ポケットモンスターHEXA - リョウ編
第四章 十節「ルイ」
 森の中は静寂に包まれていた。

 木々のざわめきも無ければ、虫ポケモンたちが草木を揺らす音も聞こえない。完全な沈黙が一部のすきも無く周囲を覆っている。

 リョウはフシギダネの蔓の鞭に掴まりながら歩いていたが、途中近くにあった幹に手をつきながら蔓を放して言った。

「もう大丈夫だ、フシギダネ。一人で歩けるよ」

 フシギダネは心配そうにリョウを見つめていたが、リョウがボールを取り出すと諦めたような表情をして赤い粒子になってボールの中へと戻った。

 リョウはそこから木の幹を支えとして、一人で森の奥へと歩いた。歩くと相変わらず身体の節々が痛みに悲鳴を上げたが、それでもリョウはここから先は一人で行かなければならないような気がしていた。そう思ったのは先ほどから空気中に僅かに漂う臭いのせいである。

 鉄さび臭い臭気が、木々の間を縫ってリョウの元へと届いてくる。鼻腔を刺激して吐き気を催しそうな、嫌な臭いだ。リョウはその臭いを知っていた。その臭いは森の中へと踏み込めば踏み込むほどに強くなっていく。覚えず、赤い血溜まりの上に横たわるルイの姿が脳裏に浮かんだ。それを振り払うように、首を振り痛みに耐えて一歩一歩進む。進めば進むほどに、生臭い臭いが肺まで侵してくる。

 その臭いが意味するものをリョウは考えまいとしていた。

 その時、足の裏に妙な感触を覚え、リョウは足元を見下ろした。見ると、地面が雨も降っていないのにぬかるんでいた。それも少し湿っている程度ではない。まるで大雨が降った後のような巨大な水溜りがそこにあった。

 否、それは正しくは水溜りではない。リョウはそこに溜まっている何かから鉄さびの臭いがしていることに気づいていた。

 その時、赤い液体の表面で突然に波紋が生まれた。リョウは立ち止まったまま視線を上に向ける。すると木の枝に何かが引っかかっているのが視えた。暗くてよく見えないが、それは赤い色をしていた。木の枝に絡みついたそれは奇怪なオブジェを思わせる。胴体らしき箇所から伸びた長い四肢が捩れ、それが蛸の足のように骨格を完全に無視した形でぶらさがっている。そこから定期的に何かが滴り、地面に溜まった液体に波紋を生んでいるのだ。

 リョウが滴るものをじっと見つめていると、木に引っかかっていたそれは唐突に下の赤い液体へと落ちてきた。その衝撃で赤い液体が飛び散り、近くにいたリョウにもそれがかかった。

 落ちてきたものをじっと見つめる。身体が雑巾のように捩れて、四肢がバラバラの方向に向いているため一瞬分からなかったが、それはリョウがかつて知っていた形をしているものだった。

 それは人間だった。尊厳を叩き潰されたかのように形が歪んでいたが、それでも確かに、間違えようも無くそれは人間の、死体だった。

 それを理解すると同時にリョウは一歩、その死体から後ずさった。その死体のありえない方向を向いた首の眼がこちらを睨んでいる。その視線が凄惨な死に様を物語っている。耐え切れず、リョウはその場で蹲り、吐いた。いくら吐いても収まりそうに無かったが、それでも他のことが出来なかった。どれほど冷酷になろうともこれほどまでに人間を破壊することなどヒトには出来るとは思えない。では、一体これをやったのは何者なのか。

 その時、唐突に声が聞こえてきた。

「――だれ?」

 その声にリョウは顔を上げる。見ると、赤い血溜まりの中心に誰かが立っていた。

 それは薄紫色の長い髪を持っていた。肌は白くまるで生まれてから一度も太陽の光を浴びたことがないように透き通っている。着ている服もまた白だった。しかしその白たちはいずれも赤い血で汚れていた。その赤と同じ色をした瞳がリョウを見据えた。

 リョウはその視線を見返して、呟いた。

「ルイ」

 その言葉を発してから、違うと感じた。あれはルイではない。自分の知っているルイとはまるで別物の、触れてはならない何かであると。

「……リョウ。来たんだね」

 ルイはそう言ってリョウに歩み寄ろうと一歩踏み出した。それに対して覚えず、リョウは一歩退いていた。それに気づいたルイが俯きながら小さな声で言った。

「……そう。怖いんだね、ボクが」

 発せられたその言葉に、リョウは周囲を見渡しながら質問で返した。

「これは、お前がやったのか?」

「そうだよ」

 何の感情も浮かべずにルイは答えた。

「どうして、こんな」

「仕方なかったんだよ。この人たちが、ボクに乱暴しようとしたから」

 言ってリョウの前に転がっている死体にルイは視線を落とした。

「この人たち、ボクを運んだら次はリョウをいたぶろうって言っていた。それがどうしても許せなかった。憎かった。だから――殺した。それだけだよ」

 赤い眼は感情など全て封じたように何の光も灯していなかった。あるのは深くて暗い奈落だけだ。その奈落がリョウを見つめて言った。

「リョウも怖いんでしょう? ボクと、ゲンガーが」

 その言葉が発せられた瞬間、ルイの背後の空間が歪んだ。まるで粘膜のように闇が変化したかと思うと、粘っこくなった闇は形を変え紫色の姿を浮かび上がらせた。それは直立する巨大な紫の影だった。闇との境目すら分からないその巨大な影はルイの四倍ほどの大きさがあった。

 その影の中ほどに亀裂のような線が入り、唐突に開く。そこにあったのは二つの眼だ。禍々しいほどに赤い眼が、リョウを睨みつける。

 その眼にリョウは魅せられたように視線が外せなくなった。暗い深淵から覗くようなその眼に、まるで自分の心の奥底まで見通されたような心地になる。

 リョウはそのポケモンを知っていた。確かゲンガーと言う名のゴーストタイプのポケモンで通常は寸胴な人型の姿をしているはずのポケモンである。しかし目の前にそびえる巨大な影のようなポケモンがそれと同じだとは全く思えなかった。人から伸びる影と自分の身体を一体化させているゲンガーなど聞いたこともない。

 そのゲンガーの眼の下に亀裂が入り、そこが開いて白い乱杭歯の並んだ口が露になる。刃のように鋭いその歯を見せてゲンガーは卑しく嗤う。

 そこから目を離せないままに、リョウは呟いた。

「何者なんだ? お前は」

「……何者、か。ボクにもそれは分からないよ、リョウ。ただ一つだけ分かることは、ボクを追ってくる奴らがボクを色んな名前で呼ぶことだけ」

 ルイの眼がリョウを見つめる。その眼がゲンガーと同じ色をしていることにリョウは気づき、その透き通った赤に射竦められて息を詰まらせた。

「……R01B。……ヒトとポケモンの融合体。――そして、化け物。彼らはそう言ってボクをずっと追い続けた。カントーからずっと。追いつかれる度に、ボクはたくさん殺した。ヒトも、ポケモンも。関係ないもの、ヒトだろうと、ポケモンだろと。どちらも同じ、ボクを傷つけるもの。だから、ボクは憎い。ヒトも、ポケモンも。みんな、ボクに悪意をもって接してくる。みんな、言っているんだよ。ボクなんていなくてもいいって。この世にあってはいけないものだって。……ボクが、いらないって」

 ルイの表情は語れば語るほどに鋭く、言葉は棘を持ったものになっていった。まるで今まで泥のように溜まったものを吐き出すように、ルイの放つ一言一言は怒りと憎しみに満ちていた。

「誰にも必要とされないなら、ヒトだって、ポケモンだって、いくら殺してもボクは心なんて痛まない。みんな、嫌いだから、消してしまいたいから。だからボクは迷わず誰だって殺せる。リョウだって、同じだよ」

 ゲンガーの身体の端のほうが伸び、そこから細長い影が揺らめきながらリョウのほうへと近づいてくる。それはヒトの手のような形をしていた。手の影はリョウの真正面まで来ると、ルイの指示を待つように宙で止まった。

「俺を、殺すのか?」

 ルイは頷いた。そして俯いたまま、冷たく言った。

「そうだよ。殺すのなんて、簡単なんだから」

「――嘘だ」

 リョウは強い口調でかぶりを振った。

「嘘じゃないよ。ヒトなんてどれも同じ」

「なら、何でお前は泣いているんだよ」

 その言葉でルイはハッとして自分の頬に触れた。そこには熱い涙が幾重にも伝っていた。

「お前は無理をしているだけだ。独りで何でも抱え込んで、何でもっと早くに誰かに助けを求めなかったんだ」

 リョウがふらつきながら立ち上がる。力を入れると、まだ激しい痛みが電流のように身体を巡ったが、それでもリョウは真っ直ぐに立ち、ルイの目を見据えた。

「苦しいときには誰かに頼ればよかったんだ。それなら俺じゃなくても協力してくれたやつだっているかもしれなかったのに。手遅れにならずに済んだかもしれなかったのに」

 言って一歩踏み出す。それにルイは恐れるような視線を投げてから、黒い影の手をかざして叫んだ。

「来ないで! それ以上近づいたらこのゲンガーの手で、リョウを殺すよ!」

「やってみろよ」

 リョウはその言葉に恐れることなくルイへと近づいてゆく。今にも崩れてしまいそうな足取りだったが、確かな意志を持って一歩ずつ血溜まりの中を歩いていく。

「お前は、誰も殺したくないと思っているはずだ。俺の知っているルイは少なくとも、簡単にヒトを殺せるやつじゃなかった」

 リョウのその言葉にルイは慄くように両手で耳を塞いで、叫んだ。

「分かった風な口を利かないでよ!」

 その瞬間、ゲンガーの胴体が弾けそこから先ほどと同じ黒い手が何本も飛び出した。それは一本一本が意志を持っているかのように、森の木々の中をくねりながらリョウへと津波のように向かっていく。

 しかしリョウは避けようとはしなかった。真っ直ぐに影の手の群れが向かってくる方向を見つめたまま歩みを止めなかった。

 黒い手の群れが今まさにリョウを飲み込もうとしたその時、その群れはリョウを避けるように、首筋や肩に触れるか触れないかの距離を、突風のような速さで通り抜けていく。

 黒い手の一本がリョウの頬に引っかかり、爪で裂いたような傷から血が僅かに流れたが、それ以外リョウは無傷だった。

 ルイは耳を塞いだまま俯いている。その姿へとリョウは言葉を投げた。

「お前は今、俺を殺すつもりだった。でも、お前は殺さなかった。それはつまり、お前が迷っている証拠だ」

「違う!」

 ルイは激しく首を振って叫ぶ。その言葉に被せるようにリョウははっきりとした口調で言った。

「違わない。お前は、一度だってそんなことを考えるような奴じゃなかった。今回の事だって仕方がなかったんだろ? そうしなきゃお前が危なかったんだ。殺したいなんて、一瞬だって考えていなかったはずだ」

「違う! リョウは何も分かってないよ!」

 先ほど通り過ぎた影の手の群れが上空からリョウへと迫る。その手は血で赤く染まった地面に槍のように突き刺さりリョウの行く手を塞いだ。

 ルイは息を荒らげながら、静かに言った。

「リョウは、ボクのことを何も分かっていない。ただボクのうわべを見ていただけだよ。それは、本当のボクじゃない。本当のボクは、どうしようもなく人殺しを好む、あってはいけない、化け物なんだよ」

 ルイの頬を熱い涙が再度流れる。その雫は顎を伝い、血溜まりの中へと落ちて波紋を作る。リョウは首を振りながら、地面に突き刺さる黒い手を掴み叫んだ。

「お前は化け物なんかじゃねぇ!」

「化け物だよ!」

 その言葉とともにルイは血で汚れた地面に泣き崩れた。その姿を見て、リョウの黒い手を握る掌に力が篭る。黒い手はまるで鉄格子のように強固であり、地面に突き刺さっている部分も抜ける気配が無い。リョウは黒い手を力いっぱい握りながら、その手の群れの隙間から顔を出して叫ぶ。

「化け物なんかじゃねぇよ! お前は、ルイだろうが! おまえ自身が言ったんだろ! 自分の名前はルイだって」

 その声にルイが僅かに身体を震わせて反応したのが見えた。

 リョウは黒い手の作り出す格子を無理やり両手で曲げながら顔をねじりだし、さらに強くルイに呼びかける。

「R01Bだろうが、ヒトとポケモンの融合体だろうが知ったこっちゃねぇよ! そんなモンは、ロケット団が勝手に言っているだけだろうが! 俺が知っているのは、お前がルイだって事だけだ! 俺にとってしてみれば、それ以外なんざ、全部偽モンだ!」

 その叫びに突き刺さっている黒い手が一瞬緩んだ。その隙をリョウは見逃さず、両手に力を込め、格子状になっている手をひん曲げた。まだ体に残る痛みがさらに勢いを増し、雷のように全身をズタズタに貫いていくのが手に取るように分かる。しかしリョウはその痛みなどおくびにも出さず、ルイへと真っ直ぐに歩き出した。その足並みは今にも倒れそうなほどに危うい。目も既に空ろであり、視界もぼやけ始めている。だが、歩みをとめようとは思わなかった。痛みがどれほど道を阻もうとも、リョウはただ独りで泣くルイを放っておくことなど出来なかった。それは自分自身の姿であったからだ。兄に置いていかれ自分の必要性に疑問を感じ、毎日がとてつもなく不安であったあの日々のリョウの姿自身。いや、正確には今も自分はそのままの姿なのかもしれない。その自分と同じように、不安なまま壊れようとしている少女を見捨てることなど出来なかった。

 ただ一心に、ルイには手遅れになって欲しくない、それだけを考えて足を動かした。兄を捜すことに囚われた自分と同じにならないように、まだ間違いを間違いと認められる心があるうちに引き返すべきだ。殺すだけが自分の道だと決め付けてしまっては、ルイはもう二度と戻れなくなる。

 泣き崩れたルイを見下ろし、リョウは立ち止まった。その影からは巨大なゲンガーの身体が伸びている。ゲンガーは上から、赤い眼を見開きながらリョウとルイを見下ろしていた。まるでこれから何が起こるのか楽しむような目つきだった。リョウはその目を見返し、そしてルイへと視線を移した。

 ルイはまだ俯いて顔を両手で覆い泣いていた。リョウはその肩へと手を伸ばす。その時に、ルイの身体が震えていることに気づいた。リョウはその震えを気遣うかのように、ゆっくりとルイの肩に手を置いた。肩に触れられたことに気づいてか、ルイが顔を上げる。

 赤く澄んでいたはずの瞳は涙で濁っており、目は僅かに腫れていた。

「リョウ。ボクは、ボクは……」

 唇から凍えているかのような白い吐息とともに細い言葉が発せられる。それは今にも消え入りそうなほどに、か細く弱々しい声だった。リョウはルイの背中に手を回し、胸に抱き寄せて言った。

「分かっている。だから、何も言わなくていい」

「……ボクは、誰かに必要としてほしかっただけで」

「ああ、分かっている。さっきは悪かった。俺はお前の気持ちも知らず、勝手なことを言っちまった」

 その言葉にルイはリョウの胸元に顔を埋めた。そしてすがるように声を殺して泣きじゃくり始めた。リョウはルイの頭を撫でながら何も言わなかった。

 この少女はただ自分をルイとして、一人の人間として認めてもらいたかっただけだ。ヒトとポケモンの融合体だということや、R01Bだということを気にせず受け止めてくれる誰かの温もりに飢えていただけなのだ。

 リョウは一層、ルイを強く抱き締めた。今にも壊れそうなほどに細い肩と身体が震えている。それを壊すまいと思いながらも、強く力を込めることでしか温もりは伝えられそうに無かった。それは孤独な寒さに震える自分自身も癒そうとした行為だったのかもしれない。ルイの孤独に自分の孤独を重ね、お互い当てないものを捜す。まるで鏡のようだと、リョウは思った。

 リョウは自分自身に言うかのように、静かに言った。

「旅を続けよう。見つかるかどうか分からないけど、二人ならきっと」

 ルイが胸に顔を埋めたまま、その言葉に頷いた。

 二人で捜しても見つからないかもしれない。もしかしたらより過酷な道かもしれない。それは分かっていた。しかし、リョウはそれと同時に孤独に歩むことが必ずしも正解ではないことも分かっていたのだ。独りは強いように思える。だが独りは氷の中のように冷たいことも知っている。知っているからこそ、誰かと歩むことに希望が持てる。

 赤く染まった森の中を見下ろすように中天には満月がかかっている。それは青い光で森の静寂を包み込んだまま、いつまでも二人を見つめ続けていた。


オンドゥル大使 ( 2012/09/01(土) 22:24 )