第五章 二節「不安」
コウエツシティはカイヘン地方本土から離れたところに位置する巨大な人工島だ。
かつて海底資源を取るための施設として稼動していたこの島は今となっては役目を終え、野ざらしになった巨大なクレーンが島の端に位置している。クレーンの節々に潮による風化が見られ、表面の赤い塗料が剥げていた。傾いた日差しが、クレーンの鉄筋部分に反射する。錆びついたクレーンが港で潮風に揺られ、その身を腐食させる一方で、この島は今までの採掘施設とは違う形で再生していた。寂れた海底資源採掘施設とは対照的に、島の中央は活気に溢れている。このコウエツシティはカイヘン地方の中でも最初に工業化の矛先が向いた場所であり、そして今、重工業化を進める本土や都心であるタリハシティと同じ機能を持たせるために街の中心部は道路も整備され都市化が成されていた。港には漁船が多く停泊し、そこで取れた新鮮な海の幸や、貿易によって得られた他地域の特産品などが安値で取引されている。これはコウエツシティにはまだロケット団の手が伸びていないこともあったが、なにより他地域とカイヘンを結びつける船着場としての意味が大きいからだ。本土にも港町として名を馳せるカワジシティがあるが、他地域の物品が最初に流入するのはこのコウエツシティであり、この街で検閲に通され本土へと出回る。そのためにコウエツシティは別名「カイヘンの玄関」とも呼ばれていた。そのコウエツシティこそが日々ポケモンと己を鍛え上げ、栄光あるポケモンマスターを目指す猛者たち――ポケモントレーナーが行き着く最後の街でもあった。
その街の中心にあるフレンドリィショップも兼任した他の街よりも大きなポケモンセンターで、ナツキはパソコン越しにヒグチ博士と話していた。
ナツキはバッジケースを取り出し、博士へと八つ揃ったバッジを見せびらかした。画面の中で博士が『おお』と感嘆の声を上げる。
『やったじゃないか。遂に全てのジムを制覇したんだね、ナツキ君。私としても感慨深いよ』
ナツキは照れたように頭を掻きながら、謙遜気味に言った。
「いやぁ、なんとかって感じですよ。さっきの勝負もひとつ間違えていれば危なかったし、ホント、ギリギリのラインで」
『そう謙虚になることもないよ。八つのバッジを集めたことは誇らしいことだ。これでようやく念願のポケモンリーグへの挑戦権を得たわけだね』
カイヘン地方ポケモンリーグはコウエツシティから一〇四番水道を北上すればすぐにある。ゴールは目前だった。だが、その前にナツキは懸念事項があった。言いにくそうに言葉を発する。
「……あの、博士。カメックスはどうなりましたか?」
その言葉に博士は思い出したように、モンスターボールを手に取りそれを自身のパソコンの前にある、窪んだ機械へと置いた。すると、一瞬でそのモンスターボールがナツキのパソコンへと転送される。ポケモンをデータに一度変換して転送する技術はカントーのマサキと呼ばれる技術者からもたらされたものだ。その技術により、離れていてもポケモンのやり取りが出来る。ナツキはパソコンで受け取ったデータを処理し、空のモンスターボールを隣の窪みのある機械へと置いた。すると、画面に出ていたカメックスのデータがナツキのモンスターボールへとインストールされる。これでカメックスを手持ちで持ち歩くことが可能になった。
博士は画面の中で渋い皺を額につくってうなった。
『色んな研究者に当たったんだが、どうにも、なぜゼニガメからカメックスに進化する際に色が変わったかは分からないらしい。あと君が言っていた凶暴性のことも皆目見当がつかないそうだ』
博士の言葉にナツキは顔を翳らせながらカメックスの入ったモンスターボールを手に取った。カメックスは三番目の街、キリハシティでのジムリーダーチアキとの戦闘中に突然ゼニガメから二段進化した。原因は分からない。ただ、その時自分とカメックスが心の奥底で結びついたのをナツキは実感として持っている。それが進化へと結びついたのだと信じていた。だが、ただ進化しただけならばそれは喜ばしいことだったが、ナツキのカメックスの場合そうではなかった。本来、青いはずの体色がなぜか黒いのだ。それだけではなく、カメックスはゼニガメの時とは違い、ナツキの言うことをきかなくなった。どの戦闘でも不必要なまでの凶暴性を露にし、戦う際には相手を極限まで痛めつけなければ気がすまなくなってしまったのだ。それはチアキの使っていたバシャーモのようであったが、チアキのバシャーモは言うことをきいていた。何が違うのか。
そしてもうひとつ、カメックスを出したときには奇妙な感覚がついてまわった。自分の見ている景色とカメックスの視界が同一化されてゆくような感覚だ。意識がカメックスという器に放り込まれ、自分でも制御できない獣になってしまうような地に足のつかない浮遊感。それをどうにかしたくて博士にカメックスを預け、解析を頼んだ。だが、それは無駄骨だったようだった。
ナツキは、バッジを所持していればレベルの高すぎるポケモンでも言うことをきくようになるということを博士から聞いてから、あえてカメックスを外した編成で戦っていた。現在のナツキのカメックスを除いた手持ちは、ライボルト、ダイノーズ、オニドリルの三体だった。ライボルトは要となるカメックスがいないために強くはなったが、やはりカメックスを欠いた編成ではどこか不安定だった。
「博士。これからポケモンリーグに向かうのに、カメックスは言うことをきいてくれるでしょうか?」
ナツキの質問に博士は口を開きかけて、迷うようにその言葉を噤んで首を振った。
『分からない。こういう事例は初めてだからね。だがポケモンとの絆はなにより信頼することから始まる。ナツキ君が信じてあげなくちゃ、誰がカメックスを信じるんだい?』
その言葉に、ナツキは手に持ったモンスターボールへと視線を移した。ポケモンを信じる。それはナツキがチアキに発した言葉だ。それを自分が出来なくてどうする。ナツキは決意するように強く頷いた。
「分かりました。博士、ありがとう」
『礼には及ばないよ。……で、ちょっと言いたいことがあるんだけど、いいかな?』
博士が急にもじもじと上目遣いにナツキを見つめる。ナツキは嫌な予感がした。博士がこういう態度を取るときは決まって都合の悪いことが起こる。
「……何か頼みごとでもあるんですか? 博士」
ナツキが呆れたため息と共に言うと、画面の中の博士が大げさに驚いた。
『すごいな。どうして分かったんだい?』
「博士がそういう行動するときは大抵、頼みごとがあるときだからですよ」
『それ、リョウ君にも言われたよ。で、そのリョウ君のことなんだけどさ』
リョウの名が思わぬところから出て、ナツキは目をぱちくりさせた。
「リョウが、どうかしたんですか?」
ナツキの問いかけに博士が申し訳無さそうに俯きながら応じる。
『うん。実は彼にちょっとポケモンの回収をお願いしていたんだけどさ。帰りが遅いんだよ。一日で終わるって言っていたのにもう三日目だからさ。リョウ君が言ったことを守らなかったことなんてないだろう? それで少し心配になっちゃって。相変わらずアヤノ君とサキは連絡取れないし、ナツキ君、今なら頼めるよね?』
博士が子犬のような目でナツキを見つめる。その眼に耐えかねて、ナツキはため息混じりに首肯した。
「はいはい。やりますよ。それで、リョウはどこに?」
博士が画面上にタウンマップを表示させる。カイヘン地方の全景が表示され、ナツキはふと感慨深くなった。もうこれだけ旅をしてきたのだ、という思いが自然と溢れそうになりそれを必死に堪えた。
博士はマップの中心地より北にある巨大な山の、すぐ脇に存在する黒々とした木々の密集地域を示した。
『ロクベ樹海だ。ハリマタウンとヤマトタウンの間にある深い森。普段ここは人なんて通らないんだけど、一応三十二番特設道路っていうのがあってね。多分、リョウ君はそれを道標に進んでいると思う』
「その近くを捜せばいいわけですか」
博士は頷き、ナツキへと不安に翳った顔を向けた。
『私の頼みのせいで何かあったら困るし、見てきてくれないか』
「それはいいですけど……」
ナツキは天井を見上げる。ポケモンセンターの天窓から差し込む茜色の夕陽に目を細め、
「もう遅いですよ。今からですか?」
『いや、さすがにあそこの夜は危ないからね。今日はヤマトタウン辺りで宿を取るといい。宿代くらいは私の名前を出せば何とかなるようにしよう』
ナツキは博士の言葉に笑みを返し、通信を切ろうとした。その時、博士が『あ』と思い出したように声を上げた。
『そうだ。ナツキ君。リョウ君は今、付き添いがいてね。出来ればその子も一緒に保護して欲しい』
「付き添いって?」
ナツキが尋ねると、博士はなぜか声を潜めて囁いた。
『なんかさ、変な女の子なんだよ。薄紫色の髪をしていてさ。こんぐらいの背丈で』
博士が自分の胸の下の辺りを手で示す。それから困惑したように首をひねった。
『とにかく喋り方も何もかも変な女の子でさ。どこかで見たことあるような気がするんだけどなぜだか思い出せないんだよねぇ』
博士がうなりながら、両腕を組んで考え込む。ナツキはその言葉を聞いて最初は「へぇー。リョウが女の子と旅しているんですかー」と適当に流そうとした。博士が画面の中でお茶を入れて口をつけようとしている。その時になって、それが聞き逃せないことだと気づいて、ナツキは場所も忘れて大声を出した。
「え! リョウが女の子と二人旅?」
その声にポケモンセンターのロビーにいた何人かが足を止めて振り返る。博士は急にナツキが大声を出したものだからひっくり返りかねないほどに驚き、湯飲みが宙を舞った。
『あー! 特注の湯飲みが!』
博士が叫ぶ。しかし、ナツキはそれ以上の声で叫び返した。
「湯飲みなんてどうでもいいんですよ! それより、女の子と二人旅って、あいつどういう神経してるんだか!」
『う、うん。そうだけど。なんか言っちゃマズかったかな』
ナツキは博士の言葉に目元を手で覆いながら上を向いた。
「あー、私は別に構わないんですけど。えっと、もしかしてこれ、ユウコに言いました?」
画面の中で博士が床に落ちた湯飲みの欠片を拾い様に頷く。
『うん。言った言った。そしたらさ。なんかユウコ君、急に私に八つ当たりしてきたんだよ。どういうことだろうね?』
博士は首を傾げた。ナツキはため息をつきながら、この博士はいくらポケモンのことが分かっても乙女心は一生理解できないだろうと思った。