ポケットモンスターHEXA - リョウ編
ReverseV


 キシベという男に連れられて私は白い廊下を歩いていた。

 天井の照明を反射し、網膜に焼きつきそうなほどの眩しい白色が延々と続いている。その廊下から視線を外し、私は手を引いてくれるキシベの背中を見つめた。

 黒いスーツを着込んでいるが、本来はそういうものを着る人間ではないことは身のこなし方からすぐ分かった。常に警戒しているかのような隙のない歩き方、強張った肩、私の手を握るごつごつとした掌。恐らくは戦っていた人間なのではないかと私は思った。どこで、ということは分からないし、何で、ということも分からない。ただ、平和の中に生きている人間ではないことは確かだった。

 気になったので私は聞いてみた。

「キシベは、ふだん、なにをしている人なの?」

 私の質問にキシベは振り返った。その眼に一瞬、親しみとも哀しみともつかないような光が宿ったように見えたが、すぐにその感情は幻のように消え去って、つかみどころのない表情と声でキシベは問い返した。

「なにを、と言われてもな。……何だと思う?」

「キシベは、たたかっている人」

 私は自分の考えを言うと、キシベはわざとらしく、うーんと唸ってから言った。

「戦っている人、か。なかなか哲学的なフレーズだな。しかしその答えは惜しいが少し違う。私の本質は、戦いではない」

「余計なお喋りをするな、キシベ」

 キシベの言葉に疑問を挟む前に、先頭を歩いていた男が振り返って言った。それきりキシベは廊下で話しかけようとはしなかった。

 私も黙ってついていくと、やがて廊下が終わり、銀色の扉が目の前を塞いだ。その扉の端にある機械に先頭を立つ男はカードを通した。

 すると、『認証しました』という音声アナウンスが響き、銀色の扉が重々しい音を立てて開き始めた。私は扉が開いた先から垣間見える中をじっと見つめた。

 中は白い部屋だった。

 極限まで特徴を廃したような白が否応なく視界に飛び込んでいく。立方体に近い造りであり、奥の壁は真っ白だが両側の壁の下のほうだけが黒いガラスで覆われていた。その奇妙な部屋に、私は何か言い知れぬ戦慄を感じるとともに目を逸らすと、キシベが私の背中を押して重々しい声で言った。

「入るんだ、ルナ」

 キシベが言った言葉が私には理解できなかった。ルナ? それは一体誰のことなのだろう。私の名前はルイであるはずなのに。

 その齟齬に戸惑っていると、先頭の男が苛立たしげにキシベに指示を出した。それに頷いてキシベはやや強引に私の手を引いた。突然の痛みに顔をしかめ、私はキシベを見た。

 キシベの顔には何の感情も浮かんではいなかった。ただ淡々と作業に従事するだけの能面のような顔がそこにはあった。その顔に気圧されてしまい、私は声も出せずに部屋の中心にまで連れてこられた。

 中心まで白衣の研究員らしき男が走り寄ってきてキシベの横に立ち、二言、三言キシベと話してから突然私の姿を撮影した。それだけしてその男は去ったがキシベは私を見たまま離れようとしない。未だ感情の見えないままの表情で私を凝視している。

 周囲では白衣の男たちがなにやら慌しく動き回り、私に電極を取り付けたり、何やら大柄な機械を持ち出したりしている。 

 私はその様子を見ながら、次第に不安になってきていた。今まで慣れ親しんできた真っ暗な世界から唐突に明るい場所に連れ出されたことも理由のひとつだったが、私は研究員達の私を見る眼や、キシベの死体のように感情のない顔が何よりも恐ろしかった。

 研究員達が電極を取り付け終わり、私はまるで色の着いた足が何本もあるイカのような姿になっていた。

 そんな私の姿を見てキシベが頷き、近くの研究者を呼び出して言った。

「G2を出せ。早速、同調できるかどうかのテストを行う」

 G2? 同調? 私が何のことだか分からずに首を傾げていると、突然後ろから機械音がしたので振り返った。

 見ると、床が円形状に抜き取られ、それが徐々にせり上がって来ているようである。それは見ているうちに私の背丈とほぼ同じ高さのカプセルとなった。その中は先ほどと同じようにオレンジの液体で満たされていたが、中身が違っていた。中には黒い球体のような物質が浮かんでいた。ちょうど、直径が三十センチほどの大きさだ。それはコードを上下から付けられて、カプセルの中心に固定されている。

 私が不思議そうにそれを眺めていると、不意にキシベの手が私の肩にかけられた。それに気づいて振り返るまでに、耳元でキシベが囁くようにして静かに言った。

「……これから君は、あの黒い球と生きていかなくてはいけない。そしてその道には、あらゆる苦難が立ち塞がるだろう。それを超えてまた会える日を、私は楽しみにしている。ルナ、いやR01。私は君に――」

 キシベはそこで一旦語尾を濁したが、やがて頭を振ると何でもなかったかのように続けた。

「いや、今はいい。もうすぐ実験が開始される。ここで君とは一旦さよならだ」

 それだけ言ってキシベは手を離して、研究者達に後は任せて、最初にいたもう一人の黒スーツと一緒に部屋を出て行ってしまった。

 私はキシベの行った後の銀色の扉をじっと見つめながら、先ほどの言葉の意味を考えていた。 

 ルナとは一体誰なのかということや、苦難とは一体何のことを言っているのか、さよならとはどういうことなのかということが頭の中で堂々巡りのように回っていた。

 私は振り返り、オレンジ色の液体に浮かぶ黒い球を見据える。キシベはこれと私がともに生きていくことになると言った。それは、どういう意味なのだろう。私はその答えを探そうと黒い球をじっと見つめて目を凝らしたが、黒い球は微動だにしない。はたしてあれは生き物なのか、それすら疑問であった。

 そう思っていると、不意に研究員達の一人が壁に埋め込まれた黒いガラスに向かって何やら手を振った。するとそれが合図だったかのように、白い部屋の中にアナウンスの綺麗な声が響き渡る。

『これより、R01とゴース2との同調実験の開始シークエンスに入ります。オペレーターは与えられた工程をAプランで遂行。内部作業班は不測の事態に備え、緊急防御膜、人工リフレクターの装備、及び衛生服の着用を義務付けます』

 その声が響くと同時に、白衣の研究者達はすぐさま黄色い宇宙服のような衛生服を着始める。次に着替え終わった研究者が他の研究者に何やら配り始めた。何だろう、と思って見ていると、それは掌に収まる程度の四角い物体だった。真っ黒のその立方体は、ひとつの面の真ん中の一部分だけくぼんでいる。その黒い立方体を一人ひとつずつ腰のポケットに入れ、そしてそれぞれ部屋に配置されている機械へと歩み寄った。衛生服は指の先が太くなっているにも関わらず、彼らは慣れた様子で機械を操作していく。

 彼らが機械のキーを叩くたびに、僅かな電流を指先に感じる。まるで間接的に身体に触れられているような、嫌な感じだ。

「……よし、作業工程1から4をクリア。オペレーター、指示を」

 衛生服を纏った研究者がそういうと、またもアナウンスが響き渡った。

『了解。同調実験を開始する。カウント、5、4、3、2、1……』

「同調実験、開始」

 研究者の言葉が響くと同時に、機械のハンドルを一斉に引く音が白い部屋の中に反響した。その音が消えぬうちに、カプセルの中の黒い球に繋がれていたコードが外れていく。その様子をぼんやりと眺めていると、先ほどまでコードに繋がれていた黒い球がふわりと液体の中を動いた。一瞬のことであったので再確認しようと、今度は集中して見つめると、突然黒い球がぐるりと一回転して、中から目のような真っ白い球体を一対出してこちらを見た。身の黒さと対比して奇妙に見えるその目に、私は捕らわれたように思考を凍らせた。

 視界を動かすという動作を奪われたように、じっとそれを見ているとその黒い球の下半分の辺りに突如として亀裂が入り、そこがぱかっと割れて、白い歯がのぞいた。私がそれに驚いていると、黒い球は歯をむき出しにして、にやりと嗤った。

 その刹那、白い部屋が一気に赤く染まった。けたたましいサイレンの音が響き、研究員達が「実験中止!」と叫んだ。そして彼らが私から電極を外そうとしたその時、カプセルが割れ、ガラスが飛散した。

 一体何が起こったのかと研究員の一人がカプセルのほうへと視線を向けた瞬間、黄色い衛生服が突然真っ赤に染まった。視界を確保するための小窓のような部分から赤い何かが噴出し、それは一気に白い床まで汚していった。それを見たもう一人の研究員が情けない声を上げながら逃げ出そうとした。だがその背中に追いすがるような黒い球が見えた瞬間、その研究員の身体は突如として動きを止めた。逃げようと駆け出そうとした姿勢のまま、空間に固定されたかのように動かない。その動かない研究員の目の前に黒い球が飛来する。私からはその背中しか見えなかったが、研究員の身体は小刻みに震えていた。まるで何かに無理矢理押さえつけられているかのように、動こうとしても動けないかのような不自然な震え方だった。

 その研究員の目の前にいる黒い球は鋭角的な目で研究員を睨みつけていたが、突然その白い目が青く発光し始めたかと思うと、先ほどまで止まっていただけの研究員の身体の周囲に青い光が纏わりついていく。一瞬で蛇のように纏わりついたその光は研究員の身体を締め付けるようにうねり、そして一度蠢動するかのような動きを見せた刹那、衛生服の隙間から先ほどと同じ、赤い液体が今度は霧のように激しく噴出し、その研究員は床に倒れ伏した。

 黒い球はその研究員へと近づき、衛生服から流れ出るその赤い液体を口から出した長い舌で舐めとった。最初はちろちろと舌先だけで舐めていたが、それだけでは満足できなくなったのか遂には舌全体を使って衛生服まで舐め始めた。屍を弄るようなその光景に、私の近くにいた研究員がそれを見て叫び声を上げる。それでこちらに気づいた黒い球が、研究員をその視界の中に捉えると、口角を吊り上げて卑しく嗤った。

 それで研究員は恐怖に戦きながら、腰のポケットから先ほどの黒い立方体を取り出す。それと同時に黒い球が弾丸のような速度で一気にこちら目掛けて飛んできた。そこで私は目の前の研究員も先ほどの仲間たちを同じ末路を辿るのかと思ったが、突然に黒い球は研究員の目の前で動きを止めた。

 それは手に持った四角い立方体のおかげであった。その立方体のくぼみの部分から、四角い防御膜が形成され、前面に展開されているのだ。それが黒い球の進路を阻んでいるのである。

 黒い球が何度もぶつかって砕こうとするが、予想以上にその防御膜は強固らしく、ひびすら入らない。何度目かの体当たりの後、黒い球は防御膜から離れた。それでもう黒い球が諦めたと思ったのか研究員も安心したかのように、叫び声を止め荒々しい息を整え始めた。

 だが、黒い球は諦めたわけではなかった。

 突然に黒い球の周囲の空間が濁ったような色になり歪んでいく。同時に、黒い球の姿が徐々に変化していった。丸かったその身から尾びれのような刺々しい突起物が一対出現し、顔が引き伸ばされていく。目つきはさらに鋭くなり、口はさらに裂けて赤い口腔内がありありと見えた。さらに先ほどの空間の歪みから何やら手のような物体が出現していく。紫色のその手は手首から先の腕がなく、本当に手だけが黒い身体の付随物のように浮いている。

 それを見て、研究員が息を荒らげ、呟いた。

「……ば、馬鹿な。ゴーストになっただと。こんな急速な進化なんて、データ上ありえな――」

 そこまで言って研究員の声が途切れた。気づけば、紫の手が衛生服の上から首筋を絞めていた。その手はきりきりと万力のように食い込んでいく。いつそうなったのか、防御膜にはちょうど手が貫通した部分だけ砕けていた。

 研究員は一瞬の出来事に声を出すことも出来ない。さらに言えば、首筋を握られていれば息をすることすら出来ないだろう。絞められて窮屈になった首から呼吸の音だけが妙に聞こえてくる。その次の瞬間には衛生服にしわが寄るほどに締め上げられ、つま先が宙に浮いていた。ゴーストと呼ばれたその黒い塊は、その痛ましい光景を直視してもなお、愉しんでいるかのようにその顔に嗤いさえ張り付かせながら手に更なる力を込める。

 その瞬間、果実の砕けたような音が響いたと思うと、ごとりと重い音を立てて何かが床に転がった。それは球体のようであった。黄色い色をしている。それがごろごろと私の足元に転がってきた。

 それは研究員の首だった。黄色い衛生服のおかげで直接顔は見えないが、その眼がどんなふうに開かれているのか分からないぶん余計に不気味な印象を持っている。先ほどまで身体と繋がっていた部分は赤く汚れていた。

 それをじっと見つめていると、不意にゴーストが鳴き声を上げた。見ると、ゴーストの身体が青い光に包まれていた。それはまるで宙に浮く人魂のように見える。

 ゴーストに纏わりつくようになっていた青い光は、大きくのたうったかと思うと、波紋のように周囲へと広がっていく。それが壁の黒いガラスに触れた瞬間、ガラスが凄まじい音を立てて崩壊した。それと同時に悲鳴が聞こえたがすぐに聞こえなくなった。恐らく、青い光に巻き込まれて倒れたのだろう。

 一瞬でこの場は私とゴースト以外、誰一人としていなくなった。

 ゴーストが私を見つけ、血に汚れた手を垂らしながら私のほうへとにじり寄ってくる。口元には殺人を嗜好するものの笑みが浮かんでいる。

 私は逃げようとした。しかし逃げられない。いつの間にか、ゴーストが纏っていた青い光が私に絡み付いて全ての動きを奪っていた。

 私は足を動かすことも、視線を外すことも出来ない。

 ゴーストの紫色の手が、私へと近づいてくる。私の全神経を奪って根こそぎ食らい尽そうとするかのような、凄まじく血走った眼が睨みつける。

 それで逃げるという選択肢は確実に断たれてしまった。

 私の首筋にその紫の手が掛かる。冷たい手だった。カプセルの中に居たときに感じたのと同じ、鼓動が氷結して血液がまるで流れていないような、体温のひと欠片すら感じられない手。その手にこべりついた赤い液体から発せられる鉄錆くさい匂いが、鼻腔を刺激して吐き気を催した。

 その手がきりきりと私の首を絞めていく。ゴーストの手が触れた部分から、私の身体に冷気が伝染していく。

 それは近づきつつある死の感触だった。だが苦しみはない。痛みもない。

 また元の世界に戻るだけだと、私は感じて瞼を閉じた。

 暗く冷たい世界がまた、周囲を覆った瞬間、何かの弾けた音が私の耳の中に残響した。


オンドゥル大使 ( 2012/08/17(金) 21:40 )