ReverseT
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そこは暗い、この世の果てのような場所であった。
周囲の空気は凍てつく氷の中に閉じ込められたかのように冷たく、私は自身のうちに体温のひと欠片すら感じられない。そもそも脈動を私は感じていなかった。ともすれば私は氷結の中にいるのではなく、私の心臓そのものが氷結しているのかもしれない。そういった考えにいたっても私はそれを確認することもできずにいる。
それは何故か。
簡単明瞭な答えを私は知っている。私には視界というものがないからだ。もっと言うなら触覚というものが存在しない。「食物」と「匂い」という知識はあるが体験したことがないために、味覚も嗅覚も分からない。私にあるのは全ての知識を保有しながらまったく意味を持たない脳髄と、ゴボッゴボッという何かが泡立つ音を常に聞く聴覚だけだ。それ以外の感覚は全て闇で覆われていた。
自分の肩から腕が伸び、手があって五本の指が繋がっているのかも分からない。地を踏みしめるための「足」とやらも果たして私には備わっているのか。そもそも私は男なのか、女なのか。
自分という存在がひどく圧縮されているかのようだ。「それがある」という知識がありながら、感覚を手や足に伸ばすことの出来ない私は確認する術がなく曖昧な意識を完璧な闇の中で彷徨わせることしか出来ない。
それはまるで形をもたない幽鬼の類のようだ。ふらふらと宙に思念のみが浮かんでいるだけで、それ自体は現実に干渉することができない。世界の内側にいる人々の姿も見えず、外側にはじかれた自身の姿さえも見えない。
私は一体誰なのだ、という問いさえ完璧な闇の前では愚問だ。それが分かったところで、その名で呼んでくれる人もいないのだから。
孤独、という感覚を使っても構わなかったが、それは所属する組織なり民族なりがいてこそ成り立つ概念だ。最初から誰の姿も知らない私にはそんな考えも意味を持たない。
指針も示されず、帰ることも出来ない私は同じ場所で踏みとどまっているのだろうか。無限にも等しい時間が前後にあることを認識できるにもかかわらず、私には道が視えない。そのために踏みとどまっているのかすら分からない。
ただただ思考する。これが正しいことだと信じて。
解放なんてものは望んじゃいない。そもそも解放という概念自体をここに当てはめることに疑問が生じる。
解放、というものは苦しみから解き放たれることを指す。ならば私には当てはまらない。
私は、痛みも苦しみも、まだ何一つ分からないのだから。