電波はカイヘン地方、リツ山頂上から発信されたとの事です。これは警察関係者の無線に入っていた情報です。繰り返します。先ほどのロケット団の犯行声明はリツ山の頂上から発信されました。警察はリツ山にロケット団の拠点があると見て調べを進めているようです』
その言葉に先ほどのアヤメの声が重なった。行ってみればいい。行けば、答えが見つかるかもしれない。カリヤへの気持ちも、自分の旅の意味も。
「……リツ山。そこにカリヤさんが」
アヤノはボールに添えていた手を強く握り締めた。
――もう一度、会いたい。
アヤノは自分の心の声を聞き、タリハシティを去った。
開いた扉が揺れてキィと音を立てる。
アヤメは飴玉が広がるモノトーンの部屋でソファに寝転がっていた。天井を見上げ、口元を緩める。
「行きなさい、アヤノ。今度こそ、私がカリヤを壊してあげるから」
アヤメは心の裏側の部屋で一人高笑いを上げた。立方体の部屋の中でそれは反響し、黒い扉が傾いで静かに閉じた。