第二章 一節「無垢」
荒涼たる大地が広がっていた。
地面には草木一本生えず一面が灰色に近い。風も吹かず、弱い太陽光がジジジと地面を焼いている。そこには生物がいない。いや、正確には生物が生きていくための巣となる場所が無い。土は固く、平面で、掘ることもかなわないからだ。雲ひとつないこの場所は常に太陽光にさらされているために乾ききっていた。水を含まない地面はひび割れ、時々土が凝り固まった小さな欠片が風で大地を転がっていく。
そんな大地の中心を今、一筋の光が駆けた。
それは真っ直ぐに地平へと向けて疾走する。その速度はジェット推進でもついているかのように速い。それが通過すると風を生じ地面から砂煙が起こる。
そして地平にはその光と対峙する影が立っていた。光は速すぎて姿がつかめないが、その影は光に向かって仁王立ちしているためにはっきりと分かった。ただし仁王立ちと言ってもそれほど足が長くないその影はむしろ座っているようにも見える。
光が近づく。その影は紫色の身体を真っ直ぐにしてその背筋をピンと張った。そうすると肌色のお腹がやけに目立つ。横広の顔にある口は常に笑っているように緩んでおり、大きな耳が横に生えている。その影で最も特徴的な手のような形をした尻尾がふらふらと揺れている。
もちろんこれは人間ではない。ポケモンだ。
そのポケモンは目の前まで近づいてきた光を見据えるようにかっと眼を見開いた。それと同時に声がそのポケモンに指示を出した。
「エイパム、メガトンパンチ!」
声に反応し、そのポケモン――エイパムの尻尾がふらりと一度大きく揺れ、手のような尻尾が固く握られる。それは拳のように見えた。その時エイパムが一瞬身構えたかと思うと、その短い足から想像できないほどの鮮やかさで突然宙返りをした。そして、尻尾を前に突き出す。その尻尾の拳は力が集中しているかのように光り輝く。そして真正面から向かってきた光と、それは激しくぶつかった。
それで一瞬景色が見えなくなるほどの光が放たれる。強力な力と力がぶつかったために余剰エネルギーが崩壊するかのような現象をかもす。そしてその光はこの大地の両端に対峙する二人の人間の視界を埋め尽くした。
その片方は少女だ。緑色に近い色の髪を頭の両端で結んでいる。大きめの眼が今は光で細められている。発育過剰な胸を張り、戦闘を見据える目は鷹のように鋭い。腰につけたモンスターボールが、彼女がポケモントレーナーであることを証明していた。
もう片方は男だった。色素が全て消え去ったかのような白い髪をオールバックにし、その身を黒いスーツに包んでいた。鋭い眼光が光の中心部をにらむ。
光が晴れていく。するとその中心部に二つの影が浮かび上がる。ひとつは攻撃をしたままの姿勢でいるエイパム。なんとエイパムは相手に尻尾でパンチしながら、その尻尾の先のみを支えとして半分宙に浮いたような状態となっていた。そしてもうひとつは先ほど光に包まれていたポケモンだ。光をまとうほどに加速して相手に突進した技は「すてみタックル」という技だった。そしてそれを使ったポケモンの姿が今あらわになる。
それは白い体毛のポケモンだった。四速歩行で顔が青く、頭にはブーメランのような形の角がある。そのポケモンの赤い眼が自分の額を殴りつけたまま静止しているエイパムをにらんでいた。白髪の男がそのポケモンに指示を出す。
「アブソル、破壊光線!」
アブソルの口が開く。するとオレンジ色の電子のようなものが口の周囲に集まり収束していく。やがてそれはひとつの小さな光の球体をアブソルの口腔内に発生させた。それに気づいた少女がエイパムに指示を出す。
「当てさせない! エイパムっ」
その声にエイパムは尻尾に力を込める。そしてまるで踏み台にするかのように、尻尾がアブソルの額を蹴って、エイパムは中に舞い踊った。その瞬間に、アブソルの口からすさまじい熱量のオレンジ色の光線が放射される。それは巨大な火柱のようにアブソルの口から発射されたかと思うと、先ほどまでエイパムがいた宙を貫き、空へと直撃した。
攻撃を受けた空の一部分は砕け、そこから黒い機械部分が露出する。
攻撃を避けたエイパムは空中で身を翻し、尻尾を勢いよく振りかぶる。
「エイパム、叩きつけなさい! 完膚なきまでにっ!」
少女の声でエイパムはキッとその大きな丸い眼でアブソルを見据える。アブソルは「はかいこうせん」の反動で身体がしびれているらしくその姿が見えていても動くことが出来ない。
エイパムがアブソルの額に向けて尻尾を放つ。それは真っ直ぐにアブソルの身体に当たり、そして真上から振り下ろされたその攻撃にアブソルは成す術もなく倒れた。
エイパムの身体が地上へと着地する。そして尻尾を揺らしてアブソルを見つめるが、アブソルは起き上がる気配がなかった。
それを見て白髪の男が、はぁと嘆息のような息をもらした。
「なるほど。どうやらこの勝負、あなたの勝ちのようですね」
そしてアブソルにモンスターボールを向けた。アブソルはボールから発射された赤い光に包まれてボールへと戻っていく。男はアブソルをボールに戻すと、懐から四角いリモコンを取り出した。そのリモコンの赤いボタンを押す。すると景色が、まるで建物が瓦解するように中天から砕けていく。青空は硝子のように割れ、ひび割れていた大地は水が地面に吸い込まれるように消失し、太陽は巨大なルームライトへと変化していった。そして瞬く間に荒涼としていた大地は消え、あとには鉄骨だらけの無骨な建物の内部があらわになった。
「この仕掛けはかなり凝ったのですが、負けると何だかむなしいものです」
そう言って男は笑った。人懐こい笑みであった。
それを少女はぼうとしながら見つめていた。それに気づいた男が不思議そうに少女のほうを見る。
「どうしたのです? あなたの勝利だと言うのに、喜ばないのですか?」
言われて少女はハッとしてあたりを見回す。
「えっと……、誰が勝ったんですか?」
少女はか細い声で尋ねた。その問いかけに男は呆れたような顔をして頭をかいた。
「あなたですよ、あなた。どうしたんです? まるでさっきまでの戦闘とは別人だ」
男は少女に近づいていきながら心配そうな顔をした。それに少女が反応してびくりと身体を震わせる。
「あ、あのっ!」
両手を前に突き出し、少女は「待った!」のポーズをした。それに男は律儀にも、はい!とやけに大きな声で答えた。
すると突然少女は黙り込んでうつむいてしまった。男は待ったをかけられた位置から従順な犬のようにしばらく動かないでいたが、さすがに心配になったのか少女の顔を覗き込んだ。
男はそれを見て驚いた。少女の顔はトマトのように真っ赤だったからだ。
「大変だ! 熱でもあるのでは?」
男は少女に駆け寄ろうとする。それに少女はうろたえる。
「だ、駄目ですっ! 近づかないで下さい」
少女は顔を背けながら両手を突き出し、さらに強い拒絶の意志を示した。そうしている間に少女の顔はさらに赤く染まっていく。
「しかしそんなに顔を赤くしていらっしゃるではありませんか! 紳士たるもの放っておけません!」
男はそう叫んで少女の身体を抱えようとした。その行動に少女は目をむいて驚いた。
「な、何するんですかぁ! 離してくださいよぉ!」
少女は男の手を振り払い、じたばたともがく。それに男は必死に抵抗する。
「いえっ、離しません! すぐに医者に連れて行かなければ大変です。変な病気だったらどうするのですか!」
男も一歩も引かず少女の身体をついにお姫様抱っこで担ぎ上げた。それに少女は声にならない叫び声を上げる。
「――!」
その時、ボンという何かが爆発するような音が男の耳元で鳴り響いた。男は驚いてあたりを見渡す。しかし周囲には何もなく、ただ少女のエイパムが尻尾で自身の身体を支えながら一人遊びをしているだけである。
「……一体何の爆音だったんだ?」
言ってからそれよりも今は腕の中の少女を病院に連れて行くのが先だと思い、走り出そうとした。だがその時、煙が男の目の前に立ち上った。男はそれを見て、この煙は何だろう焚き火もしていないのに、と思い煙の上がっている場所を見た。
そこは自分の腕の中の少女のトマトのように赤くなった顔だった。少女はあまりの気恥ずかしさから火山のような熱を顔に発し、そしてお姫様抱っこの瞬間それが爆発したのである。
「えっ? ちょっと。大丈夫ですか、アヤノさん? アヤノさん!」
男は少女の名を呼びながらその身体を揺する。しかし目を回したようになっている少女――アヤノは結局その場で起きることはなかった。
目が覚めて、寝惚け眼の中最初に見えたのは茶色い天井だった。
心温まる木の天井だ。つい最近まで頭の上に青空が浮かぶ目覚めばかりを体験していたアヤノにとってそれは新鮮だった。ついでにもうひとつ新鮮なことといえば今自分が包まっている白いふかふかの布団もそうだ。つい最近までは窮屈な寝袋に入り、夜の寒さに耐え足を伸ばせない苦痛にも耐え、そして目覚めの時にはどことも分からぬ草むらに入っていることがほとんどだったアヤノにとってふかふかの布団は何だか夢か幻のようで、一生この布団の中で生きていたいという気持ちさえ生じさせるほどの代物であった。思わず頬ずりしてしまうほどに愛おしく、布団に頬ずりしながらアヤノはリラックスしたときに発するお得意のネコの物まねを発揮した。
「にゃ〜」
「ああ、これは。なかなか芸達者ですね」
突然聞こえてきたその声にアヤノは驚いて跳ね起きた。見るとベッドに横になる自分の傍らに男がいた。白髪の男だ。それは先ほどのジムトレーナーだった。
ひゃぁ、という悲鳴を上げながらアヤノは再び布団にもぐった。
「大丈夫ですか? 起きられないので心配してここまで連れてきたんですよ」
布団の外から本当に心配そうな声が聞こえた。アヤノはその言葉で僅かに布団から顔を出して男を窺い見た。
「……カリヤさんが、助けてくださったんですか?」
小声でアヤノは言った。白髪の男――カリヤはその言葉に、とんでもないというふうに両手を振った。
「助けただなんて大それたことはしていません。ただ放っておけなかっただけですから」
そう言ってカリヤは笑った。やわらかい笑みだった。アヤノはジム戦の前、カリヤの眼光があまりにも鋭かったために勝手に怖い人間だと勘違いしていたので、何だか不意をつかれたようで顔がまた赤くなっていくのを感じていた。
「あ、大丈夫ですか? また顔が赤いですよ」
そう言ってカリヤはアヤノの額に手を乗せようとしてきた。
「や、やめてくださいっ!」
それにアヤノは気づき、カリヤの手を振り払った。カリヤはぼんやりと振り払われた手を見つめて、どうしてというふうな目をアヤノに向けてきた。そこでアヤノは自分が大変失礼なことをしたのだと気づき、顔を布団に潜り込ませながら言った。
「す、すいません。男の人、苦手なんです……」
消え入りそうな声でそう言ったのを聞いてカリヤは頷きながら、そうなのですかと納得したように言った。
そこでカリヤが立ち上がった。そうして段々足音が自分から離れていくのを感じた。この部屋を出るのだろう。アヤノは謝らなければと思って布団を蹴り飛ばした。
「あ、あのっ!」
アヤノは今しがたドアノブに手をかけようとしていたカリヤを呼び止めた。それにカリヤが気づき、アヤノのほうを振り向いた。
目が合うと一気に体温が上がった気がしたがそれでも頑張ってカリヤのほうを見ながら言った。
「す、すいませんでした。色々と、その、ご迷惑かけちゃったみたいで……」
アヤノはぺこりと頭を下げた。それを見て、カリヤは首を振った。
「いいのですよ、気にしなくても。困ったときはお互い様ですから。あ、お腹空いているでしょう? ご飯を作ってきます。持ってくるから待っていてください」
そう言って微笑んでから、カリヤは部屋を出て行った。
一人取り残されたアヤノはどうすればいのか分からず、適当に部屋を見渡した。家具は全て木製で統一されていた。白い壁は清潔に保たれており、この部屋にはあまり生活観というものが漂っていなかった。何だかシチュエーションをあらかじめ用意された部屋にいるような感覚だった。
アヤノが部屋を見渡していると、部屋の隅にある棚の上に写真立てが置いてあるのが目に入った。アヤノはベッドから降りて棚に近づき、その写真立てを手に取った。
そこには少年二人と少女一人が写っていた。少年二人は楽しそうに肩を組み、その横に少女が佇んでいた。少年のうち一人の髪の色が白だ。おそらくこちらがカリヤなのだろう。もう一人はメガネをかけていて、少し真面目な印象を受ける少年だった。二人ともモンスターボールを腰につけている。このときからトレーナーだったのだろう。
ついで少女を見る。美しい少女だった。髪は長く、そして赤い。瞳は吸い込まれるようなエメラルドブルーだ。
アヤノは時間も忘れてその写真に見入ってしまっていた。凛、と佇むその姿に引き込まれるような印象を受けたのもあるが、何よりもその立ち振る舞いにどこか憧れのようなものを抱いたからだろう。自分に足りないものが写真の少女には全てあるような気がして、アヤノはその姿を焼き付けるように見つめ続けた。
「おいしかった〜。ごちそうさまです」
アヤノは両手を合わせてそう言うと、カリヤに笑顔を向けた。するとカリヤもそれにあわせて笑う。
「それはよかった。実はお口に合うかどうか心配だったのです。僕、料理はあまり得意ではないですから」
「とんでもない。とってもおいしかったですよ」
アヤノが目をきらめかせながら主張する。アヤノ自身はあまり料理が得意ではないために料理の上手い人間への一種の憧れもあるのだ。
「それはよかった。僕もこんなに喜んで食べていただくと作りがいがあって嬉しいです」
それを聞いてアヤノは自分が食べたあとの食器を見た。お腹が空いていたせいか弁えもせずにお代わりを三杯もしたご飯や、おいしすぎて感動のあまり五杯も食べてしまったシチューの食器である。アヤノはそこでやっと自分があまりにも失礼なことをしたことに気づき赤面しながら布団に顔をうずめた。
「ご、ごめんなさいっ! あたし、お見苦しいところを見せてしまったみたいで……」
それをカリヤは一瞬何のことを言っているのか分からずに首をかしげた。だがアヤノの視線を追ううちにすぐにそれに気づき、ああと納得したように言ってから首を振った。
「構いませんよ。戦いのあとでひどくお腹も空いていたでしょうし、自然なことです。それに僕も、女性はしっかりと食べる方のほうが好きですし」
カリヤは言って、アヤノにまた笑顔を投げかけた。アヤノは言葉の中の好き≠ニいう響きと、その笑顔とで余計に恥ずかしくなり顔が熱くなっていく。それをカリヤに気取られないように目だけが布団から出るように顔を隠した。カリヤは笑顔を崩さずにそれを見ながら、食後の紅茶をお持ちしましょうと言って席を立った。
カリヤが部屋から出るのを見てアヤノは、ふぅと息をついた。左胸に触れると鼓動が高鳴っているのが分かった。カリヤの一挙一動を思うだけでその鼓動はさらに高鳴っていくのを感じる。その胸の高鳴りを抑えるために別のことを考えようとアヤノはポケットから銀色のケースを取り出した。それを開ける。そこにはアヤノが今までに勝ち取ったバッジがあった。
全部で三つ。このハリマタウンで手に入るドロウバッジをいれれば四つになる。アヤノはそのバッジを眺めながらまたも、ふぅとため息をついた。
「……これでやっと半分。……まだあと四回も戦わなきゃいけないの?」
憂鬱そうにアヤノは言う。
アヤノはもともと戦いがあまり得意ではなかった。同じようにミサワタウンを出発したナツキたちの中でも一番「戦う」ということに対して抵抗を持っていた。小さい頃から争いごとは嫌いで、巻き込むのも嫌な上に巻き込まれるのも嫌だった。だからアヤノは、戦わなければポケモンリーグにいくことができないということがひどく疑問であったし、そのために他のトレーナーたちを蹴落としたりすることが何よりも憂鬱だった。しかし戦わなければ、戦って勝たなければ自分の存在する価値がなくなる。トレーナーとしての価値だ。戦わなければ何の為にヒグチ博士からポケモントレーナーの資格であるポケモン図鑑をもらったのか。それはポケモンリーグで勝ち、チャンピオンになるためではなかったのか。だが、そうと分かっていてもアヤノにはどうしても理解できなかった。戦いは失うことばかりだというのに。
アヤノはバッジを仕舞う。それから首を振って、
「やめよう、こんなことを考えるのは」と自分に言った。
考えても仕方ないことだ、と自分に言い聞かせる。
その時、部屋の扉が開いてカリヤが顔を出した。彼は凝った装飾のティーカップ二つと、ポットを移動できる豪奢な台に載せて部屋に入ってくる。カリヤがアヤノのベッドに近づくにつれ紅茶のいい匂いが漂ってきた。
「いい香りですね」
「そうでしょう。僕が仕入れた自慢の一品です。普通の店じゃ買えないので直に仕入れているんです」
カリヤが笑顔で言って、紅茶をカップに注ぎ始めた。ポットから開放された瞬間、まず紅い一滴がカップの底で跳ねる。そして次から次へと乱舞のように紅茶はカップという名のステージで香しい踊りを披露する。甘美なる香りは紅茶が一歩ステップを踏むたびに部屋中に広がる。アヤノはその香りを感じながら、目を閉じた。
「はい。出来ました」
カリヤはアヤノにカップを手渡した。アヤノはそれを受け取り、中ほどまで注がれた紅い液体を覗き込む。そこからは絶えず、こちらを陶酔させるような香りが運ばれてくる。
「とってもいい紅茶ですね」
「どうぞ」
カリヤは笑顔で手を差し出して、飲むように勧める。アヤノはそれに頷き、カップを口に運ぶ。そしてほんの一口、口に含んだ。
その瞬間、先ほどまで想像していた香しい乱舞が口腔内でさらに圧縮され芳醇な一滴へと昇華される。アヤノは目を閉じて、その味と香りが口の中から消えるまで楽しんだ。
「……おいしい。こんなにおいしい紅茶を飲んだのは初めてです!」
カリヤはその言葉を聞いて満足げに頷き、
「ありがとうございます。こちらとしても喜んでいただいて大変嬉しいです」
まるでワインを褒めてもらったソムリエのように恭しく頭を垂れた。アヤノがそれを見ておかしそうに笑うと、カリヤも顔を上げて少しいたずらっぽく笑うのだった。
「あの写真、あそこに写っているのってカリヤさんですよね?」
アヤノが片手にカップを持ちながら、部屋の隅にある棚の上の写真を指した。それにカリヤは気づいて、ああと言って答えた。
「そうですよ。あの左端に写っているのが僕です。いや、恥ずかしいな。あんなに昔の写真を見られるなんて」
カリヤは照れくさそうに頭をかいた。
「あの、カリヤさんのお隣の方と、端の女性は?」
「ああ、昔一緒に旅をした仲間ですよ。競争相手……とは言わないな。うん。仲間だった……」
カリヤは頷いてうつむきながら紅茶を少し口に含む。それを見ながら、昔のことを思い出しているのかもしれないとアヤノは思った。
「僕は――」
カリヤがカップをひざに置き、アヤノのほうは向かずにうつむいたまま話を続ける。
「僕は、あの三人と競い合うように、三人とも同じ博士からポケモン図鑑をもらって旅をしました。でも僕たちは競い合う気なんて全然なかったみたいで、すぐに一緒に旅をしようって事になったのですよ。……思えば色々ありました。僕らが旅をしたのはカントー地方で、その頃ロケット団の活動が一番活発な時期だったのでいく先々で事件が起きて……」
そこでカリヤが笑った。思い出し笑いなのだろう。本当に不意打ち気味な、少年のような微笑みにアヤノは逆にドキッとした。
「そこに写っている女の子がいるでしょう? 彼女がロケット団の悪事は許せないって、アジトに乗り込んだことがあるんですよ。僕らの静止も聞かずにね」
「その女の子、どうなったんですか?」
「それがね――」
カリヤは面白そうに口元を押さえながら続ける。
「タマムシシティっていう所のカジノの地下に基地があったんだけど。そこはもう壊滅状態にされた後だったんだ。あるひとりのトレーナーによってね」
アヤノがその話を聞いて感嘆したように両手で口元を押さえた。
「……すごいですね。一体どなたなんですか? そのトレーナーっていうのは」
その質問にカリヤは残念そうな顔をしてかぶりを振った。
「それが分からないんだ。なんでも相当な腕のトレーナーだったらしいっていう話と、チャンピオンを倒すほどの実力者だったって噂だけがそこいら中にあるばかりでね。中には、そのトレーナーは今、山にこもって強いトレーナーを狩る鬼になっているとかいうバカバカしい話もあってね」
それを聞いてアヤノは思わず笑ってしまった。なんと現実味のない話なのだろう。
「それ、本当ですか?」
「もちろん誰かのでたらめだろう。ホント、バカバカしいことばっかりだったよ」
そう言ってからカリヤは笑った。それからしばらく二人とも笑っていたが、やがて笑いも尽きた後カリヤが出し抜けに、ふぅと息を吐いた。先ほどアヤノがしたふぅ≠ニはまた違った感じだった。
そしてカリヤは目を閉じた。だがそれは一瞬で、すぐに目を開けたカリヤはどこか遠くを見るような目つきを空中に投げて、静かに言った。
「――でも、楽しかった」
カリヤは写真を見た。その目には哀愁とも、過ぎ去った日々への憧れとも取れる色が浮かんでいる。アヤノはそれを見ていると、何だか胸が急にしめつけられるように感じられ、何か声をかけるべきなのかと迷った。
しかしアヤノが声を掛ける前にカリヤは写真を見たままで少年のように話し始めた。
「僕はね、僕ら三人の中でも決して強いとはいえなかったんだ。ジムリーダーを倒すのだって一番遅かったし、ポケモンだってなかなか進化しなかった。でも、彼らがずっと支えてくれた。僕が弱いからって、一番諦めなかったのは僕じゃなくていつも二人だった。仲間がいたから今の僕がいるって、そう信じられるんだ」
そこまで言ってからカリヤは、少しいらない話が多かったかもしれませんね、と口調を戻しながら笑顔を作ってアヤノを見つめた。
「そんなこと、――」
ありません、と言おうとしたところでカリヤが立ち上がった。そして大きく伸びをして、さて、と場の空気を変えるように言った。
「長話は聞いていても辛いでしょう。あなたも調子が戻るまでは遠慮せずに休んでおくといいですよ」
素早く片付けて、カリヤは台車を押して部屋を出ようとした。部屋を出る途中、棚の上にある写真立てをそっと伏せた。
「……また、昔話がしたくなっちゃいますから」
そう言い訳をするように言って、出口に向かったカリヤはドアノブに手をかけようとした。その時、アヤノは何か言わなくてはいけないと感じカリヤを呼び止めた。
「あ、あのっ!」
本日三回目の同じ台詞だ。さすがのカリヤも驚いた様子もなく、笑顔を崩さずに応じた。アヤノはその笑顔を見ながら胸の前で拳を強く握って言葉を搾り出した。
「あの……あたしは、別に、その嫌いじゃないんです」
その言葉を聞いてカリヤが不思議そうに首をかしげる。
――だめだ、これじゃ伝わんない。
アヤノはさらに強く拳を握って、足りない言葉を紡ぎだす。
「その、なんて言うか……、あたしはカリヤさんの、その昔話は全然嫌いじゃないし……。その、えっと……だから、もっと……もっと、聞いていたいんです!」
――言った。
カリヤがそれを聞いて驚いたようにアヤノのほうを見る。
アヤノはそこで泣きそうになった。とんでもない失敗をしたと思ったのである。
だが、カリヤは次の瞬間、アヤノに向かってやわらかく微笑んだ。全てを悟ったのか、それとも分からなくても笑っているのかはアヤノには判らなかったが、カリヤは優しくアヤノの言葉に応えた。
「それなら、迷惑にならないようなら、また昔話をします。あなたの隣で」
それを聞いてアヤノは自分の顔にまた熱がこもっていくのを感じた。しかも今度は抑えがたい熱だった。どうにもならずアヤノの顔はまたもトマトよりも赤い赤へと変わっていく。
それを見てカリヤが心配そうな顔をして、大丈夫ですか、と尋ねる。
「だ、だいじょうぶですから! 心配、しないでくださいっ!」
そう叫んでアヤノは布団に潜り込んだ。今カリヤに顔を見られるわけにはいかなかった。なぜならば、恐らく今の自分の顔は、今まで生きてきた中で一番嬉しさのあまりに綻んでいるだろうから。
静寂が張り詰めた一本の糸のように部屋の中を覆っている。
それは何だか精緻に作られたひとつの芸術のようで、アヤノはその芸術を破らないごく最低限の寝息を立てていた。
その時、作られていた静寂を破る足音が、部屋へと踏み入った。ひそかながら、確かな意思を持った影が、アヤノのベッドの脇へと歩み寄る。そこに無造作に置かれたカバンへと視線を向け、影はその中を探り始めた。下着や替えの服装を元の状態に戻せるように、慎重に退かしながらカバンの底へと手を伸ばし、目的のものへと指先が触れた。影が口元に笑みを浮かべる。取り出したのは掌に収まる赤と白の球体だった。それをポケットに入れ、影は立ち去ろうとした。その時、声が影を呼び止める。
「誰、ですかぁ?」
アヤノが目を擦りながら、半身を持ち上げて影を寝ぼけ眼でぼんやりと見つめていた。影は振り返って、アヤノの口元へと制するように指を立てて触れさせた。
唇に当たる温かな指先に、アヤノは夢心地の中で首を傾げた。
「カリヤ、さん?」
影が頷き、しーっ、と静かに息を吐き出して言った。アヤノは寝ぼけているのか、顔をふにゃりと綻ばせて笑った。
「分かりましたぁ。しーっ、ですね」
影は頷くと、「おやすみ」と囁いた。「おやすみなさーい」とアヤノは返して、再び夢の世界へと船を漕ぎ出す。
影は息を吐くと、そっと部屋から出て行った。また精緻な静寂が、部屋を覆った。