ポケットモンスターHEXA











小説トップ
リョウ編
ReverseW


 どれほどの時間が経ったのか。

 私は再び暗闇の中にいた。ゴボッゴボッ、という泡沫の音が耳のすぐ隣で響く。どうやらまた私はカプセルの中へと戻ってきたらしい。

 しかしいつ戻ってきたのか私はまったく憶えていなかった。最後の記憶は、ゴーストの手が私の首を絞めたところで止まっている。そこから先を思い出そうとしたが、ゴーストの冷たい手の感触や、息が出来なくなって意識が暗闇に沈む感覚は鮮明に思い出せるのに、それ以上はどうしても思い出せなかった。まるで壊れた映写機が映し出すフィルムのように、そこから景色は動きもせず、戻りもしない。

 ゴーストを見た景色の記憶で私の記憶は静止していた。まるであれが最後の記憶だったといわんばかりに。

 それ以前の記憶、例えばルイという私の名前や、キシベという男の存在、研究員達の悲鳴、黒い球などは完璧に思い出せた。さらに以前の、カプセルの中にいた頃の記憶も頭の中にはある。

 ならばなぜ、私がこのカプセルに戻ってきたときの記憶だけはないのか。

 私が考えをめぐらせていると、知識だけを蓄えた脳髄はある結論を下した。

 それは今までのことは全て夢の中の出来事だったという結論だ。しかし、そんなことはありえないということは少し考えれば分かる。カプセルから出るまで外の人間に触れたことのなかった私が、キシベたちの姿を頭の中だけで組み立てるのは無理があるし、あの冷たい手の感触までが夢だとは考えにくい。

 私が再度、考え直していると、不意に耳元で響いていた泡沫の音が消えうせた。それを感じた途端、周囲を覆っていた冷たい闇が融け始めた。闇が消えた場所から、湧き上がるように体温が私の身体に通っていく。

 それと同時に肺を押し潰さんばかりの重量が急に私にのしかかってきた。「重力」だ。
すべて以前と同じ現象である。

 ガラス越しにぼやける景色も、私の身体に伸びているコードも同じであった。私は前回の記憶をなぞるようにそのチューブを引き剥がした。すると、前回と同じようにガラスが機械的な音を立てて上がっていく。私はすでに自分のいる位置がカプセルの中であることを知っていたので、慎重に下りてカプセルのほうを向きかえると、前回と違う点を見つけた。

 前回は同じようなオレンジの液体が入ったカプセルが何個か並んでいたが、今回はオレンジ色の液体が入ったカプセルなどはなかった。どのカプセルも割れていたり、機械の内部が露出したりしている。まるで長い間捨て置かれた廃墟のようだと私は感じた。しかしここが廃墟とするのならば、今しがた気がついた私は何者なのだろうか。たった一つだけまともに残ったカプセルに入っていた私は何なのか。

 私は自分が入っていたカプセルを眺めた。そのカプセルの上方に型番らしき英数字が刻まれている。これも前の記憶と同じだ。だが、前回は「RUi」と記されていた型番はそこにはなかった。代わりに、「R01B」という型番が刻まれていた。

 その数字を見て私は前回キシベが「R01」という言葉をしきりに言っていたことを思い出した。ならば以前から私の名は「R01」だったのだろうか。しかし、前回はその型番の後に「B」などついてはいなかった。

 記憶の齟齬に私が戸惑っていると、唐突に背後の扉が開いた。

 気づいて振り返るとそこには黒衣をまとった男が立っていた。帽子も含めて全身真っ黒で、腰のベルト以外は闇に溶け込むような色である。帽子には「R」という文字が毒々しい赤色でプリントされている。

 私はその男の顔に見覚えがあった。

「……キ、シ……ベ……?」

 カプセルから出たばかりのまともに使えない喉でその名を呼ぶ。しかし当のキシベは私の言葉に頷きもせず、カツカツと冷たい足音を響かせながら私の傍に歩み寄ってきた。私はそんなキシベの顔を見上げる。

 私を見下ろすキシベの眼は、以前の記憶とは異なっていた。以前は冷たいながらもどこか安心できるものだった。しかし今のキシベは、感情というものがまったく浮かんでいないような冷徹な眼をしていた。相手を安心させず、こちらが探ろうとしても底が見えないような心の深くに感情を沈ませた眼。

 私がその眼を見つめていると、キシベは私の手を引っ張った。カプセルから出てきたばかりだったせいか急に掴まれて手首に痛みが走る。私がその痛みに顔をしかめると、キシベはまるで汚物でも見るような眼をして、吐き捨てるように言った。

「早く来い、R01B。実験を開始する」

 ナイフのような冷たい声だった。私はその声にすっかり緊張して抵抗できずに、キシベに引っ張られてついていった。今回は服を着せられるどころか、その言葉以外何一つキシベは自分から発しようとはしなかった。二人とも無言のまま前回と同じ廊下を、今回はキシベと私だけで歩いていた。

 前に立って私の手を引くキシベは一度も私のほうを振り返らなかった。まるで引いている手以外の私など存在しないかのように。

 私は何だかこのまま何も話さなければ自分の存在すら薄れていくような気がして、キシベに話し掛けた。

「……き、キシベ。手、いたいよ」

 その言葉でキシベは立ち止まり私のほうに振り返った。私はそれでキシベと話せると思ったのだが、キシベはただ私の手を離して「後からついて来い。遅れるな、R01B」と言っただけで、すぐにまた歩き出した。

 私は立ち止まって外された手をしばらく見つめていた。そうしてじっと白い掌を見つめていると、自分という存在から質量が抜けていくような感覚を覚えた。それは自分の中ががらんどうになって、単なる抜け殻となってしまうかのような感覚だった。それを形容する言葉を脳髄から探してみるが、それの意味が分からない私がその感覚を形容することなどできなかった。

 ただ私はキシベに置いていかれるのが嫌だったので、その思考を止めてすぐにキシベについていった。

 キシベはしばらく廊下を無言で歩き、前回の記憶と同様の突き当たりの銀色の扉に行き着くと、扉の端に埋め込まれた機械にカードを通した。

 すると『認証しました』というアナウンスが響き、銀色の扉が重々しい音を立て開かれていく。その扉の開いた先から、中の白い壁に囲われた部屋が見えてくる。

 私はその部屋の中に入っていった。

 どれも前回の記憶の通りだった。ただ違うのは、前回は研究員が多数いたのだが、今回は一人もいなかった。それに前回、赤い液体で汚れたはずの床がシミひとつない白い床になっているのも奇妙だった。

 部屋の中央まで行くと前回と同じように、円形状に切り取られたカプセルが回転しながらせりあがってきた。しかしそこには前回のような黒い球はなかった。カプセルの中にオレンジ色の液体とコードはあるが、肝心の黒い球だけが切り取られたように存在していなかった。

 私がそれを探すようにじっとカプセルの中を見つめていると、キシベが私を型番で呼んだ。振り返ると、キシベは開いたままの扉の前でじっと立っていた。なぜ部屋の中に入ってこないのか分からなかったが、その疑問を挟む間もなく言葉がかけられる。

「G2との同調実験を開始する。電源を落とせ」

 その声が響くと同時に、部屋の照明が落ちて視界が真っ黒に閉ざされた。その中で唯一の出口である廊下には黒衣をまとったキシベが道を塞ぐように立っている。

 私は暗くなった途端、思わずキシベのほうへと駆け出していた。暗くなったことが怖かったのではない。キシベが言った「同調実験」という言葉がゴーストの冷たい手の感触を思い出させたからだ。

 私は想起されていく冷たい感触から逃れるようにキシベのいる出口を目指した。しかし、キシベはあろうことか出口を閉じ始めた。私は必死に走ったが、出口から漏れる光は次第に細くなっていく。私はその光に手を伸ばしてキシベの名を呼んだ。

 しかしキシベは何も言わなかった。ただ冷たい眼差しのまま、私を見つめていた。そしてその冷たい眼差しも、暗闇の向こうに消えて私は完全に暗闇の中に取り残された。

 カプセルの中で感じたのと同じ暗闇がこの部屋には広がっていた。自分の手も見えず、足も見えない空間だ。私はその暗闇の中で目を凝らして、周囲を見渡した。

 その時、暗闇の中に異様な部分があることに気がついた。見間違いかと思い、もう一度集中して見ると、暗闇の一点が流動しているのである。

 私がそれを見つめていると、その暗闇に二つ亀裂が入った。そしてその亀裂が開いて中から血のように赤く禍々しい眼が私を見つめた。私は何が起こったのか分からずに、その眼に射竦められたように固まっていると、その暗闇は蠕動するように動いて私の近くまで寄ってきた。

 近づくとその暗闇の大きさが分かった。私の二倍以上ある物体であり、動いていないと暗闇との境目が判然としなかった。だが、全体像が分からずともその眼が何よりそこにいることを主張していた。

 その眼が私をじっと見つめる。私はその眼に見覚えがあった。暗闇の中に浮かぶ一対の鋭角的な眼。漆黒の身体。姿が変わっていても忘れはしない、それは私の首を絞めたゴーストだった。

 そのゴーストであったはずの巨大な影にまたも亀裂が入った。その一筋の亀裂は広がり、裂けて中から乱杭歯の並んだ赤い口腔内があらわとなった。

 私がその乱杭歯を恐る恐る見つめていると、巨大な影はさらに口元を裂けさせて嗤った。
そして次の瞬間、その影は私に覆いかぶさってきた。黒い塊が一瞬のうちに私を貫通していった。

 私の耳も、目も、口も、全てに黒い影が入り込んでいく。細い血管の一本一本まで染み込んでいくような感覚に私は不快感を覚え、手で影から身を守ろうとするも、その手すら影が入り込んでいく。

 全神経に影が侵入し、私という存在を掌握していくのを感じる。

 四肢を玩ばれ、身体の自由権を奪われていく。心の根底まで不当に探られ、そしてただ蹂躙されていくような感覚。私はそんな風に扱われるのをよしとしなかったが、抵抗する術などもっていなかった私は、影の行いを黙って見ているしかなかった。

 現実では数秒のことだっただろうが、それが私には何十時間もの責め苦に感じられた。ようやく解放されても、自分が果たして今までどおりの姿でいるのか、それとも影になってしまったのか、分からなかった。ただ私は蹲り、震える身体を抱きながら涙を流していた。なんだか自分というものがひどく汚されたような気がして私は泣いた。泣いて、自分自身を強く抱きしめた。まだこの身体が自分のものであると主張するように。

 しかし、先ほどまでいた巨大な影は私の前から消えていた。私が暗闇の中に影の姿を探していると、不意に部屋の照明が点いて闇に慣れた私の目を刺激した。

 私が光に目を細めていると、部屋の端の銀色の扉が開いた。見ると、そこにはキシベが立っていた。私がそちらを見つめていると、唐突にキシベは手を叩き始めた。それに呆気に取られていると、部屋の中に綺麗な声のアナウンスが響き渡った。

『同調実験終了。G2とR01Bは完全に同調しました。現在、同調率43,2パーセント』

 その声が言っていることが私には理解できなかった。しかしそれが頭の中に確固たる疑問として浮かぶ前に、両側の壁に埋め込まれた黒いガラスが開き、中から数名の研究員が顔をのぞかせ、そして一様に手を叩き始めた。割れんばかりの拍手が白い部屋の中に鳴り響く。

 私はその拍手の意味が分からなかった。一体何に対して、拍手を送っているのか。何故皆、喜ばしいことでも起こったような顔をしているのか。

 大人たちの張り付いた笑みが恐ろしく私は蹲ったまま、周囲を見回しているとキシベが私の近くに歩み寄ってきた。キシベの顔は逆光で見えなかったが、その声が弾んでいるのは分かった。

「いや、まさか成功するとは思っていなかった。おめでとう、R01B。君は間違いなく世界で最初の個体だ。我々の研究の成果だ」

 言ってキシベはまた拍手した。しかし私には何のことだか分からなかった。

 シャッター音が響き渡り、研究員の一人が私の姿を小さなカメラに収める。それが前回の記憶と符合し、私は何か言おうとしたが結局言葉は見つからなかった。なぜ、前と同じことが起きているのか。私を撮ってどうするつもりなのか。

 そんな疑問を発する前に、キシベは私の耳元に顔を寄せた。それに私が驚いていると、キシベは静かに言い放った。

「――おめでとう。君はこれで名実ともに、ロケット団が誇る最高の兵器になった」

 その一言に私の思考が凍りついた。兵器。その意味を知識だけを蓄えた脳髄が理解する。それはつまり戦うための武装を意味する。なぜ、私が兵器と呼ばれるのか。私がその理由を知識のみを蓄えた脳髄の中で探していると、そんな私を尻目にキシベは続ける。

「ヒトとポケモンの融合体。理想どおりの化け物が、ここに誕生したわけだ。大変素晴らしい」

 私はその言葉に何も言えなかった。キシベの言葉は難し過ぎて、そのままではフィルターが掛かったかのようになってすべて理解することは出来なかった。しかし、その言葉の中に潜む暗い感情だけは、そのフィルターを貫通して私の心に突き刺さった。

「君をそんな風にしたのは、ここにいる奴らだ。望んだのもここにいる奴らだ。」

 キシベが静かに、私にしか聞こえない声で言い、そして次々と部屋に入ってくる白衣の人々を目線で示して尋ねた。

「どう感じる? 君を汚した彼らを。わけも分からぬカプセルの中に幽閉し、君を兵器として扱おうとしている彼らを。どう感じる? ――許せないかい?」

 キシベの言葉は依然として暗い感情を伴っていた。それはまるで泥のように粘っこく、醜悪でありながら、なぜかその時の私の心には真水のように染み渡った。それは汚されたことへのショックからまだ抜けきれてなかったせいもあるのだろう。私はこの時、悪魔の言葉に耳を貸した。

「……ゆる、……せ、ない」

 私が搾り出すように言うと、キシベはその言葉を待っていたとばかりに、

「なら、君がすべきことは決まっている」

 そう言って口角を吊り上げ、笑った。

 ――その後何があったのか。私にはそこから先の記憶が欠落している。いや、欠落という言い方すら生ぬるい。まるでその間だけ、私はこの世にすらいなかったような感覚なのだ。それは世界中から爪弾きにされたような、そんな感覚だった。

 そして気づいたときには、周囲は燃え盛る赤に覆われていた。私は最初、その現実を認識できなかった。ただ周りが赤すぎて何も分からない。足元に流れる赤も、瓦礫の間で揺れる赤も、ぐちゃぐちゃになって寄り集まっている赤も、空を染める赤も、何一つ私の記憶には無かった。しかし、その赤は私にこべり付いていた。生ぬるい赤が指先にべっとりと付いている。親指と人差し指を開くとそれが指の間で糸を引いた。

 その赤に染まった景色の中にひとつだけ赤くないものがあった。それはキシベだった。黒衣を身にまとったキシベには赤の一滴すらついていない。それはまるで違う世界の人間を眺めている気分だった。

 キシベは私に向けて言った。

「これから君は私の仲間に追われるだろう。そして君は望む、その力を消し去りたいと。そのために覚えておくといい。君のその力を消し去り、唯一君を解放できるものを」

 キシベは私に「唯一私を解放できるもの」について私に話した。それは私にはよく分からなかったが、それがあれば私は苦しまずに済むと言う。

「存在する場所はここではない。海を渡り、遥か遠い土地にある。その場所は、――カイヘン地方だ。そこでまた、私とも会うだろう。その日になれば私が迎えに行く。会えるときを楽しみにしている。来るべきその日こそ、私と、あの子の望んだ願いが叶う日だから」

 そう言ってキシベは赤い景色に溶けるようにして消えた。取り残された私はどうすればいいのか分からなかった。そんな私を真下から嘲笑うかのように歯をむき出しにした黒い影が眺めていた。その黒い影の名前が私にはなぜか、分かった。

 私はその名を呼んだ。

「ゲンガー」

 その声に黒い影は返事をするように、より一層口を裂けさせて嗤った。

オンドゥル大使 ( 2012/08/23(木) 21:44 )