ポケットモンスターHEXA











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リョウ編
第四章 二節「旅の理由」
 ミサワタウンはカイヘン地方の南西に位置する小さな町だ。

 人口の少ないこの町はそれに比例してか家屋も少ない。そもそもこの町は全てのトレーナーにとって「始まりの町」と称される場所であり、若者はトレーナーとなって出て行くばかりで後にはその家族が残されるだけである。そして大抵の若者はポケモンリーグを制するか制さないかすれば一度だけこの町に帰ってきてまた旅に出るので、大抵の家族は帰るあてがなくなればここを引っ越す。そのために家族がひとつ入ってくれば今までいた家族がいくつか消えるという状態になっている。

 またこの町から別の町に行く場合の道はひとつしかなく、それは町の北にある三十二番道路のみである。だがこの道路は草むらも多く、トレーナー初心者の最初の関門となっている。

 その草むらに面した場所にヒグチ博士の研究室、兼ユウコの家はある。本来ならばユウコの家が先なのだが、ヒグチ博士の研究所として設けられている部分があまりにも大きいために、ほとんどの町民はここをユウコ家族がすむ家ではなく、ヒグチ博士の研究所として認知している。

 そして今、リョウはその研究所の前にオオスバメとともに降り立った。リョウはオオスバメに労をねぎらってからボールに戻し、研究所のドアを開けて中に入った。と言っても表はユウコの家である。ならばそこにはもちろんユウコがいてもおかしくは無く、

「あ」

 目の前に薄いシャツ一枚を引っ掛けたユウコがパタパタと団扇でシャツの間から扇いでいても不思議ではない。

 だがそんな考えに至る前に、現物を見てしまったリョウは、パタリと団扇を取り落としてこちらを見ているユウコとお見合い状態になりながらただ一言、「スマン」と言って急いで扉を閉めて走り出した。

 その足を追いかけるように叫び声が上がる。その叫び声が追いつく前にリョウは裏手に回り、鉄製の裏口から研究所の中に逃げ込み、急いで扉の鍵を閉めた。

 それを見たヒグチ博士は電話の途中だったのか受話器を持ったまま、リョウを見て目を丸くした。研究所にいる無数のナゾノクサも驚いて、リョウのほうを一斉に見つめた。
「どうしたの?」と博士の目が言っている。リョウはそれに対し肩で息をしながら親指と人差し指を使って「ちょっとね」と言った。

 その時、ドンドンと激しい音とともに「ここ開けろや、リョウ! 今日という今日はもう許さん。あたしが殺したる!」という怒声がユウコの家と繋がっている側の扉からしてきた。まるで槌で打ち付けているかのような音にヒグチ博士は仰天して、どうしたらいいのか分からないのかリョウを見た。

 リョウは手を振りながら「放っておいてくれ」と言ってから、「電話、続けて」と手を差し出して言った。

 それでようやく博士は本来の用事に戻った。しかしドンドンという激しい音はその後数十分間鳴り続けた。

 電話も終わり音も止んでから、やっとリョウは落ち着いてソファに座って博士が出したお茶を飲んでいた。

「どう? もらい物なんだけど」と、博士が言うのでリョウは顔をしかめながら、

「えらく甘いな、これ。気持ち悪い」と率直な感想を述べた。

 その感想に博士は首をかしげながら自分が今持ってきた湯飲みに口をつける。すると博士もリョウと同じ顔になってその湯飲みをテーブルの上に置いた。

「で、えっと……頼んでいた用事はどうなった?」

「ああ、これか」

 リョウがポケットからボールをひとつ博士に差し出す。それを見た博士は笑顔になって受け取った。

「いやぁ、やっぱりリョウ君は頼りになるな。おかげで研究が続けられるよ、ありがとう」

「いいって別に。それよりもこいつ強すぎるだろ。化けもんみたいな強さだったぞ。一歩間違えたら死んでいたところだ」

 博士の持っているボールを指差してリョウは不機嫌そうに言った。

「いやぁ、面目ない。まさかいつの間にか逃げ出しているとは思わなくてね。それにラフレシアにまで進化していたとは、参ったよ」

 ハハハと博士は愉快そうに笑った。リョウはしばらくそれを無言で睨んでいたが、やがて博士は、笑いの最後にハァとため息をついて肩を落とした。

「……いや、すまない。笑い事じゃなかったね。私もぼうとしていたのが悪かったんだが、それも仕方ないことなんだ。分かってくれ。最近色々とあってね。本当に頭が痛くて。こんなお茶でも普段はおいしいと思えるくらいなんだよ、笑うかい?」

 博士はそう言って湯飲みに入ったお茶を一気に飲み干した。飲み干してから、またため息をついた。リョウはその姿に言い知れぬ痛々しさを覚えながら、やんわりと尋ねた。

「タリハシティのことか」

 その問いに博士は頷いた。

「あれでディルファンスはロケット団に対して完璧に喧嘩を売った。いや、喧嘩なんてもんじゃない。戦争だよ。まさかシルフカンパニーのビルに襲撃をかけるなんて思ってもいなかった。あれじゃ、余計に治安が悪くなる一方だよ。国際社会からの非難を浴びないように、あらかじめ政界に根回ししていたらしい。議員たちはもう、彼らの飼い犬同然だ。政界を追われても、先のある組織の幹部に天下りだ。喜んでスケープゴートになるだろう」

「警察はもはやディルファンス寄りだしな。都合のいいように情報を操作することも可能だろうし、なにより民衆の支持は得やすいだろう。かつてカントーで悪事を働いた組織と、美しきリーダーが統治するディルファンス。民衆がどちらを選ぶかなんて事は聞くまでも無いことだ。あれだけ派手なことをしても、民衆の力やメディアの力を使えばまったく罪の無い一介の従業員をロケット団員として吊るし上げることだって可能さ。まったく、末恐ろしいな。どうなっちまうんだ、カイヘンは?」

「今、それについて私と何人かの有識者で会議をしようというところだよ。だが、もうディルファンスは私の手を離れようとしている。手綱を握っていたつもりが知らぬ間に握られる側になっていたなんて、マヌケな話だけどね。サキがいたなら怒られるな」

「さっきの電話はそれか?」

 リョウの問いに博士は重々しく頷いた。

「もう私は組織の信用を高めるためだけのただの看板に過ぎないよ。私の名前を出せば大抵の団体は丸め込める。彼らもそれを分かっているんだろうね。さっき私に向かって、写真の提供とサインだけを求める電話が掛かってきたよ。そしてこれがその書類だ」

 博士はテーブルの上に一枚の紙を置き、そこに書いてある項目をボールペンの先でさしながら説明する。

「ここには大まかに言えば私がこの団体の信頼性を保証するとか言うことが書いてある。そして私のサインがあれば彼らはメンバーを増やせるだけではない。金の流れだって自由に操れるようになる」

「きな臭い話だな」とリョウは何か醜悪な臭いでも嗅ぎつけたように顔をしかめた。

「きな臭かろうが事実だ。このサインを私が書いた瞬間に、私の研究費用からも彼らは資金を取り出せるようになる」

「無論、許可はしてないだろ?」

「当たり前さ。彼らの好きにはさせない」

 博士は力強く言い切った。だが言い切った後に、どこか煮え切らないような表情を浮かべ、そしてまた力なくため息をついた。

「好きにはさせない。……だがそうさせるしか道が無い、ってことか」

 リョウが言うと博士は弱々しい声で話し始めた。

「私にも責任というものがある。一度支援すると決めた組織を見限るにはそれなりの覚悟が必要というわけさ。それもその組織が大きくなっているのならば、なおさらね。いまや私の声よりも彼らの声のほうが大きいんだよ」

「各界への影響力の差か。なるほど、あの峰麗しいディルファンスのアスカ様なら確かに影響力は強いだろうな。鼻の下の伸びきった政治家ならいくらでも尻尾を振るだろう。どうぞ飼いならしてくださいって言わんばかりにな。……と、こんなこと言っているのがナツキにばれたら殺される」

 わざとおどけたようにリョウが言うと僅かに博士も笑った。だがそれはすぐに消え去り、また憂鬱そうな顔になった。

 その顔を見ながらリョウはぼんやりとした頭の中にタリハシティで見た光景を思い出した。

 金色の表皮に水色の翼を持つ巨大なドラゴンポケモン、カイリューの巨体が空を舞い、灼熱の炎がシルフカンパニーのビルを覆っている。街の人々は皆集まり、ビルの前に立ったアスカの号令の下、ロケット団排斥へと動き出す。夜の静寂を引き裂く罵声、叫び声。それは人々の純粋な願いでありながら、ディルファンスという矛がそれを凶悪化させて暴動にも似た緊張感を生み出している。その中にいた自分は、群集の先頭に立つアスカに対し何か胸騒ぎのような不審にも似た気持ちを抱いていた。

 ディルファンスが民衆に与える安心感、それは武器を持っていつでも相手を殺せるという黒い感情と同じものだ。加えて民衆はただディルファンスを応援しているとだけ言えばいい。檻の外でお互いを殺し合う動物を外から眺めているのと同じだ。そこには責任も痛みも伴わない。

 ただの余興として民衆は参加している。それが檻の中の獣に操られているとも知らずに。

 カイリューが放った破壊光線が、ビルを縦に引き裂きロケット団の墓標とした瞬間に、その場にあった今まで抑えられていた破壊的な欲望にも似た感情は最高潮となり、歓声が人々の間から上がる。

 そこにアスカによって掲げられるディルファンスの旗。青い五角形を中心にすえた旗が火の粉を纏った夜風にはためく。

『皆さん、これは反抗の始まりの旗です。これから我々はあるべき真の平和へと、我々自身の足で動き出すのです。そのための道標としてこれをこのビルの前に立てます。様々なる悪を封じ、防ぐ唯一の五角形の盾、ディルファンスの名の下に!』――。

「……結局、同じじゃないか」

 呟かれたその言葉に博士は顔を上げ、目の前のリョウを見つめた。彼は憤っていた。どこに、ということは博士には分からなかったが、その眼が確かに赤く煮えたぎった光を宿しているのが分かった。

「なぁ、博士。ポケモンを使って争う人間って、どっちが裁くべきなんだ?」

 リョウは博士の顔を見据えて続けた。

「人間を裁くなら、裁く奴は誰だ? ポケモンに裁かせるのか? 人間に裁かせるのか? 俺たちはあいつらを使って争いあって、勝手に殺し合わせている。争っている、って言う点で言えば、ディルファンスもロケット団も、……俺たちだって同じ穴の狢じゃないか。なぁ、博士。誰が、どんな風に裁けばおさまるんだろうな」

 そう言ってリョウは中空を見つめた。博士はその問答に出口がないことが分かっていた。だが分かっていたからこそ、出来るだけ毅然とした態度を装って言った。

「……ああ。だが、君が気にすることはない。この問題は私たちが解決する。なに、まったく仲間がいないというわけじゃない。私に共感してくれるものも十分にいる。タリハシティのようなことはもう起こさない」

 その言葉にリョウはしばらく俯いていた。博士一人でどうにかなる問題ではない。それが分かっていたが今この場で自分が論じたところで同じようにどうにかなる問題ではないことも分かっていた。

 ならばせめて、少しでも博士を安心させたほうがいいのかもしれない。それが、今の自分に出来ることなら。

「分かったよ。……当てに、していいんだよな?」

 少しの不安を口にすると博士は笑って頷き、立ち上がった。

「ああ。信頼してくれていい。そうだ。他にももらい物のお茶があるんだ。もう一杯飲まないか?」

 空気を切り替えるようにそう言って、先ほど空にしたばかりの湯飲みをもってポットのほうへと歩いていった。

 リョウはその背中を見つめながらまだ胸の中にわだかまる不安を完全には拭えずにいた。誰かに簡単に押し付けることのできない先行きの見えない不安が、気にすまいと思っていても湧き上がってくる。

 だがリョウの不安はディルファンスの事ばかりではなかった。

「それで、どうだい? 君の旅の様子は」

 その言葉に顔を上げると博士が湯飲みを差し出しながら目の前に立っていた。それを受け取りながら、リョウは首を横に振った。

 それを見た博士は自分のことのように残念そうな顔をして対面のソファに身体を預けた。

「そうか。八つのバッジを全て手に入れた今ならば或いは、と思ったが」

「八つじゃねぇよ。七つだ。キリハシティのやつだけ取れなかったんだ」

 リョウが口を挟むと、博士は思い出したように言った。

「ああ。そういえばそうだったね。キリハシティのジムリーダーの、……誰だったかな?」

 宙を見つめて思い出そうとうなる博士に、リョウが「チアキだ」と助け舟を出した。

「そう、チアキさん。行方不明だって? 噂じゃジムリーダーの規律に違反していただとか言われているけど」

「事の真相なんて知らねぇよ。はっきりしていることはそのジムのバッジだけ取れなかった。それだけさ」

「でも、そのバッジが無くてもポケモンリーグには挑戦できるのだろう? ジムリーダー不在時の特例ってやつで」

「らしいけど、俺は興味ない」

 言ってリョウは茶を啜った。

 博士はそんなリョウの様子を見ながら、どことなく緊張した面持ちで言葉を発した。

「しかし、カイヘン中捜し回ってもとなると。……甘かったかもしれないね。やはり、手がかりはこのカイヘンには――」

「ああ、なかった。どうやらこのカイヘンには来た痕跡すらないらしい。まぁ、言ってもまだ田舎だしな」

 博士が濁したその続きをリョウは頷きながら引き継ぐ。その言葉に博士は一層深刻な顔になっていくが話している当のリョウは逆に落ち着いて茶をすすっている。

 だが、内心は決して穏やかなわけではないはずだ。自分が旅をしたそもそもの目的、それが空振りに終わったことを今自分の口で再確認しているのだから。膿んだ傷口に塩でも塗りこんでいるように、その心は痛んでいるはずである。それをリョウの目的のために旅の始まりから携わってきた博士は彼以上に感じていた。

「だが、彼の噂は確かにジョウトまではあるんだ。シロガネヤマの、あるトレーナーの証言。それが確かなものだと分かっているからこそ、まだ希望は捨てるべきじゃない。それに、君が持つポケモン図鑑」

 博士のその言葉にリョウはポケットから赤い本のような形をしたポケモン図鑑を取り出した。それを開き、画面の一点を見つめる。

「旅の最初に説明したとおり、その中に入っているデータは彼の持っていたものだ。故に、全てのポケモンのデータが揃っている。世界初の、完成されたポケモン図鑑だ。ポケモン図鑑の完成が目的ではない君にとっては、何の意味もないかもしれないが。……でも、可能性がある限り諦めるにはまだ早い」

 リョウはポケモン図鑑に登録されているポケモンの名前をスクロールさせながら、じっとその画面を見つめていた。それはリョウが捜す人物の旅をした足跡そのものだった。だが、足跡なだけで、現在の彼を示すものではない。過去の彼を見つめることしか出来ないこの図鑑は、彼がいたことの証明でありながら、今の彼の生存を保障するものではない。

「誰も諦めるなんていってねぇよ。ただ、また振り出しに戻ったってだけだ。ここ何年か繰り返してきたことだし、もう慣れっこだよ。あのヤロウがどこにいって何をしているかなんていうバカなことを、また調べ直せばいいだけの話だ」

「リョウ君。自分の兄に向かってそんな言い方は――」

 博士が諭すように言うと、リョウは一瞬博士を睨んだが、すぐに俯いて黙りこくった。それを見た博士は、すまないと侘びる。

「失言だった。だけど君のお兄さんは初めてポケモン図鑑を完成させた人間だ。一介の研究者としては、私は……」

「分かってるよ。悪くは言えない、だろ。ああ、分かっている」

 分かっている、とリョウは何度も言い聞かせるように呟く。そうすることで自分の感情に念入りな蓋でもするかのように。

 博士はそんなリョウを前にして何か言おうとしたが、それが喉に掛かる前に口をつぐんだ。今、自分が何を言ったとしても目の前にいる少年は救えない。それが分かっていたからだ。

 博士はリョウに深く関わっただけに、失踪した兄を探すという彼の旅の目的がどれほどまでに精神を削るものなのかよく理解しているつもりだった。

 それに少しでも力になりたいと思ったのは事実であり、博士は出来る限りの支援をした。だがそれらが全て無駄に終わったと、旅をしたリョウ自身が言ったならばただの一介の研究者にすぎない自分には何が出来ようか。これ以上、無駄に希望を持たせて兄を捜し求める少年の傷口をえぐるような真似をするのか。それとも、旅の幕引きを彼に提案して無駄な旅だったということを少年に突きつけるかのどちらかしかない。

 そしてそれはどちらも自分には重過ぎる役割だった。ただ少年の悲しみの一部しか知らない自分にとっては、どちらもがおこがましく感じられ、その二つの問題が現実味を帯びれば帯びるほどに自分が単なる部外者だからこんなことが考えられるのだと博士は実感した。

「……けど、俺には兄貴がそんな立派な奴だなんて思えないんだ」

 ぼそりとリョウが聞こえるか聞こえないかの声で呟く。その声に、博士は顔を上げリョウの顔を見た。

 リョウの眼はまるで遠くを眺めるようになって、徐々に懐旧の色が浮かんでいく。

「俺は兄貴の顔なんて覚えちゃいないけどさ。モンスターボールを持って、相棒のフシギダネと一緒に歩いているイメージだけがあるんだ。一度だって俺のほうを振り返ったりしなかったけれど、俺はそんな兄貴だからこそ、誇りだった。それだけは確かに憶えている。けれど今となっちゃ、そんな兄貴がいた証拠がこんな帽子だけだ」

 言ってリョウは自分が被っている帽子を取って片手でそれをくるくる回しながら見つめた。博士もその赤と白を基調としたモンスターボールと同じデザインの帽子を見つめながら、リョウの兄のことを思った。

 博士はリョウの兄のことを知らない。全てリョウ自身から聞いた話と、カントーやジョウトから流れてくる噂だけが「リョウの兄」という不確かな形を構成するイメージだ。当然、それが嘘だと言う可能性がないわけではない。ポケモン図鑑の中に入っているデータも、リョウの兄ではない全く別の人物が創り上げたものなのかもしれない。だが、博士はその可能性についてあえて言及するようなことはなかった。

 ただ兄を探し続け、そのために自らが兄と同じ姿となり同じ強さになろうとする少年を見て、とてもではないが博士はその可能性について示唆することが出来なかったのだ。

 それはもしかしたら取り返しのつかない弱さなのかもしれなかったが、それもこれもリョウのことを思っての行動であった。

 リョウは回していた帽子のつばの側を自分に向けてじっと見つめながら呟く。

「けれど俺は、これを捨てられない。無駄かもしれない、何の意味も持たない行動かも知れないと分かっていながら、俺はこの帽子に、不確かな希望みたいなモンを持っているんだ。……笑えるだろ、博士?」

 そう言ってリョウは弱々しい笑いを博士に向けた。博士はそれに対してためらうように視線をそらした。その笑顔が脆いものだと分かったからこそ、自分が直視して壊してはいけないと思ったのか。

 博士の行動を見てリョウは俯き、そして帽子を被りなおして、空気を変えるように少し声の調子を上げて言った。

「――なんてな。こんな所で野郎同士、しかめっ面つき合わせて相談していたってなんともならねぇってことは分かっているんだよ。……さて、と」

 立ち上がり博士を見下ろすと、博士もまた顔を上げてリョウの眼を真っ直ぐに見た。

「もう、行くのかい?」

「ああ。今度はジョウトに行く……、って言いたいところだが、俺はリーグを制覇してないからな。船にも乗れねぇし、リニアラインの切符は高くて買えたもんじゃねぇ。また、地道にこのカイヘンを探すまでさ」

 そう言って帽子の位置を調節しながら、身を翻しつつ軽い口調で言った。

「じゃあな、博士。次はいつ帰って来られるか分からねぇけど、またお茶でも出してくれよ。今度は旨い菓子でも付けてくれ。そうしたらまたラフレシアでも何でもとってやるから」

 博士はその言葉に笑いながら返した。

「……ああ、今度は出来るだけご希望に添えるようにしておこう」

 それを聞いたリョウは口元に微笑を浮かべながら博士に背中を向け、片手を挙げた。

 それがリョウの別れの挨拶だった。

 相手を見ずに、片手だけ挙げる。相手が手を振っているのかどうかの確認なんてしない。一方的な別れならば、自分は傷つかないことを知っているからなのだろうか。だが、それをされた相手は――。

 裏口がパタンと閉じられ、その背中の余韻すらなくなった頃、また家と繋がっている部分の扉からドンドンと大きなノックの音が聞こえてきた。

 今度は迷わずすぐに扉を開けると、息を荒らげ顔を真っ赤にしたユウコが箒をもって立っていた。

「何をしているんだい、ユウコ君」

 博士がきょとんとしながら尋ねるとユウコは窺うようにじろじろと博士の後ろの研究室の中を見回した。

 そうしてから急に博士と同じようにきょとんとして、ぼんやりと博士に尋ねた。

「リョウは?」

「行ってしまったよ。また、――旅だ」

 終わりのない、とは博士は言わなかったが、ユウコも分かっているのだろう。唇を噛んで、口の中で「また、行ってしもうたんか……」と呟くと先ほどまでの覇気が嘘のように消えうせた眼で博士を再度見て言った。

「……ねぇ、博士。何で、リョウはバッジ全部集めたのに、ポケモンリーグ行かへんの? おかしいやん。ナッチはリーグ行きを目標にしているのに」

 博士はその質問に対し、ただ俯くことしかできなかった。答えを言うことなど残酷過ぎて出来なかったのだ。

 彼はポケモンリーグ制覇よりもさらに過酷な道を進んでいる。リーグチャンピオンになれるだけの実力はあるはずなのにそれを示そうとしないのは、彼がただひたすらに兄と同じ強さになることを欲しているからだろう。それはまだリーグが設置されて年月の経っていないカイヘン地方を制したところで身につく強さではない。そしてリョウはリーグを制したとしても、兄の手がかりが見つからないことを恐れている。上り詰めても手に入れられないのならば、足踏みをしているほうがマシだと、彼は気づき無意識のうちに実行している。だがその現実を彼自身やユウコに突きつけて何になろうか。

 博士は目を閉じて先ほどのリョウの背中を思い出す。兄を捜し出す、という呪縛に捕らわれたその背中は少年のものとは思えぬほどに強張り、まるで近づくものを寄せ付けない鬼神じみた迫力さえある。だが、博士はその奥に潜む、リョウ自身の心もまた見据えていた。

「――リョウ君。君は、いつまで独りぼっちで、泣いている気なんだい?」

 その言葉を博士はこの場にいる誰に言うでもなく、ただ記憶の中にいるリョウの背中に向けて呟いていた。

オンドゥル大使 ( 2012/08/14(火) 22:40 )