第五章 一節「氷上の激戦」
呼吸すら凍らせるほどの冷気が空気中を満たし、肺の中から凍てつかせる。
つやつやとした地面が薄い光源を反射して、鈍く輝いている。地面はいたるところに氷が張っており、薄い冷気の皮膜を得た風が凍てつく地面を撫でた。そこに根を張った氷柱が塔のように聳え立っている。
その氷柱から、人の背丈ほどの球体が姿を現した。氷の皮膜に身を包み、その下にある本体から鋭い一対の黒い角が飛び出している。ぎょろりとした眼が辺りを見渡し、歯しかないような口から絶えず白い呼気が漏れる。それはまるで鬼の首だけが浮いているかのようだった。しかしこれは鬼でも妖怪の類でもない、ポケモンだ。この凍りついた鬼の首のようなポケモンはオニゴーリといった。
オニゴーリのぎょろりとした巨大な眼が探るように氷に閉ざされた周囲を見渡す。その時、青い電子が氷に反射した。オニゴーリはすかさず球体状の身体を反転させ、そちらへと向き直った。氷柱の隙間を縫うように青い光が地面すれすれを滑走する。オニゴーリは地面へと顔を向けた。オニゴーリの周囲の空気が円を描きながら凍結してゆく。空気中の水分を凍らせているのだ。オニゴーリは水分を凍らせて氷を操るポケモンだった。まるで錬金術のように、何もない空間から氷の針が形成されてゆく。オニゴーリとほぼ同じ大きさの氷の針は全部で四つ、それらが自身を中心として周回してゆく。
その時、地面で青い光が輝いた。オニゴーリはそれを捉えると、周回していた氷の針の先端を一斉にそちらへと向けた。瞬間、氷の針が空気を裂きながら幾何学の軌道を描きつつ、青い光へと向かってゆく。それは「つららばり」と呼ばれる技だった。三つ程度の氷柱を形成し、相手へと連続攻撃する技だ。青い光は一撃目のそれを、滑る地面をものともせずに避ける。氷の針が地面に突き刺さり、その先端が根を張って新たな氷柱を形成する。オニゴーリはさらに針を連射した。そのどれもが、あと一歩のところでかわされ、空しく地面を穿つ。
最後の針を、オニゴーリは射出した。その針が青い光のすぐ隣を掠める。それで青い光が剥がれ、その姿が露になった。
そこにいたのは四足の獣だった。狼のような姿をしているが異質なのは頭部の鬣だ。山脈のような金色の鬣を持っており、前足と後ろ足の付け根にも同じ色の毛があった。それ以外は青い体毛に覆われている。その金色の鬣と、青い体毛は常に帯電しており、その獣が青い光に包まれていたのはそのせいだった。
「ライボルト! 放電!」
その声は少女のものだった。この氷の大地の端に髪の毛をポニーテールにした少女が白い息を吐きながら立っていた。その眼には確かな闘志があり、それを感じ取ったように彼女の声を受け、ライボルトと呼ばれた獣は俄かに青い電子を身に纏い始めた。空気中の水分を凍結させるのがオニゴーリならば、空気中の僅かな電気をも吸収するのがライボルトの特性である。
空気中から集まった電気が青い体表を跳ね、金色の鬣へと集束してゆく。その鬣がまるで青い剣のように鋭く尖った瞬間、山脈のような鬣は縦に三つに分かれた。山脈のようだったそれは頭部と両側頭部へと分かれ、三つの鬣それぞれに蓄えられていた電気が青い輝きと共に放たれる。三方向へ放たれた青い光は宙に螺旋を描きながら、天井へと上ってゆく。太い鉄骨に根を張った氷柱たちから水分を奪いながら、青い光は渦をなし靄のような黒い燻りを形成してゆく。その靄が積乱雲となり、大地を照らす照明をそこから放たれた蛇のようにのたうつ電気が割る。電気は鉄骨を苗床としたかのように走り、オニゴーリの真上へと至った。
「ライボルト、雷!」
少女の放った言葉と共に空間を振動させる轟音が響き渡る。鉄骨から稲妻が迸り、真下にいたオニゴーリを直撃した。オニゴーリを天と地の間に射止めるかのように、青い稲光が貫く。この技が「かみなり」である。電気系の技の中では最高威力を誇る特殊攻撃だ。当然、数万ボルトの電流が走った身体は無事ではすまない。オニゴーリはぶすぶすと煙を上げながら、急降下してきた。頭頂部にすり鉢上の傷が形成されており、端が赤熱化している。それはオニゴーリの下部にもあり、「かみなり」がオニゴーリに命中したことを示していた。
オニゴーリの球体状の身体が大地に傾いで滑り落ちる。オニゴーリの眼は閉じていた。恐らく「まひ」状態にあるのか、その身体は細かく震えている。少女は勝利を確信した。ライボルトを戻そうと腰に提げたモンスターボールを抜きかけた。
その時である。
「まだ、終わっていないわよ」
少女から見て対岸から、低い声が聞こえてきた。その声の主へと少女は目を向ける。こんな低温の空気に晒されながら、その人物は薄着に袖を通していた。胸元を強調するような半袖ブラウスを着込んでおり、その下のキャミソールが見え隠れする。その人物はこのポケモンジムのリーダー、リリィであった。
リリィは指を鳴らし、オニゴーリへと指示を出す。
「オニゴーリ、目を覚ましなさい」
その声に反応してオニゴーリが閉じていたはずの目をキッと開けた。その眼に少女が射竦められている間に、リリィは攻撃の命令を下す。
「オニゴーリ、冷凍ビーム!」
オニゴーリの身体が再び浮き上がり、その歯茎しか見えない口をシャッターのように開き、地面へと向ける。瞬間、空気中の水分がオニゴーリの口元で凝縮され、細やかな霧を形成する。オニゴーリは口元の霧を吸い込むと共に、水色の冷気の帯を口腔内に集める。それが口の中で水色の球体をなした瞬間、オニゴーリの口から冷気の線が放射され、それに乗って極低温のビームが放射される。ビームは地面に当たり、氷柱を形成する。その氷柱の上にオニゴーリがはめ込まれるようにして乗った。先のライボルトの「かみなり」によって生じた下部の溝を埋めるように氷柱が突き刺さる。
すると、氷柱の中を何かが通ってゆくではないか。少女はそれを見つめた。氷の中で気泡が上がる。それは地面から吸い上げられた水分だった。オニゴーリは地面に「れいとうビーム」を放つことによって空気中だけではなく、地面からも水分を得ることが出来るようになったのだ。しかも敵によって空けられた孔を逆手に取り、氷柱との融合を果たした。今やオニゴーリは巨大な氷の植物となっていた。
オニゴーリとリリィの驚くべき戦術に、少女は額に汗が滲むのを感じた。この低温の下では、それすらすぐに乾燥して水分の一部としてオニゴーリに奪われてゆく。オニゴーリの頭頂部のクレーターの傷跡が、水分によって修復されてゆく。さらに余った水分をオニゴーリは装甲の補強に使った。オニゴーリの本体である黒い部分を包む半透明の氷の皮膜がさらに厚くなってゆく。少女は額に一瞬だけ浮いた汗を拭いながら口を開いた。
「……すごい戦術。だけど」
ライボルトを戻そうと掴んでいたモンスターボールを再び腰のホルスターに戻す。その声の裏に籠もる気迫に背中を押されたように、ライボルトもオニゴーリへと再度視線を向け直した。
「負けられない。いくよ、ライボルト」
ライボルトが鋭い咆哮で返す。その時、ライボルトの身体から青い電子がのたうち、口元へと集まってゆく。三つに分かれた鬣が集まって、再び頭に山脈を作り上げた。その山脈から水が滴り落ちるように、電気が鬣の山脈を伝い落ちてゆく。それが口腔内にたまった瞬間、少女は叫んだ。
「ライボルト、電磁砲!」
ライボルトの口から一直線の青い光の筋がオニゴーリに向けて放たれる。これが「でんじほう」。電気を集束させて放つ電気系の射撃技である。だがオニゴーリも黙って受け止めるわけがなかった。リリィの指示を待つまでもなく、オニゴーリが自動砲台のように「れいとうビーム」を口から放つ。電磁砲と冷凍ビームが中空でぶつかり合い、火花と水蒸気を上げる。視界が一瞬、霧に包まれる。オニゴーリが送り狼のように冷凍ビームを再度放ち、霧に穴を開ける。
だが、そこにはライボルトの姿は無かった。確かに「でんじほう」を放ったはずのライボルトが、そこにはいない。オニゴーリは周囲を見渡した。だが氷柱に固定されているために、前しか見渡せない。それを少女は狙っていた。気づくな、と念じて口元に引きつった笑みを浮かべる。次の瞬間、地面の所々から生える氷柱の影からライボルトは躍り出た。それはちょうどオニゴーリの側面に当たる範囲だった。オニゴーリが一歩遅れて気づく。だが、気づかれて迎撃される前に少女はライボルトに指示を出していた。ライボルトの身体で青い電子が弾け、その狼のような牙に纏わりついてゆく。それは霧が発生した瞬間に、少女が指で示した技だった。指を四つ立てて示した第四の技。ライボルトの牙が青い電子で補強され、鋭い光を放つ。ライボルトがオニゴーリの氷柱の根へと牙を立てる。
これが電気タイプの物理技、「かみなりのきば」である。電気のエネルギーを帯びた牙は、氷の表層を貫き、内部の水へと至る。その水が行き着く場所、それはオニゴーリの体内だった。ライボルトの雷の牙から放たれた電気が水を走り、オニゴーリの固く閉ざされた装甲の内側から迫る。オニゴーリは避けること叶わず、その電気エネルギーを一身に受け止めた。オニゴーリの黒い本体が内側から身体を食い破る電気の力に悶える。厚い防御皮膜が仇となった。体外へと出るはずの電気は内部装甲に反射され、何度もオニゴーリの身体を焼いたのだ。だが、それだけでやられるオニゴーリとリリィではなかった。
「オニゴーリ! 氷柱の根の供給を断ち切りなさい!」
その言葉でオニゴーリは緩慢な動作で氷柱の根との接合部を外し、再び宙へと舞い上がる。ライボルトはそれに気づくと同時に「かみなりのきば」の展開を終了させ、空中のオニゴーリと対峙した。オニゴーリの周囲の空間が凍てつき、まるで空間からひねり出されるように氷柱が現れる。今度は先ほどの「つららばり」とは比にならない大きさだった。まるで大剣のような氷の武器が空間からオニゴーリを囲んで、六つ出現する。氷の大剣はオニゴーリを中心として周回運動を始める。その先端が急にピタリと止まり、ライボルトを射線上に捉えた。
「行け、氷柱針!」
リリィが声を放つと同時に、ひとつひとつにまるで思惟が宿ったかのように氷の大剣は動き出した。幾何学的な動きで地面すれすれを走る氷の大剣をライボルトがその眼に捉える。少女はすかさず指示を出した。
「ライボルト! 放電で蹴散らしなさい!」
ライボルトの山脈のような鬣が再び三つに割れ、それぞれが電気の帯を放出する。それは全方向へと伸びていた。今まさにライボルトの身体へと食いかからんとしていた氷の大剣がのたうつ電気の蛇の牙にかかり割れてゆく。これが「ほうでん」の本来の使い方である。自分を中心としたフィールド全域へと電気の力を放出する技だ。
地面から狙い撃とうとしていた氷の大剣が全て割れる。だがリリィは続けて指示を出した。
「まだ、真上がある!」
いつの間に展開していたのか、天上から氷柱の大剣の切っ先がライボルトへと迫る。しかし少女は落ち着いて指示を次いだ。
「雷を自分へと落としなさい!」
その言葉にすぐさまライボルトの身体が反応し、三つに分かれていた鬣を山脈へと戻すと、空気中の水分が放出される電気によって乱れ、積乱雲がライボルトの頭上へと形成されてゆく。その積乱雲を破ろうと氷の大剣が迫った刹那、空間を割る轟音が鳴り響いた。
その音にリリィが息を詰まらせる。見ると、氷の大剣が突き刺さっているはずのライボルトの身体は健在だった。体表面で青い電気が激しく跳ね、その身を包み込んでいる。
「ライボルトの特性は避雷針。全ての電気攻撃はライボルトへと集中する。もちろん、自分の攻撃を受けてもライボルトは怯みもしないわ」
少女が強気で言い放つ。それに背中を押されるようにライボルトも強く吠えた。リリィは覚えず自分の口元に笑みが浮かんでゆくのを感じられた。これほどのトレーナーに会えたのは何年ぶりだろうか。リリィは恥も外聞も捨て、手を薙いで大声で指示を出す。
「オニゴーリ! 本気で相手をするよ!」
その声にオニゴーリが歯茎をシャッターのように開いた。
「冷凍ビーム!」
オニゴーリの身体から水蒸気が上がり、冷凍ビームが口から放射される。それをライボルトは軽い身のこなしで避けるも、それは一筋ではなかった。
「連射! 連射! 連射ーっ!」
リリィが踊るように叫び、呼応したオニゴーリが矢継ぎ早に冷凍ビームを弾き出す。ライボルトは冷凍ビームの軌道を読みながら、最低限のステップで避け続けた。冷凍ビームによって地面が凍りつき、氷柱がそこらかしこで作られる。出現した氷柱が陰となり、一瞬ライボルトの注意がそがれた瞬間、冷凍ビームの射線がライボルトの足を捉えた。一瞬にしてライボルトの足が地面に固定される。それを見たリリィが口角を吊り上げて、冷凍ビームの中断をオニゴーリに告げた。ライボルトは呻り声を上げながら、オニゴーリと対峙する。オニゴーリは冷凍ビームを連射したためか身を包む氷の皮膜が薄くなっていた。
――今ならば、と確信したのは両者同時だった。
「ライボルト、電磁砲!」
「オニゴーリ、氷柱針!」
動けないライボルトの身体で電気が口腔内へと集束してゆく。それと同時に空中のオニゴーリの口元へと残りの冷気が集中する。冷気は円を成したかと思うと、それが列となり、鋭い氷柱の砲弾をオニゴーリの口元へと作り出した。それは冷気でできた釘のような代物だった。オニゴーリの口から呼気が放たれると共に、氷柱針が回転しながらライボルトへと射出される。ライボルトの鬣の山脈が三つに割れ、それぞれの方位から電気を寄せ集め青い光が口の中で球体をなした。瞬間、ライボルトから放たれた青い光線が空間を貫き、氷柱針へと突き刺さった。氷柱針の先端が砕けるが、回転する氷柱針の方が強いのか氷柱針が僅かに押し返す。水色と青い光が揺れ、それぞれ両端に立つトレーナーが固唾を呑んだ。刹那、青い光線が氷柱針を穿ち、空中のオニゴーリを貫いた。氷柱針は空中で砕け散り、雹のようにライボルトへと降り注いだ。
オニゴーリの身体がぐらりと揺れる。その顔の中間点に穴が開いていた。その穴から血飛沫が迸り、氷の装甲の内側を染める。もう一度ぐらりと空中で揺れ、オニゴーリは地面へと降り立った。その眼は見開かれたままの白目だった。
ライボルトが一声吠える。その声でリリィは呟いた。
「……負けちゃったか」
リリィがモンスターボールをオニゴーリへと向ける。オニゴーリは赤い粒子となってボールの中へと吸い込まれていった。少女は勝利の余韻に浸る間もなく、膝を崩した。緊張の糸が解けたのだろう。
「勝ったんだ」と夢見心地のように呟いた。その声にリリィが凍結したフィールドへと足を踏み入れ、少女へと手を差し出す。少女は少し照れ笑いを浮かべながら、その手を取ろうとして、つるりと滑ってまた膝を落とした。
「……すいません。立てないみたいです」
申し訳無さそうに少女が言うと、リリィは笑った。
「まぁ、かなりの接戦だったしね。緊張しないほうがおかしい。って言うとあたしは緊張してないみたいに思われるかもしれないけど、結構してたんだからね」
リリィの軽口に少女は少し緊張が緩んだのか、笑顔を作った。その笑顔を見たリリィが満足気に頷く。
「そう。勝負の後は笑顔が一番!」
少女の手を引き、ゆっくりと立たせる。そしてその手へと自分の手を重ねた。離された少女の手には氷の結晶を象った虹色に輝くバッジがあった。
「エッジスノウバッジ。このジムの勝利者のしるしよ、ナツキさん」
その言葉に少女――ナツキは微笑んだ。
それはナツキが八つのバッジをそろえた瞬間だった。