第四章 六節「休息の風」
緩やかな熱が、風とともに草原を横切る。
食事を終えたリョウは寝転びながらその風を感じていた。汗ばむほどの熱気ではない。関節が温まって、ちょうど身体が動きやすくなる程度の気温である。
リョウは寝転がったまま、首だけを動かして湖のほうへと視線を向けた。湖のほとりではルイが裸足で水面を蹴って遊んでいる。最初はまるで初めて水に触れるかのように恐る恐るであったが、今は跳ねる水を存分に楽しんでいるようである。
それをぼんやりと見つめていると、ルイがこちらを向いて手を振った。それに振り返すと、ルイは笑って、また水遊びに熱中し始めた。
小さい足で蹴るたびに、飛沫が太陽光に反射して輝き宝石のように瞬く。それと対話するように、ルイは飛沫を全身で浴びながら降り注ぐ陽射しよりも明るく笑う。
「――平和だな」
ぼそりとリョウは呟いた。こうやって寝転がりながら、誰かとのんびりとした時間を過ごすなど、リョウには今まで考えられないことだった。兄を探すために一分一秒でも惜しむのがリョウの生き方だったからだ。そこには安息などない。生きていることそのものが兄を探すという目的に縛り付けられていた。だが、リョウはそれでもいいと考えていた。それで兄を探し出せるなら、自分が兄と同じ強さになれるのなら必要なことだと。
しかし、兄も見つからず、どれほどの強さを目指せばいいのかも分からぬ今、リョウは今までの自分の人生に疑問を投げかけていた。
果たしてこのままでいいのか。もっと違う生き方も自分にはあるのではないか。
だが、そのことについて考えても答えは出なかった。今までひとつの目的を追い求め過ぎたせいで、急に考え方を変えることなんて出来なかった。
「……時間が、ゆっくりと過ぎていくな」
リョウは空を見つめながら消え入りそうな声で呟く。
――ずっとこんな時間を過ごせたら。
そんな言葉が口をついて出そうになる。
だがリョウはそれをぐっと押しとどめた。まだそれを言うわけにはいかなかった。リョウの願いは既にヒグチ博士や他の人々に背負わせてしまっている。ならば自分ひとりが満足して終わらせるわけにはいかない。
リョウは身体を起こし、立ち上がってルイに呼びかけた。
「もう行くぞ。さっさと行かないと、フシギダネがこの樹海から出ちまうかもしれねぇ」
だがルイは動こうとしない。聞こえていないのかと思い、もう一度リョウは呼びかけた。
「おい、ルイ。いつまでもここで休んでいるわけにはいかねぇんだ。さっさと準備しろ」
しかしまだルイは聞こえていないかのように立ち止まって、湖の向こう岸を眺めていた。リョウは苛立たしげに頭をかいて、ルイの分の荷物も担いでルイのほうへと歩いていった。近づいたら気づくかと思っていたが、真横にいてもルイは気づいていないようだった。捕らわれたようにずっと湖の向こう岸を眺めている。何かあるのかと思って、リョウはルイの視線の先を追ってみた。
しかし向こう岸には何もなかった。ただ深い森が続いており、日光を反射して輝く水面が風で静かに揺れているだけだ。生物の姿も確認できない。
「何か、あるのか?」
リョウが尋ねると、ルイは首を振った。
「なんでもないんだけど。……何だかここに来られることがもうないような気がして、それで少しでもながくこの景色を見ていたいな、って思ったの」
そう言って俯いたルイの横顔をリョウは見つめた。先ほどまでのあどけなく遊びに興じていた時とは違う、どこか憂いを含んだような色がその瞳に浮かんでいる。それはまるで本当に二度とこの場所へは来られないとでも言っているような感じだった。
そんな顔をするルイにリョウは何も言葉をかけなかった。
――きっとまた来られる、だとかいう言葉をかければよかったのだろう。だが、そんな楽観的なことを言っていいのかとリョウは喉まで出かけたその言葉を飲み込み、肩に置きかけた手をポケットにしまった。何故だかこの瞬間に、リョウはルイがただの家出少女ではないことを痛いほど感じたのだ。それはルイの瞳に映る年齢に似つかわしくないような痛みによってくすんだ色が、どこか悲しげだったためでもあろう。それはリョウも知っている色だった。
喪失の痛みで輝きを失った瞳。
その痛みを自分と重ねていたこともあるのかもしれない。
リョウはその後何の言葉も掛けなかった。何も言わずに、ただルイと同じ景色をずっと眺めていた。