第三章 五節「強襲、ディルファンス本部T」
黒い影が炎の中を駆けていた。
それはまるで生き急ぐかのように紅蓮の炎の中を走り、その漆黒の爪で赤を切り裂いていく。赤が切り裂かれた場所で甲高い叫び声が上がる。その場所には沸騰したマグマがまるで血液のように溜まり地面を焦がしている。そのマグマが、パチッという音とともに火花を弾く。その火花が空気中の熱をさらに飽和させ呼吸器すら焼け付くような灼熱の空間を作り出している。
その灼熱の景色の中を黒い影は走っていた。それが走り去った後には赤い血溜まりのようなマグマが標のように泡立っている。
黒い影が再度、赤を掻っ切る。断末魔の叫びがまた上がり、その場に赤い溶岩が横たわる。それはポケモンであった。黄色い眼球を持ち、ナメクジのような姿をした赤いポケモンである。体表面では常に高熱のマグマが泡立ち、その姿は見ている間にも流動し絶えず形を変えている。
それは身体が溶岩で出来ているポケモン、マグマッグだった。そのマグマッグがこの場には十体以上、通過した地面を溶かしながら炎を撒き散らして動き回っている。一体一体の動きはのろいがそれも数が揃えば脅威である。それをフランの操る黒い影は一体一体始末していた。
漆黒の爪がマグマッグの身体を通過する。通過の瞬間にはその爪は透明になり、何の抵抗もなくマグマッグの高熱の身体を通り抜ける。そして通り抜けて爪を実体化させる瞬間に、ナメクジのような身体に切れ目が入り両断される。
これはポケモンの技である。ゴーストタイプのポケモンが使う技、「シャドークロー」。黒い影は切り裂く瞬間、爪ごと腕を透明にすることによって高温のマグマッグの表皮に触れることなくその身体を両断することが出来る。さらに、透明にすることによって間合いが見切られにくいという利点もあった。
そのマグマッグを戦闘不能にしてすぐにその黒い影は主のもとへと戻っていった。炎の中にすっと立った四肢を持つ黒い影。宝石のような六角形の眼がまだ這い回るマグマッグたちを睥睨する。紫色の腕の先端に輝く鋭い爪が、炎を映してまばゆく光る。それを突き出すように構え、その黒い影はいつでも駆け出せるように前のめりになって主人の指示を仰ぐ。
「ヤミラミ、あと五体だ。頼むぞ」
フランが黒い影――ヤミラミの背中に向けて言った。ヤミラミは低く頷き、再びマグマッグに向けて走り出そうとする。ヤミラミは素早いポケモンである。特にフランが持つヤミラミはディルファンスの中でもゴーストタイプでは一番の戦闘能力を誇っていた。
だがその勢いを削ぐように、低い声が響きわたる。
「――させるわけにはいかないな」
ドス、と腹に一撃を加えられるような衝撃をフランはその声に感じた。
「……マグマッグ、『鬼火』の使用を一時中断、および新たな技への移行準備を零コンマ三秒以内に完了させる。その終了と同時に、技の指示を行う。三番目の技を全マグマッグに適応、同一の命令を通達。その技の名前は」
低い声はブツブツと呟くような声で細かく早口にその言葉を発する。それと進行を同じくしてマグマッグたちの様子に変化が訪れる。先ほどまで炎を撒き散らしていたマグマッグたちが急に炎をはかなくなったのだ。声とマグマッグの様子にフランは一瞬戸惑ったが、すぐに躊躇するまでもないと判断しヤミラミに特に命令は出さなかった。
だが、それがいけなかった。低い声の主はその瞬間、フッと蝋燭がかき消されるよりも静かに笑った。
それは勝利を確信した笑みだった。
「――自爆」
その声に反応したように、ヤミラミが切り裂こうとしたマグマッグたちが赤く発光する。フランがその様子にただならぬものを感じ、ヤミラミを退かせようとしたが遅すぎた。マグマッグを今まさに切り裂かんとシャドークローが迫った瞬間の出来事である。それには回避はおろか、まともな状況の判断すらつけられなかった。
マグマッグがさらにまばゆく光り、膨張する。そして次の瞬間、風船のようになったその身体はくぐもったような鳴き声とともに一挙に破裂した。
一体だけではない。この場にいる全てのマグマッグが示し合わせたように一斉に爆散したのである。
その熱量が、一気に景色を赤く染めていく。眼球を貫くようなあまりの赤さにフランは目を細める。
僅かに見える視界の中、景色の中心で先ほど低い声を発した男が嘲るような笑いを浮かべているのが見えた。
火の粉が舞い散り、見える景色はまるで赤い雪でも降っているかのようだった。
地に根を張るように粘ついた炎は銀世界を赤く塗りつぶしたようである。そして今、その景色の中心が爆ぜて砕けた。途端、奇妙な叫び声とともに視界が赤に塗りつぶされていく。
ビリビリと空気が振動し腹の底から響くような重い爆音と、思考すら奪い去るような高熱を帯びた突風が、かつてロビーであった場所を吹きぬけていく。
それは状況を見守るマコのいる場所にも吹いてきた。真っ赤な熱が津波のように押し寄せてくる。その勢いにマコは目を閉じた。すると突然肩にすっ、と手が添えられ、「大丈夫」と声がかけられた。マコはその声のほうを見た。
そこにはコノハがいた。だが先ほどまでの弱気な感じではない。その眼は戦うものが宿す光を湛えていた。
コノハが向かってくる熱風を指差して告げる。
「ハクリュー、神秘の護り!」
その声に反応してコノハの後ろに佇むポケモンが首をもたげる。
それは手足のついていない龍を思わせる形であった。腹は白く、背中を覆う皮膚は鮮やかな水色である。頭は小さく丸みを帯び、両側の側頭部の辺りに小さな羽根が生えている。首筋と尻尾の先に付いた蒼い水晶が炎を内部に映しこみ、透き通った瞳が赤い景色を睨む。
マコはそれを見ているうち、知らず感嘆したような息を出していた。美しい、それがマコの率直な感想だった。
見ているとハクリューの周囲の地面に白い円形の紋が刻まれていく。それは回転しながらマコを含むディルファンスの構成員達の足元で輝く。
それがそこにいた人々を囲んだ瞬間、熱風が彼らの頭上に降り注いだ。瓦礫や砂埃を含み、通常の風の何倍もの質量を持つ熱の津波である。彼らは皆、痛みに耐えるように目を閉じた。高熱がまず身体を弄り、次に細かい破片が皮膚をそいでいく、はずであったからだ。
しかし目を開けた彼らは自分たちが一様に無傷なことに気づいた。見ると、先ほど自分たちを襲ったはずの熱風は遥か後ろへと過ぎ去っていた。マコは不思議そうに自分の綺麗な手足を見る。するとその背中に声がかけられた。
「ね、大丈夫だったでしょう?」
振り向くとコノハがハクリューに触れながら笑顔でこちらを見ていた。それでマコはコノハのハクリューに助けられたことを悟った。地面を見るとまだ白い紋は健在で、光り輝いている。
これが「しんぴのまもり」と言われる絶対防御の技である。あらゆる状態異常攻撃から身を護る絶対守護領域を自身の周囲に発生させ、その領域を一定時間保持する。これは防御を重視した技としては最高峰のレベルに達している。
皆が口々にコノハに礼を言っている。マコもコノハに礼を言った。だがすぐさまコノハの表情は険しくなり、じっと熱風が向かってきた方向を見つめた。
きっとフランのことが心配なのだろう。マコも先ほどの激しい熱風の中でフランが果たして生きているのか不安だった。
思えばフランがいなければ自分たちはここで守りを固めることさえかなわずに消し炭になっていただろう。唐突に入り口を破って現れた最初のマグマッグの攻撃を受け止めたのはフランのヤミラミである。彼が迅速な対応を怠り、自分たちに指示を与えてくれていなかったらと思うとマコは背筋が凍った。
おかげでここにいた人々のうち数名はこうして生きながらえることが出来たのである。しかしここにいない人々は恐らく逃げ遅れたのであろう。先ほどから空気中を漂う嫌な臭いがそれを証明している。マコはこの吐き気を催すような臭いの中に、サキが混ざっていないことを祈った。
まだ自分は彼女に恩返しどころか助けてもらってばかりで何もしていないのである。だからこそここで死ぬわけにはいかない。
「……カブト。あの子は、生きているよね」
腕に抱えたカブトに視線を落とし、マコは呟いた。しかしカブトはもぞもぞと動くだけで肯定も否定もしなかった。