第四章 八節「影追い」
その日の午後は森の中に強い日差しが降り注いでいた。
高い木々の葉に光が反射し、地表へはまるで虫食い穴のような陽射しが落ちてきていた。直接降ってくる陽光は少ないが、それでも樹海特有の肌に絡み付いてくるような熱気は感じられた。
その熱気の中をリョウは駆けていた。いや、正確にはリョウだけではない。隣にはリョウのポケモンであるイーブイが並んで走っていた。
リョウは走りながらイーブイに指示を出した。
「高速移動を使え、イーブイ。先回りして挟み撃ちをかける」
その言葉にイーブイは首肯し、次の瞬間、目にも留まらぬ速度で、根が顔を出し草木が生い茂る地表を疾走した。
リョウはそのまま同じ速度で目の前の相手を追い続けた。それはリョウが捕獲を任されたポケモンであり、そして兄が持っていたのと同じポケモンだ。リョウは先ほどからその後姿を追いながら、もしかしたらという淡い期待を抱いていた。博士は、可能性は少ないと言っていた。だが完全に否定されたわけではない。すぐに兄に繋がる手がかりであると考えるのは、もちろん単純過ぎるとリョウも考えていた。
だが、全くの偶然であろうか。捜し求めた兄の、持っていたポケモンと同じポケモンを今自分が追っている。
こうして走って、後姿にずっと追いすがっていると、まるで兄自身が自分から逃げていて、それを追っているような気分になってきていた。
その時、急に景色が開けた。
開けた景色の中心に見えたのは大樹だった。幾つもの根がその樹の中腹辺りから伸びており、まるでこの樹海全ての木がこの大樹に繋がっているような気になってくる。その大樹の根元で、追っていたポケモンが立ち止まった。そのポケモンの目の前にリョウのイーブイが立ち塞がっていた。
リョウは追っていたポケモンを見据える。それと同時にそのポケモンもリョウのほうを見た。
そのポケモンは緑色の蛙のような姿をしていた。大きさはちょうどリョウの膝元ぐらいまであり、その背には巨大な植物の種子を背負っていた。カントー地方で旅に出るトレーナーが最初に貰うポケモンの一体であり、リョウの兄が選び旅をともにした相棒もこのポケモンと同じ姿をしていた。
それこそがリョウの追っていたポケモン、フシギダネだった。
フシギダネは退路がないことが分かると、イーブイのほうへと向きかえりそのまま睨み合った。その様子を見ながらリョウは僅かに上を見上げた。そこにはリョウのオオスバメが翼をはためかせて待機していた。
イーブイならばフシギダネ程度には遅れを取らないことが分かっていたが、万全を期すためにオオスバメを上空に配備しているのだ。それはかつて兄が使っていたポケモンと同じだからということで僅かに警戒していた気持ちもあったからである。
イーブイとフシギダネはしばし一歩も譲らず睨み合っていたが、その膠着状態を解いたのは、フシギダネが先であった。
背中の種子と生身の部分の境目から、二本の緑色のツルが出現しそれをフシギダネは高く伸ばして、撓らせた。そして次の瞬間、撓ったツルは空気を割る音とともに鞭のようにイーブイへと叩きつけられた。これが草タイプのオーソドックスな物理技、「ツルのむち」である。 だが、放たれた鞭の一撃はむなしく宙をうがった。それはイーブイの反応のほうが早かったせいである。イーブイは素早くステップし、横に跳んだ。それをフシギダネの鞭が追撃する。だがイーブイはリョウの指示を受けるまでも無く、その攻撃を難なく避けていく。素早さが持ち味のリョウのイーブイにとって、対象が動かずに繰り出す物理技の軌道などすぐに読める。
イーブイは放たれる攻撃を全て避け、フシギダネへと肉迫した。そしてイーブイが間合いに入った瞬間、リョウは叫んだ。
「イーブイ、突進だ」
その言葉でイーブイはフシギダネ目掛けて、頭部を突き出して突進する。だが、その攻撃もまた何も捉えずにむなしく通り過ぎた。一瞬、イーブイにはそれが理解できなかった。確実に命中する間合いに入り、全てのツルの鞭を避けたのに、何故という思いがあった。だが、傍から見ていたリョウにはそれが分かった。
フシギダネは確実にイーブイの攻撃を回避できる位置にいた。それは攻撃の当たる瞬間に、一気に後退しただとかそういうことではない。
フシギダネはツルの鞭をまるで足のように使って自身の身体を浮かし、さらに周囲の木々にツルを伸ばすことで完全に宙に浮いていた。つまり、イーブイの突進を、フシギダネは跨いで避けたのである。それにイーブイが気がつくのは多少、遅過ぎた。
フシギダネは上を取り、さらに種子に天上から降り注ぐ陽光を溜め込んでいた。そこから放たれるものが何なのかリョウには分かった。草タイプのポケモンが太陽光を吸収し、収束させて放つ技、「ソーラービーム」が来ることは容易に想像できた。
それを真上からまともにくらえばいくらイーブイとて勝ち目は無い。
そう思った瞬間リョウは天上を見て叫んでいた。
「オオスバメ! 急降下して翼で打て!」
その声に、上空で待機していたオオスバメが翼で風を切りながら一直線に降りてくる。それにフシギダネも気づいたのか、そちらへと視線を向ける。その隙をリョウは見逃さなかった。
「イーブイ、真上のフシギダネに向けて突進しろ!」
その声でイーブイも反応して、フシギダネに向けて飛び掛った。これで挟み撃ちの状況である。ソーラービームをどちらかに撃とうとすれば、どちらかの攻撃をもろに受けることとなり、どちらにせよダメージは受ける。
リョウはそこで勝ちを確信した。
だが、フシギダネはどちらも避けようとはしなかった。その代わりに身体を震わせ、体表から何かを落とした。緩やかに空気にぶつかってカーブを描きながら落下するその小さな物体を、リョウは注視した。
それは小さな数枚の葉っぱだった。それを見た瞬間、リョウは焦って叫んだ。
「ダメだ。逃げろ、イーブイ!」
その言葉を言い切る前に、その葉っぱに変化が訪れた。緩やかに落ちていた葉っぱが急に意思を持ったように、不規則に動きそれらは突進をしようとしていたイーブイに一斉に襲い掛かった。
それと同時に、フシギダネは真っ直ぐに降りてくるオオスバメへと種子を向け、そして溜め込んだ光の砲を放った。
オオスバメは予想以上に溜め込まれていたソーラービームをギリギリで避けようと翼の角度を変えようとした。だが、その時になって何故か身体が動かないことに気づいた。不可思議に思って翼を見ると、フシギダネの身体から再度伸ばされたツルの鞭がいつの間にか翼の付け根に絡まっており身動きが取れない。オオスバメが危機感を感じて、正面に視点を戻した瞬間、ソーラービームの光は目の前にあった。
オオスバメは叫んだが、その叫びをかき消すように強烈な光が視界を覆っていき、オオスバメの姿は光の向こうへと消えていく。
「オオスバメっ!」
ソーラービームが景色に吸い込まれるように細くなっていき、消失した後に全身が黒く焼け焦げた小さな影がゆっくりと降りてきた。それはオオスバメであった。リョウは急いでオオスバメへとモンスターボールの中心を向ける。ボールから放たれた赤い一筋の光がオオスバメに当たったかと思うと、オオスバメは赤い光に覆われ、粒子となってボールへと吸い込まれていった。
これでオオスバメのダメージはこれ以上進行することはない。だが、あれほどの傷を受ければ、命に関わらないとも言い切れない。一刻も早く決着をつけ、ポケモンセンターに運ばなければならない。
リョウはフシギダネを見据えた。フシギダネはツルの鞭を仕舞い、イーブイと向き合っていた。イーブイはフシギダネの放った「はっぱカッター」のダメージを受けながらも懸命に立ち上がっていた。
しかし、その身には生々しい切り傷があり、血が流れている。恐らく、長期戦は望めないだろう。
フシギダネはイーブイへと種子の頭を向ける。どうやらこの一撃で終わらせるつもりのようだ。だが、捕らえに来たこちら側がやられるわけにはいかない。
リョウはベルトにつけられたあと一個のボールへと手を伸ばした。そして、そのボールを振りかぶってフシギダネとイーブイの間に投げ、叫んだ。
「いけ、マルマイン!」
その叫びとともに、ボールが割れ中から光に包まれた球体が飛び出した。それはイーブイとフシギダネの間に割ってはいると、身体を回転させて光を振り払い、その姿を見せた。
それはまるでモンスターボールの形そのもののように見えた。モンスターボールと同じ、赤と白の体色。違うのは、モンスターボールは上が赤で下が白なのに対し、出てきたポケモンは上が白で下が赤だった。さらに、モンスターボールのように中心に機械的な突起があるわけではなく、上半分の部分に人のような目鼻があり、下半分に口があった。その口元が、僅かにニヒルな笑みを浮かべる。
このポケモンこそがリョウの手持ちの三番目のポケモン、電気タイプのマルマインであった。
フシギダネが種子の頭をマルマインに向ける。その時、リョウが叫んだ。
「マルマイン、煙幕だ」
その言葉でマルマインは身体を高速回転させ始める。すると、赤と白の継ぎ目の部分から黒煙が一気に噴射し、イーブイとフシギダネの視界を遮った。リョウはこの「えんまく」を展開している間に、イーブイを後ろから回りこませるつもりであった。
フシギダネはその黒煙の中で先ほどまでイーブイとマルマインがいた位置に向けて、種子を向ける。ゆっくりと種子の皮を開くと、中にはぎっしりと緑色の種が詰め込まれていた。フシギダネはその種を目標がいるであろう位置に向け、一斉に放射した。種はまるで弾丸のように飛び、黒煙を貫いて辺りに突き刺さった。その弾丸とともに、何かが煙幕を飛び出してきた。リョウが目を向けると、それはマルマインであった。白い部分に種の弾丸を受けている。その弾丸はマルマインに根を張り、まるで花のように開いた。そこから緑色の光が黒煙へと吸い込まれていく。
恐らく、弾丸のように種を飛ばした技は「たねマシンガン」だろう。そして今、種マシンガンによって命中した種子を触媒として、マルマインから生態エネルギーを吸い上げているのだ。この技をリョウは知っていた。確か「やどりぎのたね」という技だ。種を対象に植え付け、生態エネルギーを緑色の光に変換しそれを吸収することで徐々に対象の体力を奪っていく。このままではマルマインが危険であった。だが、これは同時にリョウにとっては好機であった。
リョウは叫んだ。
「イーブイ、その緑の光が集まっている場所にフシギダネがいる!」
その叫びでイーブイの身体が黒煙から飛び出してきた。そして煙の中にある緑色の光を注視する。イーブイは黒煙の中を漂う緑の光りが集まっていく方向を目で追い、黒煙の中心で一際輝く大きな緑の光を見つけるとともに駆け出した。その眼は既におとなしいイーブイのものではない。戦う獣の眼になっていた。
その気配に気づいたフシギダネが、イーブイが向かってくる方向へと種マシンガンを乱射する。しかし煙幕の中であるためか狙いが定まらず、一発もかすらない。イーブイの姿が目前に迫る。フシギダネはかくなる上はと種子を完全に開き、中の種を広範囲に弾き飛ばした。種の散弾である。その一発が、イーブイの前足に命中する。その痛みにイーブイは一瞬顔をしかめたが、フシギダネを視界から外すことはなかった。イーブイは次の瞬間、フシギダネに向けて全体重をかけ、突進した。
全くの無防備であったフシギダネは、防御もかなわずそれによって煙幕の外側へと放り出された。その背に向けて、リョウがボールを放り投げる。ボールがフシギダネに当たり二つに割れると、フシギダネは赤い粒子となってボールに吸い込まれた。
ボールが落下し、左右にふらふらと何度か揺れる。リョウが固唾を呑んでそれを見守っていると、やがて中心のボタンが光り完全に静止した。
それを拾い上げ、リョウはため息をひとつついて言った。
「回収完了。今回も面倒くさい奴だった」
歩きながらそのボールをポケットに入れ、イーブイたちに近づいていく。イーブイは前足に種子の弾丸を受けていたが、フシギダネを捕まえた今、問題はなさそうだった。摘出する必要はあるが、今でなくとも大丈夫だろう。葉っぱカッターで受けた傷も見かけよりはずっと浅い。それよりもマルマインのほうが問題であった。リョウはマルマインの頭に打ち込まれた種子を見つめる。種子が神経の深くに入り込んでおり、ポケモンセンターで緊急の手術を受ける必要がありそうだった。
「一気に手持ちが二体も減らされるとは。痛い損害だな」
言ってマルマインをボールに戻した。これ以上悪化することは無いとは言えど、早く処置をしなければ命にかかわる。
その時、後ろから呼ぶ声がしてリョウは振り返った。見るとルイが荷物を背負って歩いてきていた。
「リョウのばかっ! 一人で行っちゃわないでよ。おかげで荷物は全部ボクが持ってきたんだからねっ!」
言ってテントの入ったカバンを苛立たしげに下ろした。カバンは地面に着くとドンという重たい音を立てた。ルイがそのカバンに寄りかかりながら項垂れる。どうやら相当無理をさせてしまったらしい。リョウは少しばかり反省しながら、ルイに近寄った。
「悪かった。俺も今回はちょっと焦りすぎた。って――」
その時、リョウはあることに気づいてカバンに体重を預けたまま動かないルイの顔を見た。ルイは柔らかな睫のある瞳を閉じて、スヤスヤと寝息を立てていた。
リョウは少しルイの身体を揺さぶってみたが全く起きる気配は無い。反対側の空を見ると、もう日は落ちて夕暮れの朱の光が射しこんで来ていた。もう一度、ルイを見るともごもごと口元を動かして幸せそうな顔をして眠っている。
リョウはため息をついてカバンから野営の準備に必要な道具を取り出し始めた。どうやら樹海を出るのは明日になりそうであった。
鼻腔をくすぐるような芳しい香りが漂っているのを感じて、ルイは目を覚ました。
しかし目を覚ましたにも拘らず、辺りは真っ暗であった。朝食時にしては暗すぎる。ルイは早く起きすぎたかと思って、もう一度目を閉じようとした。すると、リョウの声が飛んできた。
「おい。もう夜だぞ。早く起きたらどうだ」
その声に閉ざしかけた瞼を持ち上げながら周囲を見渡すと、傍でリョウが仏頂面で座りながらこちらを見ていた。その手にはおたまが握られており、火にかけた鍋の中に入れながら回していた。芳しい香りはその鍋の中から運ばれてくるようで、ルイは蜜に吸い寄せられる虫のように、その鍋の中を覗き込んだ。そこには白い液体がホカホカとした湯気を出しながら、ゆっくりと鍋の中で揺らめいていた。所々に短冊切りにした赤い人参や、箱のような形に切られたジャガイモが浮かんでいる。それでルイはこの料理が何なのか分かった。
「シチューだね、リョウ」
目を輝かせながらルイが言うと、リョウはおたまを鍋の中で回しながら頷いた。
「ああ、当たり。といっても、具は昨日のカレーと同じだから、旨いという保障は無い」
「ボク、シチュー大好きだよ。だって、おいしいもん」
「お前は食えりゃ何でもいいんだろ。……って、おい。よだれ出てるぞ」
リョウが指差して注意すると、ルイは口元を拭いながら、むぅとうなった。
「失礼だよ、リョウ。女の子に向かって、よだれ出てるぞ、なんて」
「知らねぇよ。出てるモンはしかたねぇし、正直に言ってやったほうがそいつのためだろうが」
そう言うと、リョウはおたまの回転を止め、コンロの火を弱めた。
「――まぁ、んなことはさておき出来たぞ。今夜の晩飯の完成だ」
リョウはカバンから食器を取り出し、そこにシチューを入れてルイに手渡した。ルイはそれを手に持った瞬間、「熱い!」と喚いた。
「熱いのは当たり前だろうが。冷めたのが食いたきゃ、冷めるまで待ってろ」
リョウがそう言うと、ルイは横目でリョウを睨みながらまたもうなりながら言った。
「……リョウって本当に冷たい人だよね。なんていうか、一個一個の言葉が容赦ないって言うか、言われて欲しくないことばっかり言うし」
「知らん。生まれつきだ、そんなもん。それより、早く食え。割とうまいぞ」
リョウはルイの言葉など意に介さず、既に自分の椀のシチューを食べ始めていた。それに気づいたルイは椀を持ったまま叫んだ。
「あー! ずるいよ、リョウ。一人で勝手に食べ始めて」
「何だよ。食べたきゃ食べればいいだろうが」
「それが出来ないから、困っているんでしょ!」
そう言ってルイは椀に顔を寄せ、ふぅふぅと息を吹きかけ始めた。そうやって湯気を飛ばして冷まさないと食べられないのだろう。
「……猫舌め」
リョウが呟くように言うと、ルイは息を吹きかけるのを中断して首をかしげた。
「なにそれ。どういう意味?」
どうやら言葉の意味が分からなかったらしい。リョウは一瞬、考えたがすぐに馬鹿馬鹿しくなり椀に戻って適当に答えた。
「褒め言葉だよ」
それを聞いてルイはふうんと感心したような声を出してから、また椀に息を吹きかけた。
夕食を終えた後、リョウは眠る気にもなれずにしばらく焚き火を前にしてぼんやりと座っていた。焚き火を挟んだ向かい側にはルイが、火の動きを面白そうに眺めている。先ほどまでルイは眠っていたので恐らく寝る気にはなれないのであろう。
「ねぇ、リョウ」
ルイが話しかけてきたのでリョウは焚き火から視線を外してルイを見た。ルイの陶器のように白い肌が火の灯りで薄く光っているように見えた。
「どうしてリョウは旅をしているの?」
その質問はある意味、リョウの存在の根幹にかかわる質問だった。どうして旅をしているのか。リョウは一瞬、ルイにどう答えるか迷った。だが、結局当たり障りの無い答えをリョウは発した。
「捜しているものがあるからだ」
リョウが答えると、ルイは手をパチンと合わせて嬉しそうに言った。
「それじゃ、ボクとおんなじだね」
その言葉が一瞬理解できなくて、リョウはルイの目を見つめた。「どうしたの?」と赤い眼が告げる。その質問にリョウは、何でも無いと言いながら目をそらした。そういえば、家出少女だとルイは一度も言っていなかったのだ。それを勝手に決めつけていたのは自分だけだった。
「じゃあ、何を捜しているんだ?」
尋ねると、ルイは少し視線を落として考え込むようにうなった。
「何ていうのかな。人から聞いたものだから詳しくは分からないんだけど」
「何だ、そんな不確かなものを捜しているのか。もしかして名前も分からないってわけじゃないのだろうな?」
だとすればルイの捜しものは最初から見つかる望みが無い。そう思っていると、ルイは首を振った。どうやらさすがに名前程度は分かっているらしい。
「名前は分かるよ。ヘキサツール≠チていうの」
聞きなれない名前にリョウは首をかしげた。
「なんだ、それ? ツールっていうくらいだから、何かの道具か?」
「……たぶん、そうだと思うんだけど」
煮え切らない口調でルイは言った。その言い方に、リョウは疑問を挟む。
「思う、って。じゃあ、大きさとか、形は?」
その質問に、ルイが「このくらい」といって人差し指と親指の間に五センチにも満たない大きさを示した。
示されたあまりにも小さいそのサイズに、リョウは頭を掻きながら言った。
「そんなもん見つかるのかよ。どこにあるとか、当てはあって捜しているんだろうな?」
ルイは首を振った。どこにあるのかは分からない、そしてその大きさはとても小さい。これでは見つかる要素は限りなくゼロではないか。
「で、でも、このカイヘン地方にあるはずなのは確かなの。だからリニアトレインに乗ってここまで来たんだけど」
「リニアトレインに? 誰が?」
リョウが尋ねると、ルイが少し怒りながら「ボクに決まっているでしょ」と言った。
その言葉にリョウは少しばかり困惑した。わざわざリニアトレインに乗ってここまで来たということは金を多少持った家の生まれなのだろうか。だからロケット団に目をつけられていたのか。それとも、何か別の理由があるのだろうか。リョウは考えを幾重にもめぐらせたが、結局答えは出なかった。
「……何だか考えれば考えるほどわけが分からん。つまりお前はそのヘキサツールとやらを捜していて、そのために旅をしていると。そういうわけか」
ルイは頷いた。
「そういうこと。旅って言うほど大げさなものでもないけどね」
「なるほど。……だが、ひとつ疑問が残る」
リョウは指を一本立てて言った。
「そこまでして捜すそのヘキサツールって奴は一体何なんだ? 大きさから考えてたぶんそこらへんに落ちているモンでもなさそうだし。名前がハッキリとあるって事から考えて、どっかの企業が作った代物か、何かの研究の成果か。……その辺については分からないのか?」
リョウの質問にルイは口ごもるように「……えっと」といいながらしばらく俯いていたが、やがて首を振った。
「……分からない。詳しいことはぜんぜん聞かされてないから」
リョウはため息をついた。つまりルイはわけの分からないもののためにこのカイヘンまで来たということになる。
「そいつはまた、とんでもない捜し物だな。……まぁ、カイヘンにあるってことがわかっているなら、捜しようはあるかもしれないな」
その言葉にルイが身を乗り出してリョウに尋ねた。
「それ、ほんとう?」
「ああ」
リョウがそう言いながら火に新たな木材をくべる。
「カイヘンは広いって言っても、開発が進んでちゃんとした施設のある場所の数は多くない。そのヘキサツールって奴を、カイヘンの研究機関にあるデータとすり合わせれば、運がよけりゃ一発で見つかるかもしれないし、悪くても痕跡くらいは見つかるだろ」
「じゃあ、すぐに調べられるってこと?」
ルイの質問にリョウは頷いた。
「そうだな。ヒグチ博士に頼めば研究機関へのデータ照合ぐらいすぐに済ませてくれるだろ。このフシギダネを送り届けたらその時に頼んでやるよ。もし断られたとしても、俺も一緒に手伝えば何とかなるだろ」
その言葉にルイが意外そうな声を出した。
「えっ、リョウ。手伝ってくれるの?」
「ああ。大したことは出来ないけどな」
手伝うといっても自分には特別な力も無い。だがルイ一人に捜させるよりはましだろう。
ルイはリョウに向けて笑いかけた。
「ありがと。リョウ。でも、なんか悪いな。何もかもやってもらっているみたいで」
「気にすんな。こっちだって手伝ってもらっていることはある」
リョウが手を振りながら言うと、ルイは身を乗り出して尋ねてきた。
「えー、たとえばどんなこと?」
その質問にリョウは少しの間考えるように宙に視線をさまよわせた。そして迷ったようにして言った。
「……荷物運びとか、だな」
「ばか。それって雑用ってことでしょ」
頬を膨らませてルイが言った。その言葉に頷くと、軽く額にパンチを食らわされた。それからルイは笑った。リョウもそれにあわせて笑った。
そうしてまた真ん中の火に視線を注いでいると、ルイが出し抜けに尋ねてきた。
「――ねぇ。リョウは何を捜しているの?」
焚き火の中で木材が弾けて割れる音がした。
リョウはその木材を見つめたまま黙していた。その顔が覚えず険しくなっていく。それをルイは不思議そうに眺めている。
リョウは出来れば言いたくなかった。言ったところで変わるものでもない。理解されるものでもない。
しかしルイのことを根掘り葉掘り聞いた手前、全く話さないというわけにもいかない。リョウは慎重に言葉を選んで言った。
「……捜しているのは物じゃない。俺は人を捜しているんだ」
やっとのことで言ったその言葉にルイは感心したような声をあげた
「物じゃなくって人なんだ。だったら名前さえ分かっていれば探せるんじゃない? その人はなんて名前なの?」
その質問が放たれた瞬間、心臓を掴まれたような心地になった。名前を言えばどんな風に自分と関係があるかおのずと知れてしまう。
だがこの質問にも答えないわけにはいかなかった。
リョウは捜している人物の名前を言った。
その名を聞いたルイは首を傾げて自分の中で整理するようにゆっくりと言った。
「……えっと。その名前ってことは、その人はリョウの親戚さんか何かなの?」
リョウはその質問に首を振った。隠し切れない。ならばもう言うしかなかった。
「違う。兄なんだ」
「お兄さん?」
「ああ」
言って火に木材をくべた。火はさらに勢いを増し燃え上がる。その灯りが暗く翳ったリョウの顔を照らし出した。
「もう何年も会っていない。このカイヘンにいるのかも分からない。聞くのは噂だけ。それも根も葉もない、本当なのかどうか怪しいモンばっかりだ」
「たとえば、どんな?」
「言っても仕方ねぇよ。本当かどうか分からない言葉の羅列なんて。俺はそんな噂に会いたいわけじゃないのに」
そう言ってリョウは憎むような視線を火の中に投げた。火はまるでその憎しみを食らったように燃える。
二人の間に僅かな沈黙が落ちた。リョウはその沈黙に身を任せるように、何かを口に出そうとはしなかった。むしろここまで言ったのだから、もう聞かないでくれと言った風な空気を持ったまま黙していた。しかし、しばらくしてからルイが火を見つめながら静かに口を開いた。
「……でも、大丈夫だよ」
その言葉にリョウが顔を上げルイのほうを見た。ルイは明るい調子で続けた。
「きっと大丈夫。リョウのお兄さんは見つかるよ」
リョウはその言葉に脳髄の奥が軋むような、妙な感覚を覚えた。次第にその場所が熱を帯びていくのを感じる。
そんなリョウを尻目にルイは元気付けようとしてかさらに明るく言った。
「そうだ。さっきリョウが言ってくれたみたいにさ、二人で捜そうよ。ボクの捜し物と、リョウのお兄さん。一人なら大変でも二人なら。きっと大丈夫だよ」
ルイの言葉が響くたびに脳髄の奥の熱が増していくようだった。それは首筋を伝って頭を覆っていく。その熱は毒のようにリョウの頭の中を周り、正常な思考を奪っていくようだった。
「リョウがボクの捜し物を手伝ってくれるなら、ボクも手伝わないと不公平でしょ? そうやってこれからも旅をしようよ。きっと、協力すれば最後にはたどり着けるから。だから――」
「――やめろ」
リョウはルイの言葉を遮った。押し殺したような重くて低い声だった。ルイは火を挟んで見えるリョウの顔を見つめた。火のせいか、その顔は鬼のように見えた。
「お前に何が分かる」
リョウは俯いたまま、僅かにルイに視線を向けて言った。
「何も知らないくせに、適当なことを言って希望を持たせようとでもしているのか? そうして相手の苦しみを、悲しみを分かった気でいるのか? 安い同情を向けて、人を勝手に可哀想がって。……俺の苦しみがお前に知れるのか? 俺が話しただけで。分かるのか? 俺がどんな思いだったのかも」
リョウは立ち上がった。そしてルイを睨み、叫ぶようにして続けた。
「何も知らないくせに。勝手なことを言うな! 俺は、誰にも同情されたくなんか無いんだよ! 俺が捜し続けて、どうしても見つからなかった奴が、お前と一緒に旅をしたら見つかるって? そんなこと、あるわけが無いだろうが! いい加減な台詞で、俺の旅に口出しをするな! 勝手に人の事情に入ってくるな!」
リョウはもはや自分を見失っていた。言っていることも安定していない。自分で何を言っているのかすら分からなくなっていた。ただ頭の奥に溜まった熱をどんな言葉でもいいから吐き出さなければ、これまでの自分が持たなくなりそうだった。
そんなリョウにルイはなだめるように手を伸ばそうとしながら言った。
「……リョウ。でも、ボクは」
「お前がいたら余計に捜せないんだよ! 厄介ごとばっかり増やしやがって! 邪魔なんだよ、お前は!」
その言葉にルイの顔が硬直した。伸ばしかけていた手を力なく下ろし、わなわなと震える瞳でリョウを見つめた。ルイのその様子に、リョウはハッと我に帰った。それと同時に自分が言ってはならないことを言ったことに気づいた。しかしもう手遅れだった。
ルイはリョウを見つめたままにうわごとのように呟いた。
「……邪魔? ねぇ、リョウ。ボクは、邪魔なの? ……いらない、の?」
リョウを見つめる瞳が潤み、涙が頬を伝う。それを見てリョウは何かを言おうとしたが、今更何も言えない事に気づき、無言で俯いた。
その時、ルイが不意に立ち上がって背を向けて走り出した。リョウはその背に手を伸ばそうとするが、自分が傷つけておいて止めることが出来るのかとその手を躊躇した。そうして迷っている間にルイの姿が森の暗闇の中へと消えていった。
リョウはその暗闇を見つめながら力なくその場に腰を下ろし、額に手をやって呟いた。
「……何をやっているんだろうな、俺は」