第三章 一節「赤い眼の少女T」
カイヘン地方は海に面した小都市が多い。
もともと漁業が盛んであり、海辺のポケモンが多いこの地方は昔から貿易のために様々な船が来航していた。しかし時がたつにつれ他の地方の台頭により港町としての優位を半ば奪われたカイヘン地方は次第に衰退することとなる。伝説のポケモンの目撃例もなく、他の地方にあるような珍しいポケモンもいないこの場所は細々と古来よりの方法で食いつないでいくしかなかったが、それでも資源が豊富で安定した土地であった。
それが今のような重工業優先の街を多く抱えるようになったのは理由がある。ひとつはポケモンリーグに参加するためだ。ポケモンリーグを設置するためには多くの条件がいる。その地方のポケモンの種類、ジムの設置数、ポケモンの研究者がいるかどうかなどがあるが、その中でももっとも重要なのが地方の特殊性だ。
カントー地方ならば進んだ技術と都市としての機能性。ジョウト地方ならば伝統的な建築物や数々の伝説。ホウエン地方ならばロケット開発技術や宇宙開発事業などその土地に即した特殊性が必要となる。つまり他と同じならばポケモンリーグを置く価値がない、ということであり、そのためにカイヘン地方は無理な工業化を迫られるようになった。
主に製造されているのはホウエンへの物質的支援としてのロケット部品である。このロケット部品はカイヘンでなければ開発不能なものも多く、多くの企業が注目しておりカントーでの多大な影響力を誇る企業シルフカンパニーも経済的支援に乗り出そうとしているほどである。
このようにポケモンリーグ参加地方としての利権を得ることは決して悪い事ではないが、それでも人が集まれば自然と悪い噂も立つ。
それは重化学工場を隠れ蓑とした犯罪組織の登場だ。もともと工業的な部分には疎いカイヘン地方の人々は経営方針も含め他の街から来た人間に任せることが多かった。それが他地域からの犯罪組織を招き入れる温床となったのだ。指揮は全て現場に任せているために、どのような人物が開発に携わっているのかも経営者は知らない。中にはネジを作っているつもりがいつの間にか違法な部品を作らされていたという企業も少なくはない。
いまやカイヘンの工業は半ば犯罪組織の傀儡と成り果てているという指摘も飛び出すほどに、企業の腐敗が進んでいた。
しかしその企業の腐敗を正す組織が、ここカイヘン地方には存在する。
それが自警団ディルファンスである。彼らは警察では介入不可能なポケモンによる犯罪へとメスをいれ、犯罪組織をカイヘン地方から駆逐するために組織された民間団体である。その構成員にはポケモン専門家の名前もあり、より正確な捜査をすることが出来る。そして彼らは麗しきリーダー、アスカの下に同じ目的を持った集団として存在し、犯罪組織の芽を絶つために日夜活動しているのだ。
だが、そんな組織に属している以上は覚悟も必要である。犯罪者を成敗するということはあちらからも狙ってくるということだ。たとえ戦闘が得意でなくても、組織にただ属しているだけの人間でもあちらはそうは思ってはくれない。
マコはそんな人間の一人だった。
ディルファンスという組織に、ただカッコいいからという理由で入ったマコは今、二人の黒服の男に追われていた。
できるだけ人通りのある道を目指して逃げようとするが、道をよく知らないマコは逃げ切ることが出来ない。撒いたかと思って少し立ち止まると、すぐに見つけられてまた追いかけっこが始まる。
いっそのこと複雑な裏通りに入れば、もしかしたら撒けるかもしれない。そう思ってマコは豪奢な装いの繁華街を抜けて暗闇が口を開けるビルの隙間の裏通りへと入った。その背中に男たちは追いすがっていく。
マコは後ろを度々見ながら必死で逃げた。逃げながらどうしてこうなってしまったのだろうと思いをめぐらせる。
思えば、軽々しくディルファンスを名乗ったのがいけなかったのだ。ただゴミだしを手伝っただけなのに自分がディルファンスだとわざわざ言った。それを聞き届けた細身と小太りの黒服の男たちに今追われている。
なんとも思い出すだけでマヌケな話だ。
真正面にT字型の曲がり角が控えている。マコはそれを右に曲がり際、追ってくる男の服装を注視した。
全身黒で腰にはモンスターボールを二人ともひとつ付けている。帽子と服にプリントされた毒々しい赤の「R」の文字が嫌でも目を引いた。
それを見てロケット団に間違いないとマコは確信した。
しかし知ったところでどうにかなるものではない。マコはただ組織に属しているだけの人間だ。いくら追ってきている男たちが弱そうでも、素手の争いになれば少女であるマコの腕力では敵うはずがない。ポケモン同士による戦いになっても手持ちでは勝てる自信がなかった。
こんなことなら名乗るのではなかった。今さらマコは後悔する。
――ディルファンスは犯罪者から憎まれる。
分かっていたはずなのにそれをどこか現実から外れた場所として認識していたのだ。どうせ自分には関係ないと高を括って。そのつけが今の状況である。
目に涙が溜まっているのが分かる。もし捕まったらどんなことをされるのか。それを想像するだけで背筋が凍る思いだった。
――逃げ切らなければ。
そう思った瞬間、つま先に衝撃を感じた。視界が急に下方へと転落する。躓いたのだと気づいたときには、身体が前のめりに地面へと倒れていた。立ち上がろうとするがすぐ後ろから近づいてくる足音を感じ振り返った。そこには黒服の男たちがいた。肩で息をしながら男たちは倒れているマコへと近づいてくる。
「手間かけさせるなよ、ディルファンスのガキが」
「なめた真似するとどうなるか、たっぷりと教え込んでやる」
男たちが下卑た笑いを浮かべながらマコへとゆっくりと歩み寄る。マコは腰をついて後ずさりしながら助けを呼ぼうと周囲を見渡す。だが周囲には誰もいなかった。
それを見て細身のほうの男が笑いながら言った。
「裏通りに入ったのが運の尽きだったな。ここじゃ誰も助けに来ねぇよ」
マコは必死で助けを呼ぶ。しかし誰も現れない。錆の浮いた配水管がそこいらにあるだけで、人の気配など微塵にもない。
男たちがあと一歩のところまで近づいてくる。
「……やだ。来ないでよ、バカ!」
マコは叫びながら手を払って男たちを退けようとする。それを見ていらだった様子で小太りの男がマコに向かって張り手を放った。
「黙れよ、ガキが!」
それでマコの中の抵抗する心が一気になえた。それでもう無駄なのだと悟る。これは自分が軽々しくディルファンスを名乗ったせいなのだと。自業自得。そんな普段では思わないような言葉が浮かんだ。
男たちの手がマコの身体へと伸びる。マコは目を閉じた。
その時、唐突に声が響いた。
暗い裏通りに突然聞こえてきた声に男たちは警戒しながら辺りを見渡す。マコもその声に耳を澄ませた。もしかしたらそれは自分の叫びを聞き届けてくれた人物の声ではないかと思ったのだ。だがそれは声ではないことにすぐにマコは気づいた。それは歌だった。聞き覚えのない歌が暗闇の中に響き渡っている。
男たちは歌の聞こえてくるほうを探るように頭を動かしている。歌は徐々に近づいてきているのが分かった。歌と同時に足音が狭い裏通りに響く。その時、足音と歌が唐突に止まった。男たちはその方向を見つめる。マコもつられてそちらを見た。
そこにいたのは少女だった。小柄で、黒いワンピースのような服の上に、ジャケットを羽織っている。髪は青く肩まであり、てっぺんの一本だけくせ毛のようになって跳ねている。
少女は腕に何かを抱えていた。マコは目を凝らしそれを見る。それは茶色い岩石のような物体だった。その物体が僅かに少女の細腕の中で動く。見ると、茶色い岩石と見えたのは甲殻だった。その下には無数の足がある。マコはそれの姿を知っていた。ポケモンの一種である。
それはカブトという、古代のポケモンだった。
続いてマコは少女が手にも何かを持っていることに気づく。それはチョコレートだった。小箱に入った小粒のチョコレートを頬張りながら、少女は赤い眼でマコと男たちを見つめている。
その少女を見て男たちが一瞬恐怖するような顔をした。きっと誰か呼ばれると思ったのだろう。だがなめられては敵わないとすぐさま平静を取り戻し、興奮した様子で声を荒らげた。
「何だ、お前。何見てんだ、ああ?」
その台詞はとんでもなく下級のチンピラそのものの台詞だったが目の前の少女ならそんな台詞で充分と思ったのだろう。しかし意に反して少女の肝は据わっていた。男たちの声に臆することなく少女は小粒のチョコレートを頬張りながら言った。
「別に何も見てねーよ。お前らがその女をどうしようが知らん。それよりもこのコツブクラシックが旨いんだ」
幼い声でありながら使っている言葉は男言葉だった。男たちは自分達の放った台詞が効果覿面だと思っていただけに少女の言葉に唖然としている。マコはというと少女が放った言葉にうろたえていた。
「えっ? ちょっと。助けてくれないんですか?」
ばたばたと手足を動かして助けて欲しいことをアピールするも少女の目は冷たい。
「うるさいぞ、馬鹿。どうせ自業自得だろ」
少女はコツブクラシックをもしゃもしゃと口の中で頬張りながら冷徹に告げる。
「そ、そんなこと――」
ない、と言おうとしたが言い切れない。確かに軽はずみな行動のせいで招いた結果だった。言葉につまっているマコの様子を見て少女はフフンと鼻で笑う。
「ホレ見ろ。やっぱりそうなんだろう。それなのに人に助けてもらおうなんて虫が良すぎるんだよ」
マコは少女の冷たすぎるその言葉に衝撃を受けていた。マコの頭の中ではこういうときに現れる人間は大抵自分を助けてくれるものだと信じていたからだ。それは古今東西どの漫画やドラマでも同じような姿が描かれているヒーローの姿だ。だが実際に現れた少女は助けるどころか、マコを口汚く罵った。あまりの理想と現実との溝にふいに目頭が熱くなるのを感じた。
男たちは自分の足元で今にも泣きそうになっているマコを見てどうしたらいいか分からなくなっていた。少女はというとコツブクラシックを先ほどから頬張りながら、たまに腕の中のカブトの頭を撫でている。一体今どちらがこの場所で悪なのか判断がつかない。
そんな男たちの姿を見て少女が眉を寄せて言った。
「何だ、何もしないのかお前ら。どうするんだ? その情けなく泣き崩れている女を襲うのか? それとも私に襲い掛かるのか?」
マコが少女の言葉を聞いて「泣いてないもん!」と無駄に大きな声で叫ぶ。男たちは少女の言葉にたじろいでいた。少女が自分を襲うということを平然と言い放ったことに衝撃を受けていたのだ。だが男たちはもう引けないところまで来ていた。二人もの人物に顔を見られている以上、何もせずに逃げ帰るわけには行かない。
「……なら、お前のカブトをいただこうか」
男たちが少女の腕の中のカブトを見つめて言った。古代のポケモンであるカブトは売ればそれなりの金になることを男たちは知っていたのだ。それを聞いて少女はカブトを腕で大事そうに抱え、難しそうな顔をした。
「むぅ……、コイツの価値を知っているのか。ただのコスプレ好きなチンピラじゃないのか?」
「う、うるさい! これはコスプレじゃねぇんだよ!」
男たちが顔を赤くして叫ぶ。
「なめた口利きやがって、渡す気がないのなら無理やりにでも奪わせてもらう」
細身の男が少女に近づく。それを見て少女がため息をついた。
「馬鹿だな。私に立ち向かうなんて」
そう言ってジャケットのポケットから球状の何かを取り出した。男がそれを見て立ち止まる。それはモンスターボールだった。
「行け。ヘルガー」
少女がそれを無造作に前に放り投げる。ボールは地面についた途端、二つに割れ中から光に包まれた四足の姿が射出される。光は暗い裏通りを照らし、体表の光は渦巻きながら次第に四足の姿から離れていく。それに連れて本来の姿があらわになっていく。
その姿は黒い狗だった。ドーベルマンのような細くしなやかな肢体が暗闇と同化している。その身体は痩せ細り、肋骨が浮かび上がっている。しかしそれは頼りないという意味の細さではない。極限まで身体を鍛え上げたがための細さだ。その証拠に鋭い光をたたえた眼が男たちを睥睨している。それは幾つもの戦いを重ねた存在が見せる光だ。頭部には鹿の頭蓋のような骨を纏い、雄々しくうなる口元からは赤い歯茎と鋭く並ぶ乱杭歯が見える。鋭い爪が光る足元から炎が立ち上る。それはさながら地獄の番犬の姿だ。その炎が勢いよく身体に纏わりつき、その高温に昂ぶったかのように鬼のような叫び声を上げる。空気が激しく振動し、錆付いた配水管が割れて巨大な音を立てて崩壊した。その音に男たちがたじろぐかのように後ろに下がった。
「ヘルガー。火炎放射だ」
少女が静かに告げる。するとヘルガーの口から炎が漏れ、それがまるで唾液のような粘着性を持って地面に落下する。それだけで地面が音を立てて焼け焦げた。男たちがそれを見て目を見開く。あんなものをまともに食らったら火傷ではすまない。
ヘルガーの口が開き、中に恒温のマグマのような熱量が溜まっているのが分かった。それが紅い光を発している。
男たちはそれを見て情けない叫び声を上げた。そして次の瞬間には男たちは背中を向けて逃げ出していた。後ろを振り返ることなく、男たちは来た道をそのまま走り去っていく。やがてその姿が完全に見えなくなってから、少女はヘルガーに言った。
「もういい。中断しろ」
その声でヘルガーは口を閉じる。その瞬間、余った熱量が口からこぼれまたも地面を黒く焼いた。それを見てマコが小さく叫び声を上げる。
「なんだ。逃げなかったのか、お前」
そう言って少女はヘルガーにボールを向けた。ボールから射出された赤く細い光がヘルガーに当たったかと思うと、その姿が粒子化しボールに吸い込まれていく。そのボールをまたジャケットの腰ポケットに戻して少女はマコへと近づいた。
「立てるか? ほら」
マコに向けて手を伸ばす。それをマコは不思議そうに見つめている。先ほどまで自分を罵っていた少女が助けてくれる現実が信じられなかったのだ。だが手はずっと差し出されている。マコはためらいながらも、その手を握った。その瞬間、幼いその姿とはギャップのありすぎる力で無理やり立ち上がらせられる。
「まったく。情けないな、お前は」
そう言って少女は立ち上がったマコを見上げた。それでマコは少女の背が自分より低い子ことに気づく。背丈からして自分より年下だろう。そんな少女に助けられたことが何だか恥ずかしかった。
「あの、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。すると少女はマコが下げた頭をペチペチと叩く。
「馬鹿が。これからは軽はずみな行動はよすことだな」
最後まで罵られる。その辛らつな言葉に涙が出そうになった。マコは少女の性格の悪さを思いながら顔を上げる。
「それじゃ、私はこれで」
そう言って立ち去ろうとしたその時突然マコの袖を強く引っ張る力を感じた。見ると、上目遣いで少女がマコを見ている。顔だけ見ていると可愛いなとマコは思った。
「え、何?」
それに気づいたマコが首をかしげる。すると少女はぎろりとマコの顔を睨んだ。
「助けてやったんだ。飯ぐらいおごれ」
ふてぶてしく少女は言って表へと無理やりマコを引っ張った。
「え? ちょっと。まだ何も言ってないよ」
そんな言葉は聞こえていないとでもいうふうに少女はずんずんと進む。マコは肯定も否定もする暇もないうちに、少女のなすがままに引っ張られていった。