ReverseU
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その日が訪れたのは唐突だった。
耳に響くのはただ泡の音だけだった毎日。私はいつもの通り、その泡の音を鼓膜の内側に感じながら、何をするでもなくいつもと同じような思考を繰り返していた。本当に特別なものなど何一つなかった。だからこそ、その時が来たことが私にはにわかに信じられなかった。
その訪れは、耳の内側の泡の音のリズムが変わったことから始まった。鼓動にも似た規則的なリズムが僅かに遅れ始めたのだ。ゴボッゴボッ、と響いていた音が、段々と小さくなり、遂にはまるで初めからそんな音などなかったかのように消えうせた。
私は無音になった世界に耳を澄ませた。今まで当たり前のように連れ添ってきた音が急に消え、私は擬似的な孤独を感じていた。
だがそんな孤独感すら一瞬のことに過ぎない。
畳み掛けるように変化は訪れる。突然、周りを覆っていた冷たい闇が融けていったのだ。それと同時に私は自分の中に熱を感じ始めた。氷のような闇が晴れていくと私は指先、手、足、そして自分の鼓動がまるで内側から沸いてくるように感じられた。
それと同時に、私の身体に急に何かがのしかかってきたような、とてつもない重量が感じられた。その感覚に思わず私はうずくまるようにその場に倒れる。
知識だけを蓄えた脳髄が、それは「重力」だと告げた。この星に生きている以上、誰にでも等しく感じられるものだと言う。だがどうして今まで感じられなかったものが今になって感じられるようになったのか。
私は這い蹲るようにして、腕で身体を持ち上げながら周囲の状況把握に努めた。今まで閉じられていた眼を開けると、光が必要以上に流れ込んできて網膜の裏を焼かれるような痛みが走る。それに耐えながら、視界を開くとぼやけた灰色の景色が目の前に立ち現れた。ぼやけている原因は周囲を覆っているガラス状の物体の作用だった。それはまるで私を囲うように存在している。下を見ると排水溝のように細かい網目状の床になっていた。上を見上げると、チューブ上の物体が釣り下がっており、それのうちの一本が私の身体に直接繋がっていた。何故だかそれがとてつもなく不快に思えたので、私はそれを無理やり引き剥がした。痛みはあったがそれは意外と簡単に外れた。
それと同時に、周囲を覆っていたガラスが機械的な音を立てて急に持ち上がった。それでぼやけていた景色が鮮明となる。
私は自分がいた床が周囲の地面より少し高い位置にあったので、慎重に地面に下りた。そして先ほどまで自分がいた場所を見ると、そこが細長いカプセルのようになっていたことに気づいた。周囲を見渡すと同じようなカプセルが左右に幾つも並んでいる。それら全てがオレンジ色の液体で満たされていた。
隣のカプセルの中身を見ると、長い髪の少女が裸で液体の中に浮いていた。カプセルの上の金属部に「R02」と標記されている。意味はよく分からなかった。それが彼女の名前なのだろうか。私は不思議な心持になってその標記を眺めた。
そしてその隣のカプセルを見ると、今度は白骨が液体の中を漂っていた。まるで子供のもののような小さい骨だった。文字がかすれていたが、かろうじて「R03」と標記されているのが分かった。私はばらばらに漂っている骨の一部分を、羨望にも似た気持ちで見つめた。
そしてその隣のカプセルには誰もいなかった。代わりにカプセルの底になんとも形容しがたい物体が沈殿していた。無理矢理名をつけるのならばそれは灰の塊のような物体だった。その塊に向かって真上からチューブが垂れ下がっていた。順番としては「R04」だろうが、そこの標記は何かで塗りつぶされたように消されていた。私はその灰の塊のような物体から、悲哀にも似た気持ちで目を逸らした。
それから私は自分のいたカプセルへと戻ってきた。そして上の金属部に標記された文字を見る。
――R・・・・・・U・・・・・・i
Uとiは少し上のほうがかすれていたが、確かにそう読めた。それが名前を示すものだとしたら、それが私に与えられた名なのだろうか。
RUI……ルイ。それが私の名前。
「ル……イ……」
その名前を、初めて使う喉で何度も繰り返す。
ルイ……ルイ……。
喉を使ったことが今までなかったので段々とかすれた声になっていく。それでも構わずに、私は自分の名を言い続けた。
ルイ……ルイ……。
何度でも何度でも繰り返す。なぜなら、それは私が生まれて初めて手に入れた、私自身を示すものだったから。
まるで宝物を手に入れたような心地になってずっと呟いていると、唐突に背後の扉が開いた。私がびくりとしてそちらを振り返ると、白衣を纏った男が私の姿を見つけて目を見開いていた。そして見る見るうちに、顔が血の気が引いたように青くなり、手足が震え始めた。それを不思議そうに眺めていると、男が「誰か!」と左右に向けて叫んだ。すると、すぐに何人かの同じ服装の人間がやってきて、いつのまにか入り口は白衣の人々がひしめく空間となった。その白衣の人々は一様に私をなにやらなめまわすように見るので、私は何だか気持ちが悪くなって、俯いた。
その時、白衣の集団を押しのけて黒スーツ姿の男が二人やってきて私の目の前まで歩み寄ってきた。白衣の人々はその様子を相変わらず入り口の辺りで見守っている。私は突然やってきたその黒スーツ二人組みを見比べた。
一人は灰色の髪をした彫りの深い顔立ちの男だった。その口元に浮かんでいる笑みが何やら卑しく思えて、私はそちらから視線を外し、もう一人を見た。もう一人の男はまるで全ての感情が消え去ったかのようなうつろな表情をしていた。喪失したかのような表情、と思えばそれはやっと望みのものを手に入れて一時的に全ての感情がリセットされたかのようにも思える。私はその表情をじっと見つめて分析しようとしたが、その前にその男が大声で白衣の一人を呼びつけた。そして着ていた白衣を剥ぎ取り、私の身体に被せた。
「裸のままの君をこのまま連れまわすのは私としても気が引ける」
男はそう言った。硬質な言葉遣いだったが優しげで、どこか安心できるような声音だった。
「行くぞ、キシベ」
灰色の髪の男がもう一人に告げる。それでキシベと呼ばれたその男は頷いた。
「誘導する。歩けるか?」
キシベの言葉に私は頷いた。
「結構。ならば、ついて来い」
その言葉で私は一歩、歩き始めた。不思議と初めて歩いた、という感覚ではなかった。頭の中に知識としてあったためであろう。だが、身体のほうはそうは行かなかったらしい。頭では分かっていても着いてこない身体は三歩目でバランスを崩して躓いた。それを隣のキシベが受け止める。
「無理はしないほうがいい。私が誘導しよう。手を」
私は差し出された手を見つめる。ごつごつとした掌が無防備に開かれている。私は手を、ためらいながらもその掌の上に乗せた。