第四章 五節「進入、樹海内部」
カイヘン地方は大きく分けて九つの街がある。
始まりの町、ミサワタウン。二番目の町、サンロウタウン。三番目の町、カギナシティ。四番目の街キリハシティはチアキのいた街であった。そして五番目のハリマタウンはカリヤのいた町である。六番目のヤマトタウン。ここはカイヘン地方でもっとも高い山、リツ山が存在する。七番目はリニアラインの駅がある中心都市タリハシティ。八番目は港町として名高いカワジシティ、そして最後の街は海に浮いた島にある海上都市、コウエツシティである。
最初のミサワタウンを除いてこれら全ての街にはジムリーダーが存在し、ポケモンリーグ公認のジム戦が行われそこで勝ち抜き、証であるバッジを手に入れることによってコウエツシティのさらに遠くの沖にあるカイヘン地方ポケモンリーグに挑戦することが出来る。
カイヘン地方本土に当たる地域は気候としては穏やかであり、四季もある。また街同士の距離関係はタリハシティ近郊を除いてほぼ同程度であり、急勾配がありながらも道路の整備はきちんとなされているため人間が一切通れない未開の地というものは存在しない。
だがそれでも開発の遅れている地域というものは存在している。
ハリマタウンとヤマトタウンの間の地域がそうだ。ここ近辺は深い緑に覆われており、未開というほどではないが人の手がほとんど加わっていない土地であった。その樹海を外して弧を描くように走る道路は一般的に使われているが、樹海の内部を貫くように走る道路の存在はあまり知られていない。
樹海内部は凶暴な野生ポケモンが多く存在すると噂されているのが主な理由ではあるが、それだけではない。その道路は木々の強い繁殖力によって根が張り、その根が黒いアスファルトを貫いて飲み込んでおり道路としてまともに機能していないからだ。そのため、ところどころひび割れ根が飛び出している樹海内部の三十二番特設道路は車どころか人さえ通ろうとはしなかった。
その道路を今、リョウは歩いていた。時々飛び出している根に引っかかり躓きそうになるが何とか一度も転ばずに着実に歩を進めている。だが、その時「ふぎゃっ!」という奇妙な声が後ろから聞こえると同時に地面に何かがぶつかるような音が響いた。リョウが振り返ると、そこには大きな麦藁帽子を被ったルイがうつ伏せで倒れていた。
その姿にリョウはため息をもらしつつ、ルイのほうへと歩み寄り、起こして服についた汚れを払ってやった。
「……これで一体何度目だよ。足元には気をつけろって言ってるだろ。だからついてくるなって言ったのに」
リョウが言うと、ルイは潤んだ瞳を擦りながら言い返した。
「……だって、リョウ一人だと不安なんだもん。帰ってくるかどうかも分からないし」
「ガキじゃねぇんだ、一人でも帰ってこれるっての。大人しくホテルの部屋で待ってりゃいいのに。メシだって好きなときに好きなだけ食えたっていうのによ。森の中じゃ、まともなメシだって食えねぇぞ」
「平気だもん。ごはんをちょっと我慢するぐらい――」
その時、不意打ち気味に巨大な音が鳴り響いた。リョウが何事かと辺りを見回すが、何かが出てくるような気配はない。気のせいかと思ってルイのほうに向きかえるとルイが顔を真っ赤にしてお腹を押さえていた。どうやら先ほどの音はルイの腹の虫が鳴いた音だったようだ。
「ち、違うから。今のはその……、そう! ちょっとした事故みたいなもので。えっと……、その……」
しどろもどろになって言い訳をするルイを見て、リョウは呆れたようなため息をついて、身を翻した。
「……いいから、行くぞ。もうちょっと歩きゃメシにしてやるから。それまで我慢しろー」
言って滴る汗を拭いながら、また歩き出した。その背中にルイが追いすがる。
「ちょ、ちょっと、リョウ! 別にお腹がすいているわけじゃないんだってば。誤解しないでよー!」
リョウは後ろから聞こえてくる抗議を指で耳を塞いで受け流しながら、どうしてこんな樹海の中でこんな目に遭わなくてはならないのかということを考えた。その思考の途中で、三日前にヒグチ博士から来た通信を思い返した。
『やぁ、リョウ君。元気にしているかい? 実は――』
「またなんか逃げたのか?」
リョウはパソコンから聞こえてくる博士の声を遮って言った。
ここはハリマタウンのポケモンセンターである。ポケモン図鑑をもらったトレーナーと研究者は定期的に連絡を取ることが理想とされている。実際、そういう定期連絡を律儀にするトレーナーも研究者も少ないがリョウとヒグチ博士はそれを守っていた。
『すごいね、どうして分かったんだい?』
パソコンの中の博士が驚いたような声を出す。
「博士が元気にしているだとか言ってくるときは大抵、頼み事があるときだからだよ。それ以外のときはいかにも面倒くさそうな顔をしているだろうが」
リョウがそう言うと「そうかなぁ」と言って博士は手鏡を持って自分の顔を見始めた。
「……で、博士。今回は何が逃げたんだよ?」
リョウが苛立たしげに言うと、博士は「そうだった」と思い出したように言ってから手鏡を置いて説明を始めた。
『今回逃げたポケモンっていうのはこれだよ』
博士がそう言うとパソコンの画面の端にウィンドウが出現し、そこに複数の線で3Dモデルが形成されていく。
しばらく見ているとウィンドウの中にカエルのような姿のポケモンが表示された。そのカエルのような姿のポケモンは背中に球根のようなものを背負っている。
それを見た瞬間、リョウの顔色が変わった。
「……博士。こいつは」
『ああ。君もよく知っているだろう。フシギダネだ』
3Dモデルのフシギダネが回転を始める。その姿をリョウはじっと見つめていた。それは紛れもなくリョウの兄が連れていたポケモンと同じだったからだ。
「博士。こいつは兄貴のフシギダネか?」
パソコンの中のフシギダネを指差しながらリョウは尋ねた。そこに兄の面影を見るように、僅かな期待を込めて。だが、博士はリョウの質問に首を横に振った。
『いや、その可能性は少ないだろう。これは私が研究のためにカントーの研究者から譲り受けるはずだったものだ。君のお兄さんの持っていたフシギダネの系列に属するかもしれないが、それをはっきりとさせるものは何一つ無い』
その言葉を聞いてリョウは少なからずショックを受けた。兄に繋がるかもしれない手がかりを手に入れたと思った途端に否定されたのだ。勝手に兄のものだと思い込むのは早計だと重々承知していたが、それでもリョウは絶望を感じずにはいられなかった。それを察した博士が、顔を曇らせてすまないと侘びた。
『余計な期待をさせてしまったみたいだね。悪かった』
「……いや。別にいいよ、博士」
リョウは顔を上げて、博士を見据えて言った。
「それで、こいつはどこに逃げたんだ?」
『あ、あぁ。このフシギダネはカントーからの輸送の途中に逃げ出したらしい。なんでも何者かの襲撃を受けたそうだ。その襲われた地点というのがここだ』
画面上にまた新たなウィンドウが表示され、そこにカイヘン地方の地図が映し出される。その地図の中の一点に✕印が刻まれた。そこはハリマタウンとヤマトタウンのちょうど中間地点であった。
『ここにロクベ樹海という場所がある。そこにフシギダネは逃げたらしい』
「その情報は確かなのか? 襲撃を受けたときに奪われた可能性は?」
『その点については心配しなくてもいい。その後、襲撃した集団は検挙されフシギダネを除くポケモンは皆無事だったそうだ。……検挙した集団はディルファンスだったらしいけどね』
ディルファンス、という名を博士は苦々しい顔で口走った。
「なるほど。犯罪組織は捕まえても、逃げたポケモンを捕まえるのは専門外ってわけか。この依頼、大方、ディルファンスに断られたんだろ。それで俺のほうにとばっちりが来たってわけだ」
『すまない。君しか頼れる人材がいないんだ。ナツキ君に頼むにはあまりにも遠いし、アヤノ君とサキは連絡も無いから行方がしれないし……』
困ったような顔をパソコンの中のヒグチ博士は浮かべていた。その目の下は真っ黒い隈がある。どうやらまたまともに寝ていないらしい。
「仕方ねぇな。その依頼、引き受けてやるよ。ロクベ樹海ならここからでも近いし、断る理由もない」
『君にばかり背負わせてすまない。何か、私にも出来ることがあればいいのだが』
「博士はうまくやってくれているよ。兄貴を探すための手がかりだって集めてくれているだろ。それだけで十分さ」
リョウがそう言ってスイッチを切ろうとすると、突然ルイがリョウとパソコンの間に入ってきて、パソコンの中の博士を指差して言った。
「ねぇ、リョウ。この人目の下がすっごく暗いけど、病気?」
「おまっ……! 出しゃばるなって言っただろうが」
「痛い痛い! 痛いよ、リョウ!」
リョウが拳骨でルイの頭をぐりぐりと痛めつけていると、パソコンの中の博士が困惑した表情で尋ねた。
『リョウ君。その子は?』
「ん? ああ、こいつか?」
拳骨を収めてリョウは博士にルイを紹介しようとしたが、いざ紹介するとなるとどう紹介したものか分からなかった。それでリョウが渋っていると、ルイはパソコンのキーボードのところにあごを乗せて、片手を挙げながら言った。
「ルイっていいますっ! 目の下くまさん、よろしく!」
『……えーと、その目の下何とやらは、私のことかい?』
博士が自分を指差しながら怪訝そうに言うと、ルイは大きく頷いた。
「はい。とっても真っ暗なので。分かりやすくていい名前――、痛い! ぐりぐりするのやめてよ、リョウ!」
リョウはまた拳骨をぐりぐりとルイの頭にねじり込みながら、パソコンの中の博士に謝った。
「すまん、博士。こういう奴なんだ。気を悪くしないでくれ」
『いや、まぁ、それは別に気にしていないけど』
そう言って博士はルイを見た。その視線がまるで記憶の中を探っているかのように遠い視線だったので、リョウは拳骨を止めて博士に尋ねた。
「博士、もしかしてルイのこと知っているのか?」
『ん? あ、いや、そういうわけじゃないんだけど。……まさかね。なんだかどこかで見たような気がしただけだよ。他人の空似って奴かな。疲れているせいもあるのかもしれないけどね』
「大丈夫かよ。依頼のことは俺に任せてくれりゃいいから。博士は安心して休んでくれ」
『そう言ってもらえると助かる。それじゃ、頼んだよ』
博士は少し笑って、通信を切った。後には物言わぬ暗い画面が残された。リョウはその画面を、何もせずじっと見つめていた。
通信が切られる瞬間の博士の顔はやはりやつれていたことを、リョウは今樹海の中を歩きながら思い出していた。そうなってしまった原因の一部は自分にあることを、リョウは少なからず感じていた。博士は自分の痛みも同時に背負っている。だが、それはリョウの望むところではなかった。出来れば誰にも自分の痛みは背負わせたくないのだ。それが仲間や、或いは家族と呼んでも差し支えない人間でも。
そんなことを考えながら歩いていると、不意に先ほどまで木々に閉ざされていた視界が開けた。見ると近くに湖があり、広場のような土地が広がっている。リョウはそこで足を止めて、後ろをだるそうに歩くルイに向かって声をかけた。
「よし。ここらでメシにするか。ルイ、メシだぞ」
それを聞きつけるや否や、ルイの目の色が変わった。
「ご飯?」
その呟くと同時に、今まで見せたこともない速度でルイは一瞬のうちにリョウの下へと走ってきた。そしてアスファルトから張り出した根っこに躓いて盛大に転がった。
リョウはそれを見て、またもため息がこぼれるのを禁じえなかった。