第四章 九節「対峙、疾風のシリュウ」
リョウがその足音に気づいたのは、ルイが森の中に消えてすぐのことだった。
その音に最初、ルイが戻ってきたのかと思ってリョウは静かに待っていたが、どうにもその足音の様子がおかしかった。まるで気配を消そうとしているかのように、静かな足音であったからだ。それも作為的にでありながら、あたかも自然にそういう足音になっているかのように偽装している。
こんな足音をルイは使ったりしない。その確信に自然とリョウの手は腰のモンスターボールへと伸びた。ボールを掴み、真ん中の緊急射出ボタンに指をかけながら周囲の様子を窺う。
その時、頭の上の木々が一際大きく葉を揺らす音が聞こえた。その音で反射的にリョウは前方に転がった。
その瞬間、先ほどまでリョウが座っていた場所に巨大な影が上から飛びかかってきた。リョウが体勢を立て直し、ボールの緊急射出ボタンをそちらに向け、押し込んだ。ボールから飛び出したイーブイが光を振り払いながら、影に向けて突進していく。だがイーブイが攻撃を当てる前に、その影は瞬時に木の中へと吸い込まれるように上っていった。リョウが立ち上がり、影の降りてきた木を見ると、まるで木の中で蠢くように木の葉が僅かに動いているのが見えた。
その時、唐突に背後から声が聞こえてきた。
「――奇襲は失敗したか」
その声にリョウは振り返る。
そこには黒衣を着た男が立っていた。その顔は言葉とは裏腹な笑みが浮かんでいる。まるで奇襲が失敗して嬉しいかのような笑みだ。リョウがその程度でやられない獲物だと知って嬉しいのか。
その男は何かに気づいたように「おや」と声を上げた。
「そのイーブイ、負傷しているな。その傷からすると射撃系の技を受けたか。森の中で種マシンガンでも受けたか?」
リョウは鼻を鳴らしながら答えた。
「まるで見ていたような口調だな」
「観察していたのは真実だよ。もっとも、見ていたのは先ほどの君と少女のやり取りからだが」
言って男は肩を揺らした。闇の中で笑っているのだ。それを感じ取ったリョウは不快感を露にしたように顔をしかめた。
「しかし、まだ君があの少女と行動をともにしているとは思わなかったな。あの少女に情でも移ったのか? それとも、単なる気まぐれか?」
男がリョウを好奇の眼差しで見つめる。その目を睨むようにリョウはその姿を見た。
その黒衣に刻まれた「R」の文字が暗闇の中でも禍々しく映えている。
リョウはその男を知っていた。
「――シリュウ」
リョウが呟くようにして言うと、シリュウは、ほうと感心したような声をもらした。
「たった一回会っただけなのに、覚えてもらったとは光栄だな。ならば、こいつも覚えているかな」
シリュウが指を鳴らすと、木の上を何かが這い回るような音がした。木々の枝が激しく揺れ、それがシリュウの頭上に至った瞬間、先ほどと同じ影がシリュウの真横に降り立った。
それは蜘蛛のような姿のポケモンだった。だが前回のイトマルよりもずっと大きい。脚も高く、紫と黄色で毒々しく塗り分けられており、より禍々しいような印象を与える。イトマルのときより鋭くなった角と牙の生えた赤紫色の頭と、警戒色のような黒と赤紫の縞模様の胴体を持っており、それは一見しただけで、危険だというメッセージをはらんでいることが分かる。イトマルのときよりも大きくなった黒い眼球が、イーブイを視界の中心に捉える。
「紹介しよう。私のイトマルの進化した姿、アリアドスだ」
シリュウの声にアリアドスは返事をするように口元の牙を動かした。
「三日やそこらで進化するとはな」
リョウが皮肉の混じったような口調で言うと、シリュウは笑みを浮かべながら返した。
「私のイトマルは元々進化するレベルには達していたさ。ただ、進化させる必要がなかったまでのこと。変わらずの石でずっと進化を封じてきたのはそれほどまでの相手がいなかったからだ。この姿にしてしまっては戦いの悦楽には浸れそうにないのでね。……だが、君ならば全力で挑んでも大丈夫そうだな」
シリュウのその言葉にリョウは心の中で舌打ちをした。今のイーブイは負傷している。とてもではないがいつものような速度では戦えない。しかし他に手持ちも無い今、イーブイで片付けるほかこの戦闘を切り抜ける方法は無い。
だが相手は一段進化をしたポケモンである。イトマルの時のようにはいかないだろう。真正面から行けば思わぬ反撃を受ける可能性もある。
――何か策を考えなければ。
リョウがイーブイに指示を与えるのを渋っていると、シリュウは思い出したように唐突に声を上げた。
「ああ、そうだ。そういえば、先ほどいい報せを受けてね。R01Bの捕獲に成功したらしい」
「……R01B? 何だよ、それは」
意味が分からずリョウが聞き返すと、シリュウは意外そうに言った。
「おや、知らなかったのか? あの少女の名前だよ。我々が彼女のことを呼ぶときに使う、いわばコードネームのようなものだ。それを先ほど、私の部下が捕まえた」
その言葉にリョウは驚愕した。ルイが森の中に入ってからそんなに時間は経っていない。つまり自分と別れた直後に、ルイは捕まったということになる。自分が冷たく突き放したせいで、ルイはロケット団に捕らえられたのだ。自分があんなことを言わなければ、少なくともルイは一人にはならなかった。
「いや、君には感謝しているよ。君がこんな人気の無い森の中に誘い込んでくれたおかげで、我々としてもやりやすかった。それにショックを与えてくれたおかげで抵抗も少なかった。全ては滞りなく進んだよ。これは君自ら我々に引き渡してくれたようなものだからね」
にやりとシリュウは笑った。
その瞬間、リョウの思考が白熱化した。怒りで白くなった頭の中で先ほどまで考えていた策は全て消失し、残ったのはたったの二つ、ルイを助けなければということと、ここで目の前の敵を始末することだけだった。
知らず、リョウは叫んでいた。
「イーブイ! 一撃でそいつを片付けろ!」
瞬間、イーブイの眼が獣のような鋭い眼に変化していく。それと同時にイーブイの姿がアリアドスへと疾走する。イーブイが地面を蹴るたびに砂煙が舞い、まるで爆発のような空気を割るすさまじい音が響く。
これこそがリョウのイーブイが得意とする技であった。超高速で地を駆け、相手への距離を一挙に詰め、突撃する「しんそく」と呼ばれる技だ。しかもこの技は相手と同じタイミングで技を出しても、確実に相手より速く動ける特性のある技であった。リョウのイーブイは博士がカントーから知り合いの伝手で手に入れた特別なイーブイであり、通常の個体よりも素早さが高い。今、アリアドスが、イーブイが動いたのを確認してから動いたとしても絶対に間に合わない。これがリョウのイーブイが今まで進化せずに相手を圧倒できた理由である。
アリアドスへとイーブイはその速度のまま突っ込むつもりだった。もちろんそんな速度の突進を受ければアリアドスとてただではすまない。しかし、シリュウはアリアドスに指示を出さなかった。
ただ真っ直ぐに突っ込んでくるイーブイを見て、口元に笑みを浮かべて呟いた。
「――愚策」
その瞬間、アリアドスを目前にしてイーブイを動きが唐突に止まった。リョウはアリアドスに攻撃されたのかと思いそちらを見るが、全く動いた形跡は無い。まるでイーブイが勝手に止まったかのようだった。
「正面から飛び込んでくるなど、愚の骨頂だな。私とアリアドスがなぜこの位置から一歩も動かないのか、考えなかったのか?」
その時、雲間から覗いた月明かりがアリアドスを照らし出した。瞬間、アリアドスの正面に何かが張り巡らされていることに気づいた。それは細く、暗闇ならば絶対に分からないほどに透明なものだったが月の光が反射しておかげでそれがようやく視えた。それを見て、リョウが思わず声をもらした。
「……蜘蛛の、巣だと」
そこに張り巡らされていたのは細やかな蜘蛛の巣だった。まるで壁のようにシリュウとアリアドスの前に展開されている。イーブイはそれにぶつかり、止まったのである。
「そう、これはアリアドスのみが覚える技だ。蜘蛛の巣を張り、獲物を捕らえ逃げられないようにする。君が挑発に乗ってくれたおかげで、丁度真ん中に捕らえることが出来た。これでさらにやりやすくなる」
その言葉と同時に何かがシリュウの頭上の木の葉を揺らした。リョウが見上げるとそこから蜘蛛の巣を伝って何かがスルスルと降りてくるのが見えた。それを視界に入れた瞬間、リョウは唐突に思い出した。イトマルはもう一体いたことを。そして、最初からシリュウはこれを狙っていたのだと悟った。
そこから降りてきたのはもう一体のアリアドスであった。こちらは先ほどのアリアドスの赤紫色の部分を全て青色に塗り替えたような姿だった。その青いアリアドスは口元の牙を動かしながら、蜘蛛の巣の上を動き徐々にイーブイへと迫ってくる。それを見てリョウが叫んだ。
「イーブイ! 突進で蜘蛛の巣を突き破れ!」
その声でイーブイが後ろ足に力を込め、頭を突き出して蜘蛛の巣を突き破ろうと踏ん張った。しかし、蜘蛛の巣は少々揺れるだけで全く破れる気配が無い。イーブイの様子を見て、シリュウが勝ち誇ったかのように言った。
「無駄だ。この蜘蛛の巣は一本の糸の太さが通常の何倍もある。これだけ太ければジェット機が真正面から突っ込んできても受け止められる。まして万全でないポケモンの攻撃などで貫けるはずも無い」
懸命に蜘蛛の巣へと突進を続けるイーブイへと上方から青いアリアドスが迫る。その口から吐き出した無数の糸がイーブイを絡めとった。それでイーブイの身体はいとも簡単に持ち上げられていく。イーブイは解こうともがくが、もがけばもがくほどに解けるどころか糸はより複雑に絡んでいく。
やがてイーブイは蜘蛛の巣の中心に縫い付けられた。アリアドスが吐き出す糸はまるで縄のようにイーブイの四肢を縛り付ける。地上から引き離された時点で四足のポケモンは戦闘能力を失う。まして足を奪われては太刀打ちが出来ない。
動けないイーブイに青いアリアドスがゆっくりと口元の牙を蠢かせて近づく。そして口元をイーブイの首筋へと寄せていく。イーブイは抵抗しようと小さな犬歯を突き出して必死に噛み付こうとするが、身体を押さえつけられているためにうまく動けない。それに対して青いアリアドスは蜘蛛の巣の上を自由自在に動ける。アリアドスは長い六本の足を巧みに使って、イーブイの身体を固定し、その首筋に牙を突き立てた。
その痛みにイーブイが顔をしかめる。しかしアリアドスはなおも深く牙を首に入り込ませる。その牙の表面に僅かに入った溝のような窪みに紫色の液体が流れ、それは牙を伝ってイーブイの体内へと入っていく。それが完全に流れ込んだことを確認してアリアドスは牙を離した。
途端、先ほどまで噛み付かれていた箇所が紫色に腫れ上がる。それを見たシリュウがにやりと笑みを浮かべた。
「……何だ? 一体何をした!」
リョウが叫ぶと、シリュウは落ち着いた様子で答えた。
「なに、少し毒を入れさせてもらっただけだ。ただし、単なる毒ではない。アリアドスが生成する特別な神経毒だ」
そう言った後、シリュウは指を鳴らした。するとアリアドスはイーブイに絡まった糸を解き始めた。リョウはそれを信じられないような目で見つめた。自ら拘束しておきながら解放するとは一体どういうことなのか。そう考えている間に蜘蛛の糸は外れ、イーブイは地面に落ちた。イーブイは息を荒くさせて、ふらつく足取りでリョウへとゆっくりと歩いてゆく。リョウはイーブイへと駆け寄った。
「大丈夫か? イーブイ」
その時である。イーブイが顔を上げた。リョウはそれを見た瞬間、足を止めた。イーブイの目は主人を見るような目をしていなかった。まるで敵を見つめるような鋭い獣の眼になっていた。
「どうしたんだ? イーブ――」
リョウが心配してそう言った瞬間、イーブイの姿が消失した。その刹那、腹に鉄球を食らったような衝撃を感じた。何が起こったのか、と思って腹を見る。するとイーブイが獣の眼をぎらつかせてそこにいた。それで自分はイーブイに突進されたのだと悟った。
突進の勢いで大きく飛ばされ、地面に身体が擦れた。リョウは咳き込むと同時に、わき腹が激しく痛むのを感じた。もしかしたら折れているのかもしれない。
イーブイはシリュウとアリアドスたちの前に立ち、リョウをまるで仇敵のように睥睨する。
その様子を見て、シリュウが高笑いを上げた。
「どうだ。これこそがアリアドスの神経毒の効果だ。一瞬で脳にまで周った毒は状況把握能力を低下させ、視覚、聴覚、触覚などの感覚器を麻痺させる。今のイーブイには主人も敵も無い。毒を注入したアリアドスと私以外は全て敵に見えるだろう。そして自動的に技の指示を受けたと認識して戦う。ほら、そうやって倒れている暇があるのか?」
その言葉と同時にイーブイの姿が掻き消えた。それにリョウが気づいた瞬間、またも身体を巨大な衝撃が弄った。大きく飛ばされ、背中を地面に強打する。脳を揺さぶられたような感覚に思わず気を失いそうになる。それに耐えて状況把握に努めようとしたが、それと同時に喉の奥からせりあがる熱を感じ、その場に吐いた。吐しゃ物には赤い血が混じっていた。
イーブイは再びシリュウの前に戻っていた。自分が戦わせるときと同じだ。敵を排除した後、再び元の位置に戻る。そうすることで敵をかく乱し、さらに元の位置に戻ることで正確な命令伝達が行え、素早く次に攻撃に移ることができる。
つまり今のイーブイは完全な戦闘状態にある。そして敵はトレーナーであるリョウ自身だ。
イーブイが再び攻撃に移ろうと僅かに身を屈める。リョウはその動作に反射的に腰のモンスターボールへと手を伸ばした。しかしボールを掴みかけてはたとその手を止めた。先ほどのフシギダネとの戦闘で自分にはもう使える手持ちがいない。だというのにこの状況でボールを掴んでどうしようというのか。その考えに動けないでいると、イーブイの姿がまたも視界から消える。そして次の瞬間には引き裂くような激痛とともに視界が二転三転し、地面に叩きつけられた。背筋を貫くような鈍痛に、頭の芯に電流が走ったような感覚に陥る。
痛みとともに鉄さび臭い熱が鼻腔の奥に充満する。咳き込むと赤い血が地面に落ちた。口元を手の甲で拭うと引きつった赤がべっとりとついていた。
このままではまずい。そう思って立ち上がろうとするが膝が上がらない。痛みで身体が思うように動かない。
揺れる視界の中心にまたもイーブイが現われる。だがそのイーブイの様子は先ほどまでと異なっていた。首筋の紫色の腫れが酷くなり、身体中がまるであざの様に紫色に変色し所々腫れ上がっていた。その腫れのせいか、イーブイもふらふらとおぼつかない足取りになっている。ただ立っているだけなのに、今にも倒れそうな危うさがある。
その様子を見てシリュウが予定通りだといわんばかりの笑みを浮かべて口を開いた。
「ようやく毒が周ってきたようだな。まぁ、あれだけ激しく動き回れば、その分満遍なく身体中を渡りきっただろう」
「……なん、だと? 何を、言っている?」
リョウが痛みを堪えながら搾り出したような声で尋ねた。それに対してシリュウは笑みをより一層浮かべながら答える。
「アリアドスの神経毒は相手から正常な判断を奪うだけではない。相手が動けば動くほどにその毒は身体中を侵していき、最後には死に至る。相手を操れ、なおかつ確実に仕留めることのできる高尚な毒だということだ」
その言葉にリョウは慄然とした。つまりこのままでは自分もイーブイも死は免れないということだ。
イーブイが再び姿勢を低くする。次の攻撃をまともに受ければもう目を開けていられる自信が無かった。この状況を打破するにはやはり手持ちで対抗するしかない。リョウは満身創痍の中、腰のボールへと手を伸ばす。しかし、どれを繰り出せばいいというのか。手持ち三体のうち二体は重傷を負っている。もう一体は今自分を殺そうとしている。リョウは手でモンスターボールの表面に触れる。オオスバメはまだ使えない。そのまま指を滑らせ、隣のボールに触れる。マルマインも同じだ。出してもまともな戦闘にはならない。
奥にいるシリュウがまるで余興を楽しむような目でイーブイとリョウを見ている。全て自分の思い通りに進んでいるという愉悦の笑みがシリュウの口元に浮かぶ。
「そろそろイーブイは動けなくなる頃だろう。君もその状態では次の攻撃がお互いにとって最後になる。中々皮肉な話じゃないか。自分のポケモンによって殺され、そのポケモンは主人の後を追うように死んでいく。考えようによっては感動的だな」
「ざけんな。……てめぇの、思い通りになんて――」
リョウは腕で身体を支えながら立ち上がろうと必死に力を込めるが、痛みと疲労でとてもではないが立ち上がることなどできずにまた地面に倒れ伏した。
その時、ふとポケットの中に何か固いものが入っていることに気づいた。リョウは指先でポケットの中のものに触れる。それは球体だった。もしやと思い、それを掴んで取り出す。
それはモンスターボールだった。中に入っているのも何の状態異常も受けていないポケモンだ。
イーブイが体勢を低くし、脚に力を込める。その身体は紫色に変色し、眼の色も濁っている。
この状況を切り抜けイーブイを助け出すにはこのボールに入っているポケモンに頼るしかなかった。先ほど捕まえたばかりでこのポケモンが持つ癖も戦闘時の能力も全く未知数だったが、イーブイを救い、シリュウを倒し、そしてルイを助けるためにはこれしか方法が無い。
リョウはそのボールを前に突き出して、緊急射出ボタンに指をかけ叫んだ。
「――いけっ! フシギダネ!」
その叫びとともにボタンを押す。その瞬間、掌の中でボールが二つに割れ中から光に包まれた物体が飛び出した。その光にイーブイが一瞬たじろぐ。その物体は身に纏った光を振り払いながら、その身から二本の蔓を伸ばす。その蔓はイーブイへと絡みつき、動きを封じた。その瞬間、光が解け物体の姿が露となった。
それは種子を背負った蛙のような姿をしたポケモンだった。そしてリョウの兄がかつて旅の最初の仲間として選んだポケモンでもある。そのポケモンの名をリョウは再び呼んだ。
「フシギダネ。さっき捕まえたばっかりでお前は俺のことなんか全く分からないかもしれない。もしかしたら恨んですらいるかもしれない。せっかく野生に帰ろうとしていたところを邪魔したんだからな。だけど――」
リョウは苦しげに息を荒らげながら顔を上げ、フシギダネを見据えて言った。
「俺には救わなきゃいけない人がいる。俺のせいで、自由を奪われようとしているんだ。そいつを助けるためなら恨まれようが殺されようが構わない。だから、今だけでいい。俺の指示に従ってくれ」
それは純粋な願いだった。ルイを救わなければならない。自分が傷つけた少女を、闇に飲まれる前に助け出さなければならない。そしてその手を差し伸べられるのは今、ここにいる自分だけだ。
その時、フシギダネの身体からもう一本蔓が伸びてきて、それをリョウの前に垂らした。リョウはそれを掴み、身体を支えるようにして、ふらつきながら立ち上がる。フシギダネが強く鳴き声を上げる。それを肯定と受け取ってリョウは頷いた。
「ありがとう。だが、まずはイーブイを助けなきゃならない」
イーブイは蔓の鞭に絡めとられて動けないでいるが、その身体はもう限界を迎えているように見えた。むしろ鞭で支えられているおかげでかろうじて立っているようにも見える。
それを見てシリュウが俄かに笑い始めた。
「まさかまだ手持ちのポケモンがあったとはな。だが、少し遅かったようだ。もはやイーブイは助からない」
「――いや、まだだ」
リョウが僅かによろめきながら正面を睨んで言った。その目はまだ諦めていない。強い意志を宿した眼差しだった。
「まだ方法がある。フシギダネ!」
その言葉にフシギダネが首を僅かに下げて頷く。それと同時にフシギダネの身体が緑色に発光し始めた。シリュウがそれに驚いていると、フシギダネの身体から蛍のような小さな緑色の光が放出され始めた。それは空中を漂いながら、蔓の鞭で押さえつけられているイーブイへと向かっていき、そしてイーブイの身体へと吸い込まれていく。すると反対にイーブイからも紫色の光が放出され、それはゆっくりとフシギダネのほうへと運ばれていき、その身体に吸収された。それが交互に行われ、イーブイへと緑色の光が、フシギダネへと紫色の光が集束していく。辺りにその光が放射され、暗く沈んだ森の中を紫と緑の光が彩っていく。
その様子にシリュウがうめくような叫びを上げた。
「なんだ、これは! 一体どうなっている!」
「これはやどりぎの種の力を応用したものだ」
シリュウの言葉にリョウは静かに応えた。その言葉で確かにイーブイは前足を負傷していたことを思い出した。あそこにまだ種子の弾丸が残っており、その種子を媒介にしてこの状況を作り出しているのだ。
「……やどりぎの種、だと。あれは相手の体力を奪う技ではなかったのか?」
「確かにそうだ。やどりぎの種は相手の体力を奪う技。しかし、奪うのならば与えることも可能なはずだと俺は思った。そして今、実行している」
シリュウは紫と緑の光が漂う光景を見つめて驚愕に目を見開いた。なんとイーブイの全身を覆っていた紫色の腫れが引いてきているのだ。そればかりではなく、先ほどまで死に掛けていたイーブイの身体が活力を取り戻したように緑色に光り輝いている。
「俺はもうひとつの可能性にも気づいた。奪う能力を活用すれば、もしかしたら毒だけを奪うことも出来るのではないかと思ったんだ。それが可能ならば、イーブイは救える。そして、また戦うこともできる」
イーブイが身にまとった光が一際大きくなっていく。その緑色の光はイーブイの身体を覆い、身体の内部へと浸透していく。
「イーブイは遺伝子が不安定なポケモンらしい。周囲の状況や身体の内部環境が変わればすぐに突然変異を起こす。と、これは博士の受け売りだけどな」
リョウがそう言うと同時にイーブイを包み込んでいた光がガラスの割れるように弾けた。そしてその姿が露になった。
闇に浮かび上がったその身体は淡いクリーム色をしていた。四肢はより戦闘に特化したすらりとしたものとなり、首の襟巻きのような体毛がなくなっていた。耳や尻尾が細長くなり、その端には葉っぱのような切れ込みがあった。さらにその姿は哺乳類のようでありながら、身体の至ることころに葉脈のようなものが透けて見える。よく見れば体毛と見えたものも、細かい葉っぱであり、まるで哺乳類を模した葉の獣のようであった。額には一際大きな葉っぱの形状をした緑色の毛があり、それの先端が垂れている。その葉の獣は木枯らしのような音を出して身震いしたかと思うと、振り返り栗色の瞳でアリアドスとシリュウを睨みつけた。その眼はすでに獣の光を宿していた。
「――リーフィア、だと……」
シリュウは思わず呟いた。
イーブイは幾つもの姿に進化する極めて特殊なポケモンである。遺伝子の形質が不安定なためであるが、あらゆる環境に対応できる可能性を秘めたポケモンでもある。その進化は大きく分けて石を使った進化と、体外環境による進化の二通りある。石を使ったものは、炎の石による進化であるブースター、水の石による進化であるシャワーズ、雷の石を使った進化であるサンダースの三種類だ。環境によって進化するものでは、昼の太陽の光によって進化するエーフィ、月の光を浴びたことによって進化するブラッキー、極寒の地に対応するために進化するグレイシア、そして、森林地帯での特殊な環境下で進化するもう一種類。それが今、目の前に立つポケモンであった。
その名はリーフィア。草タイプの属性を持つ、イーブイの進化系である。
「……草タイプであるフシギダネの生態エネルギーを吸収したことによって体内の遺伝子が変異を起こしたのか。だが、その程度で私のアリアドスに勝てると思っているのか?」
アリアドス二体が獲物を咀嚼するときのように口元の牙を動かしながら並んだ。それを見たリョウはアリアドスとシリュウを真っ直ぐに見据え、フシギダネの蔓を強く掴んで言った。
「リーフィア、フシギダネ。頼むぞ」
主の言葉にリーフィアとフシギダネは頷く。
その瞬間、青いほうのアリアドスの姿が隣接する木々の中へと姿を消した。リョウはその姿を目で追おうとしたが、全ての木から同じような葉の擦れる音が聞こえるだけでその位置を明確に把握できない。
「青いアリアドスは静≠司る姿。一度紛れてしまえば探すことなど出来まい。加えて四方を木に囲まれている森の中ではどこから攻撃するのかも分かるはずがない」
木々がざわめく音が周囲を包み込む。このざわめきの中にアリアドスがいると分かっていても、リョウのポケモンたちは迂闊には動けない。
そこに畳み掛けるように、シリュウが叫ぶ。
「その場でじっとしていいのか? こちらはどこからでも攻撃を仕掛けられるぞ! そう、たとえば、君たちの真上からでも」
シリュウの言葉にリョウは上を見上げる。その刹那、青いアリアドスが木々を揺らして真っ逆さまに飛び掛ってきた。リョウは倒れ込むようにして横に飛んでそれを避ける。それと同時にアリアドスの牙が先ほどまでリョウの頭があった空間に噛み付いた。だが、目標を食らえなかったと知ったアリアドスは不満げに牙を激しく動かしながら、蜘蛛の糸を伝ってまた木の中へと消えていく。
リョウは蔓の鞭に掴まりながら立ち上がる。しかしこうして突っ立っていてはまたいつ攻撃されるか分かったものではない。アリアドスは依然、木の中に隠れており容易には見つけられない。しかし自分が気づいてからポケモンたちに指示を出したのでは遅すぎる。
――どうするか?
リョウは自分に問いかけた。しかし名案などそう簡単に浮かぶものではない。犠牲を最低限に止め、なおかつ相手を確実に仕留める技などリーフィアもフシギダネも持ち合わせてはいない。まともに戦えば恐らくどちらかを失うことになる。
ならば、とリョウはリーフィアとフシギダネを見つめた。それに二体が気づいたのを見てから、リョウは口元だけを動かして指示を与える。それに対し、リーフィアは若干躊躇するように視線を泳がせていたが、リョウがそれしかないと強く見つめると頷いた。
リョウはそれを確認すると、フシギダネの鞭を手放した。それによってリョウの身体は支えを失い、先ほどまで僅かな気力で立てていた足は当然のように力をなくし、地面へと膝を落とした。その瞬間をシリュウは好機と取った。
恐らく力尽きて倒れたのだ。そして今こそ、アリアドスで攻撃するチャンスであると。
それを予測したように木々の葉が激しく擦れ、アリアドスがリョウの真上から飛び掛ってきた。その牙は血肉に飢えたように激しく獰猛に蠢く。
その牙がリョウにかかろうとした、その時である。
ぞくりとするような鋭敏な冷気がアリアドスの身体を一瞬、突き抜けた。
突然訪れたその感覚に、アリアドスははたと立ち止まると同時に、なぜか牙がうまく動かせなくなっていることに気づいた。その次になぜ視界が半分に断ち切れているのかということに疑問を抱いた。眼球を動かしてみると、先ほどまで自分に気づいていなかったリーフィアがなぜか自分を見ている。そしてそのリーフィアの姿が先ほどまでと少し異なっていることにも気づいた。
額に生えた葉っぱのような毛が先ほどまでよりもピンと立っており、額から刃が生えているかのようだった。その刃のような葉っぱの表面を緑色の液体が濡らしており、月光がそれに反射して表面が照り輝いている。それが自分の血だと気づいた瞬間、半分になったアリアドスの身体は地面に落ちた。そこから大量の血液が噴き出し、地面を濡らしリョウの身体を汚していく。リョウはその血の臭いに不快感を示すように顔をしかめながらフシギダネの鞭に掴まり再び立ち上がった。
シリュウは現実を見てもそれを理解できないような顔で呆然と突っ立っていたが、やっと自分のアリアドスが半分に断ち割られたことが分かったのか、目を戦慄かせながら言った。
「なんだ? 一体、何をした」
その言葉にリョウが応えず無言を貫いていると、シリュウは苛立ったようにぴくぴくと頬の筋肉を痙攣させながら叫んだ。
「何をしたと、聞いているんだ! このガキが!」
リョウはその声でやっとシリュウに気づいたような態度で言った。
「何をしたも何も、単なる攻撃だ。アリアドスが現われてからリーフィアたちに指示を出しても間に合わない。だから、俺自身が囮になってアリアドスをおびき寄せ、そこでリーフィアかフシギダネに攻撃させる。一か八かだったがうまくいったようだな」
そう言ってリョウは自分の手にこべり付いた緑色の血をさも汚そうに服でふき取った。
シリュウはリョウの言葉を聞いて愕然とした。ポケモン同士の戦いにおいてトレーナーは本来傷つくことはない。そのことがポケモンバトルとは安全なものだと世の中に知れ渡っている理由でもある。だというのにリョウは自ら囮として傷つくことを選んだ。失敗すれば死ぬかもしれない賭けに自ら乗り、そして勝利した。それは本来考え付かないことだ。ポケモンに任せている限り傷つかない、決して危険に晒されないはずの戦いで勝利のためとはいえポケモンよりも自分を軽んじる。その姿勢にシリュウは薄ら寒いものを感じた。
まるで自分とは決定的に違うものと戦っているような、化け物を相手にしているような感覚だ。
「――あ、ありえん。こんな」
シリュウはリョウを指差し叫ぶ。
「こんなガキが、私より強いなど、優れているなど! そんなこと、あってたまるか!」
刹那、赤紫のアリアドスが地面を蹴り、疾走した。六本もの脚を自在に動かし、ジグザグに動きながら目にも留まらぬ速度で駆ける。リョウはそれを見てため息をつきながら、いかにも面倒くさそうにして言った。
「だから前にも言ったろうが」
向かってくるアリアドスを指差し、低い声で呟く。
「――遅ぇんだよ。馬鹿が」
その瞬間、リーフィアの姿が掻き消えた。それとほぼ同時にアリアドスの六本の脚が付け根から外れて宙へと飛んだ。それはまさに一瞬の出来事だった。脚を失ったアリアドスはその速度のまま地面を滑る。
リーフィアは既にアリアドスの後ろにいた。額の葉っぱが角のようにピンと立ち、僅かに反り返って刃のようになっている。
「……リーフ、ブレード」
シリュウがそれを見て呟いた。「リーフブレード」とは、限られた草タイプのポケモンのみが覚える、草属性の物理攻撃である。その攻撃力と命中性能は草タイプの中でも群を抜くものだ。加えてリョウのリーフィアの使う「リーフブレード」は他と大きく異なる点があった。
「ただのリーフブレードじゃない。イーブイのときから使っていた神速とあわせたもんだ。神速は使用時、一瞬だけ空気の壁を破ることが出来る。真空状態とか言うらしいが。その瞬間に、切り裂くことによって抵抗を減らし、本来の切れ味で相手を切り裂ける。……まぁ、こんなことを言っても、お前には見えなかっただろうが」
そう言ってシリュウのほうを見つめた。シリュウはまだ身体を僅かに動かすアリアドスを見つめている。しかし脚が根元から切り裂かれているために、姿勢をまともに制御できていない。
リョウはリーフィアを呼び寄せた。これ以上戦う必要はない。そう思ってリーフィアをボールに戻す。そしてフシギダネもボールに戻そうとしたその時、シリュウが口を開いた。
「……まだだ。まだ私は負けていない」
それは低く呟くようなかすかな声だった。リョウはその声に言葉を返す。
「よせ。お前の負けだ。もうアリアドスは戦えない」
言ってアリアドス二体に目をやった。片方は身体を縦半分に断ち割られている。戦闘復帰など不可能だ。もう一体は致命的な攻撃を受けていないものの、脚をやられていては高速で動くことなど出来ないだろう。
だが、シリュウは負けを認めるような言葉は吐かなかった。
「違う。私はロケット団の幹部だぞ。この程度の戦闘で敗北を喫するなど、ありえん。どう考えてもありえない。いや、あってたまるものか!」
その叫びに脚を失ったアリアドスが呼応するように強く吼えた。その声にリョウがそちらを見ると、アリアドスは突然口から細い糸を吐き出した。その糸は木の枝に絡まり、ピンと張るとアリアドスの身体はその糸によって持ち上がった。その木の枝で大車輪でもするように、一回転すると、アリアドスの身体は宙に踊りあがった。そのまま真っ直ぐに落ちてくる。その落下地点にはちょうどフシギダネがいた。アリアドスは牙を突き出し、フシギダネへと真っ逆さまに落ちてくる。
「フシギダネ、受け止めろ!」
その声でフシギダネは蔓の鞭を繰り出し、アリアドスの身体に絡ませ空中で受け止めた。しかしアリアドスは身体を高速回転させて、自らの身体に蔓の鞭を巻きつけフシギダネへと迫ってくる。
「そのまま毒の牙で噛みつけ!」
シリュウが叫ぶ。アリアドスの口が大きく開き、紫色の液体を纏った牙が輝く。
「させるか! フシギダネ」
フシギダネはアリアドスの回転に拍車をかけるように蔓の鞭を巻き取り、アリアドスを自分のほうに引き寄せる。フシギダネの背中の種子が大きく膨れ上がる。その種子の内部が禍々しい紫色に光る。それが破裂寸前まで巨大になった瞬間、リョウは叫んだ。
「毒ならこちらからくれてやる! フシギダネ、毒の粉!」
その言葉で膨張した種子は爆発のような音とともに一挙に弾けた。それによってフシギダネの周囲にばら撒かれた紫色の粉が、月光を受けてきらきらと輝き落ちていく。それをアリアドスは一身に受けた。その途端、アリアドスの動きが止まった。口を大きく開いたまま、硬直したように動かなくなった。それをフシギダネはシリュウのほうへと放り投げた。
アリアドスの身体はシリュウの真正面に落ちる。口を開いたまま、宙に視線を固定して微動だにしない。死んでいるのか、と思いシリュウが近づくと、アリアドスの眼が動きシリュウの姿を捉えた。そして次の瞬間、唐突に牙をむいて主であるはずのシリュウに襲い掛かった。
シリュウがアリアドスを止めようと手で制するが、アリアドスはその手に何の躊躇も無く噛み付いた。シリュウは叫び声を上げながら、アリアドスの牙に貫かれている手を見つめた。牙が貫いた箇所は紫色にはれ上がり、血管の浮き出した手の甲が徐々に紫色に侵食されていく。
「な、なんだこれは! 一体?」
「別に驚くことじゃない。さっき吸収したイーブイの毒をそっくりそのままお前に返してやっただけだ。フシギダネの体内にたまっていた神経毒は全てお前のアリアドスが浴びた。こうなったポケモンとトレーナーの末路はお前がよく知っているんだろ?」
言ってリョウはフシギダネの蔓の鞭に掴まりながら歩き出した。そしてそのままシリュウの横を通り抜けようとする。その時、シリュウが噛み付かれていないほうの手を差し出して叫んだ。
「助けてくれ! このままでは、し、死んでしまう!」
恐怖に慄いた瞳でシリュウは懇願した。しかしリョウはその目を冷たく見返して言った。
「中々皮肉なもんだな。自分のポケモンによって殺され、その後ポケモンが後を追うように死んでいく。考え方によっちゃあ感動的、だよな」
リョウはシリュウから視線を外し森の中へと進んだ。その背へとシリュウが呪いの言葉を吐きかける。リョウは一度も振り返ることなく、闇色に染まった森の奥へと歩を進めた。