第四章 四節「遭遇少女U」
その日の朝、リョウが最初に見つめたのは茶色の天井だった。
いつもなら空が広がっているはずの場所にあるその木造の天井を見つめて、リョウはここがどこなのかということを思い出した。
ここはタリハシティにある宿泊施設だ。地方ジムと同じ部門の企業が経営しているためポケモンに関わっていることを証明すれば格安で泊まることが出来る施設である。カイヘンにとって経済拠点であるこのタリハシティは、それだけポケモンビジネスに関わる人々の出入りも多く、こういった宿泊施設は無数に存在した。
両手で身体を起こそうとすると腹の辺りに重さを感じて、リョウはその場所を見つめた。そこには赤い、奇妙な物体があった。その赤い物体は蛹のような姿をしており、背中の部分にはファスナーがあった。なんだろうか、とそのファスナーを引っ張ると中から薄紫色の髪の毛が出てきた。寝惚けて見ていると、その物体が寝返りを打ったので顔が見えた。
それを見た瞬間、リョウは一気に目が覚めて、驚いてその物体を蹴飛ばした。
その赤い物体はごろごろとベッドの上を転がり、床に落ちた瞬間「ふぎゃっ!」と奇声を上げた。
落ちてからしばらく、その物体は動かなかった。リョウが心配になってそちらを覗き込むと、ベッドの淵に手が掛けられた。そして次の瞬間、淵から這い出てきたように顔が現れた。
現れた顔は少女のものだった。赤い眼が不服そうにリョウを見つめ、低い声で言った。
「……朝からひとを落とすなんて、昨日は感謝したけど実はひどい人だったんだね」
むー、とうなる少女。それを見てリョウが反論する。
「お前が俺の上に乗っかっているのが悪いんだろうが。大体、お前のベッドはあっちだろ!」
リョウが少し離れた場所にあるもうひとつのベッドを指差した。
「……だって、寂しかったし。慣れないベッドじゃ寝られないもん」
少女はベッドの淵にかじりつくような姿勢のまま、抗議する。それを見てリョウが苛立たしげに頭をかいた。
「だからって俺の上で寝ることはないだろうが! その寝袋も、俺のだろ! なんだって俺のカバンからそれ出して包まっているんだよ!」
リョウの言葉に少女は、えへへと無邪気に笑いながら赤い寝袋に頬ずりして、
「だってこれ寝やすいんだもん。こういう包まって寝る感じのやつって安心できるの」
リョウはその少女の言葉に頭を抱えた。
そしてどうして連れてきてしまったのかと嘆き、ため息をつくと、それを見た少女が「お腹すいたの?」と尋ねてくる。
「んなわけないだろ。面倒ごとばっかりが付いてきやがることを嘆いているんだよ」
そう言って少女をにらみつけると、少女は何を思ったのか晴れやかに笑った。
ロビーでチェックアウトを済ませて出てくると、日は既に高く昇っていた。
遅くなったのは、寝坊したせいではない。食事に時間が掛かったためだ。リョウがゆっくりと食べていたわけではない。少女があまりにも多く食べたせいだった。バイキング形式の朝食で、従業員に止められるほどに食べる人間を今日の朝までリョウは見たことがなかった。それほどまでに少女は周りをはばからず食べた。
リョウは財布を開いて中身を見る。散財するまいと貯めていた金は半分ほどになり、財布自体も随分と軽くなっていた。
それを見てリョウはまたため息をついてうなだれた。すると、急に袖の辺りが引っ張られた。見ると、少女がこちらを好奇心で輝いた眼で見つめていた。
「ねぇ、リョウ。次はどこ行くの?」
引っ張りながら少女が言う。リョウはその手を煩わしそうに振り払って言った。
「ちょっと待て。何でお前は付いてくることを前提として喋っているんだ? 言っておくが、俺はお前を連れて行く気なんてないしこれ以上お前のために金を使う気もない」
少女はそれを聞いて一瞬呆然としていたがすぐに状況を飲み込んだらしく頬を膨らませた。
「そんな顔したって連れていかねぇよ。大体お前だって家に帰らなきゃまずいだろ。いくらロケット団って言ってもお前程度のガキの家を襲撃するほど暇じゃねぇだろうし。安心して帰れ、帰れ」
邪魔だと言わんばかりに手を振ると、少女は俯いた。泣かせてしまったか、と思うとリョウは一瞬心が痛んだが、それでも機嫌をとるようなことはしなかった。ここで別れなければ後々面倒くさいことになることは明白だったからだ。昨日のロケット団員たちがいつ襲いに来るとも限らないし、何より兄を探すというリョウの目的の足枷になる。
リョウは少女に背を向け歩き出そうとした。だが、その時リョウの背中に突然体重がぶつかってきてリョウは足を止めた。振り向くと少女がリョウの背中に抱きついていた。
「おい、放せよ」
リョウが声を低くして言うが、少女は首を横に振って離れようとはしない。それどころかさらに強くリョウに抱きついてくる。
「家があるだろ。帰らねぇと親が心配するだろうし、……いるかはしらねぇけど兄弟も、心配するだろ」
少女の頭に手を乗せて諭すようにリョウは言うが、それでも少女は頑なに首を振った。その時、聞こえるか聞こえないかの声で少女は呟いた。
「……帰る家なんて、……ないもん」
リョウはそれを聞いて、少女が昨夜遅くに追われていた理由がやっと分かった。恐らく少女は突発的に家出か何かをしていて、それで夜の街を彷徨っていたらロケット団に目を付けられてしまったのだろう。そう考えれば少女があまりにも薄着なことにも説明がつく。
リョウはまたもため息をついた。こうする、と決めた人間がどんなに強情か誰よりも知っている自分は少女を止められない。
「……仕方ねぇな」
そう言ってリョウは振り返り、屈んで少女と目線を合わせた。
「しばらくは付き合ってやるよ。お前、名前は?」
その言葉に少女は顔を上げて、リョウを見つめる。二つの赤い瞳が不思議そうにリョウの姿を捉える。
「名前だよ、名前。お前はいつの間にか俺のことを呼び捨てにしているのに俺はお前の名前を知らないなんて不公平じゃねぇか。ほら、名前。なんていうんだ?」
少女はリョウの顔を見つめる。
「……名前」
小さな声で何度も「名前」と呟く。自身の心の内側を探るように、何度も慎重に言葉を選んでいるかのように。
リョウはそれでも急かすことなく、黙って待っていた。すると、少女は突然顔を上げた。心の奥底を見通すような赤い瞳がリョウを見据える。
「――ルイ」
少女の小さく儚い唇からそんな言葉がもれた。少女はその一言からさらに繋げる。
「ルイ、っていうのが、ボクの名前……」
「ルイ、か。いい名前だな」
リョウがそう言うと少女――ルイは笑った。あどけなく無邪気な笑顔だった。
「よし、ルイ。とりあえず、この街を出るぞ。タリハシティは今物騒だからな」
言ってリョウは急ぎ足で歩こうとする。
「あ、待って。リョウ」
その背中にルイは呼びかけた。リョウがそれに振り向くと、ルイはお腹を押さえながら恥ずかしそうに笑って言った。
「お腹すいちゃった。ご飯にしようよ」