第三章 九節「憎悪の火」
サキたちはまだ辺りに燻る炎の消火活動に当たっていた。
マグカルゴの放った炎は粘着性があり、普通の炎よりも幾分か消しにくかったがそれでもカブトプスや他のディルファンス構成員が持つ水タイプのポケモンのおかげで大方消火できた。
だが、火を消して現われたのは見るも無残なものだった。絢爛豪華だったロビーは見る影も無く破壊されていた。熱で皹の入った大理石の壁。煤にまみれた瓦礫。逃げ遅れた人々の黒く焼け焦げた焼死体がそこいらに転がっていた。それらはいずれも手を伸ばし、口を大きく開け放っており、必死に助けを求めていたことが知れた。それを見るたびに、サキや他の構成員達の顔が曇った。こうして自分たちは生きているが、この戦いで死んだ人々もいる。その現実が、犯罪組織と戦うという現実を彼らに再認識させたようだった。マコも死体の前で立ちすくみ、仰向けになって焼け死んでいった仲間の顔をじっと見つめていた。その死体には眼が無かった。真っ先に焼けたのだろう。炭化した皮膚からは鼻腔を突く強烈な臭いが立ち上っていた。その凄惨たる有様を見て、マコは震えていた。その手を握ってサキが「無理をするな」と呟いた。マコはそれで一瞬、死体から目を逸らそうとしたが、すぐにまた死体を見つめた。
「……これが、現実」
マコが聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「私たちは犯罪組織と戦っている。これは、単なるポケモンバトルなんかじゃない。……戦争、なんだよね」
戦争、という言葉をマコはためらいながら口にした。それは自分たちとは全く関係の無い、もっとも遠いと考えていた言葉だった。だが、この言葉は実際のところ自分たちのすぐ傍にあったのだ。その場に身を置いていることを無意識下で自覚しておきながら、そこから目を背けることで平静を保っていた。
サキはマコの言葉に返そうとはしなかった。
そこら中で座り込んで泣いている人々がいた。無残に殺された仲間の前で、顔を手で覆って何度も名前を呼んでいる人がいた。中には、死体が嵌めている指輪を見つけて泣きじゃくっている人もいた。愛していたのに、と呟く人もいた。俺より早く死ぬなんて、と嘆く人もいた。さっきまで普通に喋っていたのに、と呆然と立ち尽くす人もいた。
サキがそれらの人々の中を歩いていると、ふと見たことのあるおかっぱ頭が目に入った。コノハである。コノハは二つの焼死体の前で座り込んでいた。サキは近づき、それを見る。
そこにはフランのヤミラミと、サキのヘルガーが横たわっていた。サキはヘルガーにボールを向け、ボタンを押した。それでボールから赤い光が放たれるが、ヘルガーに当たる直前でその光は止まった。サキはもう一度試したが結果は同じだった。ポケモンをボールに戻せない。それはつまり、もう一緒に戦えないことを示していた。
「よく頑張ってくれた。ヘルガー。私の我侭に、最期まで付き合ってくれて。お前は……」
そこから先は言葉にならないとでも言うようにサキは顔を伏せて首を振った。動かないヘルガーの頭を優しく撫でる。ざらざらとした表皮の感触が、戦闘の激しさを物語っていた。そしてヤミラミに視線を向けた。ヤミラミもまた動かなかった。
その時、隣のコノハが俯いたまま呟いた。
「……サキさん。フランが」
その言葉でサキはコノハに目を向けた。コノハは肩を震わせて、搾り出すようにして言った。
「フランが、……どこにもいないんです」
それでサキは周囲を見渡した。確かに、ヤミラミの遺体はあるのにフランの遺体は無い。代わりに、かすれた黒い影のような煤が近くの地面に張り付いていた。
「フランは、……どこに行っちゃったんですか」
コノハの目がサキを見つめる。その目から零れ落ちた涙を見て、サキは目を逸らした。
「何で、何も言ってくれないの? ……答えてよ、サキさん!」
叫んでコノハはサキに掴みかかった。コノハはサキの胸倉を掴み、揺すぶって呻くように言った。
「最後に、フランと一緒にいたのはあなたでしょ? 何で、最後まで戦ってあげなかったの? 何で、一人だけ逃げてきたりしたのよ! ……あなたが、逃げたりしなければ、フランは……」
そこから先をコノハは俯いて言わなかった。代わりにこみ上げるようにして泣き始めた。サキはまだ胸のあたりをさまよっていたコノハの熱い手を握った。
「すまなかった」
「……謝って、許されることじゃない」
コノハは俯いたまま言った。確かにそうだ。どれほど謝ったところで償えるものではない。それでも、サキはそれ以外にかける言葉を持たなかった。
「すまなかった」
再度そう言うと、コノハはサキの手を振り払って、立ち上がった。コノハはサキを見下ろしながら、忌々しげに言った。
「……あなたさえ、ここに来なければ」
憎悪で淀んだ瞳が、サキを捉える。その目をサキは見つめられずに、視線を逸らした。それを見て、コノハが畳み掛けるように言った。
「誰も死ななかったのに! フランも、他の仲間も、みんな生きていたのに! あなたが、身勝手な正義感でロケット団に手出しをしなければ!」
その言葉にサキは何か言おうと、口を開いた。だが、何も言葉が浮かばなかった。コノハに言えるだけの何かが、自分には無かった。
コノハが行った後も、サキはその場からしばらく動けなかった。隣で横たわるヘルガーを見つめながら、サキは今まで自分がしてきた行動を思った。
確かに身勝手な正義で動いていたかもしれない。それがどんな結果を招くかなんていうことは少しも考えていなかった。目の前にある問題を解決することを優先して、先を見ることを怠っていた。いや、もしかしたらわざと目を逸らしていたのかもしれない。
それを悪いことだと咎めるものもいなければ、気にしなくていいと言ってくれる人もいない。ともに戦ってきたヘルガーも、今は何も言ってくれない。
その時、視界の端に赤い髪の女と、眼鏡をかけた男が近づいて構成員達に呼びかけているのが見えた。アスカとエイタである。サキは立ち上がって、そちらを見つめた。
アスカは悲しみにくれる人々を見渡すと、急に頭を下げて言った。
「ごめんなさい。私たちがもう少し早くに来られていれば」
それを見て構成員達がどよめき、アスカに頭を上げるように口々に言った。だが、アスカは頭を下げたまま、続ける。
「みんなが許してくれても私は自分自身を許せない。……それに、こんなことを平気でやったロケット団も」
アスカの言葉に、構成員達から声が上がった。ロケット団が許せない。ロケット団が憎い。よくも仲間を。という声が次々と聞こえてくる。
アスカは顔を上げて構成員達を見渡しながら言った。
「私は、今まで誰も憎もうなんて思わなかった。……でも、今回は許せない。私は、ロケット団が憎い。大切な仲間の命を奪っていったロケット団が。不当に誰かを傷つけることを楽しむロケット団が、私は憎い!」
その言葉に、構成員達も賛同し、叫ぶ。それに被せるように、エイタが口を挟んだ。
「みんな聞いてくれ。実はここに来る途中、ここを襲撃したロケット団員がいた。……でも、奴は既に自害していた」
悔しそうに目に涙を溜めながらエイタは叫んだ。
「ずるいじゃないか! 卑怯じゃないか! これだけの人の命を奪っておいて、勝手に死んでいくなんて!」
エイタの叫びに呼応するように、構成員達から熱気を孕んだ声が次々と上がる。だが、エイタはここで急に冷静になったように言った。
「……アスカと同じように、僕も憎かった。だけど、僕らはあいつらとは違う。死体を辱めることをよしとしない。……だからこそ、裁きは奴に与えるのではない。奴と同じ、ロケット団全てに与える!」
そこで構成員達の熱気は最高潮に達した。一度冷静な言葉を与え、次の瞬間に油を注ぐように熱くさせる。これでエイタたちのお膳立ては整っていた。
「これより、ディルファンスはロケット団本部に襲撃をかける! 場所はタリハシティ、シルフカンパニー本社だ! 恐らく、血で血を洗う壮絶な戦いになることは必至だろう。だが、それでも。この戦いに君たちが参加してくれることを、僕は望む!」
エイタが拳を大きく掲げて叫ぶ。するとそれにあわせるように構成員達も拳を高く突き上げて叫んだ。
今、この空間は黒い憎しみで支配されていた。まるで先ほどまで燻っていた周囲の炎が再び燃え上がったかのように、とてつもない熱が覆っていた。
サキは周りを見渡した。拳を掲げる人々の中には先ほどまで死体の前で泣いていたもの、嘆いていた者たちがいた。今彼らの目にあるのは悲しみではない。純然たる憎しみだ。敵を見つけたことへの高揚感、憎しみに身を任せることの心地よさが彼らにそれ以外の選択肢を選ばせないようにしている。その中には、コノハの姿もあった。あの大人しかったコノハが、まるで人が変わったように拳を振り上げ、人を傷つけることを高らかと叫んでいる。
サキはその場の空気に押されるように一歩退いた。その時隣にいる人間に気づいた。そこにいたのはマコだった。マコは周囲を見回してどうしたらいいか分からないようだった。きょどきょどと周りの人間の感情を気にしながら、ゆっくりと拳を挙げようとした。
「止せ! マコ!」
それを見て、サキが急いでその拳を止めた。すると、マコはサキを呆然とした様子でじっと見つめた。サキはマコの拳を握りながら、ゆっくりと首を振った。
「呑まれるな。お前まで憎しみで戦うことはない」
マコの目を見てそう言うと、マコはやっと我に帰ったのか自分の握った拳を開いて、その手を頭にやって、首を振りながら泣くようにして言った。
「で、でも。私、どうしたらいいのか分からなくって。……みんなを殺したロケット団は、確かに許せない。でも、でも復讐なんて」
その言葉の後、マコは顔を覆って泣いた。マコの言うことは尤もだった。自分の望まないことと、集団が望むことの違いだ。マコは誰も傷つけたくないのだろう。それでたとえ自分が傷つけられたとしても。だが、集団は今、誰かを傷つけることを欲している。生贄を求めているといったほうが正しいかもしれない。そしてこの状態になった集団をとめる術はない。
マコが望む望まないに拘らず、この集団にいる限り集団のルールに従うしかない。だが、マコは戦いたくないのだろう。「困っている人を助けること」がこの集団の意味と言ったマコにとって人を傷つける戦いは重過ぎる。
――ならば。
「だったら、私がやる」
サキが発したその言葉に、マコは顔を上げる。言葉の意味が分からなかったのか、マコは不思議そうにサキを見つめた。
サキはマコに向けてもう一度言った。
「お前が望まなくても、この場所はお前にそれを強制させる。お前に手を汚すことを無理強いする。でも、お前はそうしたくないのだろ? だったら、私がお前の代わりになるって言ったんだ」
マコはやっと言葉の意味を感じ取ると、サキに向けて叫んだ。
「……でもっ! それじゃ、サキちゃんが傷つくことに――」
「私はいいんだ」
マコの言葉を遮り、サキはマコを護るかのように眼前に立って背を向けた。そして振り返って言葉を続ける。
「私がロケット団を煽ったせいで結果的に人が死んでしまった。だから、これは報いだ。私が私に対して出来るたった一つの罰だ」
「……そんな。そんな理由で戦わないでよ! 傷つかないでよ! サキちゃんは、ディルファンスとは関係ないのに」
目に涙を溜めながらマコは叫んだ。その言葉にサキは首を振った。
「確かにディルファンスとは関係ない。だが、お前とは関係がある」
そう言ってサキはマコの顔を見た。そして微笑みながら、マコに向けて静かに言った。
「お前は、……私の初めての、友達だから」
その瞬間、全ての時間が止まったようにマコには感じられた。それはサキの初めて見せた笑顔がそうさせたのか、それとも周囲の喧騒がうるさすぎてそうなったのか分からない。マコがその言葉に返す言葉を探している間に、サキはマコから視線を外し、集団の中心に立つアスカとエイタを睨んでいた。
アスカはその視線に気づくと、何かやましいことがあるように目を逸らしたが、エイタはこちらに気づいても笑いながら見つめてきた。サキはその目を真正面から見返した。その貌からはもう笑顔が失せていた。サキの赤い眼は刃にも似た光を湛えている。
死者を理由に戦う理由を掘り起こす者と生きている者を理由に戦いを見出すものの視線が交差する。戦いを求める獣のような叫び声が夜空に木霊してく。
それは大きな波紋のように、カイヘンの夜を赤く染める火種となっていった。
サキ篇/第三章 了