第四章 三節「遭遇少女T」
歩くたびに闇夜の湿気が身体に纏わりつくようだった。
きっと昼の戦闘で掻いた汗がそのまま残っているのだ。博士の家でシャワーでも浴びてくれば良かった、とリョウは思いながら草むらの中を進んでいた。
昼と同じ道ではない。ここはタリハシティに近い六十五番道路。都市に近いだけあってポケモンが出るような草むらは道の端っこにあり、道路幅は普通の道路よりも広い。タリハシティから見ればここは西側の通路に当たり、北と南に走るサイクリングロードに比べれば遅れた印象を受けるが、それでも一般道路に比べれば整備は進んでいる。普通に舗装された道の真ん中を歩いていればまず野生のポケモンに出会うことはない。
しかしリョウはあえて道の端の草むらの中を進んでいた。夜のみ出現するポケモンを狙っての行動ではない。理由は単純明快、今夜の寝床を確保するためだ。
ポケモントレーナーは基本的には野宿である。人にもよるが大抵そこら辺の道路で寝袋に包まって一夜を過ごす。「そらをとぶ」や「テレポート」などの特殊な移動の技を持っていない限りは街にたどり着ける保証のないトレーナーにとっては宿を選ぶことなど出来ないのである。
しかし、リョウは「そらをとぶ」を使えるポケモンがいるにも関わらず、それを使って宿に泊まる気はなかった。理由は単純なこと、金が要るからだ。
兄を見つけるためにはカイヘンで散財するわけにはいかなかった。生活に最低限必要なものならまだしも、宿は一晩だけでも金が掛かる。カイヘンで見つかる保証もない今、捜索範囲を広げるためにもリニアラインに乗る必要がある。しかしリニアラインはちょっとやそっとの金では乗れるものではない。
もともとカイヘンは遅れて開発が始まった地域だ。そのせいかカントーから持ち込まれた先進技術を用いた物の値は大変高い。それはロケット団が流通に関与している関係もあったが、どちらにせよ今のリョウではリニアラインの切符は買えなかった。リニアラインの切符は全て定期性であり、一度買えば更新期日まで金は払わなくて済むが、一番初めの購入時がもっとも高い。とても子供の小遣い程度では買える代物ではなく、大抵は資産家や高額所得者が乗る特別な交通機関である。
それ以外でこのカイヘンを出るには定期的に港にやってくる客船を利用すればいいのだが、それにはあらかじめチケットがなければ乗れない。手っ取り早く乗る方法としては地方のポケモンリーグに挑戦しそこでチャンピオンになればいいのだが、その気のないリョウにとっては関係のない方法だった。
兄を捜すためにはあらゆる方法を尽くす覚悟があったが、チャンピオンになるというのは違う気がしていた。
チャンピオンになっても見つからないことを恐れているのも、登り詰めても兄に追いつけないことが分かっているのも理由ではあったが、それだけではなかった。
リョウがもっとも恐れているのはそこに至っても満たされない己の心だった。この数ヶ月、リョウはあらゆるつわもの達と戦った。普通のトレーナーならば一戦勝利するだけでも満足するような激しい戦いを何度も切り抜けてきた。
だがそれでも心が満たされることはなかった。
いくら戦っても、何度勝利してもどこか冷め切っている。戦いが最終目的ではないことも起因しているのかもしれなかったが、それよりもリョウは自身のうちにもっと強いものと戦いたいという渇望にも似た感情があることに気づいていた。
誰よりも強い兄と並ぶためにはこのカイヘンの誰よりも強くあらねばならない。その感情がいつの間にか強くなりすぎて歪んでしまったのか、それとも最初からその形しか用意されてなかったのか、それは分からなかったが今のリョウは戦いを渇望して止まなかった。それは無意識下から滲み出て彼の顔の印象すら変えてしまう。それは彼だけではなく彼のポケモンにも影響が及んでいた。戦いになれば、恐らくリョウと彼のポケモンは相手を食い尽くす魔物となるのは自身が一番に理解している。
戦いを望んでいるからこそ、自分は野生のポケモンが出る可能性が高い草むらを寝床にするのかもしれない、とリョウは思い手ごろな場所に腰を下ろした。
そこで寝袋を出そうとカバンに手をかけたその時である。
突如、視界の端の暗闇に白い影が揺らめいた。その影をリョウはカバンに手を突っ込んだまま、目だけで追う。
どうやらこちらに向かってきているようだ。白いシルエットがふらふらと危なっかしく揺れ、長い髪を振り乱しながらこちらへと駆けてくる。その影からは何かに追われているような切迫した感じがして、リョウはボールを一個握って立ち上がり、その影の行く手を塞いだ。
果たして、その影はリョウへとぶつかった。
いたた、という声が暗闇の中で聞こえる。街灯がないために顔が見えないがその声音から推測するに少女だと思われた。
「どうしたんだ? そんなに急いで」
リョウは自分の近くにいるだろう少女に話しかけた。その時、野太い声が少女の来た方向から聞こえてきた。
数人の声が荒々しく被さっていたが、どうやら一様に「待て!」と言っているようだ。
その声に反応して見ると、数人の集団が目の前にいた。暗闇に同化するような黒服を着ているらしくその姿は不鮮明だったが、それでも全身から立ち上る荒々しい空気がその集団から出ているために気配は手に取るように分かった。
リョウは目線だけで人数を数える。
四人組、恐らく全員大人の男だ。
「……なるほど。これが急いでいた原因ってわけか」
言いつつ少女を後ろに回らせ庇うように自分は前に出た。それを見た黒服の集団は低い声でリョウへと食いかかる。
「なんだ、お前は? 我々の仕事を邪魔しないでもらおうか」
「仕事? 女の子を追っかけまわすのが? ……そりゃ随分と大層な仕事だな」
リョウが笑みを浮かべながら言ったのを聞いて、黒服たちの荒々しい空気がより鋭さを増した。後ろの三人が前に出ようとするのを制しながら、リーダー格らしい黒服が重々しく言う。
「……今なら、その少女をこちらへよこせば何も危害は加えない。君とて突然やってきた他人のために命を張る気はないだろう?」
その言葉に少女がリョウの顔をのぞき見た。それを一瞬見返してリョウは目を閉じて答える。
「確かに。合理的に考えれば俺がここで手を出したところで、損するのは俺だけだ。ここでは知らん顔をするのが得策かもな」
「そうだろう。さぁ、早くこちらへ」
黒服が手を伸ばす。だが、その手を睨んでリョウは、フッと笑った。
「――だがな。生憎俺は知らん顔が出来るほど賢くはないんだ。生まれつきバカだからさ、こういう余計なことには首を突っ込みたくなるんだよ」
言ってリョウは手に持っていたボールを構えた。それを見た黒服が、舌打ちをして腰からボールを抜いて吐き捨てた。
「……長生きできたものを。バカが!」
「悪いな。そいつは褒め言葉だ!」
叫んだ瞬間、両者は同時にボールを投擲した。黒服は二つ、リョウはたった一個のボールだけを投げた。
「いけ、イーブイ!」
リョウが言った途端、ボールが宙で二つに割れ、中から光に包まれた茶色い体毛のポケモン、イーブイが射出される。
対する黒服のポケモンは二体とも足の多数生えた節足動物のような姿をしていた。
子蜘蛛を思わせるような小さくこぢんまりとした姿をしている。一体は朱色でもう一体は青い体表を持ち、頭の部分には小さな角が生えている。この蜘蛛のようなポケモンの名はイトマルといった。一対ある小型の単眼が目の前のイーブイを睨みつける。体長自体はイーブイより小さいにも関わらず恐れているような様子はまったくない。
「私に喧嘩を売って勝てると思うなよ」
黒服が一歩進み出て言った。
「私はロケット団幹部の一人、疾風のシリュウ。この二つ名の通り、私のポケモンはロケット団の中でも最速を誇る。見せてやろう。いけ、イトマル!」
瞬間、イトマルの姿が消失した。それにイーブイがあっけに取られていると、イーブイの両側の地面から静寂を引き裂くような激しい音が聞こえ、砂煙が舞った。リョウがその場所を見ると、コンクリートの地面にまるで巨大な重機で抉り取られたような爪痕が残されていた。
それをリョウがじっと見つめていると、シリュウが出し抜けに笑い始めた。訝しげにリョウがそちらに目をやると、先ほど消失したイトマル二体がシリュウの前に戻ってきていた。
「速すぎて見えなかったか? それもそうだろう。我がポケモンは獲物に移動中の自分の姿を見せてやるほど優しくはないのでね。残像すら追えまい」
笑いながらシリュウはリョウのイーブイを真っ直ぐに指差す。
「さて、次は当ててやろう。もっとも、こうやって宣告したとしても君らには見えないだろうが」
言った刹那、二体のポケモンの姿は消失する。リョウのイーブイは動かない。シリュウのイトマルは両側から、イーブイを切り裂こうと迫る。それにシリュウは勝利を確信した笑みをこぼした。どうせ見えまい。自分が倒されたことすら分かるまいと、高をくくって。だが、その時シリュウの耳に奇妙な声が聞こえた。その声に気づいて、シリュウが僅かに視線を向けると、目の前のリョウがシリュウと同じような笑みを帽子の下からのぞかせていた。それを見た途端、シリュウの笑みは凍りついた。
「なぜ、この状況で笑う?」
その質問にリョウは、くくく、とさも可笑しそうに笑いながらシリュウを見て言った。
「遅ぇんだよ。馬鹿が」
その言葉の意味をシリュウが理解する前に、イトマルの攻撃がイーブイのいた場所を抉り取った。シリュウが着弾点を見つめる。
だが、そこには攻撃を受けているはずのイーブイの姿はない。それでシリュウはリョウを見た。
瞬間、全ての思考が凍りついた。
こちらを見つめるリョウの眼がまるで獣のように一瞬見えたからだ。それは相手の血の一滴まで啜り、肉の一片まで食い尽くす凄まじい修羅の顔である。
それにたじろいでいると、ふと視線を下から感じてそちらに目を向ける。そこには先ほどまでリョウの側に居たはずのイーブイがいた。そのイーブイの眼も、先ほどまでの印象とは打って変わって、まるで鬼のような空気をはらんだ鋭い視線である。それに驚いて、退くと、イーブイの後ろに何かが転がっていることに気づいた。
それへとゆっくりと視線を移動させる。
そこにあったのは先ほどまでイーブイを蹂躙するはずだった自分のポケモンたちだった。致命傷は与えられていないらしいが、どちらも戦闘不可能なほどのダメージを追っているようでピクリとも動かない。シリュウはそれを見て、何が何だか分からなくなっていた。ほんの一瞬のうちに二体のポケモンが同時に倒されたなど信じられることではない。それにシリュウは自分の力量に少なからず自信を持っていた。それがこうも簡単に打ち砕かれるなど信じられなかったのだ。
「まだやるか? ロケット団幹部のシリュウさんよ」
リョウが言うと、シリュウは口惜しそうに唇を噛みながら、舌打ちをして二体のポケモンをボールに戻した。
「ここは一旦退かせてもらおう。だが、貴様はロケット団に楯突いたことを後悔するぞ」
言って仲間の黒服の一人にポケモンを出させた。
出されたポケモンはケーシィという狐のような顔をした人型のポケモンである。それを出した瞬間、黒服たちの姿は景色に溶け込むようにして消えていった。恐らく、ケーシィの技「テレポート」を使って近くの街へと移動したのだろう。
リョウは黒服たちの姿が完全に見えなくなってから、ため息をひとつついてイーブイをボールへと戻した。
そして先ほどから服にしがみついている少女の頭にぽんと手を置いて言った。
「もう大丈夫だ。奴らは逃げていった」
だが少女はまだ安心していないのか、ふるふると首を横に振った。それを見て、リョウは屈みながら諭すように言う。
「いいか。もう奴らは行ったんだ。安心しろ、もう追って来ない。奴らだってお前を追うことにかまけているほど暇じゃねぇだろうし、どうせぶつかってインネンでも付けられたんだろうが、でかい街に行かない限りはもう会うことはねぇよ。だから、安心しろ、な」
リョウは出来るだけ安心させられるように優しく言ったつもりであったが、少女は首を振って、消え入りそうな小さな声で言った。
「……ダメだよ。また追ってくる。ボクは、いつまでだってやつらに追いかけられるんだから」
「ん? ボク?」
リョウは少女の言葉に疑問を感じて、その姿を見つめる。
薄紫色の長い髪が腰の辺りまであり、服は白いワンピースを纏っている。月の明かりで白い陶器のような肌が淡く照らされている。全体的にほっそりとした身体つきで、胸元が控えめに隆起している以外は印象の薄い感じを受けたが、その顔にある血のように赤い眼だけが忘れられないような強い印象をかもし出している。
どこからどうみてもその姿は少女のものだ。
「あー。……なんだ、まぁその」
リョウは困ったように、頭を掻きながら立ち上がって、ちらりと少女を見る。少女は物珍しそうにリョウの服装を眺めている。その手はほっそりとしていて頼りない。見ると本当にワンピース一枚しか着ていないようだ。とてもではないが一人放っておける状況ではない。
リョウはその姿を見て、再度大きなため息をついた。