番外編 「はじまりの鼓動」
「おめでとう。これで君も晴れてポケモントレーナーだ」
発せられたその言葉に、伸ばしかけていた手を強張らせた。
指先が空中で固定されたように動かない。もう数ミリ指を伸ばせば、つるりとした赤い光沢を放つボールの表面に届くというのに、呼吸も止められたように落ち着かず荒い息を繰り返した。それを怪訝そうに白衣に身を包んだ長身の男が眺めている。目つきが悪いのは生まれつきらしいこの男――ヒグチ博士から今まさにもらい受けようとしているのだ。その現実にナツキは今更ながら息を呑んだ。
ナツキが手にしようとしているのは、この世界ならばほとんどの人間が持っている生物、ポケモンである。そのポケモンを使役して戦闘や社会活動を行う人間をポケモントレーナーと呼ぶ。ナツキはそれになろうとしているのだ。念願のことであった。ポケモン大好きクラブの会誌に載っているポケモントレーナーに憧れていた。強さはもちろん美しさ、その精神にナツキは羨望の眼差しを向けていた。それを両親も察してくれたのか、ナツキの住む町、ミサワタウンにいるポケモン群生学の権威であるヒグチ博士にポケモンを譲ってくれるように頼んでくれた。随分と東のほうにある地方、カントーのマサラタウンでは十歳になればトレーナーとして旅立つ資格がどの子供にも与えられるらしい。生憎、ミサワタウンにはそのような伝統はなかった。
「始まりの町」と呼ばれているものの、ここ数年はいい実績を残したトレーナーを輩出したという噂も聞かない。つまるところ、看板だけなのだ。ポケモンの博士がいても、「始まりの町」と呼ばれていても、自分は十四になるまでポケモンをまともに育てたことすらなかった。野性のポケモンと出くわすことはある。だが、それでも出くわすだけで心を通わせることはない。トレーナーとポケモンは精神的な結びつきもあると聞く。そんな風になれるのだろうか。彷徨わせた手を握ったナツキに博士は眉を寄せた。
「どうしたんだい? 大丈夫かい?」
ナツキは握った手の手首を掴んで、その身体ごとボールから離れた。テーブルの上のガラス製の台座で横一列に置かれているボールは三つ。それぞれの中に入っているポケモンの説明は受けた。右からヒトカゲ、ゼニガメ、フシギダネだ。博士曰く、カントーの伝統に倣ったものらしい。カントーではこの三匹の中から一匹を選ぶのが全てのトレーナーの始まりである。西のジョウトや南のホウエンなどではまた違う組み合わせのようだが、そこまで詳しくは知らなかった。
急にテーブルから離れたナツキを心配する目つきで見てから、博士はボールへと視線を移した。
「まさか、不手際でもしたかな。気に食わないのなら――」
「いえっ! あの、大丈夫です」
大声で叫んだせいで、研究室にいる数人の研究者が博士とナツキのいるブースを覗き込んだ。その視線を受けて身が縮こまる思いを感じながら、ナツキは顔を伏せた。博士はポケモン達の入ったボールを眺めつつ、
「いや、悪くはない選択だと思うんだけどね。ナツキ君、ゼニガメなんだろ?」
どくん、と強く心臓が脈打った。今にも口から出てしまいそうなほど近くに感じる鼓動に目を瞑って顔を赤くした。急に熱せられた鉄のようにナツキの顔色が変わったものだから、博士は慌てて取り成すように言った。
「いや、別に変な意味じゃないんだよ。ゼニガメは正解だと思う。そりゃ、ナツキ君みたいに今からポケモントレーナー目指す人は慎重になるのは分かるさ。ゼニガメは進化した後も能力のバランスがいいし、水タイプは扱いやすい。そんなに慎重にならなくても、まだ十四なんだし、いくらでも取り返しがつくよ」
まだ十四、という言葉がナツキの心にちくりと突き刺さった。思わずナツキは顔を上げて、「ヒグチ博士!」と叫んでいた。博士は「はい!」と思わずと言ったように同じ調子で返した。
博士とナツキがお見合い状態で硬直する。研究員が電話対応する声が聞こえる。少し耳を澄ませば外で鳴く鳥ポケモンの声さえも聞こえてきそうだった。永遠のように思える数秒間を息を殺して見つめ合い、ナツキは顔を赤くして呟いた。
「……また、明日来ます」
博士は目をしばたたいて、「そ、そうか」と明らかに気落ちしたと言わんばかりに肩を落とした。すぐにそれを悟られないように明るい声を出そうとした時にはもう手遅れだった。ナツキは俯いて、ため息を漏らしていた。
「すいません。決められない日が続いて」
「いや。当然だよ、当然。ほら、誰もがすぐに決められるわけじゃないんだから。逆にいい傾向だと思うよ。そうして悩むのは。一生のパートナーになるかもしれないからね」
「一生の、ですか」
ナツキは風船がしぼむようにまた深いため息をこぼして、踵を返した。とぼとぼと力なく歩いていく様に、博士はきょどきょどして周囲を見渡した。ブースから頭を出し、他の研究員に、
「僕、何か悪いこと言ったかな?」
と尋ねる。研究員達は首を傾げるばかりだった。
ミサワタウンの空は青く澄んでいる。
ミサワタウンには車がないことが一つの要因なのかもしれない。徒歩で移動でき、なおかつ他の町へと行く手段が北側に伸びる草むらの通路一本に限定されているとなれば、車を用いる意味もない。今、千切れた雲が漂って太陽を覆い隠した。雲越しの光が柔らかく降り注ぎ、ナツキが顔を上げてみると鳥ポケモンが雄大な空を切って飛んでいった。その背中に小さく人影が見える。「そらをとぶ」を使って、町を移動しているのだろう。ポケモントレーナーである。それが視界に入って、ナツキは思わずため息をこぼした。抱え込んだ両膝に顔の半分を埋めながら、ナツキはひとりごちた。
「どうして、さっさと決められないんだろう」
陰鬱なため息がまた漏れる。ナツキの歳にもなってポケモントレーナーを目指そうとするのは稀だ。他の地方では遅くても十二歳頃で旅に出るらしい。トレーナー志望ならば早いほうがいいと言う。ナツキはトレーナー志望であるのはもちろんのこと、ポケモンも好きだった。だが、同い年でもう数日前に旅に出たリョウという少年や、博士の娘でサキという少女は特別好きというわけでもなさそうだった。二人が共通して持つのは、トレーナーになるのが当たり前、だとでもいうような空気だ。それが説得力に繋がっている。では、好きだからということや単なる憧れでトレーナーになろうとするのは間違っているのか。それは正しいあり方なのか。ナツキは考えつつ、肩にかかったポニーテールの髪先を払った。
「堂々巡りだなぁ」
呟きつつ、見上げた空の中に染みのような黒点を見つけた。青空の中に不意に浮かんだ墨の一滴。何だろうと思って見つめていると、それが徐々に大きくなってくるのが分かった。続いて輪郭もはっきりとしてくる。二つの影がもつれ合っている。片方の影が翼らしきものを閉じて、頭を下に真っ逆さまに落下してきた。もう一つの影はそれに必死に掴まっているようだ。ナツキは思わず立ち上がり、
「え? ちょっと、えっ?」
と戸惑いの声を出している間にも近づいてくる。逃げるべきか、と悩んでいると翼を持っている影が翼を大きく広げた。風が巻き起こり、草を散らす。その風の中、ナツキは指の間から垣間見た。茶色い翼だった。内側は白く、尾羽は赤い。三本の指の鉤爪があり、鳥の特徴を持つ頭部には鋭い猛禽の眼が光っている。垂れ下がっている赤と黄色を混ぜた配色の長い鶏冠があり、首を振るうとそれが揺れた。間違いない。ポケモンだった。ナツキが呆然としていると、そのポケモンの背中から「よっ」という言葉と共に影が飛び降りた。影の主は青いつなぎを着た女性だった。背が高く、顔立ちは悪くないのだがぼさぼさの茶髪である。そのせいか少しだらしない印象を受けた。女性はセットもままならない髪を掻きながら、「おいおい」と言ってポケモンに突っかかった。
「もうちょっと、うまく降りれないの? 何度も練習させたでしょうが、ピジョット」
ピジョットと呼ばれたポケモンはその言葉に意に介することなく、ぷいと首を背けた。女性が地団太を踏んで、ピジョットを指差す。
「あんた、バッジ持っているんだから言うこと聞けっての。ったく、いつまで経っても反抗期なんだから。もういい。戻って」
女性がつなぎのポケットからボールを取り出した。上半分が赤、下半分が白のボールである、ポケモンを入れておくためのもの、モンスターボールだ。真ん中部分にボタンがあり、それをピジョットに向けるとピジョットは赤い粒子となってモンスターボールへと吸い込まれていった。女性がボールを仕舞おうとすると、ふとナツキと目があった。数秒間の沈黙の後、女性はにかっと太陽のように笑った。ナツキはどういう反応をすればいいのか分からず、引きつった笑みを返した。
「今の、見てた?」
女性に尋ねられて、ナツキは狼狽のままに上ずった声で「え? え? 何をですか?」と言った。女性は朗らかに笑いながら、指を一本立てて天を示した。ナツキがつられたように空を見上げる。雲が太陽を覆い隠していた。
「空から降りてきたのを」
言葉を重ねられても、ナツキは女性の言わんとしていることが理解できないでいた。女性の声はどこか浮ついている。何がそんなに楽しいのか。全く分からなかった。女性はナツキへと歩み寄り、ずいっと顔を近づけた。頬に手を添えて呻る。何を考えているのか分からなかった。目前にある碧眼に意図を尋ねようとする前に、笑顔が咲いた。
「すごかったでしょ?」
その言葉でようやくナツキは女性の言っていることを理解した。今、降下したことをすごいかどうか尋ねているのだ。
「す、すごいと思います」
気圧され気味に応じると、「でしょー」と女性は上機嫌になった。
「速度もすごいけど、降下角度もすごいんだよ。もう頭が落ちるのが先か、ピジョットの翼が広がるのが先かみたいな。死の瀬戸際でホント、やばいって感じで」
女性は快活に笑いながら、思い出したようにボールを取り出して、「あ、そうそう」と言った。
「ピジョットっていうのはね、私の相棒のこと。こいつがまた可愛げがなくってさー」
ボール越しにぺしぺしと女性は叩いた。中のピジョットがどんな表情をしているのかは透明度がないために分からなかったが、きっとつんと澄ましているのだろうと思った。
「バッジ全部持ってんのに、言うこと聞いてくんないの。参っちゃって」
「えっ? バッジ全部持っているんですか?」
ナツキは驚いて問いかけた。女性は事もなさげに「うん」と頷いてつなぎの裏につけたバッジを見せる。確かに、八つの輝きが光を反射していた。
「これ、本物の?」
「うん。本物のジム公認のバッジ」
ポケモンジムというものが町にはあり、それが町の行政や開発の中央を担っているのだが、それと同時にポケモントレーナーにとっては重要な場所になっている。そこにいる代表者――ジムトレーナーを倒すことによって得られる証明であるジムバッジはポケモントレーナーならば目指すものはいない栄光のポケモンマスターになるための登竜門、チャンピオンロードへの通行証になっている。その先に待つ四天王を倒し、さらに段違いの強さを誇るチャンピオンを倒してその地方の頂点にのし上がる。これがポケモントレーナーならば、誰もが目指す夢、ポケモンリーグ制覇だ。ナツキもご多聞に漏れず、その夢を追っていた。強い憧れを抱いていたのだ。その憧れの対象が目の前にいることに、ナツキは興奮しながら女性へと今度は自分から顔を近づけた。
「どうだったんですか? 闘いは?」
「ん。まぁ、ぼちぼちだったよ」
女性は急に勢いづいたナツキに逆に面食らったように後頭部を掻く。ナツキはさらに質問を重ねた。
「やっぱり、リーグを制覇してポケモンマスターになることが夢なんですか? もしかして、もうなっているんですか?」
「いんや」
気持ちが昂るナツキとは対照的に女性は醒めた態度で首を横に振った。
「ポケモンリーグにゃ、興味ないんだわ。とりあえずジム制覇しましたって所かな」
「そ、そんな」
ナツキは一転してしゅんと落ち込んだ。だが、トレーナーでありながらポケモンリーグに興味のない人間などいるのだろうか。それが知りたくてナツキは尋ねた。
「じゃあ、どうしてジムバッジを集めたんですか?」
「うーん、どうしてって言ってもなぁ。っていうか、そんなに気になる? なに? もしかしてトレーナー?」
女性の言葉にナツキは幾分か胸の引っ掛かりを覚えながらも頷いた。女性は顔を明るくして、
「じゃあ、お仲間だ。私はレイカ。よろしくね」
女性――レイカが手を差し出す。ナツキは少しだけためらいながらも、その手を握り締めた。
「ナツキです。よろしくお願いします」
「まぁ、そうかしこまんなって!」
豪快に笑いつつ、レイカはナツキの背中を叩いた。ナツキは少しむせた。レイカは「むむっ」と声を発し、ナツキに真剣な眼差しを向けた。
「待てよ。君もトレーナーなら、こういう場合」
「こういう場合?」
首を傾げていると、レイカはにんまりと笑った。
「目があったらポケモンバトル!」
レイカがボールを突き出した。ナツキは慌てて両手を顔の前で振った。
「え、駄目です! 駄目です! 私」
「なーに、言ってるのさ。トレーナーの常識でしょう? でも、やっばいなー。一番手見られちゃってるよ。こりゃ、そっちのほうが有利かな」
「有利も何も……」
ナツキは言いにくそうにもじもじした。それが気になったのか、レイカが首を傾げる。
「どうかした?」
「あの、大変言いにくいことなんですけれども」
「うん、なに?」
ナツキは服をぎゅっと握り締めて、決意を固め一気に告白した。
「私、ポケモン持ってないんです」
雲間から太陽の光が漏れて、草花をふわりと照らし出す。漂う草いきれが爽やかな風となって吹き抜けた。風の中、虫ポケモンが地面からのっそりと顔を出し、春の暖かい風に心地よさそうに身体を震わせる。のそのそと茎を伝って上り、全身で太陽の光を浴びるように身体を伸ばした。
レイカはナツキの言葉を理解するのに、それだけ時間をかけた。
「うん? ちょっと、待って。整理させてね。えっと、君、いや、ナツキちゃんはポケモントレーナー」
レイカは自分に言い聞かせるように頷いて、添えた手で眉間を押さえる。
「んで、私もポケモントレーナーだから目があったらバトル。そこまではオーケー?」
ナツキは申し訳なさそうに頷いた。レイカは呻りながら、眉間に添えた手に力を込めた。
「でも、ナツキちゃんはポケモントレーナーだけどポケモンを持ってない。だからバトルにならない、っと。……え?」
次の瞬間、太陽光を浴びていた虫ポケモンが転がり落ちるほどの大声が草原に木霊した。ナツキも思わずと言った風に目を閉じて、その声に耐えた。声を発した当人のレイカは頭を抱え始めている。指折りながら、手順を再確認し始める。
「わけが分からない。目があったらポケモンバトルでしょ。トレーナーの常識でしょ。なのに、相手はポケモンを持ってない。持ってない! 一匹も?」
ナツキはこくりと頷いた。レイカは目元を押さえて「あっちゃー」と仰け反った。
「そっか。始まりの町だもんね。持ってないけど、トレーナーになりたい子ならいても当然か。でも、じゃあどうしてトレーナーだって名乗ったの? 紛らわしいじゃん」
「なる、予定だったんですけれど」
「予定?」
「はい。ここ数日、ずっとヒグチ博士の研究室に行っていて」
「あー。あの陰険オヤジね」
「ご存知なんですか?」
「知っているも何も、そのオヤジの指導で捕まえた最初のポケモンがポッポ。つまりはピジョットの進化前。相棒ってわけよ」
そのポケモンの名前ならば広く聞いたことがあった。コラッタ、ポッポといえば初心者向けのポケモンの代名詞のようなものだ。普通、それらは終盤ではほとんど活躍することがない。だが、まさかそれをメインパートナーにしてジム戦を征した人間がいるとは。世の中っていうものは分からないと、ナツキは痛感した。
「で、博士に何か言われた?」
「いえ。むしろ博士も私がポケモンを持つことを好意的に受け取ってくれているんですけれど」
「でも、何かある、って顔ねぇ」
ナツキはばつが悪そうに頷いて、俯きながら言葉を発した。
「最初の一匹がその……」
「決められない?」
「いえ、決めたんですけれど、受け取れないんです」
「受け取れない?」
レイカは不可思議そうに首をひねる。ナツキはぽつぽつと話し始めた。
「あの、別に負い目があるとかそういうわけじゃなくって。ただ、私に出来るっていう自信っていうものが全然ないんです。そりゃ、トレーナーにずっとなりたかったし、どういうことをするのかも分かっているつもりなんです。近くにトレーナーの見本って言うか、同じ年齢のそういう人達がいましたから。でも、どうしても受け取る踏ん切りがつかなくって。だって、戦わなきゃいけないんでしょう?」
「うん。まぁ、そうね」
レイカは顎に手を添えながらナツキの言葉に耳を傾けていた。ナツキはため息のようなものを漏らしながら言葉を継ぐ。
「戦ったら傷つきますし、そういう世界って多分、理想だけじゃどうにもならないと思うんです。だから、私、本当のところは怖いんだと思うんです。怖くて、どうしようもなくって。だから、一歩踏み出せなくって」
足踏みをしてしまう。自分の中では結論はついていていいはずなのに、その答えが合っているのかでまた迷う。迷うことは何の解決にもならないと知っていてもなお、自分の憧れの世界に入っていける気がしない。憧れは所詮、遠い幻のようなもので掴もうとすれば消えてゆく白昼夢のような、そんなものだと思ってしまう。
レイカは「ふぅん」と言ってから、後頭部を掻きしばらく空を眺めていた。ナツキも少しだけ顔を上げて、レイカの視線の先を追う。千切れて飛んでゆく大きな雲が視界いっぱいに映り、また太陽光を覆い隠した。レイカはその果てを探しているかのようだった。自分もそれに追随しようとして、やめた。レイカの見ているものが自分に見えるはずがないと思ったからだ。またしゅんと顔を俯けさせようとすると、「だったら」という言葉が耳朶を打った。
「試してみない?」
その声に当惑の声を漏らしながら顔を上げる。レイカがナツキの顔を真っ直ぐに見つめて、大輪の笑みを咲かせた。
「私のピジョットをちょっとだけ貸してあげる。ポケモントレーナーの練習ってことで。どう? 悪くないでしょ?」
「そんな」
ナツキは顔の前で両手を振った。全てのジムを制覇したトレーナーのベストパートナーを自分が使うなど畏れ多いと思ったからだ。レイカはナツキの心の声を見透かしたように、「いいから」と半ば強引にボールを握らせた。ナツキの手にピジョットのボールが渡る。
ボール越しに鼓動と体温を感じた。確かな、生き物の放つ生命の音。春の木漏れ日のような、体表を温める熱。命が芽吹き、柔らかな灯火を感じさせる温かみ。
――これが、ポケモン。
そう感じた身体がボールから電流のように温かくなるのを感じた。病の熱に冒されるような感覚ではない。それがごく自然の理だとでも言うような、そんな熱だ。
「投げてみる?」
レイカに尋ねられ、ナツキはボールを両手で握り締めて困惑した表情を浮かべた。出来ない、とでもいうように首を振ろうとしたのに、レイカが「出来る」と声を押し被せた。
「ボールを投げて、中のポケモンを呼び出すの。ポケットに入るぐらいの大きさなのに頼りになるモンスター、っていうか相棒ね。それがポケモン。でしょ?」
その言葉にナツキは意を決して、ぎゅっと目を瞑り「な、投げます」とわざわざ呟いてから、ボールを投げた。
バウンドしたボールが二つに割れ、中から光に包まれた物体が躍り出た。翼をはためかせ、光を払ってゆく。その姿が太陽の光に照らされて露になった。鋭い猛禽の眼が、振り返ってナツキを見つめる。その眼差しに射竦められたように、ナツキは後ずさった。その肩を抱いてレイカは言った。
「あ、ピジョット。今から五分間はこの子があんたの相棒だから。いい? ご主人様には丁寧な態度で接するのよ。私の相棒なんだから、その辺は分かっているわよね?」
ピジョットはその言葉を聞いて、ぷいとレイカから顔を背けた。レイカがピジョットを指差し、いきり立って反発する。
「コラー! 反抗的な態度を取らない! いつも私にやるみたいなぞんざいな感じだと怒るからね」
レイカの言葉が届いているのかいないのか、ピジョットはナツキを包み込めるほどに大きな翼で飛び上がり、ナツキの横に静かに降り立った。その背中を向ける。茶色い柔らかな毛並みが広がっている。ナツキが意味をはかりかねていると、レイカが耳打ちした。
「乗れってことよ。ちゃーんと掴まってなさい」
レイカの言葉に、ナツキはきょどきょどしながらピジョットの背中へと近づく。ピジョットは動かない。静かに肩を上下させている。生きている。そんなことを今更に実感させられた。
「早く」とレイカに急かされ、ナツキはおっかなびっくりピジョットの首筋に手を回した。体重を預けた瞬間、ピジョットが大きく翼を広げて一声鳴いた。耳元で劈くように放たれた声に、どきりとした直後にはナツキの身体を浮遊感が包んでいた。ピジョットは軽々とナツキの体重を受け止めて、飛び立ったのだ。困惑するナツキを尻目に、どんどん地上は離れてゆく。ナツキの悲鳴にもならない声を引きずるまでもなく、ピジョットの身体が揚力を得て浮き上がった。思わず目を固く瞑る。耳元で翼が風を切る音が聞こえる。ぴったりとくっついた身体にはピジョットの体温が伝わってくる。息遣いも分かり、轟、と風の鳴る音も聞こえた。少し風が冷たくなり、ナツキは顔を上げて目を開いた。
目の前に広がったのは広々とした白い雲の原と、どこまでも視界を満たす青い空だった。既に雲の上を飛んでいるのだ。その事実に肌寒さを感じるよりも、胸を熱くさせるものを感じた。飛んでいることへの喜び、というよりもポケモンと一緒にいることの喜びとでも言うのだろうか。今、ポケモンと一体化しているのが自分でも分かった。命が一つになる感覚に、眩暈よりも視野が突然に広くなった興奮が勝った。鼓動が脈打っている。ピジョットも同じだ。別々の生命が一つの時の中で、同じ感動を噛み締め、同じ喜びを分かち合う。それがポケモントレーナー。今まで靄がかかっていたものが急に晴れて見えたような感覚に、ナツキの顔が自然に綻んでいた。ピジョットが一声鳴く。何を言っているのか分かった。もっと高くに行きたいか、と尋ねているのだ。
「うん。ピジョット。もっと高いところが見たい」
応じた言葉に、ピジョットは翼を今一度はためかせ、強い風の膜を作り、それを足がかりにするようにさらなる高空へと飛び立った。肌を刺す風は冷たい。だが、それ以上に身体の内側から熱が湧き上がっていた。どこまでも行けるような熱。どんな道も切り拓けるような衝動。それをピジョットも感じ取り、時には風に任せ、時には抗いながら速度を自由自在に調節して、風そのものになってゆく。
「ポケモンとだけじゃない。私、空とも一つになってる」
その呟きに、ピジョットが甲高い声で応じた。思わず笑みがこぼれる。ピジョットは教えてくれているのだ。新しい世界を、まるで父親や兄のように、先行くものとして。
「行こう。ピジョット」
その言葉にピジョットは翼をピンと広げて、風に任せた飛行を行った。風にポニーテールにした長い髪がはためく。構いやしなかった。ようやく分かったのだ。ポケモントレーナーのあり方を。
ピジョットは楕円の回遊コースを通って、緩やかに地面に着地した。着地点ではレイカが待っていた。拍手をしながら、レイカが歩み寄り言葉を発する。
「いい感じじゃない。初めてじゃないみたい。それにしても、私の時にもそれくらい紳士なエスコートが欲しいもんだけどね」
レイカが腰に手を当てて鼻息をつくと、ピジョットはまたもぷいと顔を背けた。今ならば分かる。この二人は表面の繋がりじゃない、もっと大きなもので繋がっていることに。ピジョットは少し照れ屋なだけなのだ。
「で、ちょっとは掴めた?」
レイカの言葉にナツキは「はい」と頷きを返した。
「私、ようやく決められそうです。トレーナーって言うものが何なのか、ちょっと分かったような気がするし」
「じゃあ、訊いちゃうけど、トレーナーって何だと思う?」
ナツキはレイカの眼を真っ直ぐに見つめて応じた。
「ポケモンと、いいえ、ポケモンだけじゃない。命と一緒になれる、そういう素敵なもの」
その言葉にレイカは少しだけきょとんとしてから、ぷっと吹き出した。ナツキは間違っていたのかと顔を赤くすると、レイカはナツキの頭を抱き寄せてわしゃわしゃと頭を撫でた。
「いーい感じ。そうでなくっちゃ」
ナツキの肩を掴んで離すと、レイカは屈託のない笑みを浮かべて言った。
「いいんじゃない。素敵なこと突き詰めてみなさい。それがきっとあなただけの答えになるから」
ナツキは頷いた。レイカに背中を押されて、ナツキは振り返りながら走り出した。
「レイカさん! 私、これからヒグチ博士のところに行ってきます! 私のポケモンをもらいに!」
「前向いて走れよー! こけるぞー!」
その言葉の直後に少し前につんのめりながらも、ナツキは真っ直ぐに博士の研究所へと向かっていった。その背中を見送りながら、レイカは後頭部を掻いた。
「いやはや参ったね。あんなに楽しそうにするなんて。あんた、エスコートなかなかうまかったんじゃない?」
傍らのピジョットへと目を向ける。ピジョットは無愛想に一瞥だけして、空を眺めていた。レイカは草原に胡坐を掻いて、「思い出したよ」と呟く。
「あんたと初めて会った時のこと。不安でどうしようもなかったけど、あんたは今みたいに真っ直ぐに前を向いていてくれた。だから、私は進めたんだって」
レイカはピジョットを見やり、にかりと笑って見せた。
「あーあ。ジム戦でトレーナー引退するつもりだったのに、あんな面白そうな子の一歩目を見せられちゃ、燻るのが勿体無い気がしてきた。よし!」
レイカは立ち上がり、つなぎについた土や草を払ってからピジョットに言った。
「もっぺん、やってみるか。今度はリーグ戦。逃げずに戦わなきゃ。覚悟しなさいよ、相棒」
その言葉に応じるように、ピジョットは甲高い鳴き声を一つ上げた。
研究所のブースでヒグチ博士は突然やってきたナツキを迎える形になっていた。気を利かせてお茶を出したのだが、ナツキは目を輝かせて台座に置かれたボールを見ながらお茶には一口も口をつけない。先ほど、明日来ると言ったばかりなのにどうしたのだろうか、と博士は思いながらお茶を口に運ぼうとするとナツキが「決めました」と言った。思わず湯飲みを取り落としそうになりながら、博士は「決めたって?」と聞き返す。ナツキはボールを指差した。
「私、この子とポケモンリーグを目指します。きっと、この子となら、答えに辿り着ける気がするから」
ナツキの言葉の真意をはかりかねて、博士はきょとんとしながら「まぁ」と言った。
「ゼニガメか。うん。いいだろう。これで、君も晴れてポケモントレーナーだ。おめでとう」
台座からボールを取って、ナツキへと手渡す。ナツキはボールを両手で受け取って、それを温めるように包み込み言った。
「よろしくね。ゼニガメ」
ボールの中の小さな鼓動が、それに応えるように脈打ったのをナツキは感じた。